ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の妄想自意識

 
  楽山の妄想自意識
 
 「キリスト教に関する来訪者の声」を読む(2)
 2021年08月31日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/30318550.html
 
 
何も知らず、何も理解していない楽山が、また、知ったかぶりをしています。テーマについて、直接、何も語れない楽山は、また、人の口を利用して、キリスト教を、おとしめに来ています。
 
それぞれのリンクは省略します。悪魔性の楽山の文章が批判対象です。
 

*神
このやりとりをみると、「神」についての考え方はさまざまあるのだなと実感する。「イエスは神である」といわれても、さほど抵抗を感じず拝むことができる自分は、どうやらいかにも日本人らしい日本人であるようだ。
・「クリスチャンの少ない日本」

 
引用(省略)は、クリスチャンが少ないことが書いてあります。遣り取りについて、楽山は、完全に傍観姿勢です。入っていって何かを語ることが出来ないのだろうと思います。楽山が語っても、いつものように、楽山の空想の中の、辻褄合わせだけの屁理屈になるからでしょう。
 
「「神」についての考え方はさまざま」といって、楽山にとって、どうでもいい神を、広めようと誘導しています。キリストについて、神について、暴言を吐き続けるのは、毛ほども信じておらず、真面目に考えていないからです。日本人どころか、人間らしさも、どこかに捨ててきたのでしょう。
 

*圧巻
ここでは聖書翻訳、人の子の意味などについて語られているが、もしイエスが、ここで語られているような意味で「人の子」といっていたのであれば、かたじけなさに涙こぼれる心持ちがする。
またこの頁を読むと、聖書は一言、一文にも深い意味が込められていて決して疎かにはできないというのは本当だと思える。聖書には学ぶべきことがたくさん詰まっている。
・「批判の客観性、新改訳の問題、人の子」

 
エスが、自身のことを「人の子」と自分を言っていることに、楽山が「かたじけないさに涙こぼれる」と言っているのは、イエスは神ではない・・と思っているからで、悪意ある皮肉です。したがって、そのあとの、聖書の褒め言葉は、嘘だと思います。書けば悪意が漏れ出てくる楽山です。
 

*進化論と創世記
この話題は、生物学者としての将来を嘱望されていた若者が、進化論と創世記との矛盾に悩み、生物学の世界から去っていった例もあるというドーキンスが書いていた話を思い出させるものがある。
創世記の記述は数千年前の人々の考えであり、現代科学と異なっているのは当然なのだから、数千年前の人々の考えを絶対化したり、現代科学と合致するようにこじつける必要もないというのはその通りである。
・「進化論と聖書の創世記」

 
創世記のことが史実かどうかについては、私は、分からない箱に入れて保留しています。そのことが、絶対の創造主である神と、救い主であるキリスト・イエスを、否定することにはなりません。分かって信じるのではなく、魂の救いを与えられて、それが生きる理由になっているからです。
 
楽山が絶対化しているのは、楽山自身であります。楽山のほうは、"いい加減に信じる" ことを教えてきました。そのような考えは、自分は、中立ですから・・と、かっこつける楽山ならではであり、ならば、宗教にも信仰にも関わるな・・と言いたいわけです。
 

*予言のトリック、意味づけ
恥ずかしながら、自分は何にでも意味づけしたくなる性質である。何かの拍子に「あの出来事には、こういう意味があったのだ!」と直感して、いま自分は真実に気づいたと興奮してしまうのだ。人の脳は、何でも目的論的に受け取ってしまうようにできているというが、自分はまさにそれだ。
予言、聖書の暗号といったオカルトの類は、こういう人の脳の弱点を突いてくるので注意が必要である。
・「予言、聖書の暗号」

 
まず「何にでも意味づけしたくなる性質」は、間違っているのです。そこが、楽山の出発点ならば、話にならないのは必然です。今まで、楽山は、直感も直観も真実も、指一本触れた跡がないのです。いつまで高望みして、しかも、それが成っていると勘違いしているだけです。
 
そういう楽山の脳の弱点は、正常な人の脳と心を破壊してゆく作用があるので、注意が必要です。楽山には、理路も、目的も、論も、ありません。楽山は、快楽追求だけで、偉そうに書いてくる無責任と無反省の人で、それ以上の、何物をも、持っていません。
 

*信仰とは?
「信仰とは知らないことをまるで知っているかのように確信すること」とは、なかなかに辛辣な言葉だ。とはいえ、ある宗教の教祖を崇拝する者が「私は正法を信じているのではありません。これは事実なんです」と断言するのを聞いたことがあるので、この言葉は辛辣ではあっても一理あるとは思う。信者は信仰熱心なほど、こういう思考に陥りがちではある。
・「信仰批判ですか」

 
信仰は「知っているかのように確信すること」ではありません。知らないことは知らないと言い、分からないことは分からないと言うだけの、神の前の正直さを養うことです。楽山の言は、こちらの言うことを無視して、こちらを悪者に仕立て上げてゆく落とし穴です。陥っているのは楽山です。
 

*棄教という救い
「信仰を捨てたとき、わたしは救いを見いだしたのです」という言葉は胸にしみる。
これは多分、信仰であっても執着すれば苦となるということなのだろう。「私はこの宗教を信じる」という心境はまずまず平和だけども、「私はこの宗教を信じたい、信じなければならない」という状態になれば、これは執着であり苦であるから、心の解放を望むなら、たとえ信仰であってもそれに執着するのは止めた方がいいということになるのだろう。
・「信仰批判ですか(2)」

 
このように、信仰を、"執着するもの" という偏見に執着しているのが、楽山です。その結果、楽山を聞いたものに、苦しみだけを与え、心の解放から引き離し、楽山の奴隷にして、楽山が勝利の気分に酔い痴れたいだけなのです。これが、自己愛性パーソナリティ障害NPDであります。
 

ユダヤ人から見たキリスト教
ここではキリスト教徒の中からユダヤ人が消えていった理由について推理されている。
この問題については、イエスの死後、イエスを信じる者たちは大きく分ければ二派あり、エルサレムを出て異邦人に伝道するパウロたちと、エルサレムに残っていたユダヤ人たちがいたが、後者はローマとの戦乱に巻き込まれて滅び、前者は生き残ったためだという話は読んだことがあったが、ここで書かれているように偶像崇拝の考え方が大きく影響したというのも説得力がある。
・「結局、教条主義?」

 
偶像崇拝は世界の宗教に今もなお蔓延っています。その偶像の中で最も悪質なのは、自分信仰です。楽山は、自らが、中立、中庸、冷静、"バランス" が取れている、と思い込んでいますが、実際は、独自の主張を組み立てることが出来ないために、人のことをとやかく言っているだけなのです。
 
つまり、楽山は、自意識を信じ込んで訂正不能となって、人に耳を貸さなくなった自己愛性人格障害の自分信仰者なのです。"バランス" は、楽山の自我の中だけで成立している妄想であり、実際には、学習せず、成長しなかった楽山には成立しようのないものであります。
 
楽山の知能は決して高くないと思います。それは、書いてくる文章に表れています。自覚がないから、書き続けられるのです。むしろ、知能がゼロであったなら、書かなくて済んだでしょう。書くことで、さらに、自らの知能と情感を、自ら破壊して、非人間になってゆくのでしょう。
 
楽山は、ふつうの人ではありません。変質者であり、根深いアブノーマルな体質です。楽山から身を心を守ってください。注意・警戒してください。相手にしないでください。関わらないでください。近づかないでください。
 
 

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                滅裂・無根拠
 
 
(2021年09月01日)
 
 
 
 夜の顔の循環
 
ぬるい夜
ぬるい湯に
爛れるばかりの
阿片の夢に
流れ出しては崩れていく
この顔を直接
一生見ることはない至福よ
何のために
どのようにあり
あるいはあったのか
 
過去は現存しない
死んだ果実の名残を求めて
臆病な浸出が
皮肉な川を渡り
また一つ色褪せて
薄くなった肌をなぞっては
しみる
痛みから
否応もなく
犠牲になって
消えてゆく
それが現存する
唯一の夜
 
 
ただ私は、人の悪意から遠ざかれたとしても自らの悪意からは遠ざかれるものではなく、そのために罪に打ちひしがれ「私は打ちひしがれるために生まれたのですか」という裸の嘆きのあるがままの姿で、限りある命の終わりを迎える前に「自分で自由にやっていく」ことの不自由さを体験したことを福音として受けとめるほかはなく、永遠の同伴者・永遠の友・主イエスキリストによって表わされた父なる神の愛にこの魂を委ねるほかはないのである。
 
私という矛盾があなたの手の中にありますように
私というウソがあなたの手の中にありますように
あなたの真実が私の中に与えられますように
私の病気があなたの手の中にありますように
私の健康があなたの手の中にありますように
私の命があなたの手の中にありますように
私の寿命があなたの手の中にありますように
私の生も死もあなたの手の中にありますように
私におとずれる幸いも災いもすべて
あなたから与えられますように
私の不幸と幸福があなたの手の中にありますように
私の喜びも悲しみもすべてあなたの手の中にありますように
あなたのお叱りと救いが私とともにありますように
私の信仰と希望と愛があなたによって導かれますように
私の受けるべき盃が
たとえ苦くても甘くても
あなたから与えられますように
いつの日かあなたの御手にいだかれて
眠ることができますように
わが魂を御手にゆだねます
イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
 
 
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