ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の無理の路2(2)

 
  楽山の無理の路2(2)
 
 『シルバー・バーチの霊訓(一)』
 アン・ドゥーリ―編、近藤千雄訳
 2020年08月11日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25843065.html
  を改めて批判。
 
 
つづきです。楽山の、ハッとさせられるものが皆無の記事です。
 

*愛と利己主義
この言葉は、霊界における霊たちが、地上の人々の手助けをしたく思うのは、利己主義と言われればその通りかもしれないという流れからの発言である。

愛というものは往々にして利己主義に発することが多いものです。
(同上、p.96)
 」
自分がこの種の考え方を知ったのは、マーク・トウェインの『人間とは何か』でだった。その中では人はどんなに世のため人のためと思って行動したところで、しょせん利己性からは逃れられないとしていた。

 
酷い利己主義と自己中心の、自己愛性パーソナリティ障害NPDである楽山が言っています。決して真に受けてはいけません。
 

たとえば仮に、ある人物が人のために自分の命を捨てた場合、傍目には何の見返りも求めず、人のためにわが身を捨てた純粋な利他行為に見えたとしても、実際にはその出発点には自分の命を捨てでも人に尽くしたいという自己の願望があり、純粋な利他行為とは言えないという論法である。

 
利己主義というのは、ふつう、自分の利益だけを求めるものです。楽山は、命を捨てる、つまり、そこで、いっさいの、物質的精神的利益が終わる行為を、実に軽く、同じ利己主義と見なしたいようです。言葉と意味についての分別のない証拠と言ってよいでしょう。
 
利他の願望は、その人の願望だから利己主義と言いたのでしょうか。どういう理路なんでしょう。何でもかんでも利己主義にしたいのでしょうか。理路にも論理にも理屈にもなっていない。
 
愛が我がままで自己中になりやすいとしても、利益や報酬を求めない行為であるならば、利己主義とは区別されるべきです。楽山の言うことは、成り立ちません。楽山は、いつも、自分を高めて、よく見せようとするナルシスト・エゴイストであります。
 
恐らく、楽山は、深みのある高等感情を理解できないために、無償の愛を理解できず、ゆえに、利他ということが分からないのだと思います。分からないのに書いてくるところが、楽山の病質だと思っています。
 

多くの新興宗教では、世のため人のために生きましょうということは言っても、その根底に潜んでいる利己心まで暴きたてることはないので、シルバー・バーチの霊言はここでも並の宗教よりよほど深いものがある。

 
以前から、呆れているのは、楽山は、自らが、自己愛、自己中からの、無反省、訂正不能、という、少なくとも精神的な、自己愛の利己主義者だということに、全く気づいていない、ということです。自己愛性は、常に自己を高めようとする欲望によって酔っていますから、利己主義なのです。
 

ちなみに竹内均は、上の現実を承知した上で、利他的利己という生き方を推奨していた。人は利己的な生物だとしても、自分だけがよければ他人のことはどうでもよいというのではなくて、自も他も幸福になる道を目指そう、他を幸福にすることが結局は自分の幸福にもなるという考え方だったかと思う。

 
訂正不能の自己愛の病質で、利他から最も遠い楽山が、こういう引用をしても、説得力は皆無であります。
 

自分としては、見返りを求めない無償の愛を実践しようというのはいささか理想主義的に過ぎて現実離れしているし、他をかえりみずに利己的に過ぎれば結局は他だけでなく自分も傷つけるだけになろうし、この利他的利己という生き方が最も現実的であり無難な指針であると思う。

 
利他を理解していない楽山の言う利他的利己とは何でしょう。どこが現実的で、どこが無難なのでしょう。「過ぎれば」云々・・と言っていますが、どうやって過ぎたと分かるのでしょう。基準が書いてありません。とても大事な問題を、いい加減な結論で済ませて満悦している楽山です。
 
相反する意味を持つ言葉の字面を、よく考えもせず安易に合成しただけではないかと思われます。洞察のない者は、言葉を勝手に結びつけて引き寄せて満悦するという特徴があります。
 

*真理を押し付けないこと

これも自分には耳に痛い言葉だ。
自分を改造するのはあくまで自分であって、他人によって改造されるものではなく、他人を改造することもできないのです。
[省略]
私どもは改宗を求める宣教師ではありません。真の福音、霊的実在についての良い知らせをおもちしているだけです。
(同上、p.118)
 」
とある宗教の信者だった自分は、教祖の伝道せよ、伝道せよ…という掛け声に従って、周囲の人々に宗教をすすめてばかりいたのだった。そんなに強引にすすめているつもりはなかったが、それでも周囲の人々からしたらさぞ迷惑なことだったろう。申し訳ないことをしたものだ。

 
改宗を勧める代わりに、楽山のやり方は、いちゃもんの詭弁によってキリスト教をおとしめる、また、丁寧語の曖昧なボンヤリ言語と謙虚芝居のトホホ言語で誘導するという、実に嫌らしい手口です。決して関わらないでください。
 

でも今にして思えば、この教祖は、他人の心は変えられない、変えられるのは自分の心だけだと説きながら、伝道、伝道…と繰り返していたわけで、これはどうも矛盾しているように思える。

 
キリスト信仰の福音伝道は、良き訪れを伝えるという意味であり、変わるのは本人であります。つまり、楽山の「伝道、伝道…と繰り返」す、ということは、「変えられるのは自分の心だけ」と矛盾しないわけです。
 
人の言葉尻を捕らえて、HSか何かの批判をしている体で、宗教全体を否定したい楽山の狡猾な婉曲表現でしょう。信仰は、見えない導きという神秘性と、努力と学習という自主性とが、不可分になっています。人間に、意識して出来るのは、後者であります。
 

他人の心は変えられないといいつつ、他人に信仰を持つように改心を迫れというのは、おかしな話だ。

 
伝道ならば、伝えることであり、迫ることはないのですから、矛盾ではありません。楽山は、言葉の勘違いが多くて、言っていることが、一般的な言論としては、的外れになってゆきます。それは、だんだん、著しくなってゆくでしょう。無反省では、成長しないからです。
 
反省と学習を怠ってきた楽山は、気取りのために、いつも、言論の理路が、ふつう未満で、足りないと感じます。とても迷惑です。こういう人が、無反省と訂正不能になって、好きなように語っているわけですから、及ぼす悪影響も計り知れなくなるので、批判を続けています。
 

他人の心は変えられないと承知しつつも、啓蒙活動も怠らないというのなら分からなくもない。でも他人の心は変えられないと説きつつも、大きな危機が迫っているとして、急いで人々に改心を迫れというのは無茶だし、終末論で煽るカルト臭が強烈にすぎる。

 
むしろ、脅しながらの、救われ妄想信条に、惑わされないことが大切です。楽山のような詭弁と刷り込みによって、霊が分かるっぽい自己愛を満たそうとする悪魔性も、カルトと同じような対処が必要になります。
 

この辺りのおかしさに気づけなかったのは、自分の子供時代には、ノストラダムスの大予言ブームがあり、終末論にさほどの違和感を感じなくなっていたことも原因の一つになっているのかもしれぬ。

 
テレビなどで「ノストラダムスの大予言ブーム」は、70年代~遅くとも20世紀の間だったと思います。それが、楽山の「子供時代」なら、今、楽山は、30~50代ででしょうか。それにしては、文章が稚拙過ぎるとも思います。
 
しかも、自分の不覚と未熟を、今度は、ノストラダムスのせいにしています。本当に、自分の責任を認めない楽山です。くれぐれも、上のほうの、反省、トホホ、などと言う芝居に、だまされないでください。
 

*信仰者と無神論
前の記事で書いたように大川周明の『安楽の門』では、何を信じるかではなく、いかに信じるかが大切だとしていたが、シルバー・バーチも同じような発言をしている。

祭壇の前にひれ伏し、神への忠誠を誓い、〝選ばれし者〟の一人になったと信じている人よりも、唯物論者とか無神論者、合理主義者、不可知論者といった、宗教とは無縁の人の方がはるかに霊格が高いといったケースがいくらもあります。問題は何を信じるかではなく、これまで何をなしてきたかです。そうでないと神の公正が根本から崩れます。
(同上、p.171)
 」
以前自分が信じていた、とある新興宗教では、無神論者や唯物論者は地獄に堕ちるとしているが、このシルバー・バーチの発言が真実であるとすると、ことはそれほど単純ではなさそうだ。

 
まず、楽山が書いているような「〝選ばれし者〟の一人になったと信じている」なら、その人は信仰者ではないということです。
 
無神論者や唯物論者は地獄に堕ちる」・・無神論者や唯物論者は、地獄を信じているのでしょうか。腹いせのような言葉です。言うだけ無意味なことのように思われます。
 
そして、楽山は、単純ではなさそうだ、という言い方しか出来ません。それも、そのはずで、楽山は、他者の意見を字面だけ利用して、心を受け取ることが出来ないのです。楽山にとっては、自他の総ての言論が、霊が分かるっぽい次元の、遊びごとに過ぎないのだろうと思います。
 

特定の宗教を信じ込んでしまうと、この宗教を信じる者は救われるが、この宗教を信じず、否定する無神論者や唯物論者は地獄に堕ちると思いたくなることもあろうが、それは公平ではないし、スピリチュアリズム的な真理にかなったものの見方でもないのだ。

 
まだ「地獄」のことを言っています。「公平ではない」というのは、単純すぎる言葉です。一方、「スピリチャアル的な真理」という言葉は、信じる者だけの不思議言葉です。この二つを並べてしまうところに、楽山の、いい加減さが、また、表れています。説明と根拠が無さすぎるのです。
 

そういえば、とある国民作家は、高僧とされる僧侶と幾人もあったことがあるが、そういう人々よりもむしろこの道ウン十年という職人さんの方が立派な人格を持っていると感じることが多い云々と言っていたそうだ。

 
とある国民作家とは誰なのでしょう、楽山は書かないのです。そして、高僧という言葉で宗教を代表させ、職人さんのほうが立派な人格と、例示の印象操作による刷り込みの汚い手口です。説明と根拠が無さすぎるのは、楽山が、説明も、根拠の提示も、できないからです。ずっとそうなのです。
 

人の霊性というものは、信仰、思想、主義、職業、立場などの表面的なことだけでは分からないものであるし、それだけで分かったつもりになるのは差別主義者くらいのものなのだろう。

 
楽山は、表面的なことに、信仰と思想と職業を並べています。本質において違うと思います。また、職業という言葉は浮いているように感じます。これらが表面的だと言いたいのでしょうか。それとも、これらの表面的な部分を指して言いたいのでしょうか。説明がありません。
 
理路が、言葉の選択が、曖昧で、いい加減で、書いときゃいい、という表面しか持たない楽山です。冷静に書いているように見せかけていますが、こういう粗雑な理路は、乱暴者の特徴です。
 
共通の理解があるわけでもないのに、楽山は、何をもって、表面的と言えるのでしょうか。何も説明がありません。思いついた言葉を、また原始反応で、よく考えもせず、貼り付けて、言い得たと満悦するのでしょうか。
 
一方、楽山という個人について言えば、確かに、自己愛のために、表面的にしか受け取っていないと思います。ゆえに、そういう表面だけで、あるいは、表面という言葉の字面を書くだけで、分かったつもりになり、何やら気取りになるのが、ずっと、楽山の特徴です。
 
本当の信仰者は、分かったと決めつけることなく、人の話を聞きます。むしろ、聞きたいので、ネットを巡ったりもします。そして、切り捨てることなく考えてみます。その上で、分からないことと分かることを分けてゆくのが考える信仰です。
 
もちろん、百害あって一利なしの、楽山やシャロームなどの悪意ある詭弁は、見るたびに、良きものは何も伝わってこないし、無駄に疲れるだけなので、ある段階で、まともに相手にしてはいけないと判断することになります。
 
「差別主義者」とは、どういう差別の意味で、楽山は書いたのでしょう。差別されたと言いたいのでしょうか、何かの種類の人物を指しているのでしょうか、特定の人物を指しているのでしょうか。差別と区別を、言葉遣いにおいて、ちゃんと分けていないようです。
 
楽山は、説明もなく書いて、丁寧語を使っているだけで、自らを、丁寧な人のつもりでいるのです。説明はしないか、できないのに、「分かったつもりになる」のは傲慢だから、批判され、否定され、退けられるのです。先入観だけの差別主義者は楽山でしょう。
 
何を言われても、何も返せないのに、高慢な自己愛ゆえに、なおも居座って、そこから、見下ろしながら、まともなつもりで、ひどい文章を書いて公表し、ごまかしに、トホホ言語で、謙虚芝居をするのが楽山です。
 
 
相手が具体的にいるかどうかにかかわらず、自分が書いていることの説得力を意識するとき、その文章には、双方向への努力が生まれています。楽山のように、自分の言い分を書くだけの場合、説得力を意識せず、その文章は、単方向の自己満足にしかなりません。
 
 

      f:id:stdsts:20211027235012p:plain

             光無き誘導
 
 
(2021年10月28日)
 
 
 
  視線と刃先
 
人ごみは
人ではない
人ごみは
ごみではない
 
知恵をつけ始めた子供が
はじめて手にするナイフの刃先のように
さまよう視線
ときに動きは素早くても
しばしば明確な目標を定めていない
 
目標が定まる刃先に至るとき
切り裂かれる道理が生まれ
無理が生まれるまでは
 
人ごみは人ごみである間
切る道理も切られる無理もなく
情もなく無情もなく
計られる明確さによって切り取られ
分けられてゆく
 
 
  永遠と絶対
 
永遠や絶対を求めたりするのは
それらに近づこうとするのも
人間だけ
 
動物は限りある命を
生きられるだけ生きて果てる
だから動物には
ゆとりはあっても無駄のように見えても
無駄なことをする必要もなく
無駄なことをする時間もない
 
身近なところに
その眼差しにさえ
永遠と絶対に連なる僕(しもべ)
人間も動物であるのに
 
痩せ犬が首を振り振り通り過ぎる
信じてもいい しかし
久遠
 
それは最初から届かないものとして
水晶の遙か彼方に
捨て去ったのでもなく
捨て去られたのでもなく
光の速度で止まっている
見捨てたのでもなく
見捨てられたのでもなく
 
 
 
楽山日記のコメントです。誰かは不明です。
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
コメント欄から抜粋引用しておきます。
 
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて
 自分 正さなくちゃいけない」
「それが出来て 初めて人間だと
 それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ
 保身だけの 卑怯者の君よ
 そんな君は 魅力の欠片もないのに」
「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は
 最大限の償いと 最大限の反省と共に
 開いた出店を 畳むしかないんだよ」
「人間で在り続けるのなら
 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、
これを実践するのは難しいんだよなあ。
恥ずかしながら、自分もそんな風です。
これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
楽山は、人間であり続けることを、拒み続けています。
自分ではなく「人間の性」のせいにしています。
一般化されては、たまりません。
2019年だから、それほど古いコメントではない。
このコメントは、当分、毎回、載せることにします。
 
 
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html