ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の本性(2)

 
  楽山の本性(2)
 
 信者ブログを見たけれど 2(古い話の蒸し返し)
 2020年09月02日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26111438.html
 
 
鵜呑みにすれば人格が鈍麻し破壊され、批判しようとすれば疲労だけを与えてくる。この記事も、そういう典型です。相手が読むことへの気遣いなど全く考えていないのです。
 
楽山は、HSを正当に批判するのではなく、もっともらしいことを言って、かき回すことが出来るという快感だけを求めていると思います。そうして、屁理屈に自己満悦してゆくのです。
 
正論であるかのような、バランスが取れているかのような、落ち着いた正義の味方に思わせて、いちばん悪質な毒を振りまいているのが楽山です。
 
快感のために、相手をうんざりさせるために、だらだら長い記事を書いて、自らを詳しい理論を持っている論客であるかのように見せかけてきます。くれぐれも、まともに相手できるなどとは、決して思わないでください。自己愛性人格障害者には、自分以外に大事なものはありません。
 
リンクは、大方、省略します。
 

*論点複数
この騒動については論点はいくつもあるが、発端についてなら、自分の中では詳細不明となっている。

この退転アンチの悪質さは、ブログ村騒動では、第三者の仲裁があって、騒動の原因が明確になったにも関わらず、その後も延々と、相手方の方が正論であるかのような悪質な印象操作を交えた、事実改竄記事を書き続けて粘着していたこと。
 」
まず仲裁者の記事を確認するとこうなっている。

・ネット上で相手を裁くことのリスク・裁かれることのリスク
・ピア健さん(みそけん・ガチムチ健太郎)への最後のメッセージ(追記あり×2)
 」
ここから分かるのは、仲裁者ははじめは、どちらか一方だけが悪いのではないと強く言っていたが、その後は、すべての責任はピア健氏にあるという主張に変わったことだ。これでは自分にはどちらが本当なのか、自信を持って判断することはできない。でもあえて仲裁者寄りに解釈するなら、当初はピア健氏の闇を知りつつも、庇っていたが、その後、関係が悪化し、気を使う義理はなくなったので、本音を率直に語れるようになったということであろうか。
パクリ盗用については、当時のLEO氏とピア健氏の記事が提示されていないので、自分には比較検証することは出来ず、何とも言えない。

 
批判は、裁きではありません。進歩のために必要なことです。楽山は、批判を受け取らず、批判をすることも出来ません。できるのは、理屈に見せかけて、いちゃもん、嫌がらせ、当てつけ、侮辱の類だけです。物わかりのよさそうな、やさしそうに見える筆致は、彼が蒔いてくる餌なのです。
 
楽山が、何かを考えて物を言う人などと思わないでください。マイナスを書いて、そのあと、プラスを書いて、どちらも結局は肯定も否定もせず、責任も負わず、それを憐れみのように見せかけるのが、正しいと思っている人に、意見など成り立つことはないのです。自分の意見などなく、自分の快感だけを求めている理論家気取りです。
 
恐らく、理路も情緒も、論理も高等感情も、持ち合わせていないために、誰にも相手にされず、自分の立ち位置を得られないために、聞いてもらえそうな、受け入れのいいところを探していたのだろうと思います。標的とされる組織は、餌食にされているだけなのです。
 

ピア健氏が嘘つきかどうかといえば、退会宣言という大きな嘘をついたのを目撃したので、その通りだろう。ここにある体験談は、自分にはそれが事実かどうかを確認する手立てはないが、リアリティはあるし、本当だと感じられる。ただこれらが本当だとしても、パクリ盗用についてはその現物を見ないうちは、何とも言えないのだから仕方がない。
したがって結論としては、騒動の発端とされるパクリ盗用については、自分には何も言えないということになる。

 
楽山が、言い訳に使うボンヤリ言語です。つまり、「仕方がない」「何とも言えない」、これが、いつも付いてくる始末になっており、実際には、結論でも判断でもない、何も言わないのと同じ、という結末にしかなりません。議論にも、批判にも、噛み合うはずはないのです。ずっと何も言ってほしくないし、書いてほしくない人です。これからも、ずっと。
 
楽山は、他者の傷や欠点に共感する心性がないので、思いやることが出来ないのです。
 

*具体例
この騒動の関連記事を読み返してみたら、パクリ盗用・粘着ストーカーの資料があったので、その一例として貼ってみる。

 
常識外れの気の遠くなりそうなリンクがありますが、省略します。楽山は、時々、そして、これからも、長い記事を書き、リンクを貼って、いたずらに疲れさせてくるのでしょう。真に受けないように。真実の追求に必要なものが、楽山から出たことはありません。
 

*資格
ところで自分は、LEO氏が、親友の英氏がこのような行いをしているのを注意している場面を見た覚えはない。
もしLEO氏は、親友のパクリ盗用・粘着ストーカーを放置していたのであれば、もし仮にピア健氏のパクリ盗用が事実であり、コウ氏がそれを庇っていたのだとしたとしても、もはやLEO氏に二人を責める資格があるかどうかは微妙なことになろうと思う。
ぶっちゃけ、LEO氏は、親友英氏がこんなことをしているのを放っておきながら、他人に向けてよくパクリ盗用・粘着ストーカーはいけないとか、都合の悪い情報はスルーして知らんぷりするのはいけないとか、言えるなあ。

 
粘着ストーカーのように、意見にならない言い分を書いてくるのは、楽山です。「微妙」「いけないとか、言えるなあ」・・責任逃れの婉曲表現。言えるなあ、と言ったのは、パクり、ストーカー、という、かなりはっきりした言葉があるから、ぼかすことより、合わせるほうを選んだのだろうと思います。ご機嫌取りと同じでしょう。
 

*すれちがい
ブログ村騒動は、いくつもの論点があるので、これだけでは、どれについて言ってるのか分からない。

相手方の非が数多く証拠もあがって、事情がいっそう明確になった後でさえも、それらのことはスルーして、わたしを貶めたいあまりの、自己都合の解釈論でもって、延々と相手方を弁護し、こちらを誹謗中傷するという邪悪な行動を行ってきました。
 」
LEO氏には確実な証拠が示され、事実は明らかになったにも関わらず、楽山は屁理屈をいって、事実をひっくり返し、誹謗中傷していたように見えているのかもしれないが、自分としてはたとえ証拠が提出されていてもそれだけでは事実確定できず、解釈の余地があるなら、ああでもない、こうでもないといろいろな可能性を考えることになるし、はっきりした事実が確定できるものなら、はっきりした考えを持つことになる。ただそれだけのこと。

 
どこまでも、例えば、日が昇る、ということくらいに明らかでないと、「事実確定できず、解釈の余地がある」などと、楽山の、ごまかし、中庸装いの、ああでもないこうでもないボンヤリ言語で、煙に巻くでしょう。楽山は、宗教自体が、恐らく、嫌いで、少なくとも、どうでもいいのです。
 

*同一人物説
思い出したのだが、LEO氏は、ぽん吉ソフィア同一人物説の根拠として、二人がコメントしたときのIPが同じだったことを挙げていた。でも第三者から、その二人のコメントが、実はどちらもソフィアによるものだったとしたらどうかと疑念を提示されて、言葉に詰まっていた。その後は、ソフィア2号とか何とか言い出して自説は正しいと言い張っていたのではあるが、正直言って、屁理屈にしか思えなかった。
LEO氏は、自分がいくら確実な証拠を提出し、事実を明らかにしたつもりでも、傍から見たら、フーンとしか思えないこともあるということを理解した方がいい。

 
こういうネットの仕掛けを面白がるのは、楽山が、芝居、詭弁、誘導、印象操作、といった仕掛けが好きだからでしょう。得意技でもあり、生業でもあります。楽山が批判しても、受け入れても、真に受けないことが大切です。楽山は、気に入らないことは、フーンと言うだけのように、軽々と無視してゆくでしょう。
 

*閑散ブログ
相変わらず、アクセス数を気にする人だ。

今でもそのアンチブログは、ブログ村に登録しているにも関わらず、ポイントなどまるで入らぬ閑散ブログなので、記事をそれだけ沢山書いても興味を持たれないのは、自分の言論の魅力の無さ、説得力の無さであることに、いい加減に気づけよと指摘しておいてあげましょう。
 」
もういい加減、面倒くさいから、はっきりいえば、楽山ブログのふだんの訪問者数は15~35くらいで、多い時は、4、50になる。いつぞやは、7、80になったので、書籍・レビューカテゴリに移動したら26位だった。

 
最近、楽山ブログは、いいね(0)、拍手(0)、コメント(0)ですが、楽山のことですから、これが本当だとは限りませんし、ネット上のつながりで、訪問しまくれば、上のような数を達成することもあり得ます。
 
ということは、楽山批判を敷衍(ふえん)する必要性も、そこにあるということです。そういうことで、楽山は、とんでもない人だから、近づかないようにと繰り返し書くことになります。
 

LEOブログは同カテゴリの50位近辺にいるから、あてずっぽうだけど、訪問者数30~50くらいか。多くて60。こういってはなんだけど、HS信者ということで多くのHS信者を味方に持ち、アマミブログという人気ブログにリンクを貼ってもらっていながら、訪問者数は楽山ブログと大して変わらないというのは、人のことを笑ってる場合じゃないのではなかろうか。

 
訪問者数で、笑ったり、笑うのをやめたりするのでしょうか。その数で、他ブログを、笑ったり、笑えないとか、書いたりするのでしょうか。このことに、私は笑えないです。
 
宗教ブログというのは、一般には、共感を生みにくく、アクセスは、それほど伸びません。おもなアクセスは、お仲間ということになるでしょう。楽山については、たまたま見て、やさしいお人柄などというコメントも付いたりしますので、それが、とんでもないことだと思って、批判を続けています。
 

*支離滅裂
ところで、LEO氏は一体どうしたいのだろうか。
楽山ブログは誰にも読まれていない、感化力もない、何らの影響力もない、だから相手にする必要はないと繰り返すわりには、やたらと楽山を気にし、突っかかって来る。
楽山ブログはしつこく粘着してくるからだめといってるし、いつぞやは、名指しはしないものの、このブログを見に来ているのは分かるぞ、もう見に来るなと書いた記事もあったかと。だから自分は、なるだけ見ないようにしようと心掛けていたのではあるが、今度はスルーするのはダメだと言い出している。
なかなか難しい人だ。 
申し訳ないけど、これではさすがに、病んでると判断せざるを得ない。自分は、この人は病んでると判断した場合は、完全に離れるのであしからず。もしこちらから何の反応もなくなったら、そのように判断したのだと了解してもらいたい。

 
病んでる、などと、自分が言われそうなことを、批判者に当ててくるのは、常套手段になっているようです。
 
楽山が、ネットから完全に離れるのならよいが、相手から離れるという意味でしょうから、ネットには居座り続けるのでしょう。こういう場合、精神衛生に気を付けながら、断続的にでも、批判を何年でも続けることが大事です。この、中身のない、無責任な自己愛者を野放しにしてはいけません。
 
なお、「完全に離れる」・・これは、批判者だけでも、批判対象者だけでも、決められることではないのです。
 

*基準
これは、物事の本質がつかめていない証拠だ。

自己都合のつまみ食いで、ある時はヨイショしたり、ある個所では受け入れないようなキリスト教解釈をやっている人間が、幸福の科学よりもキリスト教の方が素晴らしい、なんて言ったって、誰が感化されるのだろうか?と思わずにはいられません。
 」
別に特に優れた眼力を持っているわけではなくとも、普通の人であっても、楽山ブログを読めば、ある一定の基準によって物事を判断していることはすぐに分かるはずだ。

 
まともな判断など出来ないので、先入観的に刷り込んでくるのが楽山です。基準は、全く一定していません。どちらにも好都合と不都合をもたらします。そして、どちらにも本気で味方することも敵となることもないような、ごまかしの文章になるでしょう。
 
つまり、無駄で無益な発信を続けています。ということは、だれかのためになる、たすけになる、少なくとも、参考になる、という、公益に対して、敵対しているのです。
 
「すぐに分かるはずだ」・・こういう言い方は、分からんやつを相手にしているつもりの学者が、使う台詞かもしれませんが、楽山は、学者でも、専門家でも、思想家でも、有識者でも、インテリでもありません。
 
楽山は、大人になっても、未だに、小中学校の先入観のまま、学習することも成長することもなく、とても偏狭で、狭量な、思い込みによって、自覚だけ、世の中のことを裁けるし語れると思っている病的ナルシストの異常者です。
 
そういう危ないことを言っているから、楽山の「すぐに分かるはずだ」という慢心の果てとして、前に言ったように、結局、多くの人を怒らせて、殴られるだろうという推測になります。
 

HS信者と話していると、ことば、現象の背後にあるパターン、思想、構造、法則性などを読み取ることが不得意な人が目立つけれども、

 
ここで、楽山は、さりげなくお気軽に、不特定多数の他者を劣ったものと決めつけ、自分が上だと高めて満悦しています。慢心によって、人を傷つけないではおれない人だと思います。
 
つまり、楽山は、真実について、否定も肯定も断定しないと言いながら、このような婉曲的な言い方によって、自分を高め、人を侮辱してくる人なのです。
 
では、楽山は、「現象の背後にあるパターン、思想、構造、法則性などを」読み取っているかと言えば、情けないほどの自己満足で、的を外し続けています。
 
自己愛性人格障害とは、そういう体質、気質、人格、性格なのです。世辞や芝居の言葉面だけで謙譲を装うことはあっても、真の謙譲など全く持たない人です。丁寧語に、だまされないでください。
 

LEO氏も同様なのだろう。だから楽山のことばによっては明示されない判断基準を察することができず、「自己都合のつまみ食い」にしか見えないのだ。気の毒なことだと思う。

 
ここで、批判者である相手も同様と、人を巻き込みます。しかも、相手に、気の毒と言うのも、自分は気の毒ではなく正常で、相手は異常だから気の毒、という、侮辱であります。丁寧語にだまされないように。
 
「ことばによっては明示されない判断基準を察することができず」・・自分の言葉に原因があるとは、夢にも思っておらず、相手が読み取らないからだ、という自己正当化です。いつも、そうやって、反省も言葉だけで、実際は、考えてみる気もないのでしょう。
 
「「自己都合のつまみ食い」にしか見えない」・・これは、まさに楽山のことですが、なんのことはない、これで、楽山は、相手を、「気の毒」な人にしてしまいます。
 
楽山のつまみ食いは、プラスかマイナスか、どちらとも決めないのが正しいという妄念をベースとしています。だから、責任を負わないでいいと思っているのでしょう。その時々の判断が、楽山の場合、一定しないからでしょう。
 
ほめたり、けなしたり、一定せず、そして、責任を負わない、このことがもたらすものは、混乱と疲労だけであり、何も主張できていないのと同じであり、迷惑以外の何物でもなく、つまり、楽山を相手にしてはいけないという結論しか出てこないのです。
 
自己愛からの自己中というのは、高等な感情としての思いやりがないために、丁寧語で書いても、こういう言葉の端々に、慢心が表れてくるのです。楽山の汚い心のうちを見抜いてほしいです。それが面倒なら一切かかわらないほうがいいと思います。だまされないために。
 
 
(2020年09月10日)
 
 
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