ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の聖書曲解2

 
  楽山の聖書曲解2
 
 「第六講 神学者ビルダデ語る」(『ヨブ記講演』内村鑑三著)
 2020年07月30日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25699992.html
 
 
信仰者でもないのに、信仰の欠片も持たないのに、楽山は、なぜ、聖書について書いてくるのでしょう。それは、知っている、分かっている、読んでいる自分を誇るためでしかないのです。言動の動機が自己顕示欲だけの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
 

第六講を読了。内容をメモしてみる。
第8章の研究。
第8章に入る前に、まず前章について、7.17-18は、詩篇より引用か。
ヨブに限らず、「健全なる人にして、神が罪の故を以て我を苦むるとの霊的実感を味わいし人が少なくない」。
「ヨブの呟き」は、神より離れていないためのもの。神を離れてはこの呟きもなくなる。「全く神を棄つるよりは呟きつつも神を保つを優に勝れり」。
ヨブは友と語り、神に訴え、自己に語りつつ、少しずつ神に近づいている。

 
 (ヨブ記、口語訳)
7:17
人は何者なので、あなたはこれを大きなものとし、
これにみ心をとめ、
7:18
朝ごとに、これを尋ね、
絶え間なく、これを試みられるのか。
7:19
いつまで、あなたはわたしに目を離さず、
つばをのむまも、わたしを捨てておかれないのか。
7:20
人を監視される者よ、わたしが罪を犯したとて、
あなたに何をなしえようか。
なにゆえ、わたしをあなたの的とし、
わたしをあなたの重荷とされるのか。
7:21
なにゆえ、わたしのとがをゆるさず、
わたしの不義を除かれないのか。
わたしはいま土の中に横たわる。
あなたがわたしを尋ねられても、
わたしはいないでしょう」。
 (ヨブ7:17-21、旧約聖書
 
「少しずつ神に近づいている」・・ヨブは、神に近づいてはいません。背きそうな心情を、神に向かって、訴えているのです。楽山は、小学生レベル、偏見と先入観レベルであり、深い情緒を持っていません。楽山は、聖書について、何も分かっていません。楽山が書けば、それだけが表れてきます。
 
ヨブは、例えば、自分は、神にとって、何なのですか。監視していながら、神は全能でありながら、苦しみを与えるのか、なぜ、赦してくださらないのか、もう駄目になりそうです、というような、気持ちを、正直に、神に向けています。苦難の時にも、それを神に訴える分だけ、信仰者にとどまっています。
 
とどまっているのであって、近づいてはいません。人から、神に近づくことは出来ません。人は叫びのような祈りをすることがあるということです。楽山は、何も分かっていません。楽山を是としないでください。楽山は、何も理解せずに書いています。
 
楽山の「少しずつ神に近づいている」は、楽山の無理解を表しています。ヨブに賛同するのは、部外者だからでしょう。楽山にとって、信仰者を、楽山の考えるヨブの延長?として、最終的に、神から引き離すのが目的です。それだけ悪魔性が強いということです。
 
 

第8章において、ビルダデはヨブの子の死は罪のためとする。ヨブに悔い改めをせまる。「無情なる浅薄なる神学者」である。「ビルダデの説く所に多少の真理ががないではない。しかしこの場合にヨブを慰むる言としては全然無価値である」。

 
悔い改めも、信仰も知らない楽山が書いています。今までの、キリスト教と神否定の文言という自分の言さえ、なかったかのように無視して、あたかも賛同するようなことを書いている楽山の悪意の企みに、決して惑わされてはいけません。
 
信じる気など微塵も持っておらず、ゆるされることを、自尊のために、受け入れることもなく、分かったふうに、キリスト教にちょっかいだけを出してくる悪魔的存在に、決して近づかないようにしてください。悪質な、遠回しの誘導です。楽山は、神も、人も、いちばん恥ずべき自分も、見ようとしてはいません。
 
 (ヨブ記、口語訳)
8:4
あなたの子たちが彼に罪を犯したので、
彼らをそのとがの手に渡されたのだ。
8:5
あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、
8:6
あなたがもし清く、正しくあるならば、
彼は必ずあなたのために立って、
あなたの正しいすみかを栄えさせられる。
 (ヨブ8:4-6、旧約聖書
 
パリサイ的な、行為義認を、因果応報みたいに、ヨブに当てはめています。これで、悔い改める人はいないでしょう。
 
 

アブラハムの一夫多妻を記したのは、それが害であり、一夫一妻が善いことを示すため。ビルダデの無情さが描かれているのは反面教師としての意。
ヨブ8章と合わせて、コリント前13章を読むべし。愛なくば知識も信仰も空である。すべては愛ありてこそ。

 
楽山のように、愛も共感性もない者は、知識をひけらかしても空しいだけです。愛も共感もない楽山には、総てが空しいだけです。楽山が、コリント13章を挙げるのは、笑止であります。
 
楽山は、ただ、自分で自分を高めるためだけに聖書を読んだふりをして、学識と理解を装っている偽善者なのです。恐らく、楽山は、先入観抜きで、聖書を、例えばヨブ記を、まじめに読んだことはないのだろうと思います。
 
楽山は、寛容ではなく、情深いどころかサディスティックであり、また、ねたみ、高ぶり、誇り、不作法を省みず、自分の利益を求め、いらだち、恨み、仕返しを企みます。
楽山は、不義を喜び笑い、真理を憎み、そして、何も忍ばず、何も信じず、何も神に望みを置かず、何も耐えず、いちずに、復讐を企んでいます。楽山は、殆どサイコパス、凶暴で執拗な反キリストです。
 
自分の発信したブログの、背教の記事と発言を、ここでだけ無視して書いてくることこそが、楽山の、傲慢不遜の証拠であり、反キリストの頑強な悪魔性の証しなのです。書けば書くほど、白々しさが楽山を否定するのです。罠をかける悪魔の性質に酷似してきます。
 
 

ここで特に心に残ったのは三箇所。一つはヨブの呟きは神から離れていないからだというところ。神に対して否定的批判的なことを言うと、即、不信仰だの冒涜だのと責められることがある。でもそういうことは神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉なのだろう。

 
楽山は、本心ではなく、人心を惑わせる企みによって「否定的批判的なことを言う」人であり、キリストからも決して赦されることのない偽善者の一人です。またしても、楽山は、詭弁を弄しています。
 
楽山の言は、ヨブなどの信仰者の、本心からの、叫びに近い祈りとは全く別のもの、というより、逆であります。訂正不能で悪意だけのナルシストは、真っ向からのキリストの敵です。
 
楽山は、「神に無関心ではなく、縁がつながっているからこそ出る言葉」と言って、またしても、自分も批判したが、神との縁がつながっている、という自己正当化を図っています。
 
楽山の詭弁は、自己愛によるもので、正直な疑いを本心から訴えているヨブとは、全然、違います。
 
楽山は、いちずに読者をだまそうとしています。これが、楽山の本性です。自ら滅びを選んでいる者に、近づいてはいけません。楽山は、何も気づかず、笑っていると思います。
 
 

もう一つはヨブは友人から誤解され、責められて傷付くが、それが真理に眼を開き、光明に近づく切っ掛けになっているという指摘だ。苦は出来れば避けたいことではあるが、それによって真理に導かれるということもあるとすると、ここは神義論、弁神論と関連が出てくる。

 
ヨブが、友人から誤解されたのではなく、友人が、信仰を曲解し、思い込んで、ヨブを責めているのです。そのような者たちが救いの助けになることはないのです。楽山が、信仰?を語ると、このようなものに近くなるでしょう。
 
楽山の、神義論と弁神論の記事は、詭弁と嘘の、成り立たない理路だったし、いかにも、信仰を理解できない好事家が、でっち上げた自分信仰の産物でした。楽山に、聖書とキリスト教理解を求めてはいけません。言いように利用され、疲労と人格破壊をもたらされるだけです。
 
つまり、このような記事を書くこと自体が、信仰者の敬虔に反していて、偽善者に相当する楽山です。楽山は、神の前で、神に気づかず、役に立たない知識を振りまワズ自己顕示欲の奴隷として、あらゆる真実の追求に対する反逆者であります。
 
 

三つ目は著者がビルダデを強く批判しているところだ。「人情の機微をも知らずして、ただちにわが神学的断定を友の頭上に加えて得々たるところ」云々とかなり手厳しい。

 
 (ヨブ記、口語訳)
8:13
すべて神を忘れる者の道はこのとおりだ。
神を信じない者の望みは滅びる。
8:14
その頼むところは断たれ、
その寄るところは、くもの巣のようだ。
8:15
その家によりかかろうとすれば、家は立たず、
それにすがろうとしても、それは耐えない。
8:16
彼は日の前に青々と茂り、
その若枝を園にはびこらせ、
8:17
その根を石塚にからませ、
岩の間に生きていても、
8:18
もしその所から取り除かれれば、
その所は彼を拒んで言うであろう、
『わたしはあなたを見たことがない』と。
8:19
見よ、これこそ彼の道の喜びである、
そしてほかの者が地から生じるであろう。
 (ヨブ8:13-19、旧約聖書
 
「人情の機微をも知らずして」、まさに、楽山の拠るところは、蜘蛛の巣のような、罠に満ちています。神がいるならなぜ悪があるのか、と言って、神を否定した者が、今、信仰について肯定的であるかのように云々しているのです。精神の詐欺師であること以外に、何が言えるでしょう。
 
こういう者に掛ける言葉は、あっちへ行け!、以外には、ありません。
 
 

これには穴があったら入りたい心持ちにさせられる。というのも自分は某宗教の信者だったころ、その教義によって人を裁いてばかりいたからだ。「人情の機微を知らずして」教義を基準にしてああだこうだと人に説教していたのだった。しかもこういう悪癖は、今も完全に治ったとは言い難いのだから情けない。反省。

 
「穴があったら入りたい心持ち」、ならば、穴に入って出てこないでほしいです。こういう、心にもないことを平気で書くのが、楽山が吐く嘘の特徴です。そういう楽山だから、神に、キリスト教に、いちゃもんを、平気でつけてきて、今度は、聖書について知ったかぶりをしようというのです。
 
こういう聖書とキリスト教の記事を書けば、だまされる人は増えるかもしれませんが、楽山の、神とキリスト教に対して放った無反省の暴言を、あとになって、ほめ言葉を書けば、中和できる、反省しなくてもごまかせる、という企みであり、逆に、楽山の性根の腐れの証拠になってゆくのです。
 
楽山は、今でも、人情の機微を知らないことが、記事を書くたびに、ますます明らかになっています。共感による思いやりも知らず、ゆえに、肯定的なメッセージも、気味の悪い三文芝居か子供だましのレベルです。内村鑑三を引用して、字面だけ読んでも、心の無い楽山にキリスト教を語ることは出来ません。
 
キリスト教について、嘘を吐いて、しかも、その責任を負おうとしない楽山は、赦される道理がないのです。楽山の視野とは全く違うところに、楽山とは全く縁のないところに、キリスト教とキリスト信仰はあるとしか言えないでしょう。
 
楽山は、既に約10年ものあいだ批判対象となっている偽牧師で偽善者で反キリストであるシャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という信条?に賛同しました。
 
このことは、キリスト教もキリスト信仰も、全く理解していない証拠となっています。悔い改めなくていいキリスト教など、どこにも存在しないからです。
 
このような経過があるので、私には、疲労だけを与えてきた楽山を説得して、言うことを聞かせようというような意図は全くありません。楽山は、シャロームと、恐らく、カルト的つながりを持つ仲間であろうと思っています。説明や説得など、まるで通じない訂正不能の病的ナルシストです。
 
キリスト者でもなく深い理解も共感も伝えたことのない楽山に、宗教と信仰は手に負えるテーマではないのに、こちらが、いくら、おかしいところを指摘して批判しても、また、理解を装って書こうとする、この不感不応の醜い姿勢こそが、楽山の、おぞましい悪意であり、宗教と信仰への根深い怨念なのです。
 
情感も共感も理路も反省も、人生の学習を怠ってきた楽山には、不能になっていることを考えもせずに、悔いもせずに、あたかも別の顔であるかのように成りすまして、聖書と信仰の話を平気で書いて、それで何とかなると思っていることが、何よりも、殆どホラーに近い異常性として表れています。
 
 

       

             デタラメしか出てこない
 
 
(2020年)
(2022年08月08日、再録+加筆)
 
 
 
  死んでいます
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
  行きます
 
その日が来たら
私は行きます
彼方の彼方へ
私は行きます

私は来ました
と言ったように
約束どおり
私は行きます
一滴の涙を土に埋めて
誰にさよならも告げないで
私は行きます
だから待っていて下さい
きっと私は行きます
でもその日が来て
もし私に行く力がなかったら
彼方の彼方から
すぐそばまで来て下さい
そして私の手を引いて
連れて行って下さい
その日が来たら
約束どおり
彼方の彼方へ
 
 
  シンプルに
 
私はだんだん
シンプルになっていくようです
口数も少なくなりました
言葉もめっきり減りました
ああ太陽
ああ夕空
ああ星と星
といった調子です
身の回りは相変わらず汚れていて
身のうちには
たくさん傷や悔いや感動がありますが
もう深くはのぞけなくなりました
しあわせが浮いていくようです
それが私なのか何なのか
昔のことはだんだん忘れて
見るもの聞くもの遠のくようで
裏返し
と唐突に言ってみたり
口を開けてじっとしていること
ときどきできます
私はシンプルに
命になって
いつか少し笑って
目をゆっくり閉じて
いつか少し泣いて
あとは
あとは
おまかせします
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
「自分もそんな風です」と、「人間の性」という言い訳で、反省をしない楽山です。反省をしない人は、人間ではないのです。成長もないのです。したがって、そういう人は、人間としての発言は出来ないし、してはならないのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html