ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

信仰者の立場から(改、再録)2

 
  信仰者の立場から(改、再録)2
 
 
私は、もう長いこと、教会には行っていない。
教会を否定しているわけではないが、向かないと思ったことはある。
「誤解」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12445725961.html
 
 
今まで書いてきたことを、キリスト信仰の立場から考えてみようと思ったが、
思い出話になったかもしれない。
 
教会で説教を聞いて、心がふるえるほど感動することは、恐らくないだろう。
魂の救いを求めているけれど、それこそ、短兵急に得られると思うのは間違いだろう。
 
私が洗礼を受けるに至った経緯は、牧師の説教に感動したからではない。
聖書に興味を持ち、説教にも、興味くらいは湧いたと思うが。
讃美歌も、かなり影響を受けた。歌詞に孤独な魂の救いと感じることがあった。
 
牧師は、毎週、説教を考えないといけない職業である。
多くを、ましてや、総てを手短に求めるほうが無理というものだ。
 
 
聖書に忠実な説教や記事というのは、神とキリストを中心に書いてあることが多く、その中で、その時の神の意志と行為が書かれているが、神の意志と行為である。つまり、奇跡を起こしても不思議のない御方のなされようである。ときに残酷と感じるし、大方手に負えない。
 
キリストについては、教理が中心となることが多い。処女懐妊、数々の奇跡、十字架の贖い、肉体を含めた復活、超常現象としか言いようがないもので、それを否定することはできないが、超常ではない今の自分にとって、物や肉体の奇跡は、やはり、手に負えない。
 
物や肉体の奇跡が手に負えないという意味は、否定はしないが、驚きはしても、今生きていて、滅多に起こらないわけだし、生きる支えとして当てにするには、現実離れしすぎているという意味である。
 
聖書において、キリストと人々の心の交流の記事に比べると、超常の奇跡は、孤独からの解放にもなりそうにないということは、今までも書いてきたことである。
 
その奇跡だけで、驚いて、ありがたくて、涙が出るようなことは、私にはない。素適な説教でしたとありがたがる人は、ありがたがらなければならないという強迫観念があるのではないかとさえ思っている。
 
私の記事においては、キリストと、救われた人々の間の遣り取り、キリストの言葉、などを中心に書いてきたつもりで、祈りにおいて神に対しては立派な祈りや讃美を・・ではなく、神の前に正直でしかありえなかった人が、犯したであろう罪によらず、救われていることを書いてきた。
 
そして、キリスト者の善行は、信仰の結果に過ぎないとも書いた。高が知れている人の善行に救いの鍵はないと思っている。私が惹かれたのは、神を信仰することの真善美ではなく、神の前においてだけは正直であるということだ。既に総てをご存知の神の前に、正直以外は意味を持たないからだ。
 
聖書、特に、福音書を読む場合、どういう人が救われ、どういう人が批判されたかが、特に重要だと思っている。ここには、信仰生活の努力、すなわち、できることをする、という方向のようなものが暗示されていると思う。
 
 
私は、長いものでは10年間、批判記事を書き続けている。キリスト者の立場から批判をする、という人は、あまりいないようである。悪い言葉を使ってはいけない、という教えの誤解か曲解によるところの、批判=悪口、という先入観があるような気がしてならない。
 
 (エペソ人への手紙、口語訳)4:29
悪い言葉をいっさい、あなたがたの口から出してはいけない。必要があれば、人の徳を高めるのに役立つような言葉を語って、聞いている者の益になるようにしなさい。
 (エペソ4:29、新約聖書
 
キリスト者だと偽って、さらに、元牧師だと偽って、罪を認めず悔い改めもしない、という、とんでもない者がいるのに、さらに、キリスト教系、また、キリスト教内部から、カルトが出てくるのに、悪い言葉を使ってなならないという聖句は、批判しないことを正当化するための言い訳に過ぎないと感じる。
 
聖句を利用して正当化するならば偽善になってしまうのだから、批判をしたくないのなら、正直に率直に、そういう気にならないとか、苦手だと言えば済むことなのです。それで責められることはありません。
 
偽善者は、批判返しをしない代わりに、批判に対しては、嫌らしい当てつけや皮肉や決めつけなどの悪口を返してくる。詭弁も常套手段で、実際は、反論も弁明もできないからだろうと思っている。
 
それに関連しているような気もするのだが、敬虔というのを、腰が低く、口数少なく、控えめで、丁寧で、優しいことと理解して、実行ではなく、うわべだけを真似をしている人がいます。その者は、真っ赤な偽キリスト者です。
 
キリスト者、偽牧師の言です。
「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」
「悔い改めは神が与える」など。
 
私に言わせれば、敬虔は、神を恐れることから表れることであって、弱い自分を隠さないことであり、身振りや口数とは関係ないと思う。正しくなることは結果であり、正しくなることが信仰ではない。悔い改めは、それまでの人生と、生きるための軸が変わるということである。神の民となるからです。
 
「恐れる」を「畏れる」と書いて、神は恐怖ではなく畏敬だという考え方には反対です。言葉とイメージの辻褄合わせだと思います。
 
雷や嵐とともに顕れ、背く者たちを滅ぼしたりする旧約の神のイメージは、恐怖以外の何ものでもない。恐怖と同じくらい、仮に、人は神に直接出会ったら、おののくしかないと思っている。神について、私には、優しい父のイメージはない。
 
神に祈れるのは、キリスト・イエスがおられるからであることは言うまでもないことです。
 
信仰者は、辻褄が合うからではなく、孤独からの解放と癒しの恵みによって、
神は全知全能の創造主と、キリストは救い主と、信じるしかありません。
 
もしおられるなら、全知全能こそは何よりも怖いのである。総て既に知っておられる、というのは近づきがたい存在である。もしおられるなら、と書きました。存在の証明も出来ず、会ったこともないという意味であります。
 
神はいますよ!という確信を持つべきだと言う人は、心の中の偶像作りを促進するようなものだと思います。そういうところから、敬虔を忘れて、内なる高慢を、信仰として、ふくらませてゆく人もいるのでしょう。
 
 
キリスト者の、神についての認識は、非信仰者の常識を超えるものではないのです。聖書を読んだからといって、非信仰者と違って超常や神を分かっているなどと思い上がってはいけないと思います。
 
神は、人の認識の対象になるような御方ではありません。神は、人の認識の枠の中に納まるような、人の言葉で表せるような、事物と同じように対象となるような御方ではありません。
 
そこを勘違いして、分かっていると思い込んで熱心な信者気取りや、また一方で、逆に、矛盾しているから存在しないと思い込む無神論者が、いっぱいいるのは、嘆かわしいことです。
 
信仰は、絶えることのない希望であり、神はいる!と信じ込んで言い張ることではありません。
 
神がいるとは思えない世の中について、信仰者は、非信仰者との間には、反発ではなく、共感があるべきです。何故なら、信仰者は、そのような世の中だからこそ、信じること、つまり、唯一の希望として信仰することを必要としているという道を歩んできたし、歩んでゆくからです。
 
神について、分かっている、知っている、見えている、という発言や思想に対して、私は、とても気色が悪くなります。前に、教えを守って完全になれるのです、などと言ったキリスト教系カルトを、もはや人間とさえ思えなくなっているような気がします。
 
 
幸福になるにはどうしたら、ということが、ネットでも、あちこちでブログの話題やテーマになっているようです。その一つで、私はアドラー教と呼んでいるが、アドラー心理学というのを批判しています。
 
アドラー教は、人間の不完全な言葉の詭弁であり、ときに極端に断定し豪語し、ときに言い訳めいたことを、また、疑問に対して否定だけで語っているようで、両極端であり、一種のカルトだと思います。
 
気に入らないことは無視しましょうと言いながら、試行錯誤を必然として進めたり、完全を実現できるような高ぶった調子でありながら、できないときはできないと言い、それを補うかのように、ダメなら他のことに没頭すれば結果は出る、というような安請け合いの慰めを言うアドラー教を信頼できません。
 
聖書には、完全を目指したら、バベルの塔のことがあり、思い上がり浮かれてしまえば、ソドムとゴモラの滅亡やノアの洪水があり、キリスト信仰においては、何よりも、神の前で、パリサイ人のように自慢したり戒律の形式だけになってゆく堕落が書かれています。
 
 
人間が完全を目指すとき、あるいは自認するとき、安らぎであれ、成功であれ、人間の言葉の不完全さが、もろに表れてくるのです。パリサイ人は、ついには、キリストを殺すことになって最大の悪役となるのは、聖書を読めば、必然なのでしょう。
 
神秘を説くのではなく、神秘、特に奇跡を、そのまま信じこむのではなく、私たちは、どのような人が救われ、どのような人がキリストの敵となったかを聖書から考えるべきです。
 
 
嘘ばかり吐いて、それでも神は自分をどんでん返しの奇跡で守り救うと言い張っている偽牧師もいますが、失言と嘘だけが目立つようになり、どんどん壊れてゆくようで、いくら彼が、神は救うと豪語しても、キリストの名前に巣食っているだけの反キリストだと判断しています。
 
神はいつも優しく微笑んでいるばかりではないことくらい、聖書を読めばわかるはずなのです。恐らく、彼は、聖書も、ろくに読んでいない偽善者だと思う。裁きは、最終的に、神がなさることですが、人間は、信仰の節操を弁えていないと、自ら信仰の道から遠ざかり、偽善者となり、自らを破壊してゆきます。 
偽牧師の彼は、キリスト者と称しながら、人の話を殆ど受け取っていません。すでに通用しない自説を、また繰り返してくる始末です。今は所在不明となっています。反キリスト楽山の成りすましである可能性もあります。
 
 
神の前では、つまり一人で祈るときには、努めて、故意に嘘は吐かないでください。人に対して隠したり飾ったりしても、神の前では通用しません。神は全知の御方であり、既に見抜いておられるからです。そして、正直な祈りを捧げることに精いっぱい努めることだけが、救いに与る必要十分条件です。
 
悔い改めということについては、罪を犯さなくなることだとしたら、果たして罪を犯さなくなるだろうかと考えると、無理があるような気がします。神に正直に祈ることこそが、言い換えると神に祈り正直さに立ち返ることであり、世俗のほうから神のほうへ向きを変えることが、悔い改めだろうと思っています。
 
思わず、嘘を吐いたら、あるいは、言うべきことを言わなかったら、気づいたときに、また祈ればいいのです。それが、キリスト者の負うべき、キリストのくびきの負いやすさであり、キリストの荷の、言い換えると、負荷の軽さであり、また、神の限りない寛容であります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
11:28
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
11:30
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
 (マタイ11:28-29、新約聖書
 
ここに書いたことは、キリスト者のつもりでいる私という個人の見解に過ぎません。そして、私は、もっと心に響く信仰の考え方や感じ方があれば、見解を修正する用意があると思っています。
 
これは、とても大事なことで、修正不能になった信仰は、新しいことが受け入れられなくなり、成長しなくなり、言葉に、行ないに、儀式に、しがみついて、人の技の細工か習慣に過ぎなくなり、キリスト信仰の真実の深みを失ってしまうからです。
 
ゆえに、自分について、違和感を感じたり、おかしいと思ったときには、正直に祈ることが大切です。精神的にも、祈ること自体が発散になり、反省になり、癒しの効果を持つかもしれません。立派な祈りをしようと、きれいごとや理想や "べき" を並べるのは、癒しと赦しを求めたい心に反しています。
 
神は、偽りの通用しない御方ですが、正直な人に対しては、どこまでも寛容であり、キリストは、偽りの通用しない御方ですが、正直な人に対しては、命を惜しまぬほどに共感し、限りない愛を用意して、同伴されるでしょう。
 
信仰の節操は、負いやすく軽いのです。そして、信仰の情熱は、ときに、エロスの愛のように、一途でさえあり得るのです。
 
 

     

                進む力
 
 
(2019年)
(2020年)
(2022年09月27日、再録+加筆)
 
 
 
  神様の約束
 
神様は救うと約束されました
それは神様との新しい契約
生にあっても死に臨んでも
命の全ては神様の手の中にあるのだから
 
諦めるのは捨てることではなく
諦めると言えるのは
それで穏やかな目覚めを望むときだけ
 
ひとつの夢が断たれたからといって
諦めてはならないのです
多くの努力が報われなかったからといって
諦めてはならないのです
まだ心があり体があり
動かす手足もある
今できることから考えてごらんなさい
 
体が病んだからといって
病人と思ってはならないのです
まだ心がある
戦おうとしています
感覚し反応する
清流を求めてごらんなさい
 
心が病んだからといって
努力さえできなくなったからといって
全てを失ったと思うことはないのです
まだ体があり目があり耳がある
残された心が願うものを探してごらんなさい
 
身も心も病んだからといって
何もかも終わったと思うことはないのです
病んでいることは生きていること
まだ命がある
何かが動いている
動けるものを見つめてごらんなさい
 
起きてもいい
寝ていてもいい
何をしてもいい
何をしなくてもいい、でも
諦めてはならないのです
忘れてはならないのです
神様との約束だけは
 
※ これは、昔聞いた、あるクリスチャンの言葉から連想したものです。
 
 
  聖なるあした
 
明くる日は
あした
また来る朝も
あした
未知なる希望
消え入るごとく
ささやかに
 
聖なるもの
聖なるものよ
その道に至るまでに
怒りのパン種を懐に隠した
旅人が幾度つまずいたのですか
鶏が鳴く前に
何度
泣かなければならないのでしょうか
 
 
 ユダ
 
私はここにみる
誰よりも激しく主を裏切り
そして誰よりも激しく悔いて
悔いて改めるすべを持たず
主の復活を知らないまま
許されることを求めようもなく
自らを許さず
主に関わった様々な人々の中で
ただ一人自ら命を絶った男を
 
私はここに想う
主をユダヤの救い主と望んだがゆえに
イザヤに示された
茨の道を歩もうとされた主を
誰よりもよく知り、
激しく愛したがゆえに
誰よりも激しく憎んだ男を
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 
 
 
以下は、反キリスト楽山のコメント欄です。
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
この記事に書いたことに、理解することなく、笑いながら、背くのが、楽山です。ときに、世辞でキリスト教を褒めたりしますが、理解はしていません。人間ならば分かるはずの、共感性がないからでしょう。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)だと思っています。
 
楽山は、他力と自力で宗教を分けるという安易さです。キリスト信仰者は努力しないとでも言うのでしょうか。また、聖書についても、否定するために、奇跡の事実性に、いつまでも、こだわるという幼児的執着を見せています。宗教と信仰について、ひと言も信頼できない楽山です。
 
楽山は理解不能の人です。楽山を理解できないし、楽山は他者の意見を理解していません。安い理屈を論理学に見せかけて、勝ったつもりになる病的ナルシストです。訂正不能なので、議論や交流をする意義は全くありません。詭弁に振り回されるだけですから、接触があったら、関わらず、拒否してください。
 
楽山は、理路の代わりに詭弁を弄します。共感の代わりに芝居をします。最初だまされて、ひどく疲れます。正体を知ってからは、この世で最も軽蔑する対象になります。最初の数か月の遣り取りで病的な疲労を味わい、その後の3年以上、誰も同じ目に遭わないように関わらないように批判しています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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