楽山の極悪引用
楽山の極悪引用
2021年07月03日
『大川総裁の読書力 知的自己実現メソッド』大川隆法著
幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
http://mmknky21.blog.jp/archives/10111410.html
を批判。
ブログ記事の批判の前に、楽山のツイッターですが
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心機一転★こも楽山
@komo266
先日、『大川総裁の読書力』が話題になっていたので、かんたんな感想を書いてみました
顔文字(にやにやした顔)
https://twitter.com/komo266/status/1411194865942073344
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揶揄しようという気持ちが顔文字に表れていますが、他者のことを言うより先に、何よりも、楽山自身について、読書力は皆無であることが、今までの記事に表れてきました。自分に都合のよい文言を漁っては、引用して、一切の責任を負わない楽山だということは、何度も書いてきました。
楽山には、読解するための理路や、感受するための共感力が、備わっていません。人の読書力を云々する資格は楽山にはないということを申し上げておきます。楽山に反省力がないことが、こういうところにも表れてきます。無反省・無責任では、いかなる言い分も成り立ちません。
楽山が、有名人や、学者など、他者を引用して、書いてくるのを、真に受けてはいけません。楽山は、そういう人を、少しも尊敬しておらず、同格みたいな筆致であり、敬意を払ってもいないのです。楽山の引用は、自己愛・自己中からの揶揄のためであり、悪用なのです。
ここから、ブログ記事の批判に入ります。
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*印象に残ったところ
ツイッターにて、『大川総裁の読書力』が話題になっていたので、どんなことが書いてあるのかと思いチラ見してみた。印象に残ったのは大体こんなところである。
霊言を再開したのは、元会員のなかに大川隆法は霊能力を失ったという者が出てきたからである
仏教を勉強した結果、高橋信次の仏教論は間違いであること及びそのネタ元もわかった
情報量が増えれば、体系化や見切りができなくなる?
速読できる本とできない本がある。
夏目漱石に霊界知識があれば…云々。
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「チラ見してみた」と書いているように、楽山には、他者を云々するときの真摯な態度や動機がありません。自己愛性人格障害NPDの楽山にとっては、他者は、自分より下で、自分を飾る材料に過ぎません。元信者としての切実な動機など、楽山にはないと思います。
なお、楽山は、霊能など微塵も持っていません。何か言えば、破綻し、妄想と詭弁と嘘で逃げるしかなかったからです。それで、苦し紛れに、様々の他者を云々するしかなくなっています。前に記事に書いたと思いますが、霊能者気取りが地に堕ちるとこうなる・・という例でしょう。
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*思ったこと
以下に、上の論点について感想を書いてみる。
どうやら大川隆法が霊言を再開したのは、「大川隆法は堕ちたので、高級諸神霊からの通信を受けられなくなり、霊言はできなくなった」というレムリアのアマーリエ氏への対抗意識のためだったようだ。
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楽山らしく、やはり、超常の霊言がらみです。こういうことしか言えないのは、カルトと同じ穴のムジナ、即ち、楽山が、超常霊能者気取りであることを表しています。地道なアンチたちに袋叩きにされても仕方ない楽山です。知らない名前が出てきますが、気にする必要はないでしょう。
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仏教を勉強したことで、高橋信次の仏教論が間違いであること及びそのネタ元がわかったとしているのはおかしい。大川隆法は時々、HSの設定を忘れることがあるが、ここでは自身が仏陀の生まれ変わりという設定を忘れているのではあるまいか。
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「HSの設定を」忘れずに覚えておいてほしいのでしょうか。楽山は、アンチ気取りですが、今までも、アンチとは思えない超常寄りの発言がありました。恐らく、楽山にとっては、アンチなども、どうでもいいのでしょう。楽山自身が、人の上に立つ教祖気取りの教え方をしてきたということです。
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情報量が多すぎれば、情報に溺れてしまい、かえって決断ができなくなるという見方もあるが、自分には情報量が多いほど、その構造、本質は明確となり、情報の価値判断も容易になるとする見方の方がリアリティはある。
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どっちつかずの、どうでもいいような、楽山の意見?です。多い情報の中に、楽山の言が含まれていないことは幸いです。楽山が絡めば、カルト批判は、自慢話に変わり、真実から遠く離れてゆくでしょう。楽山は、何でも利用するでしょう。人の良心さえも、楽山には、具材なのです。
今までの記事から、「情報量」が多くても、楽山には、そして、楽山からは、「その構造、本質は明確」は明確にはなっていません。生まれてくるのは詭弁だけです。分かるのではなく分かったことにしているだけです。だから楽山の「情報の価値判断」は、デタラメです。
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本には、速読できるものとそうでないものがあるという見解には同意する。本は大別すれば、情報を得るための本と、味わうための本があると思うが、後者は速読向きとはいえないだろう。
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楽山の、ご自慢の、いい加減な読書観?です。だから、速読したつもりで、その真意を曲解して、自己正当化に当てる・・などということが平気で出来るのです。楽山が、何の情報を得るでしょう。何を味わうつもりでしょう。楽山には、我執の我欲しかないのです。
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夏目漱石はスピリチュアリズムの知識を持った上でそれを捨てていたので、もし霊界知識があれば…云々というのは無意味である。
本書には、他にも論点にできそうな箇所はたくさんあったが、とりあえず今回はこれで一区切りとしたい。
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楽山は、ここでも、スピリチュアルにこだわっています。何で夏目漱石のことを、持ち出すのでしょう。お仲間にしたいのでしょうか。自分も、このように語り継がれるであろうと言いたいのでしょうか。見苦しいピエロは、何も見抜けないのに、論点と言い、分かって終わる体を捏造しています。
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*おまけ
としつつも、最後に参考として、漱石の言葉を貼っておきたい。
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つまり、引用だけで、楽山自身は、他に何も言えないということです。能力以上に思い上がった者の、情けない処世が表れています。
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これは大正四年の畔柳都太郎宛書簡にある言葉である。
「
私は死なないといふのではありません。誰でも死ぬといふのです。そうしてスピリチュアリストやマーテルリンクのいふやうに個性とか個人とかゞ死んだあと迄つづくとも考へてゐないのです。
(『漱石全集 第十五巻 続書簡集』夏目漱石、岩波書店、昭和51年、p.440)
」
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楽山は、実は、自分は違うと思っています。でなければ、楽山が、仏様の心が分かるっぽいという立場にならないからです。スピリチュアル漬けと言ってよいでしょう。漱石は、死後について、スピリチュアルを否定しているように思われます。
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さらに楽山日記の記事から、漱石の死生観がわかる文章をうつすとこういうものもある。
まず意識不明の重体になったときのことについては、こう書いている。
「
余は余の個性を失った。余の意識を失った。たゞ失つた事丈が明白な許である。どうして幽霊となれやう。
(『漱石全集 第八巻 小品集』「思ひ出す事など」、岩波書店、昭和50年、p.320)
」
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丈=だけ、許=ばかり・・と読むのでしょうか。いつものように、楽山は、解説が出来ないものだから、説明も書く気にならないのでしょう。自己中に加えて不精な男です。
引用からは、漱石は、幽霊を否定しているので、リアリストという感じがします。空想~妄想屋の楽山とは違うので、楽山が読み取っているとは思えません。個性と意識を失ったなどと、なぜ漱石が言えるかが、楽山には、推測できないのです。
死について、楽山よりはマシな芝居を、漱石は演じているのでしょう。そうすることで、幽霊じゃないと言いたいのか、幽霊の怖さを退けたいのか、そこは分かりませんが、楽山のように、「死生観が分かる」などと、真に受けることは出来ないと思います。
というより、楽山は、引用するだけで、どう評価したかを書いていません。このように、楽山は、大した動機も考えもなく、気安く有名人の言葉面だけをを引用して、悔いることがありません。それで、箔をつけたつもりで、インテリを気取って満悦するのですから、読者には、迷惑でしかないのです。
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スピリチュアルな話にはこうも言う。
「
假定は人々の隨意であり、又時にとつて研究上必要の活力でもある。然したゞ假定だけでは、如何に臆病の結果幽靈を見やうとする、又迷信の極不可思議を夢みんとする余も、信力を以て彼等の説を奉ずることが出來ない。
(同上、p.319)
」
「
自分に經驗の出來ない限り、如何な綿密な學説でも吾を支配する能力は持ち得まい。
(同上、p.320)
」
私がHS会員だったころは、夏目漱石は菩薩とされていたように思うのだが、HS的には今はどういう評価になっているのだろうか。
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假定=仮定、然したゞ=しかしただ、・・でしょうか。楽山は、アンチを気取っていますが、実際には、HSの見なすことに影響されたり、霊言と言ったりして、むしろ、アンチではなく、香具師的なインチキではないかと思うことがしばしばです。
(ネットより)
香具師(やし、こうぐし、かうぐし)とは、祭礼や縁日における参道や境内や門前町、もしくは市が立つ所などで、露店で出店や、街頭で見世物などの芸を披露する商売人をいう。また野師、野士、弥四、矢師[1]とも表記する。
古くは、香具師(こうぐし)とも読み、主に江戸時代では歯の民間治療をしていた辻医者(つじいしゃ)や、軽業・曲芸・曲独楽などをして客寄せをし、薬や香具を作ったり、売買していた露天の商売人を指した。明治以降においては、露店で興行・物売り・場所の割り振りなどをする人を指し、的屋(てきや)や三寸(さんずん)とも呼ばれる[2]。詳しくは的屋を参照。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%99%E5%85%B7%E5%B8%AB
漱石は、幽霊など超常不思議を夢見ることを、信じたり、賛成したりは、できないと言っています。なのに、楽山は、菩薩云々と書いているだけです。何も読み取っていないから、解説がまるで成り立っていない楽山です。いい加減にしてほしいです。
極悪な引用
(2021年07月06日)
選択
ここに二つのボタンがある
一つは
「読み方が悪い」と言うボタン
もう一つは
「書き方が悪かったのでは」と考えるボタン
もし君が書く人なら
どちらのボタンを先に押す
ここに二つの刃物がある
一つは両刃の剣
人を斬るときには自分も斬ることになる
もう一つは片刃の刀
人を斬ることにしか使わない
もし君が斬る腕を持っているなら
どちらを選ぶ
マイナス
マイナスの贈り物が
喜ばれないことは知っている
受け取ってさえもらえないことも
それは後ろ向きの霧の眼差し
踏み付けた霜柱に眠る
後味の悪い生き物だから
しかめっ面の鼻先で飛ばされるか
このようにはなりたくない
とさえ言われるものだ
出口のない迷路から
屈折して飛び出した矛盾だ
でもその成行きに生まれ育って
生きている以上いまさら
プラスのプラグを差し込んで
充電することなどできはしない
急に残された世界で神妙になったりなど
子供のように従順になって
笑って見せたりすることには
昔から失敗してきたから
美しいと呼ばれる朝と朝が来るときにも
沈んでいった夕暮れの足跡を
足音を求めるばかり
腹を空かした犬に
パンのかけらをくれてやっても
犬の暮らしを知ることはない
名残惜しい我が身の一日と一日
そうやって生死の悔いの狭間で
沈んだ日々が朝の中で
割られた薄氷のように
覚めてゆく
(90年代か)
楽山のツイッターですが
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心機一転★こも楽山さんがリツイート
現代ビジネス
@gendai_biz
·7月3日
〈私たちは、自分が知らず知らずのうちに持っている思い込みをもとに、それに合う事実を無意識に選択して認知するからです。そして、無意識に選択した事実を頭のなかに取り込んだうえで、「ああやっぱり自分の思っている仮説は正しいんだな」と自分の信念を強化します〉
午前7:14 · 2021年7月3日
https://twitter.com/gendai_biz/status/1411085954324987904
<
引用元を批判するつもりはありません。他者の言を悪用する楽山を批判します。
楽山は、「知らず知らず」ではなく、「事実を無意識に選択」するのでもなく、故意に事実を選択し曲解して、「選択した事実を頭のなかに取り込ん」で、信念の強化ではなく、偏見と妄想を捏造して、自分は正しいと酔い痴れるのです。
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
ツイッター:
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
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