ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

無自覚者楽山

 
  無自覚者楽山
 
 「背徳者」ジッド著
 2021年07月06日
 http://mn266z.blog.jp/archives/29708390.html
 
 
楽山の文章は、大方、醜いのですが、今回は、特に、吐き気を催すような自己満悦の腐った臭いがします。どうしたら、人間、ここまで、厚顔無恥になれるのでしょう。
 

*実感したこと
「背徳者」の再読終了。
前に読んだときは病身の妻にひどい仕打ちをする主人公はエゴイストで嫌な奴ではあるが背徳者というのは大げさだと思ったり、「狭き門」「田園交響楽」と比べたらちっとも面白くないと感じたのではあるが、今回キリスト教についてある程度の知識を仕入れてから読み直してみたら、本作には同性愛、無神論、棄教など宗教的タブーに触れる記述が溢れていることや、ヨブ記との関連も示唆されていることもよくわかり終いまで興味を持って面白く読めた。

 
楽山は「キリスト教についてある程度の知識を仕入れて」などいないと思います。楽山が知識と呼んでいるものは、楽山という自己愛者のフィルターを通して捏造された曲解と妄想に過ぎません。人間らしい心を育て損なったサイコパスの訂正不能の悪だくみが続きます。
 
楽山は「同性愛、無神論、棄教など宗教的タブーに触れる記述が溢れている」ことが面白いのでしょう。他者の罪を面白がる楽山は、溢れるほどの自らの罪と偽善には、全くの不感不応であります。楽山は、いつも、人のことを言い、人生で、一度も反省などしたことはないと思います。
 
楽山が、別の記事で言ったことですが、まさに「死体に群がるハイエナ・砂糖に群がるアリ・炎上に群がる物申す系」の典型が楽山であり、いわゆる荒らしなのです。ゴミ箱を漁るように、他人の弱みを探して涎を垂らしているのです。
 
今も、またしても、キリスト教を、知識もなく、好きなように、ディスりたい楽山の凶暴な悪意が、全開のようです。サディスティックな興味を持って読んだのでしょう。楽山が、キリスト教と信仰に触れえないのは、反キリストの宿命でしょうか。
 

西洋文学を理解するにはキリスト教の知識が必要だというけれども、これは本当にその通りであるらしい。もちろん自分は本作を完璧に理解したというつもりはないが、それでもキリスト教を全く知らないより、ある程度の知識はあった方がよいというのは実感できた次第である。

 
楽山は、何文学も理解していないことが、ずっと表れてきたのです。楽山は、キリスト教と信仰を全く知りません。それで、知ったつもりの偏見と妄想で語るから、批判されることになり、どういう自尊か知らないが、今も「知識はあったほうがよい」などと知ったかぶりをする嘘吐きです。
 
体質的な恐ろしい因業で、自らの醜さに気づかない楽山の醜態は、何事もなかったかのように、前と同じような、知識人気取りの文章を書いてくる、という症状によって、不治を示しています。それを、真に受けられては困るので、一つ一つ否定してゆくのが、批判目的となっています。
 
正常なら、ある程度批判されると、なぜ、そう言われるのか、自分を振り返るものですが、そういう正常な精神の機能を、楽山は、全く持っていないようです。人間性における欠陥が自覚されないと、ここまで、執拗に、無駄な攻撃をすることになるという精神病質の症例であります。
 
楽山の知識は偏見と妄想であり、楽山の実感は見栄張りと自尊過大からの虚言であります。これほどまでに、醜くなる人格が、楽山の自己愛性人格障害の証拠となってきたことさえ、楽山は無視しているから、また書いてくるのです。
 

*生き難さを感じる人
話は少し変わるが、人は死と向き合う経験をすることによって、限り有る自分の人生をより充実させようと努力するようになる場合もあれば、生の無意味さを思い知らされ何事にも打ち込めず虚無的、冷笑的になる場合もあるものだが、本作の主人公は後者寄りに描かれているようだ。

 
楽山は、どちらでもなく、つまり、充実もせず、虚無的な自覚もなく、悪意によって冷笑し、人の嫌がることを、わざとしてくるサイコパスであります。このような人は、人に関われば迷惑にしかならないので、被害の経験者として、全否定を病質人格に向けるしかありません。
 
楽山は、公開記事など書かず、一日中、鏡に向かって、なんて美しいんだ、エヘヘ・・と笑っておればよいのです。楽山という人物は、整わないだけでなく、文章を見るたびに、その歪んだ性根が表れて、実に、気色悪い、変態と言っていい人です。
 

これは純文学の主人公としてはよくあるタイプではあるが、自分はやっぱりこういう人物はどうしてもすきになれない。

 
楽山は、純文学を語りたいのでしょう。自分は純文学を知っていると言いたいのでしょう。この高慢こそが、ナルシストであり、その実質が、全く表れて来ず、代わりに、小学校レベルの幼稚な駄々だけを捏ねているのが、楽山です。
 
小説家のことを、「純文学・・よくあるタイプではある」・・こう言ってしまう人が、評論家気取りで、その精神で書いた文章は、小学生よりも、偏った無反省の自慢となれば、読むたびに、鼻が曲がりそうです。悪臭の虫、楽山、こういう人に関わると、人格水準が低下します。
 

ただ本作の主人公は他とは異なる特別な自分に得意になっているナルシストではなく、自分の異質さを持て余し生き難さを感じているらしいところには気の毒ではあった。本当に個性的な人は、その個性の強さに優越感を持ち得意になるより、他と違うことを重荷と感じ苦にすることが多いのかもしれないと思う。

 
「特別な自分に得意になっているナルシスト」は、自覚だけの妄想屋として、言うまでもなく、楽山が典型です。人間が、いかに見苦しくなるかという小説でも書こうというなら、楽山は、そのモデルになるでしょう。
 
楽山は、他者を、「気の毒」と言いながら、性懲りもなく、暗に、ヒーロー気取りで自己満悦しています。「個性的な」ために「重荷と感じ苦にする」・・などと言っていますが、楽山は、個性的なのではなく、病気です。楽山は、関わる人を、生き難くする人であり、百害あって一利ありません。
 
どうしたら、人間、ここまで、厚顔無恥になれるのでしょう。ボクはできるんだ、できるんだ、インテリなんだ・・的な自己満悦は、批判と揶揄の対象になるだけであり、食物が不味くなる類です。
 
 
私は、学問も、純文学も、分かっているとは言えません。その分、文章を書くことには、謙虚にならざるを得ません。それを教えてくれたのが信仰であります。文学も信仰もを全く理解していないのに、理解したふうを装う高慢な者には、最低の評価すなわち全否定の批判しかないのです。
 
楽山を放っておいても、私は、詭弁屋の楽山に影響されることはないでしょう。しかし、楽山の丁寧語とインテリ気取りにだまされた人から、楽山ブログに、優しいお人柄ですね・・というようなコメントが付くこともあったので、楽山の正体を周知するために批判を続けています。
 
 
 
 権威におもねらないこと(『漱石全集 第十五巻 続書簡集』)
 2021年07月06日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 http://mmknky21.blog.jp/archives/10145408.html
 
 
あたかも、反骨であるかのようなタイトルですが、楽山には、義という骨も、心という温度もありません。ただ、自己正当化に酔っている訂正不能の病的ナルシストに過ぎません。
 

*心の自由
前記事を書くために、漱石の書簡集を調べていたら次の文章を見つけた。

即ち君の様なものを私の力で私と同意見にする事を好まない。然し君に相当の考えと判断があって夫が私と同じ帰趣を有つてゐるなら已を得ないのです。
(『漱石全集 第十五巻 続書簡集』夏目漱石岩波書店、昭和51年、p.415)
* 旧字は新字に改めた
 」
これは本当にその通りだ。自分は妄信するのもされるのもいやだし、心の自由、独立性は大事にしたいと思う。

 
誰か「同意見に」しようとしたのでしょうか。また、楽山は、「心の自由」などと言っています。そして、引用しては、自分の都合のよいように曲解して、自己正当化に悪用します。理解ということを、一度もしたことがないのかと思います。自分を見ないからでしょう。
 
キリスト者は、神を決めつけたりしません。楽山は、神をいないと決めつけてきました。楽山の言には、全く根拠が無いから批判しているのです。楽山は、神を、存在か不在かという2進法で決めつけでしか考えられない狭量なのです。
 
つまり、楽山は、知ってもいないのに、知っていると言い、知識を得たと言い、かつ、キリスト信仰を、根拠なく、妄想的に否定してきました。楽山こそが、他者の自由と独立性を侵しているのです。それを、指摘しても理解せず、自由などと言ってくるのは、良心のない我執によるのでしょう。
 

権威主義
でもこれは宗教では通用しない考え方ではある。たとえば、幸福の科学(HS)で、教祖の意見に反対し、異論を述べたらこんな風に断罪されるのがオチだ。
「総裁先生を否定するとは、なんという傲慢さだ。あなたは総裁先生より高い見識をもっているつもりなのか? 総裁先生を超える実績があるのか? 思い上がるのもいい加減にしなさい! 謙虚になりなさい!」
こういう信者は、表向きは「謙虚であれ!」という人の道を説いているとみせかけて、その実、自分の権威主義を押し付けてくるばかりだから始末が悪い。
人の心を救おうとする宗教をつかって、人の心を縛ろうとするなんて、皮肉なものである。

 
いちばん始末が悪いのが、楽山です。証明でもしたかのように、神の不在を決めつけて書くのは、悪口を宣伝しているのと同じです。そして、その決めつけという方法は間違っています。人は、神の存在も不在も証明できません。ただ、信じて仰ぐかどうかだけであり、ゆえに、信仰なのです。
 
楽山には、仰ぐ気も、信じる気もなく、何やら、もっともらしいことを言って、知識人だと思われたいという自己顕示欲しかないと思います。そこに、まるで依存しているかのように、書くことをやめませんが、そのことが、さらに、楽山のインチキぶりを確定してゆくことになります。
 
楽山は、神を、信じないし、いないと思っているが、楽山の言い分は、概念の皮相をいじくり、矛盾だ矛盾だと言い張ってくるだけなのです。それは、概念で、神の存在を語れるという酷い勘違いを表すだけであり、ゆえに、執拗に書いてくることこそ、不治の病質なんだねという証拠なのです。
 
楽山の言は、いかなるアンチでもなく、ただ、聞き分けのない頭で、言い張っているだけの子供じみた譫言(うわごと)に過ぎません。それは、いつも、自己顕示欲を満たすためだけに、インテリ気取りの高慢から言い張るので、もはや、臭くて吐き気を催すものとなっています。
 
こういう、一方的で修正機能を失った者たちによって、キリストは殺されました。いつの世にも、こういう人はいて、信仰にも、宗教にも、人間的共感にも、一貫した理路にも、感動や共感にも、反応できず、縁のない、薄っぺらで中身のない詭弁屋のナルシストが行き着く袋小路なのです。
 
恥ずかしくないのでしょうか、恥ずかしくないのです。恥の感覚と感情がないのでしょう。これも、前から書いてきましたが、全然、変わりません。罪悪感も羞恥心もないからでしょう。知識とかで決まるのではなく、罪悪感をいだけない人は、信仰に縁はないと思います。
 
 

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              腐敗臭
 
 
(2021年07月07日)
 
 
 
  森の叫び
 
霧の酸を散らし
薬の雨を浴びる
森の叫びよ
かつて空気を水を浄化した
森の面影よ
迷い込んで途方に暮れて
蹲(うずくま)る旅人に告げよ
この地は最早(もはや)
旅人を癒す泉も潤いも持たず
刹那の益に流された血と汗と油と
股間を擦(す)り抜けた風の
腐敗の住処(すみか)になるのだと
 
砂塵を防いだ森林は
砂塵によって妨げられる
 
変わり果てる色彩は声よりも叫ぶ
滅びゆく森の最後の叫びは
乾いた砂の咽喉から病んでゆき
木々は虫食いの古文書に記(しる)され
果実は偽りの花押となって落ちてゆき
古びた墓碑が
眠らない屍の埋もれる砂の中に倒れていると
 
(90年代か)
 
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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