ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の偽り方

 
  楽山の偽り方
 
 自分の考え方
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25974312.html
 
 
楽山は、人の言葉を悪用して、自分を高めようとし、また、自己正当化を図ります。楽山が、正当だと認められるなら、宗教は何の意味もなくなるでしょう。楽山は、ときどき発作みたいに、まとめて記事を書きます。
 
私は、反キリスト楽山の資料として、批判記事を書いてゆくだけです。私が生きておれば、しばらくの間、数日は、新規投稿に不自由することはなさそうです。
 

*たまには…
普段、ブログ記事を書くときは、自分の思うところをつらつら書くだけで、わざわざ自分の基本的な考え方を明示することはしないのだが、たまにはそういうのもいいかと思うので、ちょこっと書いてみたい。
*諸説あり
まず自分は、人には、神だとか、霊だとか、霊界だとか、そういうことは知り得ないものだと考えている。
だから、その手のことは断定しないことにしている。

 
霊言、キリスト教への幼稚ないちゃもん、そういうことを書いてきた楽山の悪質と悪筆は、明らかであります。丁寧語で書いて、且つ、冷静を気取っているけれど、品の無さは、言葉の使い方と、詭弁に表れてきたのです。
 
断定しないことをいいことに、ボンヤリ言語で、刷り込もうとしてきたのです。断定しないのは、楽山の理解の方向も内容もハッキリしないからであって、刷り込みという詭弁は、はっきり断定して述べるより、さらに恣意的な悪意であります。
 
楽山が断定しないのは、曖昧な言い方をして、前から言っているボンヤリ言語で、刷り込むということですから、楽山が断定しないことを、良いことのように言っているのが、既に、詭弁と刷り込みになっているということです。
 
手を変え品を変え、自己正当化に励んでいる楽山ですが、そのたびに、偽りだけが積み重なって、真実の対極にいる楽山が浮き彫りになってきました。
 

せいぜい、「××は神のことはこう言っている」「△△は神のことをこう書いている」という具合に諸説ありとし、「自分はこの説に説得力を感ずる」「自分にはこれが本当らしく思える」という感想を書き添えるくらいだ。

 
こう言っている、こう書いている、と書けば、また、・・と思える、と書けば、責任を負わなくていいと思っている楽山です。引用するということは、批判のためでなければ、賛同を意味する、ということを知らないのでしょうか。
 
責任逃れ、責任逃れ、これが、楽山の記事になってきています。無駄だと思います。断定しようが、するまいが、いっしょです。言葉を使うことの初歩的な弁えが、まるでなっていない楽山です。このような言い訳が、楽山のねちねちと鬱陶しい作文の特徴です。疲労を与える元凶なのです。
 

*順序
とはいえ、当然ながら、諸説をそのまま放っておくばかりでもない。一応の序列をつけたりもする。
その基準はなにかといえば、一例を挙げれば、奇説、珍説、トンデモの類は避けて、なるだけ穏当で標準的なものを選ぶというものだ。

 
今までの楽山の理解は、奇説、珍説、トンデモの類よりも、悪質です。何故なら、一見、まともを装うからです。よく読めば、実に幼稚だと分かることを、楽山の生きる知恵であるかのように、ごまかしの方法だけ、いろいろ持っていて、中身がないだけに、煩わしいものになります。
 

*一例
たとえば、HSの『キリストの霊言』では、イエスの最期の言葉「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」とは、エリア、ラッファエロに迎えにくるように叫んだものであり、「わが神、わが神、なんぞわれを見捨て給いし」とは言っていないとしている。

 
とんでもない解釈です。
 

DSCN3959 イエス最期の言葉1
DSCN3959 イエス最期の言葉2
(画像省略)
でも、キリスト教関連の書物をいろいろ読んでみると、上のような解釈はどこにも見当たらず、イエスの言葉は詩編22の冒頭句であり、それを示すことでイエス詩編22を唱えたことを示したのだという。
ちなみに詩篇22は、はじめは嘆きから入り、やがて神の讃美に至るものであり、その要所要所を抜粋すれば次のような流れになる。
わたしの神よ、わたしの神よ、/なぜわたしをお見捨てになるのか。 [省略] だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。 [省略] 主は貧しい人の苦しみを/決して侮らず、さげすまれません。 [省略] あなたに賛美をささげ/神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。 [省略]
詩篇22)
つまりこの箇所は、一見したところでは神の無慈悲さを嘆いているようであるが、実際は詩編22によって神を賛美していたともとれるらしい。

 
讃美と受け取るべきだと決まったわけではありません。ここは、決めつけてはいけないところであります。キリストの絶望の言葉が、復活によって払拭されるという解釈もあるでしょう。救い主が人間に与える命を賭した共感つまり愛と受け取る解釈もあるでしょう。そういう使命だったという解釈も成り立つわけです。御心は測りがたいのです。信じてもいない者が、とやかく言うことではない。
 

自分はこういう場合、後者に理を認め、穏当な解釈として支持しつつ、前者は奇説、珍説、トンデモとみなして捨てる。さらには、新約を理解するには、旧約の知識が必須であり、聖書は手前勝手に読んでいるだけでは分からないというのは本当だと実感するし、善川三朗が無教会派で聖書を学んだというのはあやしく、イエスの霊言なるものはインチキだと結論付ける。自分の判断はおよそこのようなものだ。

 
今になって、分からないのが本当だと実感するのだそうです。ならば、最初から、いちゃもんなど付けないことです。神がいるならなぜ悪がある、などという方向のいちゃもんは、楽山でなくても、中学生~高校生の時に、私もいだきました。
 
信仰は神が分かるから生まれるのではなく、苦難の時の支えになるから生まれるということです。そういう場合、信仰の神髄は、理屈抜きになるのです。
 

*理屈屋
自分は直観は大事だと思うが、それだけでは心もとなく感じるし、ある程度の理屈も欲しく思うタイプなので、自分の判断にはそれなりの理屈をつけることはある。

 
楽山は、理屈にも、直感・直観にも、向かないと思います。そういうものを見せたことがないからです。直感は、伝えた対象の心を解放するものだけが是とされるでしょう。楽山には無かった。
 
理屈は欲しく思って、ある程度付けるものではなく、なくてはならない理路として考えるべきものです。理路を支えるのは、真実への共感という実感であります。楽山は、何を軽薄なことを言っているのでしょう。
 

ただ自分は、上のように、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を望むので、強引な理屈を必要とすることはないのは幸いだ。
 藤倉氏は、下の記事において、霊言はインチキだとみんな承知してはいても、それを証明するのは困難だとしている。

 
楽山は、トンデモを退けるなら、自らの思考と情緒を退けるべきです。この楽山の、自信ありげな、評論家気取りの、あたかも知恵者であるかのような、冷静を装う気取った言は、成り立ったことなどないのトンデモです。既にバレているのです。
 

・「大川隆法の霊言はインチキだ」と言い切ることにした理由|藤倉善郎(やや日刊カルト新聞)|note
これはもっともなことだ。
でも信者を説得しようとでもしないかぎりは、大抵の人はほどほどの理屈で満足できるものだ。この点、自分はほどほどの理屈で満足できる立場でよかったと思う。

 
理路は、ほどほどで満足するものではありません。それに、ほどほどの理屈にも、理路にも、楽山は達していないと思います。思いつきと思い込みが大半の酷いものでした。それで満足すること自体が、楽山の言論不向きな根拠、そして、こちらの批判の動機となっています。
 

*屁理屈屋
ちなみに、トンデモをしりぞけて、無難、穏当、一般的な結論を出すには、理屈はさほど必要とせず、ほどほどで十分ではあるが、これとは逆に、無難、穏当、一般的な結論を否定して、トンデモを正当化するためには、かなりの屁理屈が必要になるものだ。

 
だからトンデモを退けるなら、楽山自身を退けてください。
 
結論というのは、人にとっては、いつも暫定的ですが、少なくとも、無難、穏当を目指すものではありません。屁理屈は、排除するべきもので、必要ではありません。そこに、人間の切実さも実感もないからです。楽山の姿勢って、メチャクチャです。
 

たとえば、大川隆法は至高神エルカンターレだとか、大川隆法は天上界からイエスを指導し、イエスから我が父と呼ばれていただとか、霊言はすべて本当だとか…こういう特殊、トンデモ、奇説、珍説の類を正しいとするためには、相当に無茶苦茶な屁理屈が必要になる。こちらの理屈をこしらえれば、あちらが崩れる、その崩れをなおせば、他の箇所にほころびが出るといったあんばいだ。

 
霊が分かるっぽい自覚の楽山が、他を指して、トンデモ、季節、珍説と呼ぶのは、実に滑稽です。どうして屁理屈が必要なのでしょう。屁理屈を言うつもりだからでしょうか。
 
信仰について語る、ということは、神の前の正直に背かないということだけが必要です。その時の意見が真理や真実とは限らないということは、反省と悔い改めと成長を支える神との関係で明らかになるのです。楽山には分からないところでしょう。
 

こんなことを言っては申し訳ないのだけれども、根っからのトンデモ好きな人はともかくとして、トンデモよりは常識的で穏当なものを好む信者がいたとしたら、こういうHSを信じ続けるのは大変だろうと同情する。

 
まだ、他者をトンデモと呼んで、自らを省みない楽山です。気づかない楽山です。常識的で穏当なものは、宗教と信仰において、宗教的でも信仰に適うわけでもないことが多いのです。妄想でもなく、超常でもないところで、信仰は、世俗によって、裏切られているからです。楽山には、分からないところです。
 

*信者による楽山批判
信者による楽山批判を読んでいると、本を読んで自分勝手な解釈をしているだとか、屁理屈を重ねているとかいうものがある。

 
自分勝手な解釈と屁理屈は、楽山の持ち物です。「心の理論」において、また、シャロームの狂信条に賛同するなど、弁明など成り立ちようがないほど、明白になっています。
 

でも自分の書いていることは、上に述べたイエスの言葉の解釈のように、ある程度のうんちくを提示しつつ、穏当な説を支持して、トンデモを捨てるというものだ。いわば普通のことだ。

 
それを、普通と呼ぶ楽山だから、とても異常なのです。信仰は、穏当を目指しません。例えば、信仰の柔和は、無関心の鈍感で反キリストとなっている楽山などの及びもつかないような深さを持っていて、私は、今も、学習途上であります。
 

にもかかわらず、信者は楽山は屁理屈を重ね、自分勝手な解釈をしているというのだからおかしい(笑)。

 
このように、楽山の慢心は、「(笑)」を楽山にもたらします。そこが、楽山の病巣であり、楽山が、気づくことのできない様々な症候群をもたらしているのです。
 

正直言って、こういう信者の思考回路は理解しかねるが、大方、標準とトンデモが逆転しているのだろうと想像する。

 
楽山には、言論に足るだけの思考回路がありません。今まで、ずっとそうです。その楽山が、他者の思考回路を云々するのは、笑止を通り越して、凶悪です。
 

信者は、HSの教えこそが標準であると信じているから、それをトンデモとして否定するのは自分勝手な屁理屈であり、間違いであるように見えるのだろう。こういう逆転は、それだけマインド・コントロールが効いているということであろうし、標準的な感性、良心を見失っているということであろうし、本当に悲劇だなと思う。そこまで追い込まれてしまっている信者はかわいそうだ。

 
カルトのマインドコントロールを解除するのは易しいことではないのでしょう。しかし、楽山のマインドコントロールは、人格を破壊します。標準的な感性、良心を見失っているのは、楽山であります。
 
私が楽山に対して批判として書いた感性と良心のことを、楽山が、今、悪用しています。これこそが、楽山に関わるならば、悲劇となる狡猾な悪意であります。楽山は、標準的な感性も良心も持っていないと判断しています。
 
追い込まれてしまっている信者を本当に思うならば、楽山は、何も書かないでください。恐らく思いやりなど、楽山は、何も感じていないと思います。だから、今までも、何にも気にしないで、平気で書いて来れたのでしょう。
 
楽山の悪は、他者を利用し、嘘の反省芝居をして、どこにも通用ないない妄想的単方向を、うす笑いで進んで、罪の門口へ向かっていると思われます。誰も、楽山に近づかないようにお願いします。
 
 
(2020年08月23日)
 
 
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