ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の怨念

 
  楽山の怨念
 
 信仰と救い、どちらが先か?
 2020年10月13日 楽山日記(LD)

 http://mn266z.blog.jp/archives/26598958.html
 
 
私が、前に書いて、否定したことを、弁明にも反論にもならないのに、恨みがましく、また、書いてくる楽山です。自尊の中身で返すのではなく、自尊の表皮剥離のように、無理解のまま、無反省に、無責任に、無神経に、繰り返してきます。
 
楽山は、雑言機関銃になるくらい、批判されることを嫌うようですが、一方で、批判記事が、約1年半にわたって積み重ねられることは平気なようです。
 
楽山は、まともに返すことが出来ないので、ブログのトップ記事が批判対象になるときには、次の記事を重ねて、批判対象記事を目立たなくする、という姑息な凌ぎ方しかできないようです。
 
楽山は、記事の質がますます落ちて、既に言って批判されたことの繰り返しになっていることに気づいているでしょうか、否、ここが、楽山の病的な無視の力だと思います。楽山は、自分の記事を当てることで、恥は帳消しになったつもりでいるのでしょう。
 

*信仰と救い
 ツイッターを見ていたら、次のツイートを見つけた。

2020-10-09 神様は信じる者しか救わないの
https://twitter.com/kamiumach/status/1314330648677511168
【教会Q&A】
Q.どうして神様は信じる者しか救わないの?
A.聖書には実は「信じる者は救われる」という文言はありません。クリスチャンの実感としては「信じたから救われる」というより「救われたから信じる」の方が近いです。 いきなり信じろと言われても、なかなか信じられませんよね
 」
自分はクリスチャンではないけれども、過去の宗教体験から、「実感としては「信じたから救われる」というより「救われたから信じる」の方が近い」というのは分かるように思う。

 
楽山は、信仰も救いもゲームかクイズの話のように考えているので、このような、どちらが先かとか、因果とかを、まるで一つのエピソードのように語ってしまうのです。信仰と救いは、どちらが先かなどという問題ではありません。どちらも、一生涯、続くことなのです。
 
"「救われたから信じる」の方が近い" と言っていますが、楽山は、一度も、信じたことも、悔い改めたことも、反省したことも、赦されたことも、救われたことも、ないのです。反省は、いつも、文脈と流れに表れておらず、謙虚を装う言葉だけの芝居に過ぎませんでした。
 
言う人によって、同じ言葉でも、重みが違います。正直者が言うのと、嘘吐きが言うのとでは、あるとき同じことを言っても、全く違います。積み重ねられたものが、違うからです。
 
今も、なお、取り繕おうとする楽山の醜さが鼻に突くだけです。
 

*間違い?
とはいえ、リプを見ると、冒頭の「聖書には実は「信じる者は救われる」という文言はありません」という発言については間違いだという指摘が複数ある。このことは、ロマ10:9-11で明言されているのだと…。

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。
(ロマ10:9-11)
 」

 
 (ローマ人への手紙、口語訳)
10:9
すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10
なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
10:11
聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。
 (ローマ10:9-11、新約聖書
 
心に偽りを持ち、信じてもいないのに、出まかせの駄弁を弄する者は、口で嘘の告白を為し、ゆえに、義とされることもなく、希望に至ることもない、とも言えるでしょう。
 
悪口の機関銃を放っていたものが、聖書を論じても、狼と少年と同じで、信頼するべき何ものをも伝えることは出来ないのです。算術ではないのだから、マイナスをプラスで相殺(そうさい)することは出来ません。性根の腐った者が、しつこく何かネチネチ言っているだけという結果になります。
 
つまり、悪口を言っておきながら、打って変わって、真面目な口で言っても、真面目なふりをしているだけと見なされ、悪口を言った者は、平気で悪口を言い、嘘を吐く者という評価に、だます者という評価が加わるだけなのです。
 

これが正しいのだとすると、教義的には、上の「「信じたから救われる」というより「救われたから信じる」の方が近い」という実感は間違いだということになるのだろうか。
うーん。自分は、幸福の科学(HS)の会員だった頃に、教義と実感のズレに悩んだことがあったけれども、こういうことはどこの宗教でも同じなのかもしれないな。

 
中身のないハナタカ気取りの言葉遊びに過ぎません。楽山の言は、総て、このようなものです。「信じる」と「救われる」のどっちが先か、という辻褄だけを語って、正しいのか間違いなのかを言ってきますが、信じることと救われることを時系列で追うことは出来ません。
 
信じることは救われること、救われることは信じること、というほうが正しさに近いでしょう。
 
しかし、そんなことよりも、楽山は、信じることも、救われることも、まるで理解していない人であります。ただ、なおも、性懲りもなく、分かってるふうを装うためだけに、もっともらしい言葉を並べて、何も実質のない、おふざけ、揶揄、自慢、高慢、などに堕してゆくのです。非~反信仰者において、これほど、醜い有り様はないと言えます。あからさまな虚言です。
 

*改心とゆるし
ちなみに、これと似た問題は、改心とゆるしにもある。教義的には、キリスト教にしても、HSにしても、改心が先で、ゆるしが後だというのが正統だろうけれども、実感としては、その反対に感じることもあるので…。

 
既に、私は、時系列や因果では語れず、関係性として、批判記事を既に書いているのですが、読まない、読み取れない、学ばない、反省しない、責任を負わない者というのは、口を開けば害毒が甚だしい、ということだけが表れています。
 
また、赦しが先、という、楽山などに都合よく何をしても赦されるように、聖句をゆがめようとする企みへ誘導しようとしています。
 
いつまで、楽山は、自らの赤恥を見せつけるのでしょうか。訂正不能の、おぞましい天狗鼻の、実際には、悪は悪、偽善は偽善、いつまでも、ということが表れています。それこそ、一生、逃れられない腐った体質を見ているようです。人の気分を害するのが、そんなに楽しいのでしょうか。
 

たとえば、反省、悔い改め、改心の時に、〝これでゆるされた〟というよりも、〝すでにゆるされていた〟と感じ、神の慈悲に涙がこぼれるというのは、そう珍しい体験ではないだろうし、このことからすると、反省、悔い改め、改心というものは、ゆるしのためでなく、ゆるしに気づくために必要なものだと考えても、そうおかしくはないだろう。

 
また詭弁です。楽山は、何をやらかしても、赦されて、神の慈悲に泣いて悔い改めるでしょうか。否です。逆に、思い上がって、何をやっても赦されるカルトを、実に、今、語っているのです。
 
赦す側と、悔い改める側の、ハーモニーなのです。楽山の、クイズを、ああでもないこでもないと考えるのと同じ遊びの理路では、つまり、単純な時系列や因果では、決して語れないことです。
 
謎解きでもクイズでもないのです。聖書の、信仰の話なのです。楽山が、一歩も近づいたことがなく、何度も、揶揄してきて、敵となっている世界の話なのです。
 
病識がなく、悪意がある者というのは、人の嫌がることを、わざと繰り返してきます。批判する側としては、そこにこそ、不治の体質的欠陥~障害~病気を見ることになります。
 

でも恐らくはこういう感じ方は、教義的には正しいとは言い難いものではあろう。教義によって考え、感じることができる人は、こんなことはまったく気にならないだろうけれども、教義と実感がズレてしまう身からしたら、これは本当にやっかいな問題ではある。

 
教義的にではなく、楽山は、人間として異常です。「教義と実感がズレてしまう身」なら、何を教えても、ズレてゆくのだから、今回のように、誤解を避けるために既に批判して終わったことを、また、批判者が書くという手間の分、楽山の悪意の病質が深いということにしかなりません。
 
病気でも障害でも、楽山には同情の余地がありません。絡んでくるだけの者、文句だけを繰り返すクレーマー、無反省と無責任の自己陶酔者、などは、後悔と反省と羞恥心と痛覚のない別世界から文句を言ってきます。
 
痛みを感じない異常者が、つまり、共感のない者が、痛みを感じる世界の人々に語ることが、いかに有害であるかを、楽山は、表し続けています。今後も続くであろう楽山の丁寧語の悪意には、信仰をもって対することが、いっそう、必要になるでしょう。
 
楽山のような者は、赦されることも、救われることも、平安も、平和も、願ってはいません。意地悪を本質とする性格破綻者であり、その根底にあるのは、宗教、道徳、倫理、社会、人間への、根深い怨念と攻撃性だと思います。全否定してゆくしかありません。
 
 

     f:id:stdsts:20201014002335j:plain

               おんねん
 
 
(2020年10月14日)

(2020年10月21日、加筆)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html