ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

インチキがインチキを語る

 
  インチキがインチキを語る
 
 2022年05月22日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 イカサマ霊能者とインチキ占い師、それから宗教勧誘の手口
 http://mmknky21.blog.jp/archives/14723036.html
   を批判。
 
 
楽山の嘘がイヌのように盛っています。楽山のインチキが膨らんで破裂しそうです。どこにも、生きる縁のない詭弁や人生が、我を忘れているようです。自分を見ないで、人のことばかり言っていると、こうなります。生きることが、全部、芝居になるのです。楽山の正義面は、ひょっとこです。嘘なのです。
 
 

*裏事情
 ツイッターにて、次のブログ記事が話題になっていた。

イカサマ霊能師やインチキ占い師の手口まとめ - A Successful Failure
 」
 これが、霊視、占いの現実なのだろうな。

 
インチキは、楽山の現実として、批判記事が3年余り続いています。嘘と詭弁を弄して、痛めつけてくるので、決して、楽山に関わらないようにしてください。
 
 

*可能性
当該記事のコメント欄では、可能性の話が出ていた。

半信半疑
世の中の「自称」霊能者の大半がインチキだろうなというのは推測がつきます。
だからといって、霊や死後の世界など存在しない。
そういうものを知覚できる能力がある人間も居るはずがない。
霊能者など漏れなく100%インチキである。
と、そう断定するのも、盲目的に超常現象を信じ込むのと同じぐらい客観的な態度ではないと思うのです。 ~省略~
 」

 
インチキ霊能者は、楽山です。楽山は、仏様が喜んでいると言って親族に笑われました。嘘と詭弁で、心理学を心霊の話に見せかけました。批判したら、オモチャの理屈で混乱させてきます。長く付き合うと、人格を破壊される恐れがあります。そのような、害毒だけの伝染性病原が楽山です。
 
 


LM-7
天と地ほどの違いがあると思いますが。
たとえば、コインを投げて100回連続して表が出る可能性は確かに存在します。
それを「100回連続して表が出ることなどあり得ない」と主張することが
問題を引き起こすことがあるでしょうか。
単に可能性が小さい事象を無視しただけのことで、これは理に適ったやり方です。
 」

 
楽山は、宗教と信仰についても、このような辻褄の話をして、ときには、印象操作という詭弁を弄して、自分の恣意の方向に誘導してきます。「100回連続して表が出ることなどあり得ない」という命題は、厳密には間違っていることによって、問題を引き起こすかどうかは、場合によって違うはずです。
 
「問題を引き起こすことがあるでしょうか」と言い、数学なのか、賭け事なのか、遊びなのかについて、考慮していないので、「単に可能性が小さい事象を無視しただけのこと」と軽く言って、これは「理に適ったやり方」と言っています。楽山は、この引用をペテンの手口にするのでしょうか。
 
厳密性が、どの程度、問われているかを考慮せず、「理にかなった」とは、ぞんざいな判断です。こういう意見に賛同する楽山は、恐らく、小さい可能性を無視しやすいだろうと思います。これが、楽山の短絡しやすい理路なのです。厳密性を飛ばして、概念の玩具遊びで結論を出しています。
 
実際には、楽山は、大きな可能性だけでなく、実際に、起こり続けている自らの短絡理路の欠陥や、嘘と詭弁で人を迷路に誘導した害悪について、反省せず、全てを無視してきました。言い訳に出してきたこの記事によって、逆に、過去から続いている悪意の不祥事が、楽山の尻に貼りついてゆくのです。
 
このコインの場合は、100回続けて表が出る、という極端な事象ですが、こういう極端な例を挙げて、あり得ない・・を理にかなったと判断したとして、この、おおまかに成り立つ命題を個別のことに当てはめるのは、楽山の詭弁で、しばしば見られてきた特徴です。
 
以前「人それぞれ」だからと自己正当化し、「自分を貫く」のだから悪くないとか、詭弁を書いていました。曖昧な一般則を個別に当てはめたり、限られた個別を一般則のように言う詭弁には、良識が欠けています。楽山は、自らの無責任を無視し、反応も成長もない永久凍土にいるのです。
 
 

「たとえば
「さっきやってみたら100回連続して表が出た」と主張する者がいたとして、
-そんなことは確率上ほぼ起こりえないから嘘に違いないと判断することと、
-確率上は確かに存在するから本当かも知れないと判断すること、
-おお、すばらしい超能力者に違いないと盲目的に信じ込むこと、
一つ目と三つ目が同レベルとはとても思えません。  ~省略~ 
 」
これは、LM-7氏に理がある。超能力者がいるかいないかの可能性は半々ではなくて、いない可能性の方が圧倒的に高いので。

 
判断の正確さのレベルを、嘘吐きで詭弁屋の楽山が決めるのは、我が身を振り返ることの出来ない、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の因業でしょう。こういうところから、楽山の詭弁が始まっていると思います。
 
「同レベルとは思えません」・・嘘、本当かも、超能力、という3つの判断、・・楽山の詭弁には、こういう罠が含まれています。「ほぼ起こりえない」と「嘘に違いない」は、人間関係においては微妙になるのですが、嘘吐きの楽山は、間違いない・・という意識から、決めつけてきます。
 
 

*詭弁
ちなみに、こういう間違いは、他の議論でもある。たとえば、こんな風に。
神はいるかいないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ
霊界はあるかないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ
生まれ変わりはあるかないか、答えは二つに一つであり、可能性は半々だ

 
神は、確率の問題にはなりません。信仰は、関係の問題であり、有るか無いかなのです。楽山のような、良心の欠片もない者が、神の存在を、可能性が半々という自体が暴論そのものです。楽山のような反キリストには神はいないのです。信仰者には神が必要だから信じているのです。
 
 

冷静に考えてみれば、これらについては歴史上その存在が証明されたことはなく、事実ではない可能性の方が圧倒的に高いのだけれども、

 
「事実ではない可能性の方が圧倒的に高い」・・楽山の悪意の誘導です。何度も、神は信仰の対象であり、神を事実では証明できないことや、神がいないことの何の根拠にもならないことを書いてきましたが、全て無視する楽山のサイコパス性が表れています。良心がないのです。イカサマだけなのです。
 
 

「あるかないか、答えは二つに一つ」と前置きされると、つい「あるかないか、可能性は半々だ」と錯覚してしまいがちである。
宗教勧誘では、こういう詭弁が使われることがあるので注意が必要である。

 
こういう詭弁で、楽山は、神を否定して優位に立ったつもりの反キリストです。出会わないのが何よりの幸いで、出会ってしまったら、できるだけ早く逃げるしかないです。サディストであり、良心の欠片もないのでしょう。楽山には、門口に待っているものがいるようです。
 
 (創世記、口語訳)
4:7
正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。
 (創世4:7、旧約聖書
 
 
神は、確率で存在の可能性を論じられる対象ではありません。よいものを何も示せないのに、神に恨みでもあるのか、神否定を書き続ける楽山は、確信犯で凶悪犯です。この先、救いとは何の関係もなく凶悪に相応しい経過を辿るのでしょう。信仰者と求道者を、どこまでも傷つける悪魔性です。
 
信仰者にとって信仰は命です。楽山の遊び半分の心霊趣味で語れることは何もありません。楽山の霊能者気取りや評論家気取りや、心霊や超常は、著しい的外れです。楽山は、一生、詭弁臭とペテン臭が取れないのではないかと思います。
 
神とキリスト教のことを、楽山が書くたびに、学習機能のないことが明らかになります。相変わらず、貧相な概念しか持っておらず、楽山の辻褄が合っても合わなくても、信仰とは何の関係もないことだけを確認することになります。楽山の、無知と無理解と、書き続ける無恥とに、うんざりするだけです。
 
楽山の気持ちが、超常~空想に行って、扱う次元が曖昧になり、言葉だけの引用をすることで、思考自体が迷路化して混乱し、前提も根拠もなく、思いついたままに書いています。楽山を読んで、楽山とともに、精神と文脈が弛緩してゆくのは、錯乱に陥る危険があり、非常に危険です。
 
 

   

               悪意のインチキ
 
 
(2022年05月23日)
 
 
 
  朝を行く
 
ゆるやかに焼土と化してゆく町の
紙切れ一枚に託された
朝の光と入れ替わるように
みずみずしく滴り落ちてゆく
悪意
覚えはないという
廃虚に燻り炭化して肉質を離れる
かつての
そしてこれからの
痕跡
ほら今日もこんなに光っている
開いた肉芽を屈折して通る宝石の
切通しに立ち竦(すく)む
覚えられることを拒むかのような
幾つもの折れた眼差し
 
 
  祈り・永遠の命
 
過ごしている時間と
過ぎた時間の
長さの違いのようなものだ
計られ記録に残る時間と
計れず記憶に残る時間
の違いのようなものだ
どんなに長くても短くても
誰がそれを掴(つか)むことができようか
途方もなく
知らない部分が多すぎて
大方は知らない時を過ごしている
長さでは計れない時に在って
私の時を御手に委ねます
と祈りながら耐えられず
さらに心のうちに呼ばわる
主よ、私ではなく、あなたが
永遠と名付けられたものを賜(たまわ)るなら
一生は一瞬でよいのです
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
 
生きてゆくと、学んだものが身に着いてきます。学ばなかった者は、ごまかしが身に貼りついて剥がせなくなります。楽山の嘘と詭弁は、一生続くのでしょう。臨終のときに、楽山は何を言うでしょう。「これも一種の、人間の性なんでしょうかね」でしょうか。人間の性ではなく、楽山の性なのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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(古い記事は載っていません)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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