ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

続・楽山の批判者気取り

 
  続・楽山の批判者気取り
 
 信者とアンチの対立(ツイッター上における愛色騒動)
 2020年10月24日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26730537.html
 
 
楽山が、いかに、かっこつけて、HS批判をしているかということです。楽山の発言と、あとは、抜粋して、記事の対象とします。楽山と、HS批判者と、HS信者が登場しています。
 
評論家気取りが特徴の楽山は、一皮むけば、無反省、無責任の自己中なのです。楽山の、正義の味方気取り、中立中庸気取りにだまされないでください。
 
いかなる思想集団や、討論・議論に参加しても、信頼したら、結局、いちばん大事なときに、はぐらかし、「とも言えない」口調などのボンヤリ口調で、はぐらかし、平気で裏切る、それが楽山です。
 
だから、そのうち、殴られるだろうと、私は、書きました。進めば、殴られるだけでは済まないような事態もありうると思います。楽山だけは、決して、味方だと思わないように願います。
 
「 」は、信者かアンチの発言の引用です。この両者の是非について、私は、関わりません。ただ、楽山は、肯定的、または、否定的な、何らかの意図をもって引用しています。私は、自己愛性パーソナリティの楽山を批判するために、引用しているだけです。ですから発言者のHNは隠しています。
 
なぜ引用したかと言えば、楽山は、賛同したから引用している、あるいは反対だから引用している、という点において、楽山を探る要素となり、かつ、楽山は、引用する立場には立てないこと、逆に、批判されるべき立場である、ということを明示するためです。
 
無反省無責任の楽山に他者を批判する資格はありません。
 

A氏は、〇氏を誹謗中傷しておきながら、それについて注意されても、謝らず、発言も取消さず、スルーしてるという流れ。

 
キリスト教をけなしておきながら、取り消さず、自らへの批判をスルーする楽山に酷似しています。
 
>「証拠もないのに決めつける○○の科学の信者が多いのに驚きます。」
 
証拠もないのに決めつけるのは、楽山の特徴です。筋を通した弁明も反論も全くできない人だからです。楽山はインテリではありません。楽山はインチキです。いかなる言論にも参加してはいけない、参加させてはいけない人だと判断しています。
 

証拠の提示を求める声が相次ぐ。
でもA氏は、これに答えず、ブロックで応じた。

 
証拠の提示、というのには注意が必要です。証拠がないじゃろ!出してみろ!と言って、批判者側に負担を掛け、疲れさせる手段として悪用される場合があります。
 
証拠の提示を根拠とするのは、裁判など、また思想集団などのように、時間と人員に、十分な余裕がある場合に限られるかもしれません。
 
理路において、人間として考えて、根拠があればよいのです。
 
>「都合が悪くなった途端に喧嘩口調がどうのと言い訳して見苦しい」
>「悪印象を持たせるデマを吹聴するだけして逃げてゆく卑怯者」
 
楽山は、幼稚な言い逃れを、数知れず、してきました。また、楽山は、先入観を吹き込む刷り込みが、印象操作としての常套手段の一つであります。
 
>批判に対し、スルー、ブロックで応ずるという愛色氏の対応に、失望の声が出る。
 
ルー・ブロックという無視も、楽山の常套手段です。好きなところを、いい加減に、かじって、気に入らないところは、スコ~ンと無視するのが大好きで、もはや日常となっている楽山です。
 
>「信者の間では「教団を批判する人間には何をしてもよい」という認識」
 
楽山は、正当な、いかなる宗教の信者でもありません。個人カルト、という、自己愛と自己中から成り、無反省、無責任で、まとも芝居をするのが生業となっている偽善者です。つまり、楽山は、我執の奴隷であり、近づく者を悪用して、耐えがたい疲労を与える害毒です。
 

スルー、ブロックについて
ちなみに自分は、スルー、ブロックを全否定するつもりはない。

 
他者の意見の、スルー、ブロック、即ち、無視は、楽山の日常です。楽山が、平気で、やってきたことです。つまり、楽山の逃げ足は早くて速いので、注意が必要です。
 

たとえば、信仰はいかにあるべきかとか、教義解釈はどうあるべきかというような神学論争的な議論については、

 
楽山は、「信仰はいかにあるべきかとか、教義解釈はどうあるべきかというような神学論争的な議論」も、他の議論も、討論も、議論も、できるような器を持っていません。何を語っても、反省せず、責任取らず、では、言論など、できるわけがありません。
 
なのに、気取りだけで、一人前の顔をする詐欺師的インチキなのです。楽山の言うことを、柔和で、冷静で、やさしい人、などと思って受け入れるような、犠牲者には、決してならないでください。
 

信者とアンチというように正反対の価値観を持っている者同士であれば、双方が合意できる結論を見出すことは困難であるし、ある程度のところで議論を切り上げるという選択は必ずしも否定されるものではないと思う。

 
一方的に切り上げるのは、一方的に無視することです。意見の訂正をしないのなら、弁明か説明が出来るはずです。楽山は、それが全くできないために、無視を正当化し、ここで、自己中の、宣伝にとどまらず、伝染させようとさえしています。
 

でも今回のように、誰が何をしたという事実に関する議論であれば、証拠の提示を求められるのは当然であるし、これを拒否することはできなかろう。自身の発言の正当性を担保するに十分な確かな証拠を提示してもなお、しつこく因縁をつけてくる相手に対してはスルーもやむをえないだろうが、その証拠の提示をせずに反論をスルー、ブロックするというのはいただけない。

 
証拠にこだわるのは、上のほうにあるように、相手を疲労させるためで、一方、楽山の言には、決定的に、根拠が示されない、という特徴があります。楽山が返してくるのは、いつも、決めつけか、因縁付けか、嫌がらせの類であり、反論にも弁明にもなったことがありません。
 

どういう考えでスルー、ブロックしているのかは分からないが、自分はこのように考えるので今はスルー、ブロックするときではないと思う。愛色氏には誠意ある対応を求めたい。

 
誠意が、一貫して、全く、一度も、見られたことのないのが、楽山です。「誠意ある対応を求めたい」などと、正論ぶった言い方をしていますが、彼は、まともな議論のできない病質者です。
 

相手の内面を悪く想像したら、即、ダメというわけではないのだが、さして根拠の提示もなしに、勝手な思い込みで決めつけるようなやり方でそれをするのはいただけない。ここは注意すべき点だと思う。

 
こういう決めつけを、それだけを、ずっとしてきたのが、楽山であります。楽山には、言うべきであります。お前は、決定的に、ダメです、異常者なのですと。
 

HS信者をみていると、真偽の確認を怠り、思い込みだけで決めつける人が少なくない。

 
これこそ、時々に、楽山が、常習として、やってきたことです。誠意がなく、思い付きであり、無反省、無責任に、小中学生レベルの幼稚な言に、インテリ風味を塗りたくって、送ってくる異常者、それが楽山であります。
 
何度も指摘したのに、何も気にしない、何も気にならない、そして、平気で気取った書き方を、またしてくる、というところが、楽山の狂気と病気の、病巣であり、有毒な体液でもあります。
 

また、アンチをブロックして反論を封じた上で悪口を言う人たちもいる。全部の信者がそうではなかろうが、そういう信者をちょいちょい見かけるし、けっこう多い。

 
楽山がやってきたことです。病質者で罪悪感というものを全くいだくことがないので、できることなのです。自分を、神のごとく崇める自己愛から、即ち、我執から見下ろして、総て他者を劣った者として、好きなように、いじって、捨てて逃げているのが、楽山です。
 

今回もそのパターンのようだったので、記事にまとめてみた次第である。幸福の科学と、その信者に興味がある人にとって、なんらかの参考になれば幸いである。

 
「まとめてみた次第である」「参考になれば幸いである」といった丁寧語、これが、評論家気取り、中庸気取りの、楽山の武器なのです。だまされないでください。本性は、ケダモノといってよいと思います。
 

ちなみに、幸福の科学(HS)では、大川隆法は、イエス・キリストが、我が父と呼んだ存在であり、主であるとされている。したがって、HS的には、主が水木しげるの霊を招き、オバケのポーズをとったということになる。
なんといったらいいか、大川隆法も、その信者も、怖いものなしだなと思う。

 
仏様の心が分からない親族に驚いた記事を載せて、霊が分かるっぽい自覚で、超常の霊のことを、思い付きで語り、人を引き寄せ、だまして、バレたら、逃げること、逃げること、腰の抜けた幽霊のように、人格としての、しっかりした骨組みもなく、ぼうっと出没してくる楽山です。
 
楽山は、HS批判をしているつもりのようだが、楽山には、批判者の資格がない、ということだけを、ここでは言いたいわけです。
 
どんなに醜いさまを露呈しても、平気で、HS批判者を気取るような、理路破壊者の楽山に対して、こちらは、HSにもアンチにもつかないで、楽山を批判するための理路の骨組みを、想定しつつあると思っています。そういうことは、楽山には決して出来ないことですが、努力というものは、してみるものです。
 
楽山には理路も論理もありません。楽山には共感力もありません。楽山は、思想の皮だけで出来ている存在です。その場その場で、その時その時で、主張がころころ変わるような無責任かつ無反省の者は、言論の場から、永久追放されるべきです。
 
楽山が、誰からも、無視され、スルーされ、ブロックされることを願ってやみません。人間が、相手が異常者という条件の下で、難を避けるために、唯一、無視してよい対象、それが、楽山のような自己愛性の病質者であります。どうか、関わることのないように、近づかないように、願います。
 
無反省と無責任、これを、何度、指摘しても、なお、インテリ気取りの、正義の味方気取りの、ヒーロー気取りの、批判者気取りで、ねちねちと書いてくるのが、楽山です。
 
柔和な?うわべの見せかけとは全く異なるところの、何ものをも恐れない自己絶対の怨念と怒気を持っているからでしょう。それ以外の、例えば、良心などの、本当の柔和さを、毛ほども持っていないということです。楽山に見習えば、同じようなものになり、人間ではなくなります。
 
 
 正直に疑う人(シルバー・バーチの霊訓)
 2020年10月24日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26732952.html
 
 
楽山の自己正当化の嘘と詭弁が、オーバーで、芝居がかっていて、思いっきり、きれいごとだけ並べていて、ものすごいことになっています。
 

*疑心があるとき
かつて、とある宗教を信じて信者になったものの、さまざまな理由からその宗教が信じられなくなって悩んだことがあった。

 
楽山は、病質者なので、本気で悩むことなどありません。平気で嘘を吐きますが、同じように、最初から、信じる気などないのです。つまり、この発言こそ、楽山の大嘘なのです。真面目に悩む心など、良心など、まともな性格など、楽山は、持っていません。
 

信じなくてはならないと思うのに、どうしても信じることができない、でも棄教すれば地獄に堕ちるというし、それなら信じきれてないけれども信者は続けようか、いやいや信じきれていないのに信者を続けるのは嘘であろうし、それは神を騙すことになるのではないか、それよりは正直に信じられないものは信じられないとするべきではないか、

 
楽山は、その体質が異常なので、信じなくてはならない、などとは、全然、思っていなかったし、また、今も思っていない、ということです。総ての、真面目な人間の敵であり、だますことに生涯を費やして悔いない人です。そういう体質なのです。
 

嘘の信仰より、正直な棄教の方が正しいのではないか、自分に正直になった結果、裁かれ、地獄に堕ちるなら、それも本望ではないか…などなど。

 
楽山は、こういう丁寧な、実は詭弁の合理化によって自己正当化をしてきました。一見、まともそうな文章に、だまされてはいけません。
 
楽山は、宗教嫌いで、宗教的センスも持たずに、ゆえに、その必要性も全く認めておらず、天国を認めないのだから、地獄も信じてはいないのです。また、大嘘を吐いています。息を吐くように嘘を吐くのです。
 

最終的には、自分は自分に正直になる道を選んだのだけれども、これはどうやらシルバー・バーチ的には正解だったようだ。

 
楽山は、他者に対しても、自分に対しても、正直な性質など、少しも持っていません。他者には平気で嘘を吐き、自分には何事につけ、無理だと気づかず、次から次に、無意識に、合理化・正当化で納得し満悦して、その結果、誰に対しても、無反省と無責任の、大嘘吐きの大根役者となって、信頼度ゼロになってゆくだけです。自己愛の自己中の病質とは、このようであるという見本のような人です。
 
かつ、よく知らないけど、楽山は、何も理解できていないのに、「シルバー・バーチ的には正解」などと言って、意見が一致しているかのように、シルバー・バーチという霊と霊言に、責任と罪を押し付けようとする卑怯さです。
 

私は決して正直に疑う人を非難しているのではありません。もともと神は人間に理性的判断を賦与しております。それは日常生活において行使すべく意図された神からの授かりものです。理性を抑圧して理不尽なものを信じさせようとする者は光明へ逆らって生きていることになります。理性に従う人間はその過程がいかに苦痛でいかに困難であろうと、そして又その結果、神聖にして侵すべからざるものと教え込まれた聖典に記されているものを放棄せざるを得なくなったとしても、少なくとも自分には正直であると言えます。
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.181)
「正直に疑う人」というのは、面白い表現だ。これは一度聞いたら忘れられないだろう。
自分は、自分に嘘をついて信仰するよりは、正直に疑う人でありたいと思う。

 
楽山は、正直に疑ったことは、一度もありません。楽山は、宗教について、無理解のくせに、いちゃもんを、そして嘘を、ふざけ半分で、吐いてきたのです。
 
楽山は、信仰を知らないまま、文句だけを言うので、神からの授かりものなど知らないまま、つまり、正直を知らないまま、嘘吐きの大人になっています。
 
楽山は、理性を抑制するのではなく、理性を育て損なって、理性とは全く異なるところの、ねじ曲がった自我の先入観によって、人を丁寧語でだまし続けています。しかも、責任を負いません。
 
楽山は、無反省で無責任なので、いつも、遊び半分で、何よりも苦痛を味わわないように、都合が悪くなると、断定してないと言い張り、逃げ回ってきました。
 
放棄する対象を、「神聖にして侵すべからざるものと教え込まれた聖典に記されているもの」と言っていることに、白々しさを感じます。楽山は、都合の良い言葉を、本から漁ったりはしますが、聖典を読んだことはないと思います。もし読んでいたなら、読解力がないことを証明したことになります。何より、楽山にとって、神聖なのは自分だけです。
 
つまり、楽山は、言葉の調子合わせだけの、白々しい嘘吐きであることを、ここで自ら証明しています。楽山は、信仰から不信と疑惑に変わったのではなく、最初から、何も信じてなどいない人です。
 
つまり、楽山は、ここで「正直」という言葉を宣言していますが、楽山に、正直さなど、微塵もありません。放棄せざるを得なくなったなどと言うことはありません。元々、何も信じる気などない人です。宗教を、バカの持ち物として扱って、揶揄したいだけの自己愛の病質者なのです。
 
その分、この1年半の間に、楽山が、決めつけと先入観だけであり、信仰について、何も分かっていないことが、明らかになっています。楽山には、良心がなく、良心によって思いを一つにすることもなく、互いに共有したり共感したりすることもないのです。
 
楽山は、自分に嘘を吐くことと、他者に嘘を吐くこととが、区別できていないと思います。だから、どちらも反省せず、責任を感じないのです。
 
自分に嘘を吐くならば、それは信仰とは呼びません。ゆえに、楽山は、嘘でも、正直でも、信仰したことはないと思います。
 
また、正直に疑うことも、一度もありません。言い換えれば、楽山の総てが嘘と芝居と詭弁で出来ているのです。正直など、どこにもありません。ゆえに、真面目を装って何か言ったとしても、それも信頼してはいけません。正直さがない分、楽山は、本気で信じているカルトよりも悪質だと言えるでしょう。
 
 
楽山は、都合が悪くなったら、無反省に、平気で責任放棄して、逃げますから、そうなる前に、最初から、または、できるだけ早く、楽山が来たら、相手したりなどせずに、一目散に、逃げてください。決して、楽山の犠牲にならないように、関わらないでください。また、近づかないでください。
 
罪悪感のない酷いインチキとは、この楽山のような人のことを言います。人間だと思わないでください。虚言製造の脳と虚言発信の口の付いた人体に過ぎません。約一年半、変わりありません。
 
私は、楽山を柔和な人だと勘違いして、だまされていた約半年と、何も分かっていないと知って、とんでもないと批判してきた約1年半の体験から、楽山については信頼度ゼロと判断しています。私は、言うべきと判断したことを言っているだけです。
 
楽山が何を丁寧に語りかけてきたとしても、楽山は、徹底して根こそぎ否定されるべき人であり、決して、まともに応答してはいけない相手です。
 
既に、数えきれない文章の破綻によって、結論が出ているのに、良心が欠如しているのか、高等感情が麻痺しているのか育っていないのか、あるいは、自尊のために退くことが出来ないのか、性懲りもなく書いてきて、かえって、虚言と精神詐欺と自己執着の証拠を積み重ねてしまう楽山です。
 
楽山から、良きものを、そのヒントですら、受け取ることは決してないと思います。
 
 
cf.今までの楽山批判記事は、
「楽山日記(LD)」で、私のブログ内検索。グーグル検索では「楽山批判」で検索。
 
 

    f:id:stdsts:20201024235125p:plain

                インチキ
 
 
(2020年10月25日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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