ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の汚物

 
  楽山の汚物
 
 『現代語訳 論語と算盤』渋沢栄一著、守屋淳
 2021年04月01日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28605223.html
 
 
極端な例をもって、全体を否定する、という楽山の詭弁です。
 
性根の腐っている楽山は、書くことをやめません。人間になり損なっている者の、幼稚な詭弁と、それで出来たつもりでいる醜さを、また、味わうことになります。
 

本書では全編に渡って、人生においてはバランスが寛容であることを説いている。たとえば、道徳を重視するあまりに経済を無視してはならぬし、儲けのみを目的として道徳を軽んじてもならない、無駄遣いは止めるべきだがケチであってはならない、事を起こすには細心の注意を払うべきだが時に大胆さも必要であるというように、道徳と経済、個人と社会、形式と内容、保守と進歩、慎重と大胆などの相反すると覚しきもののうち一方に偏することなく、道理にもどついて判断すべきというのである。

 
前に、楽山は、バランスを取ることについて、宗教を信じないのはよくないが、信じ過ぎるのもよくない、というようなことを言っていました。一次元の子供レベルの知識しか持っていない楽山らしい理路なのです。そういうバランスが通用しているように見える例が、上記のようなことでしょう。
 
しかし、宗教、特に信仰においては、信じているか、信じていないか、ということが、文章で表せることではないのです。文章はヒントとしてあるだけです。
 
信条と呼ばれるものも、人の言葉で表されているので、ヒントあるいは備忘録のようなものであって、それを思い込む信じ込むのが、信仰ということはないのです。信仰は、心にあります。
 
そこが分かっていないのに、楽山は、驚くべき厚かましさをもって、条文のような、命題のようなもので成り立っている、という、概念的な皮相な考えにしがみついて、精神が発達しなかった者であることを晒してゆく人生となっているのです。
 
心で共感することのない楽山は、キリストの愛にも、人の愛にも、触れることが出来ません。よって、それでも、自分は、バランスが取れていて、偉いんだ!・・と言いたいがために、宗教を、一方と、他方で、バランスを取るものだと言ってきます。
 
どちらのほうにも、また、バランスにも、楽山はいません。楽山には、今までの、おびただしい嘘と詭弁の積み重ねによって、立場はありません。
 
楽山にあるのは、自己愛性人格障害からの言い張りを正当化するために、言葉だけを利用する盗人根性の見苦しさだけです。何を言われても不感不応で、人を傷つけることを楽しみながら続けるのは、サディストと呼ばれます。
 

著者の言葉によるならば「決して極端に走らず、中庸を失わず、常に穏やかな志をもって進んでいくことを、心より希望する」(p.138)とのことである。これは至極まっとうな考え方であろうし、このような人生観を提示する本書が、長く読みつがれているというのも納得である。

 
渋沢栄一氏が語るような中庸に、楽山こそは、最も遠い人です。自己中の満悦者にあるのは、自分軸の妄想による自己正当化だけです。よりによって、同氏を引用して、「至極真っ当」などと、身の程を知らないにもほどがあります。
 
人間の言葉は、伝達のための暗号ですから、時と場合と個人によって、違った意味を持ち得ます。楽山という思い込みしかない半端者は、それを、自己中心に確定したように見なして、概念という概念を、楽山のダンボール製のような机上の概念として、どこにも通用しないバランスを取っている気でいるのです。
 
思想は、極端な解釈によって尖鋭化することがあるので、それを戒める意味で、同氏は、バランス・中庸ということを、言っているように思えます。キリスト教内外においても、そのような傾向を持っているカルト的な人はいるだろうと思います。
 
しかし、それは、間違っていて、キリスト教ではないのです。物や肉体の奇跡は、事実かどうか、ずっと不明です。そういう奇跡頼みは、いちばん大切な、共感という心の奇跡をスポイルしてしまいます。
 
この共感こそが、楽山の敵なのでしょう。どう批判しても、いつも、宗教といえば、霊とかの超常奇跡の話にしてしまいます。楽山は、誰にも、何物にも、共感することが出来ないからです。
 
正しくないカルトと、信仰とを、同一視する、という、いつもながらの詭弁で、楽山は、今回も、宗教否定を刷り込んでくるのです。申し上げたいのは、楽山の自分信仰と、楽山の宗教観こそは、まさに、大きく偏って尖鋭化した妄想なのです。中庸もバランスもないのが、楽山です。
 
いちばん極端で邪悪な場合をもって、キリスト教全体をおとしめる詭弁であります。楽山は、いつもいつも、実に、汚いです。
 

ところで本書には宗教について興味深い記述が二箇所ほどあった。一つは修験者による神のお告げのまちがいを指摘してやり込めた話である(第5章 理想と迷信)。この逸話は大河ドラマでも描かれていたそうで、痛快とするツイートが沢山あったのだった。
もう一つは奇蹟がないことをもって、キリストより、孔子を信じるとしている箇所である(第7章 算盤と権利)。その理屈はどういうものかといえば、キリスト教では奇蹟を説いており、これを「事実だと認めてしまうと、知恵はまったくくらまされ」「一滴の水が薬品以上の効果をあらわす」などと信じることにもなってしまう。

 
物や肉体の奇跡があったかどうかは、キリスト信仰の中心ではありません。現代において、滅多に起こっていないことは、人間の救いにはならないからです。
 
そういう超常の魔法を思い込んでいるのは、他でもない、楽山のほうです。楽山は、心理学の話を心霊と結び付けたり、霊言を信じていたり、嘘と詭弁で、何の役にも立たない迷惑話を広めようとする煩わしい精神の詐欺師に過ぎません。
 
このように、最悪の例が自分だと気づかないまま、楽山は、執拗に、深い墓穴を掘るのが生業です。病質者は、いかなる批判も気にせず、また、似たような詭弁を書いてきます。決して相手にしないでください、関わらないでください、近づかないでください。
 

孔子にはこのような奇蹟、迷信はない。「宗教やその教義としてはキリスト教の方がよいかもしれぬが、人間の守る道としては孔子の教えの方がよい」。孔子について「この点こそ、わたしがもっとも深く信じる理由であり、またここから真の信仰も生まれてくるのであろう」とのことである。

 
奇跡と迷信に満ちている楽山が書いています。自分の宗教についての誤解~曲解~妄想を、宗教を否定する材料にする楽山は、もっとも、いかがわしい、インチキ宣伝屋といってよいでしょう。
 
偉人と呼ばれる人と自分を同一視して、背伸びばかりして、有頂天になって、大事な人間性と良心を、ドブに捨ててゆく楽山です。
 

自分は、宗教全般に懐疑的であり、怪力乱神は語らずという態度は当然であり、賢明なことであると考えつつも、ルルドの奇蹟のようなことは絶対にないとは言い切れぬのではないかと思ってしまう性質なので、著者のように合理主義的で割り切った考え方ができる人物には驚きとともに一種の羨望を感じる次第である。

 
楽山は、宗教に対して悪意を持っています。そして、自らも、霊能者気取りです。どういう意味かというと、今ある宗教は偽物、自分だけが中庸で、正しい、という宣伝をするカルトなのです。百害あって一利なしと判断しています。
 
人は、尾ひれを付けたがります。楽山は、ゴシップを好むように、尾ひれを好みます。楽山は、尾ひれに過ぎません。理解の実質は皆無です。間違っているのに、それを、ずっと続けています。
 
楽山は、噂と超常が趣味の、自己愛性人格障害者です。だから、何を言われても、答えられないのに、平気なのです。そういう次第なので、楽山の、インテリ気取りの、大仰な言い方は、ことごとく芝居です。楽山は、いつも、寄せ集めの口を持ってきて、詭弁に悪用し、汚物にしてしまう人です。
 
 

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                汚物
 
 
(2021年04月02日、同日一部修正)
 
 
 大人の教養TVで、幸福の科学について解説していた
 2021年04月01日 幸福の科学とは何だろう?ブログ(楽山)
 http://mmknky21.blog.jp/archives/9095942.html
 抜粋して批判。
 

*評価
大人の教養TVの動画について、アンチHS界隈では高評価する人もいれば、事実認識に関して不正確なところもあるとしてダメ出ししている人もいた。
ちなみに自分はどうかといえば、両者の間をとって、外部の人の解説としては上々の出来ではないかと思いつつも、不正確な部分についてはもう少しなんとかできたのではないかと惜しむ気持ちもある。

 
自分は中庸だ、自分は他とは違うんです、という、楽山の気色の悪い丁寧語です。だまされないようにしてください。「上々の出来」「不正確な部分」・・いずれも、根拠を示していません。「惜しむ気持ち」・・嘘だと思います。根拠は、約2年にわたる楽山批判です。
 

*広報チャンネル
幸福の科学」広報チャンネルは、今のところ、この件については沈黙しており、何らの動画も発表していない。宏洋氏の動画には必ずといっていいほど反論するのだけども、今回はそれはしないのだろうか。もし他者を巻き込まぬためにそのような判断をしたのだとするならば、それは賢明な判断だと思う。

 
楽山は、正当な批判も反論も成り立ったことはありません。根拠は、約2年にわたる楽山批判です。楽山は、無反省、無責任、無責任の正当化、自己愛性人格障害、無神経、無理解、高等感情の鈍麻、嘘と詭弁、などの、卑怯な言い逃れと、いちゃもんしか書けない病質者です。危険です。
 
 
(2021年04月02日、追加)
 
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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