ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の妄想理路

 
  楽山の妄想理路
 
 神について考えたこと
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 2022年10月14日
 http://mmknky21.blog.jp/archives/17158681.html
  を批判。
 
 
恐ろしいほどの足らざるオジサン、楽山の滅裂な短絡と妄想が暴走しています。神を語る理路と情緒とは何の関係もない駄弁であります。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)が、増悪して脱線を繰り返しています。楽山の語る偏見が広まらないようにと、あえて批判しています。
 
今回も自己正当化に明け暮れる楽山の無意味な日常に過ぎませんが、加えて、一人でも巻き添えにしようと、詭弁の迷路の罠を用意しているようです。書いても何も表していない空疎な迷路に、引き込もうとしています。これが疲労だけを与える楽山の悪意に満ちた筆致であり、全て、屁理屈です。
 
 

*忘れないうちに
 前記事に保存した対話の中で、論点になったものについて、忘れないうちに自分の考えをメモしておきたい。

 
楽山は、神を、決めつける対象としている時点で、神について何も知らないし何も理解できないということです。神について、頭の中で考えたところで、先入観と偏見と敵意だけが明らかになってきました。こういう人が何を書いたとしても、自己顕示欲に過ぎず、神について何のヒントにもなりません。
 
 

*神の定義
まず一つ目は神の定義についてである。これには下のようにいろいろあると思う。
高級諸神霊(諸天善神など)
山川草木に宿る精霊
先祖の霊(祖霊)
宇宙を統べる法則
絶対神唯一神
生き神様(教祖など)
その他

 
人間に神を定義することはできません。神は超常、人は地上の不完全なのです。血迷った楽山が、何を書いても、反信仰・反キリストの雑言に過ぎません。楽山は、神を陳列しているようですが、神は、求める者にとってのみ、神であります。楽山が神をどうのこうのではなく、楽山には神はいないのです。
 
求める心を持たず、否定するために、いちゃもんを付けてくるだけの者に対して、神は、いつまでも無意味な徒労の石灰を与えるだけです。そのことは、3年以上にわたって表れてきたのです。加えて、神霊を、ホラー映画やアニメのレベルでしか書けない楽山の言は、宣伝ビラよりも信頼性がないのです。
 
 

個人的なことながら、自分は無宗教の家で育ったので、幼少年期は神や信仰についてさして考えることはなく、神社仏閣に祀られているのが神様なんだろうと思っていた。山川草木、先祖の霊などに手を合わせることにもさして違和感はなかった。

 
楽山は、特に宗教と信仰については、思考力がありません。「さして考えることはなく」「だろうと思っていた」「違和感はなかった」・・これは信仰の態度ではありません。「山川草木、先祖の霊などに手を合わせる」ことも、楽山の場合、信仰を示してはいないと思います。
 
全く異質な勘違いを、楽山は、ずうっと書き続けてきたのです。指摘しても理解しない楽山だからこそ、今も、似たようなことを平気で書けるのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の怖さを感じます。これが宗教の文章などと思われては心外なので批判しています。
 
 

青年時代になると、HSに傾倒するようになり、宇宙を統べる法則が神だと説かれればそのように考え、教祖を神として信仰すべきことが説かれればそのように考えるようになった。

 
楽山は「宇宙を統べる法則」などという大袈裟な超常言葉が好きなのでしょう。宗教は、楽山にとって、空想の世界にあるもので、心がないために、身近に感じることがないのだろうと思います。いつも、外から眺めるだけで、これが宗教、これが信仰と、思い込んできたのでしょう。
 
 

しかしHS退会後はそれらの影響は薄れ、近年は人知を超えた超越者を神と考えるようになってきている。ただこれは頭ではそのように考えているということであって、現実生活では幼少年期の感覚に戻ってきており、諸天善神、山川草木、先祖の霊などを神様または神様に準ずる存在として拝むことにさして抵抗はない。

 
頭だけで考えてきた楽山です。感じ取る心がありません。つまり、上のほうの「諸天善神、山川草木、先祖の霊」というような、いわば、仏壇か、神棚か、お墓のようなもの、そして、楽山の気安い見方で見た自然のものなどに、宗教を見るような、ついでの気安さでは、宗教と信仰を語ることはできません。
 
 

*超越者
「無」は言葉では表現できないという考えがある。「何にも無いことを表現しようとする場合、『無』と言うと、そこに無が有ることになるので、『無が無い』と言わなければならない。でもそれだと、無が無い状態が有ることになるので、『無が無いが無い』と言わなければならない。でもそれだと…」という具合に、延々つづくことになってしまうというのだ。

 
低級な論理遊びです。このような未熟なことを、まともに言っているつもりの楽山のような者には、無限の無が訪れるだけになります。この世に生きる、という労苦の中で、無に遊ぶことを宗教と考えている楽山の、成長し損なった病人の、とんでもなく外れた顎々日記に過ぎません。
 
 

「超越者」にも、これと同様の問題が有る。「人知を超えた超越者」という表現は、人知を超えたと言いながら、しっかり認知していることを示しているからである。だから、超越者を適切に表現しようとすれば、無の表現と同じようなことになってしまう。

 
「人知を超えたと言いながら、しっかり認知している」と見なすのは、楽山の、教祖願望でしょう。楽山こそが、難癖をつけるのは神を認知しているつもり?の立場からであり、それは信仰ではなく、とても気安い概念の思い込みに過ぎません。自らの不完全を認識できないのと同様の知恵遅れなのです。
 
神については、その、ほんの一部の恩恵から、人間の一生を支える信仰が生まれてくるということです。楽山のように、その恩恵に触れていない者が、浅薄な知識だけで云々してしまうのは、身の程を知らぬ悪意と病質が進んでいるからに他なりません。
 
 

「人知を超えた超越者」→「『人知を超えた超越者』を超えた超越者』→「『人知を超えた超越者を超えた超越者』を超えた超越者…」という風にだ。
 この辺りのことは、言語表現の限界ということなのだろう。

 
否定するための言葉遊びによる詭弁です。全知全能を、わけの分からないものと嘲るための詭弁です。楽山の言語表現の限界であって、信仰者は、体験からも、神の恵みを知ることが可能であり、語ることも可能です。楽山のような邪悪な煽動者の、幼稚な短絡に惑わされないようにしてください。
 
 

*超越者と信仰
上の問題を読めばおよその見当がつくように、超越者を神とすれば、信仰は不可能であり、無意味とされることになる。人知を超越しているということは、人にはその名を知ることはできず、想像することもできず、信仰の対象として思いを向けることもできないということだからである。

 
楽山は、自らの狭窄した視野からの妄想を、誰でも「見当がつく」ことだと思い込んでいるようです。楽山の見当は、宗教でも信仰でもありません。短絡した妄想であり、それを決めつけてくる固定観念に過ぎません。まことに、楽山には、自由な思考と感性が、何も成立していないようです。
 
 

ただ信仰は不可能としても、それによって自己の進むべき方向は定めらる。
たとえば、キリスト教には否定神学というものがあるという。「神は~である」というのではなく、「神は~ではない」という風に、神でないものを否定していくことで神を探究しようとするものらしい。

 
楽山が進んでいるのは恣意という方向か拡散であり、何も正当に定まってはいません。そこからは何も発見できないところに、楽山は、わざわざ、身を置いて安住しているつもりなのです。そこから好きなように語りますが、それが良い影響を与えたことは一度もないと思います。
 
人が、神を対象として探求することなど不可能です。人に出来ることは、聖書と、体験から、また、交流から、楽山とは逆に、柔軟な思考と感性を養うことです。楽山のように頑なで視野の狭いコチコチの精神になると、何でも決めつけないと気が済まなくなって、書きなぐるだけになります。
 
 

また禅宗には「仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ」という言葉が伝わっている。定説とは異なる解釈になってしまうかもしれないが、これは「認知したものは全て神ではないから即、退けよ」という意味もあるかもしれぬ。

 
神は、認識や認知の対象になる御方ではありません。なのに、楽山は、認識しているかのように、神という言葉を玩(もてあそ)んでいます。そこで、楽山の思考は死んでいるのです。楽山が、神について何を言っても、どこにも響くことのない雑音に過ぎなくなっています。賽の河原のようです。
 
 

要は、神は超越者だとすることは、「これが神である」という信仰ではなくて、「神とは何か」という探究を志すことなのだと思う。

 
神については、人が、対象として探求することは出来ません。「神とは何か」を、楽山が語るとき、そこには妄想しか生まれません。今までの楽山の言が、クズのような雑言に過ぎなかったことが証拠となるでしょう。楽山は、何も語れないのに、何でも語ろうとする、尾ひれだけの存在です。
 
 

*信仰と探究の相違点
信仰者は上に書いたように「これが神である」と言い張ることが多い。たとえば、このような論調はよくあるだろう。「私が信じているのは正しい神である」「私には正しい神を見抜く判断力がある」「『これが神である』という私の判断は正しい」

 
楽山は、いたるところで、神はいないと言い張ることしか出来ません。楽山の一切の言説は、子供にとっても大人にとっても通用しないような、落伍者の負け惜しみに過ぎません。この3年以上、楽山の言は、とても醜く、理路にならず、詭弁と嘘に満ち、まともな大人が書いたとは思えないものでした。
 
正常なら、批判に返せない原因を、自分で探すものですが、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、返せないのに、根拠のない雑言を、繰り返し繰り返し言い返さないと気の済まない病理の衝動に流されて、性懲りもなく繰り返してくるのです。
 
 

一方、探究とは何かといえば、「これは本当に神だろうか」と疑問を持つことである。「これが神だ」という自己の判断を過信せず、謙虚さを維持することである。
自分は信仰者であるよりは、探求者である方が性に合っていると思う。

 
「「これは本当に神だろうか」と疑問を持つこと」は、内外の偶像を排除するためですが、楽山は、いちゃもんばかりを投げかけて、何も生産的なことが言えたことがないのです。鈍い自己中というのは、何も分かっていないし感じていないのに、さも知っているふうに詭弁を弄する毒魔です。
 
 

*神の存在
神についての議論では、「神とは何か」というテーマ以外に、「神は存在するか、しないか」という議論もあるが、これは神の定義次第では意味のない議論になる。

 
楽山は、自己愛を満足させるために、思いついたことを、まるで反論であるかのように、言わないと気が済まない病気なのです。だから議論は不可~禁忌です。反論者として付き合うための、いかなる節操も理路も、持ち合わせていないからです。自分とは何かを考えない人だからでしょう。
 
 

たとえば神はこの世ならざるものであり、見えも触れもせず、体積も重さもないとしたならば、「存在するか、しないか」という三次元的唯物的な判断基準ではかれるものではなく、そんなことを問うても無駄だということになる。

 
今はそう言っているだけの楽山の思いつきの台詞が続いています。神を必要としないなら、楽山は信じないというより、ずっと、楽山に神はいないのでしょう。それで終わりです。「三次元唯一物的」などと学問みたいに書いても、楽山の、無学、無知、無節操、無神経が、見苦しいだけなのです。
 
神について、体積や重さなどという物理的なことを言うのは、とても幼稚なことなのですが、幼稚な楽山には気持ちよいのでしょう。楽山は、元から、あらゆる節操を踏みつぶして、人の嫌がるようなことを平気で言って、混乱させるのが目的~快感なのです。こんな人種もいるということです。
 
念のために言いますが、楽山が、学問的な言葉を書いてくるのは、自己愛からの自慢に過ぎません。楽山は、神も信仰も理解していないのと同じように、それらの熟語を理解したことはないと思います。そのように、さも知っているかのように振る舞うのが、インテリ気取りの楽山の手口なのです。
 
 

ましてや、この世もあの世も、物質も霊も、存在も非存在も…全てを超えた超越者を、有る無しで判定しようとするのは無茶なことだ。有無を超えているものを有無で判断できるわけもない。

 
騙されないでください。楽山が上のようなことを書くのは、有無で判断しないのではなく、神を否定するためです。今まで、うんざりするような迷路を書いてきて、ここでも、口が減りません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の病質的執着は、混乱だけを与える害毒であります。
 
楽山だけが、神を同じ地平の存在のように扱って、有る無しにこだわってきたのです。つまり、上のように書いても、なお、有る無しにこだわって、存在するかどうかについて、いちゃもんを言うことを止めないのです。神を否定してきたくせに「有無で判断できるわけもない」と言い換える卑怯さです。
 
 

正直なところ、「神は存在する」「霊は存在する」ということにこだわるのは、唯物的な思考に染まり、この世を超えた世界についてよく分かっていない証拠ではないかと思う。

 
神を語るのに、しばしば唯物論を持ち出してきたのは、楽山であります。唯物論も科学も、神を否定も肯定もしません。信仰は物ではありません。目に見えるものと、空想とで、実存を無視した楽山の世界が出来ているらしく、それゆえ思考が心から乖離して、自己中心から滅裂となっているのです。
 
 

*神を感じたとしても…
巷には、神を感じると、即、神は存在すると思い込む人がいる。実を言えば自分もそのクチである。神の臨在は現実以上にリアルなので、ついそう結論付けてしまうのである。

 
楽山は、神を感じたことはないと言えます。これまでの発言の、いい加減さが、とても神を感じる人の感じ方ではなかったのです。楽山は、現実の自らの欲望を追いかけている亡者に過ぎません。この男から、症例であること以上に、学ぶものは何もないと言ってよいでしょう。
 
 

しかし実際には、自分が神を感じたからといって、それが妄想でも、錯覚でもないとは言い切れず、そこに神が存在した証拠にはならないのだから仕方がない。人にできるのは、神を感じたと思うことまでで、そこから進んで神はこういうものだとか、絶対に存在するとか、そこまで言い切ることはできないのだ。
個人的に心の中で確信を持つことは自由ではあろうが、確実な証拠もなしにそれを他人に向かって主張し、受け入れさせようとするなら、それはいささか無責任な行為であるとお思う。

 
楽山は、極めて幼稚なことを言っています。妄想や錯覚と区別できないなら、それは、人を生かさないものでありますから、神を感じることとは全く別のものであります。それを「神を感じた」と言っている偽哲学の楽山は、病気であることを自ら証明しているに過ぎないのです。非常に迷惑です。
 
 

*誰もが無神論者である
とある無神論者はキリスト教信者を皮肉ってこう言っている。
「誰でも、自分の信じていない宗教については無神論者である。私は、君たちより信じない神がたった一つ多いだけなのだ」と。
つまりキリスト教信者は、自分たちの唯一の神だけを信じて、他宗教の神々は存在しないとしているが、無神論者の自分はそれに加えて、キリスト教の唯一の神も信じていないというだけのことだというのだ。

 
「というだけのことだ」と、責任回避している楽山ですが、聖書の神を信じていながら、他に神?がいるなどと思うならば、それは、楽山のような卑怯者の、無責任が支配する因業に過ぎません。愚かにもほどがあるというものです。あらゆる信仰を見下す自己愛者に、耳を貸してはいけません。
 
 

こうしてみると、「無神論者」というのは相対的なものであって、立場によって変わるものだということがよく分かる。どんなに熱心な宗教信者であっても、もし信じない宗教があるならば、その宗教については無神論者なのである。

 
もはや、詭弁しか書けなくなっている楽山です。言論の理路というものを、読み取る心がないままに、表面的な辻褄だけで進めてゆくと、このように、宗教を物扱いする迷路になります。精神疲労として起こりますが、迷路でもあり、楽山には常習として見られる症状なのです。
 
信仰者と非信仰者を問わず、誰にとっても「信じない宗教」は数多あるのです。当たり前なのに、それがおかしいと言っている楽山です。異教の神を信じないのは当然であって、それを「その宗教については無神論者」というのは、実に馬鹿げた詭弁です。長年の悪意で脳が腐っているのです。
 
「その宗教については無神論者なのである」・・信じない宗教の神は信じないという当たり前のことを、楽山は、その宗教では無神論者と、呆れた言い方です。「無神論」を強調したいのか、論理もどきの救いがたい詭弁で、印象操作でしょうか。驚きました。これは、何とも、愚かです。
 
楽山は、言論による真実追求の妨害者であることが、その幼稚な詭弁によって、明らかになっています。楽山には、真理発見!・・の気分なんでしょうか。小学生でもやらない曲解と詭弁です。恥ずかしくないのでしょうか。異教について無神論者とか、当たり前過ぎて、意味をなさないでしょう。
 
この詭弁は、例えば、正しさとは誤りのないことだ!大発見!・・と言っているようなものです。楽山は、人に見せる文章など書けない証拠です。真実追求など出来ない人です。楽山は、いかなる論理も評論も論文も思想も、公開文書として書くべきではありません。大迷惑です。退行しつつあるのか。
 
 

無神論者にしても、信仰者にしても、そういう分類は特定の立ち位置から勝手にレッテルを貼っているだけのことであり、さして意味のないことだと思う。

 
信仰者には、今を生きるため、という意味があります。全く意味のないのが、楽山であります。いつまで空しい言を玩ぶつもりでしょう。その都度、批判を書いているのに、反論も出来ず、受け取っていない空っぽの精神から、似たような自己中詭弁を、作っては書き、作っては書きしてきたのです。
 
言論の初心者であっても、心を込めて書いた文章からは、何らかの思いを受け取ることが可能です。しかし、楽山のような自己愛病質者に限っては、何も受け取れるものがないのです。全て、安っぽい嘘で出来ていて、それは、実質ではなく、抽象でもなく、とても有害な腐敗臭として鼻を突くだけです。
 
「勝手にレッテルを貼っている」のは、楽山であります。また、ブーメランで、楽山に返ってゆきます。救いがたい勉強不足の詭弁屋が、論文めいたものを書こうとすると、自己満悦の分、論理さえも、腐らせてゆくのでしょう。だから、意味など、どこにもない楽山です。
 
 

     

               自己満足の暴走
 
 
(2022年10月16日)
 
 
 
  夏から秋へ
 
天気予報がまた
夏から始まった台風の
遅い到来を告げる
しかし熱を吸い取られるように
すでに秋が来ている
 
緑から黄へ
紅葉へ
落ちてゆく前の
ゆるやかな命
きらめいて
やがて土の表を
流れ
土へ
帰る
 
かつて熱していたもの
色あせてゆくもの
身を引いてゆくもの
沈んでゆくものの
語録をゆっくり閉じてゆく
 
枯れてゆくもの
別れてゆくものの
見過ごしてしまいそうな
ほんの小さな元気を残して
 
秋の色と
思い出をたたんで
後ろ姿を見るように
汗をなつかしむ
 
大地はまわり
大気は移り
多くの肌に触れて
風と呼ばれる
知らず知らず
秘められた語録に向かって
 
 
  虫の音
 
物音は
集まれば集まるほど
耳に障る
気にすればするほど
大きくなる
集団の声は苛つく
人の声も 雑踏も
独り聞いた蝉の声も
蛙の声も
耳鳴りも
恐らく幻聴も?
 
波のように
あたり一面
姿のない虫の声
遠くか近くか
どれほどの数か知らぬが
ただ一匹だけ
窓近く
チロチロと
鳴いているのがいる
不思議と耳に障らず
寂しく泣いて
訴えているようにさえ聞こえる
 
眠れない夜を殺し
耳鳴り騒ぐ
眠れない夜を死なせ
秋の虫 なく
 
 
  排泄
 
折れた骨は
変形して固まっている
血も内部で冷えていく
わずかに臓器を残して
排泄する
老いてゆく自画像の裏で
手が動く
綴られなかった一日
読まれなかった行間見られなかった空間

排泄するために
欠けていく勾配
 
 
 森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを暴きたくて
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山は、どういう育ち方だったのでしょう。恣意だけが太くなって妄想化しているのは、よほど相対する意見が乏しかったか、楽山が無視してきたかなのでしょう。ここまで来ると、楽山の執拗さが、いちばん厄介な症状のように思えてきます。何を言われても、本人だけは、正常人のつもりなのです。
 
人格障害は、説得が効きません。矯正しようと思えば、賞罰による長期の条件付けしかないのでしょう。しかし、異常人格を、まだ人格だと思っている人によって、楽山のような言論破壊者が、まかり通っています。何か書くたびに批判が返される反復学習以上の、強制力が必要ではないのか。
 
楽山を真面目に相手にしてはいけません。また、楽山は、自分の過去と罪を無視しますから、楽山の現在を無視してください。楽山に出会うことはウンチを踏むより不運です。楽山の詭弁の罠に嵌らないようにするには、関わらないことだけが、予防策であります。関わることに何のメリットもありません。
 
 
 
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