ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の自己正当化2

 
  楽山の自己正当化2
 
 『死なないつもり』横尾忠則
 2020年06月23日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25268829.html
  を改めて批判。
 
 
気に入らないことは全部無視して忘れて、自己正当化をせずにはおれない楽山の体質が表れています。自己正当化に、有名人や学者の言を利用して、都合の良いことだけを受け取ってゆく生き方だから、言動の、いたるところに、現実逃避と、真実から目を背けてゆく姿勢が表れてきます。
 

タイトルが微笑ましく、面白いと思ったので手に取ってみた。内容は芸術や人生についてのエッセー集であり、明るく前向きで楽天的な話題が多い。タイトルから、「死」や「老い」について書いてあるのだろうと思ったのだが、いい意味で裏切られた気分。
著者のものの見方は、自分から見るとすごく新鮮だ。たとえば、世間的には「飽きっぽい」ことはよくないこととされることが多いが、著者からすれば「飽きるということは、自分を守るためにも、自由になるためにも必要なこと」(p.59)だという。たしかに、飽きっぽいとは、一つことに囚われず自由だ。

 
飽きっぽいのと、故意に無視するのとは違います。人の言うことを無視して、それを、囚われない生き方と思ってしまうと、本気で裏切られ敵対され、人間をやめることになるでしょう。自由を取り違えた楽山が、また、自己中をさらしています。
 

また著者は「理屈をこねないで、無頓着で暮らすのが一番です」(p.203)という。その理由は「『なぜ』に答えるためには、物事を理屈で考えていくことになります。それを繰り返すと、どんどん細くなっていって身動きが取れなくなる」(p.202)からという。これは耳に痛い話だが、それだけによく分かる。

 
「なぜ」には、情緒的動機もあります。かつ、楽山の理屈は狂っています。つまり、理屈だけではなく、人間としての心をもって考えないと、楽山のように字面だけの小理屈になって、嘘と詭弁で、自己正当化しながら自分を慰めるだけで、人生を渡れなくなるでしょう。
 
また、無頓着がいいと言っても、楽山がしている無視とは違いますし、自分の仕出かした悪と偽善を、自分の非を、忘れてゆくような無反省になったら、成長と進歩がなくなり、荒廃した人生を送ることになります。今回も、自己正当化の癖が抜けないようです。楽山の腰は抜けたままです。
 
反省する気がないために、このように、他者の意見や人生観や書籍などから、都合の良い言葉だけを拾って来ては、自分はこれでよいと思い込んで、自己正当化し続けてきたのが、楽山の生き方なのでしょう。自己愛の我執から逃れられない楽山です。いずれは、100%否定される日が来ると思います。
 

「老齢になると自然に欲望も執着も消えて、/好きなことだけが残っていく。/隠居の本当の意味は/好きなことで忙しくすること。」(p.127)というのは、理想的な年の取り方だ。三浦綾子のエッセーで、認知症になった老クリスチャンが、昔のことはみんな忘れてしまいましたがイエス様のことだけは忘れませんと言っていたという話が、ずっと記憶に残っているのだが、この話とどこか通じるところがあるようでもある。

 
救いを忘れないのと、自我に執着するのとは、全然、違います。ここでは、キリスト者の例を出して褒めていますが、本質は、反キリストであることが、今までの言に表れてきたのです。宗教も人生も、おもちゃのように、自分が即席に楽しめることだけを是としてきた楽山です。
 
だから、無反省に、こういう白々しいことも書けるのでしょう。学ぶ姿勢がなく、利用する姿勢しか持たないと、こうなってしまうということです。都合のよいことだけを、乞食のように拾っては語っておれば、いつか、忘れている都合の悪いことが、災いとして、まとめて迫る時が来るでしょう。
 

自分は悲観的な面があるので、長く生きるほど辛い記憶が積もり、圧し潰されそうな気分になることもあるので、年を取るほど純化されて好きなことだけが残るというのはすごく憧れる。

 
楽山は、しんみり悲しむことが出来ない人だと思います。悲観的とか負の感情を表現したり、反省という言葉だけ使っていても、その発言が記事の流れや文脈と一致しておらず、言葉だけであり、実際には、非を認めることがありません。
 
それで、根拠もなく「年を取るほど純化されて好きなことだけが残る」という文言を、そのまま受け取って悦ぶのです。総て自己中心からの他者の発言の悪用としか思われない楽山の文章です。
 
「圧し潰されそうな気分」になることもないままに、安穏として鈍化するだけなら、押しつぶされる時が来るのを、気づきようもないでしょう。最後の圧力は、肉体的か、精神的か、分かりませんが、恐らく、想像を絶するものだろうと感じます。
 

何事かを極めた人物の言葉には深いものがあるというけれど、本書を読んで本当にその通りだなと思った次第である。

 
そして「何事かを極めた人物」と、べた褒めしても、本を読んだ感想でも、自己中の欲望に強引に当てはめて言っているわけで、楽山の発言において、深みのない特徴として表れてくるために、信用できない人物なのです。こうはなりたくないと思っています。
 
その通りと言いながら、身勝手な解釈で、見習うことも出来ず、極めることも出来ず、流れに任せて、罪の報いが押し寄せてきて、その深さを教えられるのでしょうか。その時、楽山の顔は、膨らむでしょうか、しぼむでしょうか。果てというものを、自己愛のために、全く見ない楽山です。
 
 
信仰は、神という、不可知ながら、絶対正義の存在を知り、人間が、神の前に、自らを低くすることで、正直に、非を認め、罪を認めて、反省し、悔い改めながら、癒されて成長する道であります。
 
その心の器という感性が、まるで見られない楽山は、信仰に対して、条件を付けたり、褒めたり、けなしたり、悪意をもって対したゆえに、全く主体的な説得力を持ち得ない迷路の住人から、恐らく、楽山の大好きな魔道の徘徊老人となってゆくのです。
 
しかも、自尊だけは高いために、厚かましく、執拗に言い続けるので、きわめて迷惑であり、福音伝道の妨害者として、批判を向ける対象でしかなっています。批判を続けることに意義があるのは、できることをする、という教えによるのであり、それ以上は出来ないという実感によるものです。
 
 
 楽山の偽善性・・再録+αです。
 
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。理路が常識的にも浅く、破綻しがちであることに気づかない。
 
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が全く出来ない。基本的に訂正不能である。自己愛性人格障害の可能性。特に批判に対して不感不応なのは、理路が理解できないからだろう。
 
深い情感がなく、共感性がない。後悔することがなく、罪悪感、羞恥心がない。世辞と社交以上の、議論や交流が、できないし、する気がない。
 
ボンヤリ言語:曖昧で婉曲的な言い方をして印象だけでも刷り込もうとする。
ボンヤリ言語の、曖昧な筆致でごまかしながら、書き続けて、書き続けて、偏見を刷り込む。
 
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の反省言葉。やさしさ芝居。柔和芝居。
トホホ言語と芝居で、謙虚を装いながら、同情を誘い、好感を得るだろうと、自己満悦する。
 
アドラー心理学の宣伝をしていたが、それが抜けずに、自己中が表れてくる。HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
 
反キリストである。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。聖書を字面だけで読んで、理解したと思い込んでいる。成長がなく、幼稚な疑問のまま、止まっている。聖書や、他の文章も、心で受け取る、ということがない。文章の、心無い字面(じづら)の皮相を、いつも、こすっているだけ。
 
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無で、発言に説得力がない。対話形式とか、記事の体裁を変えて書いていましたが、独り芝居を書いても無駄なのです。
 
さらに、政治的には、右翼思想に傾倒しているようです。人の命を粗末にして破壊をもたらす戦争が好きなのでしょうか。右翼青年だったのでしょうか。A級戦犯に賛同しています。右翼思想と、カルト思想とは、自己愛・自己中という点で、接点を持つのかもしれません。
 
※ 
既に、ある程度、そろってきて、資料となっている "楽山の偽善性" については、今後も楽山の記事によっては加筆修正して、再録することになるでしょう。
 
 

 
自己愛性人格障害NPDの人と、交流してはいけません。NPDは、こちらの言うことを受け取っていません。ちゃんと聞いているという芝居をしているだけで、理解力はないと思ったほうがよいです。いくら説明しても、同じことを何度も言ってきます。
 
NPDは自己中なので、嘘も平気で吐いてきますが、それよりも、これは前に反論したじゃないか、説明したじゃないかと、自分がイライラし始めるのを自覚したら、しかも、それが、繰り返されるようなら、相手がNPDである可能性を考えるべきです。
 
こちらは、楽山の書く文章に逐一批判を書いています。楽山が、それを無視していいと思うのは何故でしょう。楽山は、今も個人の自由だと思っているのかもしれません。何度も言ったのに、未だに、自己中と自由の区別がつかないのです。
 
つまり、知性と情性が大人として発達していないからです。自己中と自由の区別もつかないのです。そういう意味で、楽山は、知恵遅れなのです。このような人は、一人前の社会人として生活することは不可能だと思います。
 
議論がどうとか真実追求がどうとかの問題ではありません。精神衛生の問題なのです。病的自己愛者を、うっかり相手にして、徒労と疲労だけが続けば、こちらの人格が破壊されます。NPDとの無駄な言い合いは、きっぱり避けて、心の健康を守るために、楽山に関わらないでください。
 
 
※ 
 
たとえ孤独のうちにいても、人間らしい感性と分別があれば、自然を見て、また、メディアを通して、温もりと潤いのある人生を過ごすことは可能です。
 
その恵みを、人生の早期に放棄して、自己中に固まってしまうことのないように願っています。
 
 

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             生きながらに滅びゆく者
 
 
(2020年06月30日)
(2021年07月16日、再録+)
 
 
 
  もういい
 
電柱に凭(よ)り掛かり
地べたに腰を下ろして
膝を抱えて坐っている
ときに項垂(うなだ)れ
ときに遠くを
暮れ泥(なず)む空を見遣(みや)りながら
少し脹(ふく)れっ面の疲れた様子で
ジーパン姿の若さのまま
書きかけて止(や)めた文章の
最終行に背を向けて
もういい は いつも坐っている
 
 
  夜の切り口
 
夜に小さい傷をつけておいたのは私
伝言を刻み
遺言さえしたためたつもりで
死んでも星にも
星屑にもなれないけれど
空を青く見せている
大気の塵の一つぐらいには
込めたいものがあって
静けさと闇のうちにと
明るい電灯の下で
そっとペンを下ろした
 
薄っぺらなカーテンの縫い目の間から
朝日が星のようにきらめいている
と見えたのは視線が動くからで
日の光はまたたきも明滅もしない
射るように貫いてくるばかり
あんなに明るかった
つけっぱなしの電灯が
色に過ぎないほど褪せている
朝に引き渡された
私に傷をつけておいたのは夜
 
 
(90年代か)
 
 
※ 記事と、詩のようなものは、年代からも分かるように、直接の関連はありません。ただ、少しばかりテーマの類似を考えて、詩のようなもののほうを過去作から選んではいますが、私の感慨に過ぎず、テーマと完全に一致しているわけではありません。
 
 
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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