ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の化け物好き

 
  楽山の化け物好き
 
 『史上最強の哲学入門』飲茶著
 2020年10月10日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26565147.html
 
 
ごまかしながら、まわりくどく、キリスト教を否定して、怪奇物語を結論とする楽山です。
 

『14歳からの哲学入門』が面白かったので、同著者の『史上最強の哲学入門』も読んでみた。期待以上の面白さだ。本書が人気作だとは知りつつも、けっこうな分厚さなので、時間をケチって手は出さずにいたのだったが、実際に読んでみると分厚さも時間も気にせず、どんどん読めた。本書を読んで、食わず嫌いならず、読まず嫌いは損をするというのは真実だと、改めて実感した次第である。

 
どんどん読める読解力は、楽山にはありません。キリスト教と聖書の話において、その未熟と幼稚さが表れていました。今後も、変わりはないだろうと思っています。
 
「読まず嫌いは損をする」は、誰の言葉なのでしょう。どうやら、マンガの言葉のようです。アマゾンの宣伝文句にもなっていました。読書しましょうという当たり前のことだと思いますが、楽山の人生観では、大発見のように改めて実感するような金科玉条になるのでしょうか。
 

さて本書の内容について触れると、本書は大まかにいって、真理、国家、経済、神、存在などといったテーマについて、過去の哲学者らはどのようなことを語ったかということが平易な文章で綴られているものである。

 
「真理、国家、経済、神、存在などといったテーマ」・・どれも、怖くなるほど、重大で、困難で、深いテーマだと思いますが、楽山は、「平易な文章で綴られている」と書いて、どう受け取ったのでしょう。中身が書いてありません。いつも、そうです。書けないのだと思います。でっかいことを平気で言いながら、中身を、まるで書けないのです。
 

よくある哲学入門のように、はじめは了解できても、中途から急に分かり難くなり、読み続けるのが難しくなることはなく、はじめから、最後まで、分かり易く説明されており、自分のような頭のつくりの者であっても、読み切ることができるようになっているのは有り難い。この辺りのことは、『14歳からの哲学入門』も同様の感想を持ったし、著者は読み手のことをよく考えてくれているということなのだろう。感謝。

 
「分かり易く説明されて」・・この手の楽山の発言は、今まで、楽山の読書の安易さと気安さを表すだけで、ずっと、嘘でした。分かっていないと思います、というのを付けてゆきます。
 
今までの、キリスト教と思想について、楽山は、哀れなほど、理解力が無かったからです。しかも、子供じみた意地の張り方を、前にも、そして、今も、しているのです。
 
「読み切ることができる」・・楽山の、独りよがりの慢心が表れています。しかも、「自分のような頭のつくりの者」という謙虚な言葉を前もって付けてくるのが、楽山の狡賢いところだということも、併せて指摘しておきます。とっくに底が知れているのに、あざとい謙虚芝居を繰り返す楽山です。
 

本書の中で特に印象に残った箇所は、およそ三箇所あった。まず一つは、自由についての考え方である。本書の説明によると、ホッブスは人は利己的で自己の利益追求のためには殺し合いさえする生物であり、これを止めることに国家の役割があると考えたという。国家は人に「自分の欲望のために他者を殺す自由」(p.160)を放棄させるかわりに、身の安全を保障したのだと…。

 
殺し合いを禁止するということは、国家が治安を守るために必要なことです。しかし、国家こそは、強制力で国民を制御する仕組みです。どちらが、暴力であったかは、国家の成り立ちを考えれば、実に微妙なことなのですが、楽山は、それを、知らないのか、書いていません。
 
いつも、片落ちの文章しか書けない楽山です。それで、気持ちよくなる楽山です。
 
国家という言葉は、悪用されることあるということを書いていない分、片落ちになります。自分の都合しか考えていないような、楽山のような者は、他者のこと、一般のことなど、考えないので、こういう文章になるのです。
 

また、アダム・スミスは「個人は自分勝手に利益を追求せよ」(p.175)とし、これが多くの人々の幸福につながると考えたという。こうしてみると、ホッブスも、アダム・スミスも、自由を自分勝手の意としているようであるし、これが自由の本来の意味なのかもしれぬと思える。ちなみにこれについては、前に「自由とは、自分勝手ということ?」という記事を書いたことがある。

 
楽山は、自由を自分勝手の意とするのが本来の意味かもしれぬと言っています。そのほうが、楽山の自分勝手な放言に都合がよいからでしょう。楽山は、義務教育を受けているのかさえ、疑問に思えるところです。
 

巷には、自由には一定の枠が内在されていると考えてか、「人から自由を奪ってはいけない。しかし自由のはき違えも許されない。自由を自分勝手と解してはならない」という意見があるが、自分はどうもホッブス的に、「自由は勝手にしてよいということであるから、万人と万人との争いを生む結果になるのは必然である。したがって、自由は一定の制限をする必要がある」とする方が実態に則した考え方のように思う。

 
「自由を自分勝手と解してはならない」と「自由は一定の制限をする必要がある」と、どう違うと楽山は言いたいのでしょう。結論としては、それほど違いはないと思いますが。つまり、楽山の、自由=自分勝手、というのが決して成り立たない、ということだけは確かなのです。
 
ここも、楽山の、いやらしい印象操作なのです。楽山は、公共の世界に巣食って、公共に向かって、自分勝手を、否定できない人なのです。自分勝手に、自己中心に、書いてきたからです。
 

もう一つ印象深かったのは、デモクリトスが原子論を唱えて以降、その後が続かず、科学の発達が遅れた理由について、「端的に言ってしまえば、「宗教が世界を支配する迷信の時代」が長く続いたからだ」(p.295)としているところだ。

 
宗教=迷信、という先入観を植え付けるための詭弁と誘導です。中世のキリスト教は過ちを犯しました。しかし、それは、人が犯した過ちであって、キリスト教の教えについての、人の誤った考え方が支配していたからです。
 
それを完全に克服したかどうかは断言できませんが、少なくとも、楽山がしないところの、反省と改善への努力をする人々がいて、信仰は、私を含め、今も多くの人々救っています。
 
楽山という、宗教にも信仰にも、全く共感性のない人格は、一途に、宗教と信仰を否定するのに、まるで、感受性のない楽山自身の、反宗教としての恨み返しのように、執念を燃やしてきます。その考えは、目立たないが、放置すれば、現代において、公共の脅威となるものです。
 
このように、楽山は、読書といっても、自分に都合の良いこと、ここでは宗教をおとしめる目的に合うことだけを、漁(あさ)って、拾って、書いて、満悦しているだけなのです。一見、インテリ風味に、丁寧語で書いてくる楽山に、どうか、だまされないでください。
 

紀元前の古代社会では、巨大建築物は多く、公衆浴場も、下水道も、公共図書館もあったが、キリスト教支配が広まってからは、これらは失われ、人々の大半は文字も読めない状態になってしまったのだと…。自分は、キリスト教の修道僧らが学問を発達させたという話をどこかで読んだ記憶があるのだが、著者の考え方からすると、どうやらこれは物事の一面でしかなかったらしい。

 
よほど、キリスト教を、公共の敵に仕立て上げたいようです。そんなに失われたでしょうか。戦争がある間、失われることはあっても、単純に宗教だけのせいには出来ないと思いますが。
 
物事の一面しか見ないのは、楽山において、典型的です。特に、宗教について顕著であります。ここでも、楽山の、宗教に対する怨念が明らかになっています。
 
それが、楽山の言いたかったことであり、迂闊(うかつ)に読んで受け入れていると、自分を、どこまでも正当化し、できれば、宗教に対する迫害か破壊の、何らかのリーダーになりたいというほどの欲望が、オナニーのように臭(にお)って?くるのです。
 

最後の一つは、自分は水槽に入れられ、生かされている脳に過ぎないかもしれないという推測を完全に否定する手立てはないという話である。タイトルは失念したが、ラヴクラフトの小説で、宇宙人が人の脳を取り出して容器に保存し、宇宙旅行をさせる話を読んで、ものすごく怖かった記憶があるのだが、自分がそういう状態に陥ってはいないということを証明することは出来ないというのはゾッとする話だ。

 
前に書いたことですが、私たちの世界は、共同幻想と同値であります。共同幻想=実世界、ということですが、一般には、そういう哲学的なことまで考えなくてもいいと思います。そのようにしか思えないというのは、人間が、世界への限られた把握の能力によるものであり、つまり不完全な存在だからです。
 
「自分がそういう状態に陥ってはいないということを証明することは出来ない」ということだから、似たような類の話かと思って書いたけど、楽山の話は、全く哲学的ではなく、ただの気持ち悪いSFホラーの話に堕しています。
 

これ以外にも、人は世界を本当には認識することはできず、人以外のものは世界について人とはまったく違った認識を持ち、その認識は人には到底理解できないだろうという話も驚かされた。怖いもの好きの自分としては、こういう話を聞くと、ついつい人とは異質すぎるクトゥルフ神話を連想するのであるが、こうしてみると、世界はどうなっているのか、世界をいかに認識するかと思案することは、未知への怖れを生み、ホラーに通ずるものがありそうだ。

 
(ネットより)クトゥルフ神話
太古の地球を支配していたが現在、地上から姿を消している強大な力を持つ恐るべき異形のものども(旧支配者)が現代に蘇ることを共通のテーマとする。そのキャラクターの中でも旧支配者の一柱、彼らの司祭役を務め、太平洋の底で眠っているというタコやイカに似た頭部を持つ軟体動物を巨人にしたようなクトゥルフが有名である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%95%E7%A5%9E%E8%A9%B1
 
楽山は、趣味のように、宗教をホラーに通じさせたいようです。神と世界を認識できないと知ると、ホラーだ!と決めつけるのでしょうか。認識できない自分のことを考えずに。
 
楽山は、人間よりも、タコやイカの頭を持ちたいのでしょうか。
 
辞書的な説明もしない楽山が、自慢げに何を言いたいかといえば、結局、化け物~怪獣のホラーが根拠です。哲学入門を読んで、これでは幼稚過ぎます。読解できていないということでしょう。
 
「人以外のものは世界について人とはまったく違った認識を持ち、その認識は人には到底理解できない」・・このように、人間離れした話が、楽山は大好きのようです。
 
したがって、どうなるかというと、楽山の認識は、人には到底理解できないホラーであり、人以外の世界を希求している、ということにしかならないでしょう。ホラー好きの小中学生でも、ここまで、妄想的に現実離れすることは少ないような気がします。
 
楽山は、よほど、現実が嫌いなのでしょう。総て、背後に、モンスターや霊がないと気が済まないようです。これで、宗教を語るわけですから、たまったものではないという感想です。
 
この世界において、この世界について、まるで分かっていない者が、分かっているかのように、キリスト教と神に、いちゃもんをつけている、それが、楽山であります。しかも、その認識を、ホラーだと言っています。
 
楽山が、いかに、いい加減に、マンガを読むのと同じように、自分が住んでいる世界を茶化しているかということが分かります。つまり、楽山は、いかなる真剣な議論にも話し合いにも、面白がるけれど、何の主張も持ち得ない人なのです。
 
反省し学習し成長し共感する人間力が養われていないと、こうなってしまうのです。
 
でありながら、真面目くさって語ってきますから、決して、楽山の話を、真に受けないでください。時間の無駄、というだけではなく、経験から、楽山の話は、結局、徒労のあと、名状しがたい疲労の病原となるのです。
 
 

     f:id:stdsts:20201013000056p:plain

             ばけもの

  
 
(2020年10月13日)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、たまにブログ記事をリンク)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html