ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

虫のように迷惑

 
  虫のように迷惑
 
    2019年11月12日
   『神は妄想か?』の感想つづき
   http://mn266z.blog.jp/archives/22036873.html
   楽山日記(仮)
 
 
心で聖書の言葉を受け取ることの出来ない楽山は、またしても、反信仰、反キリスト教の記事を、辻褄をいじって書いてきます。こういうところからは、信仰は生まれないという記事です。楽山は、神を、自らの視野の中に収めようと、いじくっているだけです。感性の直観がないのでしょう。
 

マクグラスの『神は妄想か?』で、ルターの考え方を紹介した箇所があったのでメモしとく。
著者によれば、ルターの考え方は次のようなものだという。「神は人間がまず何かを神に対して行うように要求することなく、人間に救済というすばらしい賜物を与えてくださるはずであるというキリスト教信仰の中心的テーマは、人間理性によっては決して完全に理解されえないということであった。通常であれば、人間の常識からは、神に気に入られるために、何かを行う必要があるとの結論を出すであろう。だがその考えは、救済を人間が努力して獲得するもの、あるいは人間が救済に値するものと見なしているのであり、神の恩恵という福音を傷付けるのだとルターは考える」(pp,29-30)

 
「人間の常識からは、神に気に入られるために、何かを行う必要がある」というのは全く通常ではありません。これは、人に気に入られようとする処世などの話です。それで神を語ることは出来ません。楽山は、嫌らしい俗物の話を、神との関係である信仰に持ちこんで、信仰をけがしています。
 
人間には、心に感じるということがあるのが通常ですが、楽山には、その感性がないために、神への信仰につながる何ものも持つことが出来ないのでしょう。
 

この辺りに関連したことは、ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史(下)』の12章にも記述があった。ここではカトリックの考え方も提示して、宗教戦争と絡めて説明している。
プロテスタントは神の「神聖な愛は限りなく偉大なので」「神への信仰を告白した者全員に天国の扉をあけ放ったと信じていた」が、カトリックでは「信心は不可欠ではあるものの、それだけでは十分ではないと主張した。天国に入るためには、信者は教会の儀式に参加し、善行をなさなければならない」といい、これに対してプロテスタントはそういう「報いの概念は神の偉大さと愛を見くびるもの」であり、また「天国に入れるかどうかは自らの善行にかかっていると考える者は誰であれ、自分の重要性を誇張しており、十字架に架けられたキリストの苦しみと人類への神の愛は不十分だと言っているのに等しい」(pp17-18)としたという。

 
この引用は信頼度ゼロの楽山によるものですが、本当でしょうか。そもそも、カトリックで意見は統一されているでしょうか、プロテスタントで意見は統一されているでしょうか。人間の意見というものは、同じ集団でも一致は、なかなかしないものであり、ゆえに議論のあるところだと思います。楽山は、安易に引用し、安易に比較していると思います。こういうのを、決めつけと言うのです。
 

ちなみに、信仰と行いについては、アスランの『イエス・キリストは実在したのか?』によれば、エルサレムにいたヤコブと、他の場所にいたパウロとでは意見対立があったとしていた。一応確認してみると、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2.14)と、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて、信仰によると考えるからです」(ロマ3.28)というのは、確かに衝突しているようではある。

 
楽山の浅知恵が、また曲解を広めようとしています。
「信仰を持っていると言う者がいても」、信仰を持っているとは限らないわけです。最悪の例が、シャロームであります。彼は、もはや、悪魔のほうに近い悪意の存在と化しています。
 
信仰の義というものは、本当の真実の信仰があれば、信仰者らしい行いが伴うはず、ということが前提であります。そこを考えることの出来ない楽山が、信仰と、行いを、言葉だけで勝手に独立させ分離して、またしても、混乱を招くような嫌がらせをしています。甚だ迷惑です。
 
楽山こそ、クリスチャン芝居をしたり、否定したり、好きなように妄(みだ)りに書いて、人を迷わせる者となっている反キリストの偽善者であります。シャロームより分かりにくい分、質(たち)が悪いかもしれません。
 

最後に、現時点での自分の考え方を述べておくと、実際的な面からいえば、信仰のみでよしとするよりは、信仰を持つのはもちろん日々善い行いをするように努めるべしとする方がよさそうではあるが、

 
楽山は「信仰を持つのはもちろん日々善い行いをするように努めるべし」と、小学校の道徳のような安っぽいことを言っていますが、そのことさえ全く守らず、嫌がらせばかりしてきたのが、楽山とシャロームなのです。
 
それに、人間が信仰を持つ、ということを、全然、理解していないから、さらに日々善い行いをする、などと、行いを別のものとして、書き加えるのです。
 

現実への影響は考慮せず理屈だけで考えれば、信仰のみとする方が筋が通っているようには思える。

 
理屈だけで考えるのは楽山の壊れた理路であり、楽山は、心で感じ取れないから言っているのです。
 
ですから、申し上げます。理屈の辻褄だけを追ってはいけません。信仰のみ、という言葉について、人間を考えてください。真の信仰を与えられた人間は、どう行動しますか。あれは信仰だから別とばかり、悪いことをするでしょうか、否です。
 
楽山の低劣な詭弁に、決して誰も関わることのないように、
イエス・キリストの御名によって祈ります。拝。
 

たとえば神は絶対であれば、人の行いによってその判断が変わるはずもなく、もし人の行いによって救う救わないの判断が変わるのであれば、神の判断は人に依存していることであって絶対ではないことになってしまうだろうし、

 
楽山は、神を、おのれの堕落した頭の中に、安いイメージの存在として描き、神の不変をもてあそんでいます。神は、人の知恵で、ましてや、楽山などの浅知恵で測れる御方ではありません。
 
神は、全知全能ですから、既に、総てを承知の上で、人の成り行きを定めているわけです。神は、人に依存しているのではありません。来るべき人が来て、ご自身の前に正直な告白を捧げるのを待つ、という有り方を選んでおられるとも思います。
 
しかし、神は、神は、・・の辻褄だけで考えていると、楽山のように意地汚い罠に陥るだけでしょう。そう、罠に堕ちているのは、楽山なのです。でき損ないの思路で、いちゃもんだけを、繰り返している、その口は、神の敵たる何者かに寄ってゆくようになるのでしょう。もはや、その代行者のようです。
 

それに神の愛が無限であればその愛は人の行いによって左右されるような小さなものではなかろうし、だいち人は先天的な資質、環境などが整ってこそ…もっといえば神による支援、導きがあってこそ善行が為せるのであって、

 
神の無限を、いつも無限の愛だけを注いでくる、というような楽山の気安い神?実験室からの暴言です。恐らく、楽山やシャロームは、神の愛のひとかけらも知らないままで終わるのではないかと思います。
 
神と人は、双方向です。人が祈り、神が導きますが、それは人に、いつも分かるようなものではありません。全知全能の総てを知りえないからこそ、信仰者は、その存在と可能性を唯一の希望として生きるのです。
 

人が独力で善行を為せるし、それによって自分で自分を救えるというのはいささか傲慢にすぎるように思えなくもない。そんな風にいろいろと考えると、行いによって救われるというのは何かちょっと違う。

 
知る限りでは、独力で何の善行も為しえていないばかりか、人を惑わすような臭い言葉ばかり、婉曲的に書いて、人を、怒らせて、快感を覚える楽山です。ベースの感情は、不機嫌と嘲笑いで、シャロームと同様だと思います。
 

神様を信じるのも大事ですが、行いにも気をつけましょう、善い行いをするように努めましょうというのであれば了解できるけれども、行いによって救われる、行いがなければ救われないというところまで行ったら行き過ぎだろう。個人的には知行合一的な考え方には魅力を感じないこともないけれども、それを人に可能とし、自分だけでなく他人にも義務づけるかのような発想は無茶だと思う。

 
またですが、楽山は、小学校の道徳のような、甘くて易しく優しい言い方をしないと分からないようです。しかし、小学校レベルの言い方は、大人は、むしろ、不十分だから、しなくなったのです。
 
楽山は、小学校レベルにとどまっているのでしょうか、だったら、ここに書いたりせず、小学校に行くべきです。それとも、さらに親身になって、ほおずりでもしてほしいのでしょうか。
 

ついでに恥ずかしながらもう少し自分語りをすると、自分は元々は宗教の教えは実践しなくては意味がないという考え方をしていた。その頃は、ヤコブの手紙にすごく共感したのだった。上に提示した「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(ヤコブ2.14)という言葉など。

 
同じことを繰り返す厄介となっている楽山は、宗教の教えを実践したことがあるとは、到底、思えません。現に、くだらない軽口で、邪魔ばかりしているからです。
 

でもその後、自分には実践は無理じゃないかと感じるようになった。三浦綾子のエッセーで、聖書の一節を徹底的に実践してみることを推奨しているものがあって、自分なりにそれっぽいことにチャレンジしようとしたものの全然だめで、自分の至らなさを実感してからは、今度はパウロの言葉に感動するようになったのだった。「律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」(ロマ3.20)など。

 
皆、楽山の信仰?実験室での、リトマス試験紙だけのように安い思考実験だと思います。楽山の今までの文脈から、良心と呼べるものを感じたことがありません。くだらない軽口で、邪魔ばかりしているからです。
 
教えを実践しようと努める信仰者は、自分の至らないことを知っているので、このような軽口は叩きません。体験談ではなく、ヘラヘラ笑って見せびらかす自己顕示欲だけを感じます。
 

ただ自分は無宗教なので、「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなくて、信仰によると考えるからです」(ロマ3.28)という考え方はよく分からない。宗教を信じて、それゆえに自分は救われたと実感して歓喜している人はいるし、自分もそういう感覚を味わったことは無くもないので信仰によって救われるというのは分かるようにも思うが、信仰のみによってしか救われない、信仰が無ければ救われないという風になるとちょっと分からなくなる。

 
無宗教が、何故、知ったかぶりをして、聖書や本の言葉などを書いてくるのでしょう。分からないなら、求めるべきであり、信仰者の言うことを聞くべきであり、文句を言える段階ではない。
 
楽山の、いつもの到達点である、ああでもないこうでもない、結論がまるで出てこない、というボンヤリ言語の話になってきました。楽山が、「そういう感覚」というのは、恐らく、カルトやカルト的な人に見られるところの、冷たいのに押しだけ強い薄笑いの悟り顔のことでしょう。既に、楽山の書く文章に表れているのです。とても気持ちの悪い筆致として。
 

上にちらと書いたように、神が絶対ならその判断は人の行いのみならずその思いにも影響を受けることは無かろうし、その愛が無限であるならその人の能力を超えて到底実行できないようなことを救いの条件として設定したりはしないだろうと思うので…。なんといったらいいか、大概の宗教は救いについて何らかの条件を提示しているものであるし、神を偉大とすればするほど無宗教にならざるを得ないような感じがする。神を信じるほど宗教は信じられなくなるというのはおかしな理屈のようでもあるけれども、自分はどうもそうなってしまうようだ。

 
また、神?実験室の話です。神と人は双方向というのは、何度も書いてきたことですが、楽山は、人の意見などどうでもいい人なので、全く学習効果がありません。書くことと教えることだけに、満悦するというのは、シャロームと同じです。ゆえに、成りすましを疑っています。
 
決めつけはよくない、という記事も書いた楽山が、神を決めつけています。
 
上の「大概の宗教は救いについて何らかの条件を提示しているものであるし、神を偉大とすればするほど無宗教にならざるを得ないような感じ」
 
このお粗末な宗教観・信仰観は何なのでしょう。
 
キリスト信仰に、取引のような条件はありません。神との契約は、信じて頼む契約です。神の前に、祈りにおいて、正直でさえあれば、信仰は、成立します。信仰をねたんで、自らの不全を認めない楽山の、これは、埒(らち)もない攻撃であります。
 
楽山は、自分が一番偉大だと思っているから、神に嫉妬でもしているのでしょうか。そして、神が偉大であれば、ではなく、神を偉大とすればするほど無宗教になる、と言っています。どうして、人が、ましてや、楽山が、神を偉大とするかどうかを決めるのでしょう。神を、楽山の机上で扱えるオモチャにしてしまう、これが、楽山の恐ろしい決めつけです。
 
「感じ」と書いていますが、だまされないようにしてください。ひどいことを言っているのを、曖昧な言い回しでごまかしながら、やんわり、ぼんやり、その邪悪な決めつけの印象を吹き込もうとしているのです。
 
恐らく、楽山には、思想など、何もないのだろうと思います。楽山は、何物にも染まらないと自慢したいのでしょう、しかし、最も悪い者に、染まってきたようです。
 
人に出来ないことを、神は、人に、救いの条件として設定しているでしょうか。偉大→無宗教、信じる→信じられなくなる、おかしな理屈、と結び付けてくる楽山は、これからも、おかしな理屈しか言わない小学生であり、しかも、宗教の敵、キリストの敵、総ての真面目に生きている人の敵です。
 
楽山は、それこそ、井戸端でしゃべる噂話レベルのような、小便臭いこと以外、何も書いてきませんでした。難しい本や、有名人の名前は、自己顕示のために利用しているだけだと思います。反宗教、そして、反キリスト、嘲って笑うゲーム感覚、というシャロームと同じ有り様になっています。
 
楽山は、人を、怒らせて、悦ぶ、そういう面だけが、目立ってきました。それ?らしくなったということでしょうか。
 
 
私は、今回も、罵詈雑言を挿んで書いていますが、私自身が、バランスのとれた中立で柔和なキリスト者でありたいとは思っていないから、このような、ゴミ虫のようにネットに巣食うヒトを相手にしているのだろうと思います。良心を虫食むのが大好きなゴミ虫です。
 
私がバランスが取れた中立で柔和なキリスト者でありたくないというのは、相手が、バランスを保って批判することが全く通用しない、彼ら、ゴミ虫だからです。
 
ネットで罵詈雑言ばかり言っている人は、ひどいと分かる分だけ、まだマシなのです。
 
つまり、何より、バランスが取れて中立で柔和だと見せかけて人を騙すのが、彼らゴミ虫だからです。ゴミ虫は、ごみ溜めによく見かけられ、新鮮な死肉や、寄ってくる他の虫などを食べます。
 
楽山やシャロームなどのカルトは、もし権力を得たなら何人でも人を害するでしょう。ゆえに、社会悪だと判断しています。ゆえに、多くの人に、広く知らせる必要があります。そこに、批判の必要性が生まれます。
 
彼らには現実での無知によって、どうしようもない欲求不満があると思います。そのための深い怨念によって、深く潜入して、暗くて見えにくいところに侵入して、邪悪を潜ませて卵を産みたがっている者たちです。そのために、反動のように高く舞い上がる尊大さによって、限りなく、否応もなく、自らを、無恥に導いてゆくのです。
 
 
(2019年11月13日)
 
 
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