ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の悪意の詭弁2

 
  楽山の悪意の詭弁2
 
 人生の目的と使命なんて
 2014年03月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/17512393.html
  を改めて批判。
 
 
かなり前の記事ですが、書けば、必ず、作為~悪意の詭弁~嘘偽りを込めてくる楽山です。今も、少しも変わるところがありません。どんなに批判されても、完全に無視するだけの、石ころのような、砂のような、泥のような、命のない流れが、異常人格を形成しているようです。
 
 

思い返してみれば
若かった頃は
すきなこと
やりたいことが
たくさんあった
そのせいか
人生の目的と使命なんて
あらためて考えたことはなかった

 
楽山は、人生の目的など、今も、考えていないと思います。やりたいことがあっても、努力をしないで、一気に超常世界のように、やれる世界が欲しくて、悪夢となって、怠惰の結果として、霊が分かるっぽい?という自覚を増長させ、結局、怠け者の現実離れとなっています。
 
目先の好都合な結果、即ち、目先の餌に食らいついて生きていると思います。それは、他者を、だますことによって得ようとするものです。楽山は、自分の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)ゆえに節操も賢さも失っているのです。楽山のようになってはいけません。
 
 

そんなことは考えず
ただすきなこと、やりたいことに夢中になっていた

 
今も、好きなように、やりたいように、人をだましています。コメントで、心の優しいお人柄などと言われたことを好んで、丁寧に書き、じわじわと、カルト的な思想を刷り込んでゆきます。楽山は、無反省で、無責任です。人を、あざ笑うことを求めているだけですから、近づいてはいけないと思います。
 
 

でも
いくつかの挫折のあと
宗教書を読んで
人生の目的と使命について教えられた
それで次のように考えるようになった
「自分が生まれたのは、この宗教と出会うためだった
この教えを学び、自らを高め
この教えを広め、人々を幸福にするためだ」

 
今までの発言から、宗教書など、楽山は読んでいないと思います。この3年近い経過で、楽山の読解力のなさと、自分に都合のよい言葉の表面だけを漁っている有り様は、ひどいものでした。有名人の口を、遠慮もなく、悪用してきます。楽山から、思慮の深みを感じたことはありません。
 
楽山を受け入れることで、誰も幸福にはなりません。だまされて幸福になる人はいません。むしろ、吐き気のするような醜い人間の有り様を見るだけです。それで、自らを高めたつもりなら、伸びるのは鼻毛だけでしょう。こういう、不潔な嘘を、平気で吐いてくる楽山です。
 
 

それから
月日が経って
今はまた
若かった頃に戻ってきている
自分のすきなこと、やりたいことに夢中になっている

 
だから、何なのでしょう。楽山は、ずっと、そうなのです。楽山にあるのは、企みであって思想ではなく、ペテンであって真実につながる何ものでもありません。楽山の、やりたいことは、人を従えて、コントロールして、操ることです。つまり、教祖願望に他なりません。
 
楽山の「自分のすきなこと、やりたいこと」が、えらくなりたい、インテリだと思われたい、柔和、謙虚だと思われたい、その結果、自己中、嘘の自慢、インテリ気取り、柔和芝居、謙虚芝居、などをしてきたということです。夢中になると霧中に逃げてゆくことになるのです。
 
 

神は××××の目的で人類を創造したとか
人生の目的と使命は××××であるとか
そういう考え方を聞くと
なんだか自分が
特定の目的のために大量生産される製品の一つに
されたような奇妙な心持ちがするようになった

 
そういう感じがしても、ふつうは、個性というものを生かすすべを求めるものですが、楽山は、現実をごまかして、嘘を吐くことに、それを見い出したのでしょうか。嘘吐きは、人の道にはなりません。罪になるだけです。嘘は、人生の目的にはなりません。
 
神と人との、祈りを通した関係を知らない者の言です。祈りにおいて正直であることが、現実における絶対孤独からの解放なのですが、楽山は、全く分かっていません。分からないのに、宗教、特に、キリスト教について、信仰も含めて、知ったつもりで、不遜で幼稚な、いちゃもんをつけてくるのです。
 
楽山には、詳しく知らないこと、経験のないこと、関係のないことについて、苦手だから語ろうとは思わないという常識的な思慮と遠慮が欠如しています。宗教と学問を分かっているふりをして、誘い、誘導し、否定してゆく、という楽山の詭弁と嘘に、決して、付き合ってはいけません。
 
大量生産と言えば、楽山の、嘘と、詭弁と、悪口、雑言の類であります。もちろん、製品にはなりません。誰も見たくない、楽山の独り笑い醜さに過ぎません。なんて陰湿なのでしょう。誰よりも、陰気臭く、かび臭い路地をうろついて、じめじめした陰に住んでいるのが楽山です。
 
 

やはり
人生の目的、使命などは
他から与えられるよりは
自分自身で決めたい

 
信仰者になることは、自分で決めていないというのでしょうか。度外れた認識です。信仰と自由意志の関係が分かっていないのです。自由意志で信仰し、自由意志で言動して反省するという道が、楽山には生まれなかったということでしょう。
 
楽山は、自分で決めて、柔和に見せかける罠を、今、仕込んでいるのです。この記事の筆致がそうです。その結果、騙される人が増えるだけで、気づかない人は、人格を破壊され、気づいたときには、楽山のような、成長ゼロの世界に、楽山といっしょに独り笑いすることになるでしょう。
 
このように、理解力の不足から、楽山の幼稚さは、書く文章ごとに、表れてきたのです。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の楽山は、説得力のある文章をかけません。その分、丁寧語の詭弁と嘘で、丁寧に見せかけて、精神の邪悪な湿地帯に誘導してきます。
 
 

他の人はどうか知らないが
少なくとも今の自分には
そういう生き方が合っているようだ

 
無理解で嘘偽りの生き方は、人間ならば、誰にも合うことはないのです。非人間だけが、嘘に生きる人生を笑って過ごすのでしょう。自分で嘘を造り、偽りを語って、無反省なら、真っ当な生き方になるわけがありません。デタラメな虚偽の人生を正当化しても無駄なのです。
 
自分のことだけなら、書いて公表する必要はないはずです。楽山は、また嘘を吐いています。他者を、自分と同じ方向に誘導する意図があるから書いてくるのです。そういう楽山の狡猾さと作為を知ってください。書いてくることの一つ一つに、まともを装う悪意があり、真実の要素は皆無であります。
 
 

 
楽山は、何年も前に書いた記事も、最近書いた記事も、省みることなく、ゆえに、無責任で、訂正不能に言い放って終わりのヘッピリ虫です。楽山の書いてくる文章は、読む人の考える心を腐らせます。楽山の、生きて地獄、死んで地獄の、道なき道の、笑うパニックです。
 
 

        

               深い闇の潜熱
 
 
(2021年10月12日)
(2022年10月13日、再録+加筆)
 
 
 
  希生不念慮
 
私が生まれたことも生きたことも
否定するのなら
父と母も否定することになる
なぜ父と母は生まれ
大きな中国大陸で二度も偶然出会ったのか
なぜ父も母も戦争で死ななかったのか
 
私には父としてのアイデンティティがない
子供がいないのだから仕方あるまい
父と母には祖父母としてのそれがない
孫がいないのだから仕方あるまい
 
仕方ないのは承知の上だったはずだ
しかし気づいてはいなかった
承知などというものの上には
乗らないものがあることまでは
 
生きることを正面から肯定することが
出来なくなってしまった私は
今になって顎を外してみても仕方ないのだ
それこそ仕方ないのだ
今になって物乞い
の手を伸ばそうとしても無駄なのだ
 
そうだ無駄なのだ
口に入らず手にも乗らない以上
私が病気と怠惰の間を揺れながら
それでも気泡の体を揺さぶる世界の
片隅にいる限り
私は私であってはならず
私以外のものであってはならず
 
ああ決してそれはならず
無駄なのだ私が持つことがあるとしても
ドラッグのように費やせるのは
まだ動き続けることの無駄が
貴重な一生を私によって流される
私の排水管の舌尖においてだ
 
 
 かなしみでもよろこびでもなく
  肉体からのメッセージ
 
わたしも宇宙の子・世界の子でした
わたしが細胞であったとき
分裂し増殖した仲間たちと一緒に
あなたを殺そうとしたり
懸命に生かそうともしました
 
はげしく従順であることも
おとなしく反逆することも
わたしたちには出来たのです
 
わたしの仲間たちはその度に
後事を若い細胞たちに託して
たくさん死んでゆきました
 
かなしみでもよろこびでもなく
わたしが髪の毛になったあとも
わたしたち仲間はぽろぽろと
あなたが不潔な暮らしの中で
たまに洗髪するときには特に
まとめて抜け落ちて果ててゆきました
 
かなしみでもよろこびでもなく
あなたが死んで焼かれるときには
もはやお供できないので
ここに認(したた)めておきます
 
あなたは長く病んでおられるようだが
わたしたちもまたいっしょに病んでいたのです
寝込むことや独り言や
人よりも機械と遊ぶことが
あなたは多いようだが
あなたの怠惰や悪意など
罪の軽重や多少にかかわらず
わたしたちから伝えておきたいメッセージが
ひとつだけあるのです
 
かなしみでもよろこびでもなく
わたしにはあなたがすべてでした
 
 
 
イエス・キリストの教えの、守ろうとすれば、無理難題としか思えないもの。
 
一、右の頬を打たれたら左の頬を出せ。
二、女を情欲の目で見たものは既に姦淫を犯したのである。
三、敵を愛し、敵のために祈れ。
 
一は、心の準備ができていたら、ある程度までは耐えられる人もいるかもしれませんが、限度はあるでしょう。これを実行せよと言っているわけではないと思います。神相当の愛が、いかに厳しいかを表現していると思います。
 
二は、十戒の姦淫の拡大解釈と思うが、正常な性欲を持っている男にはまず無理でしょう。十戒の解釈ならば試しに別の勝手な拡大解釈をしてみたらどうだろう。「人に悪意や殺意を抱いたものは既に盗み人をむさぼり殺したのである」と。罪の重さを表現しています。
 
三になると、死を覚悟しなければなりません。三の教えを守った人がいたとして彼が見事に殉教したあとで、敵はさらに愛する人々を数限りなく殺すかもしれないのです。神の愛というより、キリストの愛ということです。その通りに、キリストは十字架につきました。
 
キリストの教えは、完全な人は一人もいないということです。その文脈において、救いは、宣べ伝えられているのです。・・罪なき人は、一人もいないのです。
 
これらの教えは、守れ・・でもなく、できるだけ守れ・・でもなく、人が守れないことをご存知の上で語られたものです。守れないのだから、神の前に正直に告白して赦しを請うしかない、ということです。
 
私たち人間は、完全にはなれない存在です。ゆえに、神に正直に祈って、赦していただくしかない、という意味に受け取っています。そう読むことによって、キリストの、人に対する、限りない共感というアガペーの愛が表されているのです。その結実が、十字架なのでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山は、インテリを気取りながら、客寄せに、謙虚芝居、トホホ芝居をしてきます。丁寧語に騙されて、楽山を、心の優しい人と誤解することを危惧しております。何の足しにもならない月並みな言葉しか言えないのに、それに見合う、人間としての、悲哀の共感、謙虚、反省、学習などが全く見られません。
 
楽山は、恐らく、言ったら言いっぱなしで、しばらく経つと忘れて、平気で別のことを言い始める人なのでしょう。反省や責任とかは、概念すらなく、善悪の感覚がないとこうなるという人物です。発言の信頼度がゼロゆえに、交流することが有害無益でしかない輩(やから)です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html