ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

反面の者(改)3

 
  反面の者(改)3
 
 私の記事「反面の偽善者」
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12506066182.html
 を修正再録します。
 
 
信仰について
神の啓示と聖霊の導きが根拠ですから
議論の対象になりませんね・・などと言う人がいます。
 
(人が、どう受け取るかは、議論の対象になります。)
 
また、"ああでもない、こうでもない、ていうか、
それが信仰というものなのかなあ" ・・みたいな言い方をする人がいます。
 
(楽山などの、否定するための曖昧表現は、クズです。)
 
説明も解説も弁明も反論も反省もできない人たちは、
代わりに社交の世辞や曖昧な言い方をしてくるでしょう。
受け入れないと、次には、侮り、あざ笑ってくるでしょう。
 
ずっと神聖と人に向かって立小便をしているような
真実を排泄物に変えてゆく人たちです。
 
このような真実を求めない者になってはいけない
というモデルとなるために生きているのでしょうか。
 
罪の門口に行って
やがて来るものを待つためでしょうか。
 
 
御心は測りがたい。
 
偽善者の
謀ることは御心ではない。
 
神の前では総てが明らかにされ
というより既に明らかであり
反省しなかった者には弁明の余地はない。
 
私たち信仰者には
御心は測りがたくても
折に触れて反省はいくらでもできることが
神の賜物である。
 
信仰者は正直な告白によって祈り
 
偽善者は虚偽と不感不応の顔で笑って讃美しまくる。
嘘がバレないとでも思っているのだろうか。
 
神の啓示と聖霊の導きについては
人は、これがそうだとは言えない。
 
神の啓示と聖霊の導きを根拠にする者は
感じることと考えることを怠っているのであり、
既に信仰者ではない。
 
また、幼稚で滑稽な詭弁を
さも重要であるかのように
言葉の組み合わせだけ振り回す偽善者は
言葉の語尾にこだわるが
言葉の中身を考えていない。
このような者は
不遜に生きて腐肉を食らう者であり
怠慢に生きて砂を重ねる者であり
滅びを生きて自らの有り様を自覚できない。
 
ゆえに彼らは
人間としての能力全般が鈍くなり壊れてゆくのを
平安と呼び、恵みと呼び、信仰と呼んでいる。
 
彼らの褒め合い笑い合うに任せよ。
信仰者は
信仰にとって破壊者にしかならない者たちに
近づいてはいけない。
彼らは見え透いた嘘のように虚しい。
 
これらのような偽善者に関わってはいけないが
偽善者について知ることは重要である。
その対極に信仰があるからだ。
 
 
信仰者は神聖を
おのれの正しさの根拠にはできない。
神の啓示と聖霊の導きについては、
不完全な、ゆえに、罪深い人間は、
これがそうだと言える能力はない。
 
信仰に満たされたつもりでも
精いっぱいの人知をもって判断し行動する。
そして精いっぱいの正直さで神に捧げる。
そういう祈りだけが信仰生活を支えてゆく。
 
それを超えることは神に任せられるべきことであり
人は、神を恐れるならば、すなわち、信仰者ならば、
神の領分について多くを語れると思ってはいけない。
 
信仰者が聖書を読み
信仰者が語っても
説得力がないのを
御言葉だからと正当化してはいけない。
 
神の言葉は絶対だが
人の言葉は不完全だ。
 
聖句は神の言葉だが
人が受け
人が語るとき
人の理解の言葉となっており
既に聖ではなく
ゆえに特効薬の常備薬ではない。
人は神の言葉を語れるわけではない。
 
人の語るのは人知であり
判断に過ぎず
和しても闘っても
罪なき者は一人もいない
という共感を忘れてはいけない。
 
信仰者は正義に生きているのではない。
信仰者は罪の支配から解放されて生きる人間であり
神の正しさに人の正しさが遠く及ばないことを知って
決めつけて裁く自己正当化の生き方から
判断して行い神に告白する心を学ぶ生き方へと解放されている。
 
それは、
神に裁きを任せることと、
主イエスの同伴によって、
神の心になるのではなく
人間に相応しい心があることを知ったからである。
 
信仰は、不変の安楽を得ることでも売ることでもなく
神の前で生き、人の道を祈り求めることである。
 
 
 
キリスト者
敬虔なる異教徒を否定しないのは
安っぽい憐れみではなく
 
神が
キリスト教を通さずに
人を選び
使命を与え
守っている
という可能性を否定できないからである。
 
キリスト者の使命は
闘争ではなく
伝道である。
 
キリスト者が批判するのは
対象が無信仰だからではなく
異教だからでもなく
有害な雑言を語る対象者が
他者の人生の貴重な時間を奪い
無益な偏見の徒労と疲労へ誘導するからである。
 
 
 (エペソ人への手紙、新約聖書
実を結ばない暗闇の業に加わらないで、
むしろ、それを明るみに出しなさい。
彼らがひそかに行っているのは、
口にするのも恥ずかしいことなのです。
 (エペソ5:11-12)
 
 

     

             正体不明 色が 無い
 
 
(2019年)
(2020年)
(2021年)
(2022年09月28日、再録+加筆)
 
 
 
  保証のない契約
 
改めて保証のない契約について
私は語れたらと思う
生まれて初めて他者に気づき
生死の是非を自らに問うたときから
いかに私が裏切りを重ねてきたかを
 
しかし私は語れない
そのことばかりは
 
私は遊んで暮らすのです
転がるプライドを箱に納め
数々の諦めを袋に集め
泡立つ無知を吹いては鎮め
今日も春風に震えながら出掛けるのだ
行きて帰らず
それでもいいのです
目的地は着いてから探す
ああ埒(らち)もない
 
この春に芽吹き過ぎた
草木たちにでも聞いて下さい
私は知り得ないでしょう
なぜ見送ってしまったのか
この春までに散っていったものたちを
私が何度
馬鹿野郎と呟いたかを
 
 
  裏切り
 
肌と肌は
合わせられた汗が乾くように
いつか離れてゆくだろう
残されて冷めた皮膚の下に
毒々しい鮮血の筋肉を
ときおり凍らせ
ときおり焼きながら滅ぼすまで
影と影は
互いに召されたように遠く
いつか盲信のように
沈黙の厚い衣を纏(まと)い
すでに独りであることさえ
忘れながら踞(うずくま)るだろう
影は一滴の黒い雫(しずく)を落とすが
それは何処にも届かない
もはや土に帰るよりも先に葬られ
薄れゆく皮肉である
 
 
  空しさⅡ
 
いくつもの夕日を浴び
そのたびに月日が経ち年をとる
こんなに空しいことはない
 
いくつもの空に焼かれ
焼けてなお生き残る
こんなに空しいことはない
 
いくつもの朝に寝返りを打ち
目をこすって涙も出ない
こんなに空しいことはない
 
いくつもの間に人がいて裏切り
裏切り返して余命を削る
こんなに空しく
空しさは出て行き
命あるものは
帰ってくる強さを持っている
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
最近、楽山は、直接キリスト教を揶揄し否定するよりも、他のテーマで短く書いてくることが多いようです。しかし、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という体質的病魔の症状は、必ず表れてくることが分かります。長く書いても短く書いても、逃げ道は、細くなってゆくのです。
 
 
 
 (再考)

★こも/楽山日記3
@komo266
自力信仰では、この考え方が王道であり、正論だろうと思います。
ただ他力信仰では、信仰や救いは、本人の意志や努力によるのでなく、神の恵みであるとされるでしょう。
自力信仰は否定しませんし、信じるのはその人の自由と思いますけど、今の私はどっちかというと他力信仰の方をリアルに感じます。
引用ツイート
午前11:49 · 2022年9月25日
https://twitter.com/komo266/status/1573867259164233729

 
楽山のような自己中は、正論も正道も語れません。自らを制御する客観的な軸がないからです。自力だの他力だのと分かったふうに書いても、リアルに感じることのないのが楽山です。だから、評論家ぶって客観視みたいに装いますが、表面的で、しかも、自家製の結論しか書けないのです。
 
推測ですが、楽山は、リアルで自己実現が出来ないものだから、ネットなら何でもできるとばかり、嘘を吐きまくって、学者・知恵者・評論家気取りを謳歌していたつもりなのでしょう。しかし、書いたものに、性根も欠陥も表れてくるのです。誰も見ない丘の上で遠吠えする痩せ犬となっています。
 
楽山は、恐らく、自室の狭い了見しかない箱庭を世界と勘違いして、それを見下ろして世界を見ている幻想に酔い痴れていると思います。自分を見ることの出来ない無反省の視野が捏造する妄想世界で、世界と真善美を語っても底が知れており、いずれ、視野外からの訪問を受けることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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