ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

猛者への堕落4

 
  猛者への堕落4
 
 
人間性を失った名ばかりの信仰?には、ある種の猛々しさが残る。せっせとお味方になる意見を集めている。それは猛々しい文章である。その威勢のよさの分だけ、また人間としての共感を失ってゆくのは、字面だけを追って、お味方になる意見というだけで悦び、褒めまくるからである。
 
一般的にヒューマニズム云々を、社会通念に過ぎないものとして批判して、そして福音のヒューマニズム化を嘆くのだが、そういう福音の変質を語る前に、他者を語る前に、人が考えるべきもっと重大な自らの問題を考えていない。
 
人間性を欠いた信仰?は、神性と神聖と真正の確信?に満ちて、正当化だけに懸命になる畑で偽善の種を育てる。自らに目を向けず、反対意見に耳を貸さず、お決まりの聖なる?文句を呪文のように繰り返して
ますます話し合う余地のない確信に凝り固まってゆく。
 
そして実際に賛同者以外とは、つまり反対者とは話さなくなる。そしてその根拠を神に担保してもらっているつもりである。しかし、いったい、神への恐れを知る信仰ではなく、むしろ神を恐れず誇大化した自我からの尊大な妄想的確信に、担保されうる何があろうか。
 
しかし、それでも保険のように、神の側に担保されるという神の意志を自らのものにして、さらに確信を強めてゆくので、恥ずかしげもなく、信仰の名を借りた残酷物語の主人公になってゆく。
 
信仰に対して羞恥心を持つ必要はないのだが、信仰によって恥知らずになっていいはずはない。人が持つべき羞恥心は、実際には、信仰?によるつもりであろうがなかろうが、自己の不完全性の無知と無恥からの異なる意見の軽視~無視に対してである。
 
さらに最悪な恥知らずとして、信仰?によるという間違った確信において、異なる意見を封殺するような非人間性による自己正当化である。そういう者は聖句さえ悪用する
 
しかも嘆くべきは、確信に満ちた非人間性の思想は、自分とお仲間と被害者以外の賛同を得られない妄想であり、詭弁に満ちた言説の崩れ方でありながら、何事も無かったかのように慢心していられるほどの厚顔で、罪悪感を持たないでいられるという特徴なのだ
 
 
以上は、偽牧師シャロームについて書いたことです。カルトは、根拠のない超常的妄想をベースとしていて、行動化以前であっても反社会性を潜在的に主張の中に持っているので、いつも、そのベースから崩れてゆく定めです。
 
このように、キリスト教内外に、カルト臭が漂ってくるような時代に、私たちは生きています。
 
しかし、真のキリスト信仰は、物や肉体の奇跡が本質ではなく、人間離れした超常を説く必要はなく、人間の心において理解と共感が可能な中心を持っていることによって、いつも、そのベースにおいて説得力があります。
 
キリスト信仰は、たとえカルトが同じ名前や言葉を使っても、カルトには決して真似のできないところの、共感性に溢れた理路というところから癒しと救いを宣べ伝えることが出来るでしょう。
 
 
 
 楽山について考察
 
楽山の文章というのは、月並みで、社会通念とか先入観や固定観念からの発想に過ぎず、独自の、直観や経験からの切実さがありません。ごまかすために、楽山は、読書の履歴を書いて引用してきますが、引用の基準は、自分の固定観念に都合がよいかどうかでしかありません。
 
さらに、有名人や学者の名前と、学術用語や宗教用語で飾って、自分も同列であるかのように気取ってくる楽山の態度は、その引用の恣意性や、聖書についての誤解と曲解とともに、楽山独特の詭弁と婉曲性と曖昧さをもって、まわりくどい図々しさを表してきます。
 
肯定するときには、「せつなくなる」「一言一言に力があり」「心に迫ってくる」「期待して読みすすめたいと思う」などという、深い中身のない世辞の賞賛の言葉を付けるだけです。そういうことしか書けないのだろうと思います。内実に一歩も踏み込めないのが楽山です。
 
一方、反対の時は、「好悪は分かれそうだ」「カルト信者にありがちなこと」「強まる傾向はあるように思う」「という話もある」「慎重に吟味すべき」「よく聞く話ではある」「現時点での正直な感想ではある」「一理ある」などと語る婉曲性と相まって気色の悪い刺激臭となります。
 
楽山は客観的に書いたつもりのようです。でも引用して批判しなければ賛同ですから、人の口を利用しても自分の主張であることに変わりはありません。楽山の引用は、徹底して責任を負いたくないという意図なのです。自分の意見ではないから責任は負わないでいいと思っているなら、大間違いです。
 
それら、責任逃れの、通念的発言で、無責任であるなら、アドバイスにもヒントにも示唆にも参考にもならないということです。本気で書いていない、受け狙いだけ、これならちょうどいいだろうというバランスを思いつきで捏造して書いてきます。
 
そして、何よりも、重要な是非の問題について、賛否入り混じって、どちらともつかない、真剣味がないのです。結局、実のあることは何も言っておらず、暇つぶしの、邪魔なだけのセリフになるわけです。つまり、意見交換になっていないのです。
 
楽山は、生まれ育つ過程で、こう言えばよく思われる、受ける、学があると思われる、というような学習と条件付けしか身に着けておらず、実体験から、受け取って、感じて、何が正しいかを考えて、誠実に意見を組み立ててゆくという学習と成長が出来ない人です。
 
しかも、自身の無責任な発言を、止めようともせず、他者の意見を無視して、先入観のまま、繰り返し書いて、やり返したつもりでいるわけだから、無責任に加えて、無反省かつ訂正不能という人格の偏奇としか判断できないという経過です。
 
そして、指摘しても、批判にもかかわらず、それが長く続けば、人格の異常、人格障害としか考えられないのです。それで、もう3年余り続いているから、今後も変わらないだろうという結論が出来上がってしまいます。
 
そういう執着性と反復性と継続性から見ても、楽山については、一時的に感情的になって意地を張っているのではなく、不可逆の性質を持つところの、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病質を考えざるを得なくなっているということです。
 
そういう人物は、リアルな世界では、殆ど発言をしないか、しても認められたことのない人でしょう。だから、ネットの世界では、無反省、無責任に、好きなように書いて、一切、他者の言うことは聞かないし訂正しないでいいと思っているのでしょう。
 
前に、楽山が、私が実名を出しているのは自己顕示欲だと、けなしてきたことがあります。私は、人それぞれではありますが、できれば知ってほしいと実名を出すことは正常な範囲内だと思っています。さらに、実名を載せることは、自らの発言に責任を付与することでもあります。
 
一方、楽山は、実名を出せないのです。責任ある発言が出来ず、責任を負う気もないからです。しかも、ツイートを非公開にしたり公開に戻したりと不安定で、もはや、裏で何をやっているのかが、恐ろしい楽山なのです。
 
楽山の自己顕示欲は、匿名が通用するネットにおいてだけ、生産的な目的もなく、ひょっとしてバーチャル教祖にでもなりたいのかと思うほど、カルトと同じ単方向の、訂正不能、つまり、学習不能な自己愛の誇大妄想性として表れています。それで、無神教カルトと呼ぶこともあります。
 
以前、楽山は言いました。神がいるなら、なぜ、悪がはびこるのか、なぜ、神は悪を放置するのか・・などという、いちゃもん。確かに、なぜでしょう。それに答えられる人はいません。しかし、そういう考えは、神がいるなら、みんな、ハッピーのはず、という身勝手な前提がある証拠です。
 
神は、人に理解できるような、天国のバーゲンセールはしないでしょう。どうしようもない悲劇が起こるから神はいない、などという言い分は、神の恵みに触れたことのない楽山のような利己的な人格が言っていることです。そのような安っぽいところに信仰の根拠はありません。
 
だから、今となって、私は、つくづく思います。なぜ、神は、楽山のような偽善者を放っておくのでしょう。なぜ、さっさと片付けて、みんなをハッピーにしないのでしょう。ゆえに、私は思います。救いは、この世の出来事の表層に、はっきり見えてくるものとは限らないのだろうと。
 
本当の救いは、もっと深いところ、あるいは、この世の人生以外のところ、人が気づかないところにあるのだろうか。それに気づく時は来るのだろうかと思います。神は、人間が、逐一納得できるような、ご利益の救いではなく、あくまで、神の計画に沿って、救いと裁きは成就するからです。
 
だから、神は、いつまでも、黙って見ているだけではない。導きの不思議ということは、人づてにも聞いているし、経験上も、感じてはいるわけです。楽山などが、いちゃもんなど言って、しゃしゃり出てくるスペースは、どこにもありません。
 
ずっと神を呪い続けているような楽山が、何もかも、うまくいって、継続して、不幸などなく、いつまでも、満ち足りて過ごす、などということは、想像も出来ないし、あってはならないことなのです。歴史の出来事も、いずれ、裁かれる時が来たし、これからも、来るのでしょう。
 
神と、条件交渉みたいな、取引でもする気でいる者には、無償の救いが与えられることはありません。その恨みで、楽山は、神を呪っているのかもしれません。
 
しかし、いつ、神の救いの業(わざ)が起こるとか、どのように起こるとかは、人には分からないのです。神は、人に、いちいち説明はしない。正直な祈りだけで、人が、無条件に救われるために、人の信仰にも、無条件であることが要求されるのではないかと思っているところです。
 
 
現在は所在不明の偽牧師シャローム shalom と、荒らしの易坊、そして、楽山は、ネットの発言と交流において、つながりがあります。易坊とシャロームは一緒に私のヤフーブログを荒らしてきました。楽山はシャロームに無条件賛同しました。3つのHNが同一人物の成りすましの可能性もあります。
 
 

      

               猛者(もさ)凍結
 
 
(2011年)(2019年)
(2020年)(2021年)
(2022年05月17日、再録+加筆)
 
 
 
  信じること
 
信ずるに足るものなど
何もない世にあっても
信じなければ生きてはいけまい
疑いながら助かっている
疑われながら助けてはいない
疑心のうちに
僅かの優しさを持ちうるなら
暗鬼のうちに
人は人を許せるだろうか
許せるだろうか
 
老人が首と胴体を自由にして倒れ
走る少年がふらふらと目的地を忘れ
遠くで逃げ水が
歩む足を消してゆく猛暑の
ある夏の日
部屋の隅に横たわっている体が
生体であっても死体であっても
許せるだろうか
 
信じなくても
死ぬことはできようものを
肉体だけが
無価値に存(ながら)えること
許せるだろうか
 
急に声をかけられたように慌てて
調子外れに「はいぁ・・・?」と
答えたつもりで
眠った肉体を残して去ってゆくこと
許せるだろうか
 
ひとりひとりが「らしさ」
という虚像を追いかけ
虚を衝(つ)き実を取る世にあって
衝くことも取ることもできないまま
ある夏の日
じっとり熱と汗に塗(まみ)れて
生きながら腐ってゆくような
肉を掴(つか)んで確かめるもの
 
許せるだろうか
許されるだろうか
 
ゆっくり体を起こして
渇いた咽喉(のど)から溜息を吐き
儘(まま)ならぬ不意の眠りから
信じているのかいないのか
また目覚めている
 
 
  歯痛
 
日ごと歯を穿(うが)つ痛みは
怒りの硬い礫(つぶて)を
脳天に飛ばしながら
歯肉の腫脹と圧痛を伴ってくる
 
鎮痛剤とペニシリンを服用して
治まるのも束の間
しばしば突如として
片側だけから唾液の流出を伴って
口を開けたまま動かせないほどの
強直性の神経の電撃を齎(もたら)す
(歯科へ行け!)
齲歯(うし)は暫く痛み暫く痛まず
を繰り返しながら進行し
歯根から顎骨へ骨髄炎の末路
敗血への道標となる
 
あの時ああしておけば
と再燃と緩解を繰り返す痛み
を発して傷み続け
毒に内臓が侵されるころ
堕落だ
敗れた
血は汚(けが)れた
と観念して果てるまで
何か道具でも持っていたら
引き抜いてしまいたいのが悔いである
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
うまくいっていると思う間、悦び、慢心しても、欺きであることに変わりはないのです。悔いないことが病気であり、改めないことは罪悪であります。自らの罪悪を、「人間の性」と一般化して、みんなそうでしょ・・みたいに煙幕を張っても、詭弁の汚らしさを表すだけなのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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