ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

現代の偽善者3

 
  現代の偽善者3
 
 
二千年前のキリストの時代には、偽善者は分かりやすかったかもしれません。聖書のパリサイ人と取税人の祈りにおいて多くの人は、かなり、はっきりと分かるでしょう。尊大で傲慢なパリサイ人と、赦しを乞う以外になかった取税人は、明らかに違っていました。
 
現代のパリサイ人つまり偽善者そしてサイコパスは、そのような分かりやすさを持ちません。現代の偽善者は、柔和な言葉遣いの丁重な挨拶から始まります。
 
現代の偽善者は、誰でも賛同するような話題を用意しています。そして、褒め言葉や讃美言葉で熱心で敬虔な信仰者だと思わせてきます。現代の偽善者が、尊大で傲慢になるのは、何らかの知的な話においてか、追いつめられたときでしょう。
 
宗教、政治、思想、などについて、彼らは、自分が知的に上だということを誇らしげに示します。中身はないのに、評論家のような立場で物を言うでしょう。こちらの話は受け取らず、弁明せず、自分の言い分だけを繰り返します。
 
その上で、じわじわと相手を貶めながら、従うことがベストだということを刷り込んでゆきます。うっかり関わり続けていると、気づかないうちに刷り込まれてゆくのです。彼ら偽善者の言うことが、すべての人に広まったら、いつのまにか、気づいたら、とんでもないことになっているのです。
 
彼ら偽善者の言うことが、何よりも自己中心を土台としていることを覚えてください。けっして自らの罪や過ちを認めず、悔いることがないということ。
 
偽善者の判断は、真実として、良かった、悪かった、近い、遠い、ではなく、策略として、うまくいくか、まずいか、という判断だけなのです。大事なことは、彼ら偽善者の言うことが、聞き手に対して、常に、上から教える態度に終始していることに気づくことです。
 
彼らの言うこととが、世辞の感謝やお詫び以上には、けっして微塵の反省も含まないこと、これらに気づいたら一目散に逃げてください。コメントにレスしないで無視して下さい。けっして彼らの話に乗らないでください。質問も確認もしないでください。
 
話し合おうと思ったりしないでください。説明を求めないでください。詭弁と無理解だけが返ってきます。現代の偽善者は、覚悟の批判者だけが疑い、消耗を覚悟しながら批判する対象です。
 
彼らは、病的ナルシスト、精神病質(サイコパス)、自己愛性パーソナリティ障害(自己愛性人格障害)、病質者、異常者、偽善者、変質者であり、聖書のパリサイ人の、現代文明による進化型なのです。
 
 
現代の典型的なクリスチャンは、相手の本性を確かめることなく、穏やかな話には乗りやすい傾向があります。教会で穏やかで美しい話ばかり聞かされてきたからです。批判禁忌を教会が刷り込んできたからです。現代の偽善者は、そこを狙ってくることを忘れないでください。
 
昔のパリサイ人は尊大で無知でした。現代の典型的なクリスチャンは、そのままでは、だまし言葉と詭弁だけを仕込んできたような現代の偽善者には敵いません。
 
超常信仰から自らが行う儀式的な行為の神秘性を、本気で信じ込んでいた者もいたかもしれません。今の偽善者は、良心がなく、代わりに、丁寧と柔和を装い、意図して、だますことを企みます。批判禁忌を教えられた信仰者は格好の餌食なのです。
 
 

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       現代の偽善者は慇懃(いんぎん)で狡猾(こうかつ)
 
 
(2019年05月24日、同日一部修正)
(2021年03月21日、再録+)
(2022年03月25日、再録+加筆)
 
微塵(みじん)
騙す(だます)
敵う(かなう)
餌食(えじき)
 
 
 
  一枚の写真
 
若い頃の私の顔
写真の中の
とりわけピントのぼけた
青年よ
私はその一枚が好きだった
しかしその微笑よ
お前があまりに狡(ずる)かったので
想い出になることも
死ぬことも許されず
この顔になった
老いへの無知が傍らで狂乱している
かつての青年よ
この顔に対して
私は殺したいほど
抱きしめたいほど両価性だ
 
 
  膏肓
 
横隔膜は病気です
胸がつかえて深呼吸したら
声帯が震えました
それを歌だというのです
腹がもたれて運動したら
筋肉がつりました
首と腰がきしみました
それをリズムだというのです
イメージは病気です
眠れない夜が明けるころ
うとうとし始めた頭を振りました
それを意志だというのです
目をこすり顔を洗い
水が目にしみて
手探りでタオルを取りました
それを狡いというのです
 
 
  黒く細い道(抜粋)
 
昔どこまで続いているのか分からない
黒く細い道があった
どこか人里離れたところへ
向かっているようだった
幾度か足を踏み入れそうになった
しかし早々とその道へ
行ってしまった人を見送りながら
 
本当は人里離れた所で
絵でも描いていたい暗く細い体は
場違いな明るさに
外側から腐ってゆく脳ミソを抱えて
漸く手に入れた紙切れに乗って
随分と長い間
違う感じの人々の場を奪っていた
今になって
あの黒く細い道を行くと体は
内側から腐ってゆく脳ミソを
抱えることになるのだろうか
 
腐る腐らないは道によるのではない
道は踏まれる所に出来るものだ
 
 
 
※ 
 
 楽山のツイートですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
·13分
この場面は、
カルト呼ばわりされたことに対して、
いかにもカルトっぽい言葉使いで反論してて、
思わず吹き出してしまったところです(笑)
これはようするに、
「わたしたち幸福の科学は、愛と悟りとユートピア建設を説く正しい宗教です」ということだし、
ぬけぬけとよく言えるなあ。
午前9:38 · 2021年3月20日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1373071508071796738

 
楽山は、自らの招いてきた事態を全く気にしないで無視する、という、楽山個人の「いかにもカルトっぽい言葉使いで」、反論も出来ないのに、「思わず吹き出してしまったところです(笑)」と書いています。自身の無反省と無責任が招いた不都合を何も気にしていないことが表れています。
 
楽山が、高等感情を持たない病質者らしく鈍麻を表して、揶揄して「(笑)」などと書くのは、自分は正しいから余裕があるとでも思っているのでしょうか。「ぬけぬけとよく言える」ものです。
 
楽山は、「愛と悟り」も知らず、他者の意見に不応で、自らの惨状に不感の、人格破壊的な偽「ユートピア建設」の妄想をいだいている自己愛執着の、気取りだけで他者を揶揄して遊ぶ原始的な自己虫病質者です。自覚が何もないということを、一生、繰り返し表して続けてゆくのでしょうか。
 
楽山は、決して、誰の味方にもなれない人です。
 
今日も、楽山の言葉が、楽山に返って、楽山を斬ってゆくだけの、楽山の人生になっています。
 
 

心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
申し訳ないが、「HSの悪口を書いていながら、HSで取材できると思うな。取材したいなら、HSに対して相応の礼を尽くしてからにせよ」と聞こえてしまう(笑)
それから人権は、人であれば天然自然にあるもので、義務や責任を条件に与えられたり、取り上げられたりするもんではないと思います。
午前11:28 · 2021年3月20日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1373099220597501957

 
楽山は、「申し訳ないが」という政治家の慇懃無礼の口調で言っています。
 
「人権は、人であれば天然自然にあるもので、義務や責任を条件に与えられたり、取り上げられたりするもんではないと思います」・・違います。犯罪者は、明らかに人権を制限されています。現状、最高刑は、死刑であります。つまり、公共の福祉に反しない限りでの人権です。
 
したがって、嘘吐きと偽善の悪行を働き続けている楽山には、人権を云々する資格はないのです。礼を尽くさず、礼の芝居でごまかす丁寧語で、宗教を子供じみた霊と超常の話と未熟な机上の理路の破綻で語って揶揄し、人を欺き続けている楽山は、首を洗って待つしかない立場でしかありません。
 
言い換えれば、楽山は、天然自然のあり方に、真っ向から反しているということです。
 
 

心機一転★こも楽山
@komo266
·4時間
「歴史的資料となるだろう。」とは誰の言葉なんだろう。
ふつうは、本の帯にある推薦文は、他者によるものだと思うのだが、
まさか、まえがきにある著者本人の言葉ではあるまいな? 絵文字(口を開けて笑っている顔)
午後4:18 · 2021年3月20日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1373172117416472577

 
このように、楽山という人は、他者のみっともないことや、自分より劣っていると思う人を見つけて笑いたいだけだろうと思います。そういうことが見つかると、このツイートのようなことを書かないではいられないのでしょう。
 
結局、日常でないところ、つまり、一つは超常の現実離れ、もう一つは、恥ずかしいゴシップが、楽山の唯一の楽しみなのでしょう。楽山は、心からの笑い、例えば、おかしいのではなく、心が温まって笑顔になるようなことが出来ないようになっています。
 
楽山は、あざ笑いや高笑いはあるが、微笑みはない。共感という言葉を使っても、共感の実質がない。辻褄が合ったり、面白おかしかったりすると、感動という言葉を使うが、感動が伝わってこない。反省という言葉は知っているが、反省と言う前と後で、何も変わっていない。
 
楽山は、真摯、真剣、真面目、丁寧、ということを装いながら、その実質が全く見られません。腹の底では、他者を見下げていて、あらゆる不幸を、笑いの種と、芝居の種にするだけで、本気では何も気にしていないのでしょう。しんみりした深い情緒を感じとるセンスがないからだろうと思います。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
楽山は、「反省、謝罪」が「難しい」のは「人間の性」だからと言っています。「嘘」「卑怯」は、「人間の性」でしょうか、否、良心があればないことです。それを、悔いることなく、常習としてやってきた楽山は、まるで予言されたかのように、人間で在り続けることが出来なくなっています。
 
 
 
仏教系の荒らしがツイッターの通知欄に来たようです。
 

ハリツケにされたユダヤ人の罪人を拝んでも救われません。
因果応報を説かない低級な教えです

 
仏教系に、信じてもいないキリスト教を荒らす人がいるとは思いませんでした。抑制できないなら出禁です。真の仏教徒ではないのかもしれません。
 

キリスト教は実に幼稚で、程度が低い宗教だ。(中略)キリスト教という邪教は、この世から除去、根絶、禁止させねば絶対にならぬ。

 
何様かのつもりで言っているようです。キリスト教信仰の深さを知らないようですが、言っても無駄でしょう。宗教を勘違いした妄想的傲慢が、とても臭いです。
 
成熟した大人なら、罵詈雑言吐いても、何の解決にもならないことは知っているはずなんですけど、未熟なほど、感情的に大口を叩きます。そういう分かりやすさだけが長所でしょうか。
 

キリスト教のかたは日蓮正宗寺院までお越しください

 
以上のコメントで、行く人はいないと思います。
ハリツケ(磔、貼り付け)になっているのは誰でしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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