ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の当てつけ

 
  楽山の当てつけ
 
 「悪に対しては鉄槌が必要」(LEO氏)を読んでみた
 2020年09月09日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26202031.html
 
 
大した根拠もなく、相手の言が当てつけだと言えば、それが、自分から相手への当てつけになっているという例です。自己愛性人格障害者は、こういう堂々巡りを繰り返しながら、堕ちてゆくのです。
 
楽山ほど、物わかりがよさそうな態度で言葉を使うが、言葉遣いの成ってない人も珍しいです。言葉を知らないから、甘く見ているのでしょう。いかなる正当化も、経過が否定しています。
 
批判してきた1年半、ずっと、丁寧語を使えば、嘘がバレないし、自分の見方が増える、と思って、慢心している楽山です。身勝手、無反省、無責任、など、随所に漏れ出てきます。
 
リンクは、大方、省略します。
 

*正義の人
 LEO氏は、先日、こんな記事を発表していた。

・悪に対しては鉄槌が必要 ~全体主義国家と邪悪な人間について~ - LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)
 」
その要点を取り上げれば次のようになるだろう。

悪に対しては安易な妥協はしてはいけない。邪悪に対しては徹底して立ち向かい、これを粉砕することが大事だと私は考える。
悪に対しては、一歩も譲らずに、「許してはいけない」一線を越えた悪に対しては、鉄槌をくらわせるのが正義だと、わたしは考える者です。
善を推し進めるのが王道であるのは確かだけれども、一方では、悪に対する鉄槌、制裁、少なくとも牽制は必要であって、好き放題やらせていい気にさせておく必要などまるで無いとわたしは考える。鉄槌が必要ですね。
 」
これら読むと、LEO氏は正義の実現を目指す人だと思う。

 
終わりの行「LEO氏は正義の実現を目指す人だと思う」は、悪意に満ちた皮肉~当てつけになります。楽山には、自らの悪意に実感というものがないのでしょう。だから、粉砕、許してはいけない、一線を越えた悪、鉄槌、とまで言っている相手に、こういうことを、平気で言えるのです。
 
(ネットより)
皮肉/当て擦り/当て付け の使い分け
1「皮肉」は、わざと反対のことを言ったり、遠まわしに言ったりして非難することをいう。たとえば、字の下手な人に、「字がうま過ぎて読めない」と言うなど。
2「当て擦り」「当て付け」は、他の事にかこつけて、相手を非難することだが、「当て擦り」は、悪口を言うこと。また、その悪口のこと。「当て付け」は、言葉ではなく、態度や行為で表わすこともいう。
3「当て擦り」「当て付け」は、相手(対象)に対する行為をいうが、「皮肉」は、必ずしも相手を必要としない。
https://dictionary.goo.ne.jp/thsrs/8971/meaning/m0u/
 

*正義の背景
では、その正義とは何かといえば、このようなものであるらしい。

悪がみずからを改める気持ち「皆無」の状態であるのに、これを安易にゆるし、放任し、甘やかすのは、断じて霊的な目から見ても正しい対処法ではないはずだ。
アンチへの切り返し批判も同様にして、人間関係における正義と悪の問題の事例だと思われるので、これに対するには、安易な妥協は無駄であり、徹底した破邪をかけることこそが正義だと自分は考えるものです。
彼らに改心の兆しがあるか?まるで無いのに許すのが愛だろうか。あの世において地獄堕ちに相当するような言動をしていて、これに対するに神は許しを与えるだろうか。当人に悔い改めの心なくば、許しの光はまったく差し込んでこないように、邪悪の中にあって開き直っている人間に、対する人間が優しく、同調するのは順序が逆であって、改心が先だとやはり思う。
アングリマーラの改心は、仏陀の威神力によってハッとさせられたアングリマーラの心に、わずかであっても回心のための後悔の念があって、そこに釈尊は語り掛けたのではないだろうか。
アングリマーラがハッとして踏みとどまることもなく、あくまでもしつこく釈尊に切りかかってきたならば、おのずと対応はまた違ったものになったのではなかろうか、と想像してみる。
 」
これらを読むと、LEO氏の考える正義とは、幸福の科学(HS)の信仰に基づく宗教的なものであることが分かる。
大雑把に言えば、大川隆法仏陀である、アンチらは仏陀大川隆法)を誹謗中傷するという大罪を犯している。邪悪なアンチには鉄槌をくわえる、ということか…。

 
相手の批判者は、かなり怒っているわけです。それに対して「ということか」で済ませる楽山です。余裕を見せている、というより、人間の感情がないような気味の悪さを感じます。
 
楽山は、無反省に、無責任に、丁寧語でだます自己中なので、いつも罵詈雑言を言う人よりも、偽善性が高い分、しかも訂正不能の体質から出てくる嘲笑いを含んで、作為がいっそう邪悪になります。
 
丁寧語の詭弁のほうが、罵詈雑言の分かりやすさがない分、凶悪なのです。
 

*方法
では、どのような方法で、アンチに鉄槌をくだすのかといえば、他の記事ではこう書いてあった。

アンチという立場に立つうえでも、悪質であり、粘着質であり、懐疑主義であり、屁理屈、詭弁の輩であってみては、まともな信仰論など語れるはずもないので問題外のレベルなのですが、モノの考え方に置ける問題点、誤った事例のサンプルの一つではあるので、抽出できる要素があったらそれを一般化して、ときどき記事にすることが今後もあるかと思います。
・『アンチとのディベートは不毛だなぁと今更ながら振り返る』記事のその後 - LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)
 」
「抽出できる要素があったらそれを一般化して、ときどき記事にする」というのは、LEO氏のこれまでのやり方からすると、相手を名指しすることなく、事実を取捨選択し、利用できるところを切り取り、一般論という形をとった批判記事(アテツケ記事、当てこすり記事)を書くということだろう。
LEO氏にとって、悪に鉄槌を加えるというのは、正々堂々、正面から糾弾するというのではなく、アテツケ記事を書くということなのだろうか…。

 
楽山は、悪質であり、粘着質であり、無責任であり、屁理屈、詭弁の輩であり、はっきりと言わないのが正しく、はっきりと言わないのだから責任を負わなくてもいい、などと考えて、自己に満悦しているようなお気楽自己満人です。
 
一般論となっているなら、当てつけ、当てこすりとは言わないのです。一般論を、個別と混同する詭弁ならば、当てつけ、当てこすり、虚言、悪意の嫌がらせと言ってもいいでしょう。大きなテーマと、個別のテーマを、混同して詭弁をこしらえるのは、楽山の生業(なりわい)です。
 
楽山は、相手を退けるために書くことが、自分に返ってくるブーメランとなっていることにさえ、気づかないほど、知性と感性が鈍っているようです。これからも同じようなことが続くでしょう。
 

*反省
ちなみに、LEO氏は、以前、アテツケ記事を注意されて反省の弁を述べていたことがあった。
「相手を名指しで批判しないのは、当事者のみにわかればいい、というだけの理由ではなくて、一般化することによって、反論を受けた際の、逃げ道を作っている、という部分もあるからですね。」
「一般論のつもりが、念による直接攻撃であったり、バレバレの部分はあると思います。」
「ま、自分でも実践できていないので、あまり偉そうなことは言えませんが、一般論の形に見せた批判記事は、しないにこしたことはないなぁと、今後の注意点として、学ばさせていただきました。」

・アマミキョさんによる、まとめ記事への御礼と感想 (4/29)|LEO幸福人生のすすめ(現在参照不可)
 」
でも現在の様子をみると、ここでの反省が充分に活かされているとはいえず、元に戻ってしまったようだ。自己変革はできるというなら、もうちょっと頑張ってみたらいいのに、と思う。

 
当てつけというのは、楽山において、一般論に見せかけることがあります。個別と混同して、だからどうこうと、自己正当化をしてくるのです。とても嫌らしい詭弁です。
 
楽山の「もうちょっと頑張ってみたらいいのに」というのが、心にもないことだから、とても原始的な当てつけと皮肉になっています。今回は、それが多いです。楽山の悪意の表れです。つまり、楽山は、批判者を、あざ笑っているのです。
 

*他人の課題、自分の課題
 ライブドアの書籍・レビューカテゴリをみてたら、LEO氏の新記事が出てた。

・反省は、自分で行わないといけない ~強情な自我を捨て、裸の自分になるのが出発点~ - LEO幸福人生のすすめ(ライブドア版)
 」
タイトルから、「また、アテツケ記事か…」と想像したのだが、やっぱりそのようだ。これだけアテツケ記事を書き続けるということは、それには何の疚しさも感じていないということなのだろうか。自分はアテツケ記事を書くと、後味が悪くて嫌だけど…。
 記事の内容については、この期に及んでも大川隆法は神で、霊言は真実だと言い張り、自己中心に起因するだろう怒りっぽい性格の者が、他人に向かって、強情、言い張り、自己中はいけないと説教しても仕方がなかろうと思う。
 でも、鉄槌の記事は意気軒高の様子だったのに比べると、今回の記事はずいぶんと元気がないようでもある。気のせいかな。よく分からないが、自分もLEO氏に対して厳しいことを書きすぎたようでもある。反省。やはり他人のブログを読んでとやかく言うよりも、まずは自分の課題に集中することにしよう。

 
相手の言を当てつけと言うのは簡単ですが、自分に返ってくることを感知できない楽山が言えば、そのことが、当てつけと言われることになります。
 
楽山は、なぜ、当てつけを、アテツケと書くのでしょう。おふざけだと思います。楽山は、批判者を、バカにすることから始めるのでしょう。無礼この上ないわけですし、既に、前提として、まともに遣り取りする気がないことを表しているのです。
 
楽山の「自分はアテツケ記事を書くと、後味が悪くて嫌だけど…。」は、すさまじい嘘であります。相当な傲慢と言ってよいでしょう。後味の味覚は、楽山には無いという証拠です。
 
楽山は「この期に及んでも大川隆法は神で、霊言は真実だと言い張り」と言っています。楽山は、そう思っていないということになり明確な否定の示し方です。この発言は、楽山が、前に言っていた、はっきりした結論は言わないということに反しますし、希望を述べているだけということにも反します。こうやって、楽山の白々しい嘘が、楽山の後を追うように、ついてくるのです。
 
楽山は、好きなように、その時その場で、言葉を見つくろって書いているが、自分を、追いかけ、追いつめてくるのが、自分自身だということに気づかないようです。
 
楽山が相手のことを「今回の記事はずいぶんと元気がない」・・マイナスの評価をされ、批判されているのは、楽山なのですが、楽山は、相手を評価する立場、すなわち、上から見下ろす立場に立っているつもりの高慢な発言です。
 
このように、自己愛の強い楽山のような者は、いつも、上に上にと、背伸びをして、見下した発言を重ねます。言い換えると、前から私が言っていた、批評家気取りの慢心で書いてくる特徴があります。
 
「自分もLEO氏に対して厳しいことを書きすぎたようでもある。反省。」・・楽山の嘘です。これを真に受けた相手が、書き方をやわらげたら儲けものという狙いからの、誘いであり、全く心にもないことです。楽山には、反省力も、反省する良心も、見られないことが、今までの経験から明らかになっています。丁寧語の罠に引っかかってはいけません。
 
「まずは自分の課題に集中」・・そのつもりで書いた記事が、今まで、無責任なものでしかないのだから、楽山には、処理できるような自分の課題もなければ、集中することもないのだと判断しています。この発言は、楽山の体質的異常性としての、自己中を、図らずも表しており、かつ、重ねて、自己正当化でもあります。
 
楽山のような自己愛性の者は、あらゆる機会において、自己中心の考えが漏れてきます。他者を下に見ること、自分が上だという前提で強がること、楽山の場合、ついには自らの責任逃れ、といったような、とても見苦しい詭弁の通り道しかなくなってゆくのです。
 
これからも、楽山は、自分が仕掛けたつもりの罠に、自分で引っかかって、笑いながら、気づかないまま堕ちてゆく姿を見せてくれることでしょう。
 
自己愛の病質者は、必然的に、知らないあいだに、笑いながら、腐ってゆき、かつ、自分で気づかないのが特徴で、もし自分で何か異常を感じるときには、既に、パニクっているという経過になってゆくのでしょう。そういうときには、犯罪に走る恐れがあります。
 
 
(2020年09月11日)
 
 
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