ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

うそのまま3

 
  うそのまま3
 
 ありのままの自分でいること
 (『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著)
 2021-03-27
 http://mn266z.blog.jp/archives/24033176.html
 楽山日記(LD)・・を改めて批判。
 
 
反省・修正をする気がない者は、びくともしないと言いたげに、びくともしないことこそが不自然極まりないところでも、いっそう、我を張ってくるものです。不感不応の症状が、ありのままなら、どれほど現実において有害かということです。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、のぼせ上がります。今までの3年にわたる経過から、いくら飾っても、いくら謙虚や中庸を装っても、既に、数々の嘘や詭弁がバレているのに、楽山は恥ずかしさを感じないのだろうか・・ということに驚くのです。
 
仏様の心が分かるっぽい?と言ったり、発達心理学を心霊の話にしたり、哲学者を心霊学者と言ったり、語っている詭弁が循環論法の矛盾を来たしたり、愚かさを積み上げてゆく自己中心の醜態、楽山は、見た目の文章より、はるかに汚辱の作為に満ちています。
 
楽山は、アンチカルトではありません。霊が分かるっぽい?自覚の、楽山こそが、カルト教祖願望を持っていると判断しています。カルト被害者のふりをしていますが、楽山の言は、嘘と詭弁で出来ていて、どう見ても害毒でしかありません。
 
 

最近は、ありのままの自分でいることをよしとする考え方に共感するようになっているのだが、どうやらこの考え方は随分古くからあるらしい。

このように本能的に自然のままに反応すること、このようにあらゆる道徳的な詭弁や強弁から解放されていること、これが古代の異教徒的感情に一種の威厳を与えて人を感動させるのである。
(『宗教的経験の諸相(上)』W・ジェイムズ著、桝田啓三郎訳、岩波書店、2014年、p.135)
 」

 
嘘吐きが、ありのままでいるのだそうです。楽山は、意地の悪い快楽刺激にしか反応できない人です。そして、人を傷つけても、疲れさせても、迷惑をかけても、悔いることがありません。罪悪感がないからです。楽山のありのままは、詐欺師のそれでしかないのです。
 
嘘吐きをやめない楽山です。飾ることを止めない楽山です。ありのままを善しとすることが、真実に生きることなら、上にあげたような今までの経過は無かったはずです。反省しない楽山の、ありのままは、偽善であり、三文芝居であり、狂気であり、犯罪であり、極悪非道であります。
 
また、嘘を吐いています。「道徳的な詭弁や強弁」というのは、古い形式的な道徳を皮肉った言葉なのでしょう。楽山は、非道徳的で詭弁屋であり偽善者です。詭弁は、嘘の一種であり、道徳に反することです。うっかり受け入れたりしないでください。どこまでも姑息的で無責任な楽山の引用なのです。
 
楽山にとっては、自然のままであることは、道徳から解放され、悪意をもって、嘘を吐き、詭弁に専念して、人をだますことのようです。楽山の本能だから、良しとするのでしょう。このような「解放」?は、他者を犠牲にする凶悪につながります。罪悪感の無い楽山だから悦ぶのです。
 
偽牧師シャロームにおいてそうであったように、理路の崩壊が、さらに進んでいるようです。だんだん、言い張りから、ケダモノの遠吠えになってゆくでしょう。その分、楽山の偽善の証拠が資料としてそろって、批判はシンプルになってゆくでしょう。
 
 

ちなみに、これと似た考えは、佐々木丸美の小説『雪の断章』においてもっと踏み込んだ形で詩的に表現されている。

私は雪の言葉を聞いた。
裏切りがあるから信じ、崩れるから積むのでしょう、溶けるから降るように。
降ることも溶けることも自然の意思で行為は同じ。なぜ積むのが大切で崩れるのが哀しいの? 信じることよりも裏切ることの方がなぜいけないの? 同じ心から生まれたものに正しいとか正しくないとかってそれはどういう意味なの? 
(『雪の断章』佐々木丸美著、講談社、昭和56年、p.120)
 」

 
楽山の、小説を悪用した悪意の逆説です。現実の実態がそうだと言っているのに、既に、ケダモノなのでしょうか、思考も情緒も意志もない雪という自然現象をお伽噺の因果に喩えている小説のセリフを、逆というだけで気持ちがいいのでしょうか、経過と結果の逆説に単純反応しています。
 
裏切ることも、同じ人間の心から生まれているからいいんだ、正しいとか正しくないとかないんだ、とでも言いたいのでしょうか。楽山は、人間としての基本的な節操・分別さえも持っていないので、他者の良心を、壊して、傷つけてゆきます。それが楽しいと言うのでしょうか。
 
楽山は、信じることは裏切りだ、積むことは崩れることだ、降るのは溶けることだ、だから、自分が悪を働くのは善だ、正しいとか正しくないとか無いんだ、裏切りがなぜいけないんだ・・とでも言いたいのでしょうか。逆説の悪用です。表現というものを全く知らない楽山の臭い臭い詭弁です。
 
思考と情緒と意志を常識として持っている人ならば、小説の文学的逆説の価値を認めても、こういう楽山のような、小説の文言を悪用して、善悪の判断を拒否して自己正当化を謀(はか)るような、愚かで乱暴で、かつ、人間としての無思慮を証明するような詭弁には、同意しないはずです。
 
 

恥ずかしながら自分は元々は堅苦しい主義や封建的道徳よりは、情緒で判断する傾向が強い方であったが、

 
楽山は、情緒ではなく、快楽原則で判断しているだけです。なんでもかんでも、自分に都合がよければ拾ってくる作業を読書と呼んでいるのです。楽山は、思考だけでなく、情緒的感性も壊れているということが、随所に表れてきました。
 
情緒的判断の対比に、「堅苦しい主義や封建的道徳」としか書けないところに、まともな道徳による判断の欠如が、真実に目を向けないことが、さらに自慢として、表れています。堅苦しくない自分、反封建という前提で、婉曲的に、見苦しい自己正当化を謀ろうとしています。
 
主義や道徳は、堅苦しかったり、封建的であったりするものばかりではないでしょう。人間ならば守るべき節操というものがあります。楽山には、それがないから、詭弁で自己正当化するしかなくなっているのです。楽山日記は悪意の産物であり、善意の知性に見せかける悪魔性の罠(わな)であります。
 
 

宗教に凝るようになってからは何事もその宗教の規定する是非善悪によって判断し、実際の行動はもちろん、ものの見方や考え方、喜怒哀楽などの感情さえもコントロールしようとするようになっていったのだった。しかも自分のそれだけでなく、周囲の人に対してもそうしようとしていた。いってみれば典型的なマインドコントロールというやつである。

 
楽山が「宗教に凝る」というのは、オカルト趣味や超常心霊オタクになったということです。人を操りたいという支配欲です。しかも、努力や学習をせずに偉くなりたいという怠惰な欲望であります。人間の真実追求を考える宗教と信仰とは、真逆であります。
 
楽山の基準は、自己中心で、他者を省みないところにあります。楽山を、間違っても、HSというカルトを克服した人などとは、思わないでください。楽山が、ずっとしてきていることこそ、カルト宣伝と質的に何も変わらないことなのです。むしろ、教祖願望でマインドコントロールしてゆくのです。
 
 

でも近頃は、その反動のせいか、それとも元々の性質に戻ったせいか、宗教の価値観に自分を合わせようと躍起になるよりも、生来の情緒を取り戻し、その情緒に素直でありたいと思うようになってきている。

 
反省みたいに言っていますが、何ごとも自分の規定する是非善悪によって判断し、人に対しても、ボンヤリ言語で暗示して、無神教カルト宣伝者として、マインドコントロールしようとしている経過が、楽山の生業(なりわい)です。
 
楽山の 「生来の情緒」は恐ろしいものがあると感じています。曲がった知性の総てを自己正当化だけに費やして、反省も学習もせず、都合のよい文言を漁っては、著者の名前で、自らの正当性を刷り込むなどは、「素直」などではなく、鬼畜に近いものを感じます。
 
また、ネットでは、きれいごとしか書けないのも、楽山の特徴です。超常の心霊好みで、教祖願望の詭弁屋で人間離れしたことばかり書いている楽山の、どこに取り戻せる「生来の情緒」があると言うのでしょう。楽山は、嘘っぱちの霊感の優越意識を満足させたいだけです。
 
楽山の変わらぬ性質として表れてきたのが、過去の間違いを決して認めないことです。反省しているなら、もはや、嘘を吐いたりも詭弁を弄することも出来ないでしょうし、さらに、だらだらと書いてくることさえ、しないはずだからです。
 
楽山の反省の弁は、自身を低くする謙虚とは逆であって、むしろ対極にあるもので、真っ向から、何の罪悪感もなく、自分はこんなに謙虚だ・・と見せかけるための、白々しい芝居なのです。楽山は、邪悪な衝動に素直に支配されている病魔なのです。
 
具体的に間違いを認めて反省するのではなく、そして修正するのではなく、曖昧に「生来の情緒を取り戻し」などと言っているのは、またしても、自分は整った人間だと自慢したいだけなのです。謙虚さとは対極にある詭弁です。
 
楽山は、ずっと、不感不応の情緒のままに、反省せず、整わない詭弁を弄しているだけです。楽山は、宗教と信仰の価値を、全く知りません。そういう、自我の欲望しか持っていない心性ですから、正常な情緒ではないと思います。あるのは、イド的欲求だけでしょう。
 
 

こういう態度はかつての自分のようにすべてを宗教的規範に合致させないではいられない熱心な宗教信者からは毛嫌いされ、時には退転者、落伍者の烙印を押されてしまうものではあるけれども、自分はこの過程において、信仰を捨てることで真の信仰を得るとか、修行を放擲することで修業目的が達成されるということを経験できたのはよかった。

 
「信仰を捨てることで真の信仰を得る」・・楽山は何も得ていません。ますます、悪くなってゆきます。それに、楽山は、信仰を得たこともないのです。理路がデタラメなので、息をするように嘘を吐く因業または生業(なりわい)となっているのでしょう。
 
楽山は、我執だけの妄想家で、自身を宗教的規範に合致させることなど、恐らく、一度も無かったと思います。楽山の記事は、ずっと、自己中精神、自身の霊感自慢でした。楽山が信じて、訂正不能なのは、自己顕示欲による心霊が分かるっぽい?という自慢からの自己顕示欲に過ぎません。
 
それに、キリスト信仰は、規範や道徳に合致させる教条主義を行為義認と呼んで否定して生まれてきたものです。そのことを、旧勢力に殺される路程で、明らかにしたのはキリストご自身であります。いつものように、楽山の、宗教に対する無知が表れています。
 
楽山の宗教理解・信仰理解は、超常ホラーアニメを見た子供の感想のように、極めて幼稚であることが表れてきました。楽山は、娯楽の視野と、真実の追求を、区別できない人です。しかも、もはや、訂正不能のようです。学ぶことなく、言い張り続けるのは、とても醜い自己中カルト~オカルトです。
 
 

自分を向上させようとするときは、「~ねばならぬ」という理想にこだわり、努力することも必要な場合もあるのだろうけれども、これとは別にありのままの自分に正直になり、自然体でいることも大事なのだと思う。

 
むしろ、逆に、人間から、当為、即ち「ねばならぬ」や「するべき」の追求を全て除いてしまったら、楽山のような、極めて我儘で傍迷惑なケダモノになるということです。「ありのまま」の悪用の詭弁です。楽山において、ありのままは、自然体ではなく、我欲のみ、すなわち、嘘吐きのままです。
 
「ねばならぬ」という当為は、理想ではなく、人間が節操を保つために現実に必要なものです。そのために、人間は、真実を追求し、当為を考え、反省し、修正し、成長するのです。楽山は、自分勝手に生きて、真実を否定しています。努力したくない怠け者が結果だけを求めています。
 
楽山は「ねばならぬ」が宗教・信仰だと言いたいようです。型にはまるような印象を吹き込もうとしています。楽山は、別の大切な「でありたい」という希望のほうに感受性がないからでしょうか。宗教は、枠ではなく、根本的な存在を問うものです。
 
楽山においては、きれいごとのボンヤリ言語「ありのままの自分に正直になり、自然体でいること」は、良心も感性も思慮も捨てて、ケダモノになることを意味しています。大嘘です。欲望と衝動のままに生きて、節操も弁えもありません。
 
「ありのまま」「人それぞれ」「自分を貫く」などは、楽山が、自己中正当化のために、しばしば使う詭弁です。他者を気にしたりなど、余計な心配事からのストレスを避けることであり、自分勝手を肯定する言葉ではありません。楽山は、こういう詭弁を何度も使ってくるので警戒してください。
 
警戒してください。楽山は、ちょうど「狼と少年」という童話と逆の、狼は来ないから、自身はまともだから、今のままで安心と言っているようなものです。楽山自身が狼だからです。小説というフィクションにおける反発~逆説という表現を、読み取れず、逆に、真に受けて悦ぶ楽山のトンデモ詭弁です。
 
 
※ 
 
 楽山のリツイートですが
 
楽山が、自分では何も言えないものだから、またしても、他者のツイートを引用して、拡大解釈で曲解して、自己正当化に励んでいるようです。誰が何と言おうと好きなことをしておればよいと自分に言い聞かせ念じる暮らしなのでしょうか。人の口を、どこまでも、悪用する楽山です。
 
楽山にとって、人生とは、嫌なことを無視して、どんなに人が思おうとと、好きにやっていることが一人前に過ごしたことになると思っているのでしょう。楽山は、今までの自己中を続けるぞ・・とばかり、これからも自分だけを愛し続けるために字面だけ都合のよいツイートを引用しています。
 
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート
Testosterone
@badassceo
·7時間
幸せになる1番簡単な方法は時間の使い方を見直す事だ。嫌いな事をする時間を減らして好きな事をする時間を増やすだけ。例えば、無理して人付き合いするのはやめて代わりに読書や創作等1人で楽しめる趣味に没頭する。ウジウジ悩む代わりに運動して心身共にリフレッシュする。これだけで超幸せになれる。
午後7:10 · 2021年3月25日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/badassceo/status/1375027275628830723

 
「嫌いな事をする時間を減らして好きな事をする時間を増やすだけ」・・楽山は、自分の好きなことだけしていようと思っているようです。しかし、そこに、他者を巻き込んで、平気で、迷惑や傷をもたらすならば、とうてい許されるはずはありません。
 
楽山のような病的ナルシストは、こういう発言を、自分の好きなようにしてよい、それが自由だからと、自己中から妄想的に曲解して、そういう言を探しては悪用します。人間ならば持っているはずの深い思考・理解・共感がないからです。
 
何となく読んで、ふつうのつもりで同意してしまうと、じわじわと自己中が、楽山から、伝染することになります。楽山は、ふつうではありません。自己中で曲解して引用したものを、なぜ、何度も何度も、手を変え品を変え、読ませようとするのでしょう。病質によって訂正不能だからです。
 
楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の見方で、他者の口を使って、これ、もっともでしょう、当たり前に正しいじゃないですかぁ・・という感じで、自己満悦して、ときに柔和に、丁寧語で、妄想を刷り込もうとしてくる人です。
 
それにしても、詭弁が成り立たないと、別の詭弁を出してくる、しかも、他者の言を勝手に解釈してのことだから、どこまでも、精神の低劣と貧困と狡猾さだけが伝わることになります。
 
「無理して人付き合いするのはやめて代わりに読書や創作等1人で楽しめる趣味に没頭する」・・この言が、成り立つのは、大人として、責任を弁えて行動する人の場合です。節操のない楽山のような病質者では、無反省・無責任の体質によって、趣味、読書、創作、いずれも著しく偏ってゆきます。
 
趣味に独りで没頭して、誰にも迷惑をかけないなら、自由です。しかし、もしそうなら、何も書かず、公開せず、自己中が表れるリツイートもしないはずです。今までの、自己顕示欲で、恣意的に、他者を引用して書いて、公開する必要など、全くないはずです。
 
どうしても楽山は自己正当化しないと気が済まないから、都合のよい文言を、他者の言に求めて、出してくるのです。リフレッシュによる気分転換と、逃避は違います。不必要に逃避することは、無視と同じです。その結果に、目をつぶれば、悪意と病質が沈殿して蓄積されてゆくだけです。
 
人の言うことは聞かず、自分の言いたいことだけを言う、これが、楽山の生き方です。今まで、楽山が、ずっと、やってきたことです。リフレッシュではなく、楽山という自己中が、無視を続けて、後は門を閉ざした自閉から、他者無視から、書いたことを、わざわざ公開してくるのは、我執の害毒です。
 
過去の問題を反省しないまま、無視して、自己愛によって、ふつうに過ごしているつもりでいると、結局、また、活動するたびに同じ経過を辿り、同じ害を与え、地獄だけが深くなってゆきます。それが、いつの日か、具現化して報いとなるのでしょう。
 
人間は、学習することで成長します。学習するために、不完全な自分を意識し、自分に非があれば反省すして、改めて、成長するのです。その姿勢が、楽山には全く見られません。リフレッシュどころか、自己中再固定反復、それが、楽山の、繰り返される閉鎖エコーの世界なのです。
 
問題を無視して自閉することで、リフレッシュされるものは何もありません。フレッシュなものは何も生まれません。自己中→自閉→無視・・ここには、また同じように、自己愛で物を言う楽山が表れるだけなのです。どんどん醜くなり、衝動的に多量の中傷記事を書くに至っています。
 
それこそ、嘘を、嘘のままを保存し、嘘のままにして、そのうち、また、書き始めたら、嘘を吐き始めて、今までと同じように、迷惑をかけ、呆れさせ、誰かを害するだけなのです。楽山自身の心のエコードームでは、好きよ、好きよ、・・と、全方向から、聞こえているのでしょうか・・
 
 

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                詭弁の醜態
 
 
(2020年)(2021年)
(2022年04月13日、再録+加筆)
 
 
 
  傷つけて
 
古びてゆく
時間がたてば置かれているものはみな
命があることを
いや命がないことさえ
考えずに触っていた
道端や公園や街並みに
並んでいる遊びのような
色と形をもちながら
触れてゆく手は多くても
注がれる目は逸れていたから
 
人の手に触れたものは
かつて雨や風に耐えてきたもの
しかし人の手には耐えられない
敏感で弱いものたちだったかもしれない
今そこここに
相変わらずの姿で立っているけど
眼に見えない傷にいたみつづける
傷を見ない目に見られて
 
 
  あのよのはな
 
きのうは まんかい
きょうは あめ
あめのなかで
どんな ちりかたをしている
まだ しがみついているか
 
あしたの そらのしたで
あうことがあっても
はなびらを くべつできない
 
いろんな ひとが
いろんな あのよを
おしえようとするけれど
たしかなことは
この ちまたは
いちど で
この ちまたでは
もう あえない ひとがいる
 
はなは らいねんも さく
ひとは あやまちを くりかえす
いつでも あえる みぢかさ
みじかすぎて
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
嘘の人生を、嘘のまま過ごしている楽山です。それは、いつでも避けることが出来たのですが、楽山は、嘘が大好きなのでしょう。いつまでも、いつまでも、嘘を抱きしめているようです。「人間の性」ではなく、楽山の業(ごう)なのです。それを、まだ、見せ続けるつもりなのでしょうか。
 
楽山は、いつも笑っていると思います。根底には、他者を見下し、蔑視と、インテリ気取りだけの人です。時々文章に表れます。真摯な言論など、全くする気がなく、する能力も視野も、自己愛のために、持てない人なのです。楽山は、自己顕示のためだけに、真っ当な言論を、歪曲し邪魔します。
 
 
 
 2022年04月10日
 霊能力を語る(2)棒氏の場合
 http://mmknky21.blog.jp/archives/14149193.html#more
  抜粋して批判。
 
引用コピペが多い記事ですが、
 

ははは。「わたしは、あなたと違って、天使を知り、霊界の仲間も知り、ただの真理知識だけでなく、智慧も持っています」という自負がすごく伝わってくる。
まあ小さくまとまるよりは、傲慢なくらいがいいのかもしれないな、若いうちなら。 

 
これは、楽山の意見なのでしょうか。とうとう「ははは」と笑って、天使、霊界、真理知識、智慧、などと超常のことを言っています。常軌を逸した豪語です。発狂、あるいは、パニックと言ってもいいくらい、ボロボロの、人をバカにする態度が全開です。
 
楽山の発言なら、無節操にパニクった有頂天の絶叫であり狂気ですが、楽山が、相手の発言を、うっかり誰のものとも区別せずに書いている可能性もあります。その場合、楽山が取り乱しているということです。「天使を知り、霊界の仲間も知り」・・とうとう、全能者?になっている楽山です
 

霊にのめり込むほど、現実に生きている人の話を聞けなくなるというのはよくあることではあるが、棒氏は大丈夫だろうか。
棒氏は自分は霊能力信仰ではないと思っているようであるが、傍から見ると、けっこうな霊能マニアになっているといえるだろう。ご注意を。

 
楽山は、他者の心配をするより、自分の心配をするべきです。「霊にのめり込」んでいるのは、楽山なのです。ゆえに、「現実」の話を「聞けなく」なっているのも楽山であります。まさしく霊能マニアになっているのは、ずうっと、楽山なのです。「ははは」は、狂人の雄たけびでしょう。
 
霊能マニアの楽山に「ご注意を」。常識人を気取っていることも出来なくなり、今度は、霊能の極みに立って豪語しています。そういう立場に立とうとしても、楽山には、ふさわしい能力など何もなく、「ははは」は、楽山が、破裂する音でしょうか。楽山は、無節操雑言の末路を表しています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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