ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

不明瞭な楽山

 
  不明瞭な楽山
 
 『メシアの法』大川隆法
 2022年10月27日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 http://mmknky21.blog.jp/archives/17346383.html
  を批判。
 
 
楽山は、短くて、いい加減な記事ばかり書いていると思ったら、今度は、長くて、いい加減な記事を書いてきました。楽山は、アンチHSという立場のはずですが、批判の根拠よりも、思いついたことを安易に書いていて、HS批判なのか解説なのか、分かりにくくて、焦点が定まりません。
 
楽山はHSを批判しているようですが、私は、楽山を批判しています。楽山は批判者としての資格がないからです。楽山は、嘘と詭弁、無根拠の妄想と決めつけ、曖昧な語尾や、混乱を招くだけの捏造した偽論理遊びなどで、読む人を煙に巻き、混乱させるだけの病原です。
 
「メモして」おくのは自由ですが、楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、それを、いちいち公開して、インテリを気取ります。例えば「メモしておきたい」という軽薄な乗りでキリスト教を否定的に弄(いじ)られては、たまったものではありません。
 
定まった見解を持てず、書いた責任を負えない楽山の病質が、秋を迎えて、また、枯れ葉の季節です。楽山は、どうしても批評家を気取りたいらしく、今回は、HS・OR批判を書いているつもりです。そして、アンチHSとしては疑問だらけの文章で、語尾を濁して、書いて、また、忘れるのでしょう。
 
 

*読書メモ
『メシアの法』を通読したので、特に興味をひかれた箇所について感想をメモしておきたい。
*暫定的な教え
まず本書の「まえがき」には次のように綴られていた。

まだ私自身が、最終目的地まで到達していないので、事実問題としては、中途報告的なものはあるであろう。
〈省略〉
これが大川隆法が満六十五歳で語った「メシアの法」(救世主の法)である。
(『メシアの法』大川隆法著、幸福の科学出版、2022年、p.1)
 」
以前から総裁は自分で自分の言葉を否定することがよくあるのだが、ここでは総裁自ら、自分はいまだ解脱できておらず、その言葉は永遠不変の真理ではなく、現時点での考えにすぎないことを認める発言をしているのはおかしい。
おそらく本人はそのような告白をしたつもりはないのだろうけど、結果的にそのように受け取られる発言をしてしまっているのだから仕方がない。これは、いかにも総裁らしい失敗だと思う。

 
楽山は、一度も「自分の言葉を否定すること」がありません。妄想的に無反省で訂正不能ですが、とても乱雑な思考で、一定した見解を持ち得ず、否定も肯定もせず、思いついたことだけを書いているのでしょう。そして、忘れてゆくのです。だから、責任など、最初から負う気はないのです。
 
 

*言うべきことは言う

従順であることは日本国民の美徳ではあるけれども、「おかしい」と思ったら、言うべきことは言わなければいけないと思います。
(同上、p.45)
 」
これは自分にも理解できるし、賛成もできる。意見を述べるには、時と場所、言い方などに注意は必要だろうが、おかしいと思うことについては、「おかしい」と声を上げることは大事なことだ。
明確な意思表示をすると、人から恨まれたり、面倒なことになることが無いではないが、それでも言うべきことは言わねばならないときはあるものだ。

 
「言うべきことは言わねばならないときはある」・・すっかり正義の批判者気取りですが、気取りだけで実質がない楽山を、うっかり受け入れてしまうと、計り知れない害毒を盛られてゆくことになります。果てしない嘘吐きであり、忘却の詭弁屋であります。白々しさが粉を吹いてくるタイプです。
 
楽山については、いつも「おかしい」と思うのです。言うべきことを言っても、全く無視して、不感不応なのが、楽山です。そして、成り立ちもしないような「おかしい」ことを、正義の見方みたいに、言ってくるのも、楽山です。社会とネットに巣食う悪質な塵埃です。
 
楽山は、言うべきでもないことを言う人です。また、言われるべきことを言われて、弁明できず、反省せず、忘れて平気なのも、楽山です。上のような批判をする資格を、楽山に与えるのは、犯罪者を総理大臣にするようなものです。楽山は、ペテン師であり、何も言うべきではない人です。
 
 

*不明瞭
総裁の言葉は、時折、意味が分かり難いことがあるのだが、やっぱり本書にもそういう箇所があった。たとえば、これである。

どうか、幸福の科学が発信する情報のなかで、今行われている政治や経済、あるいはマスコミの仕事のなかに、「間違っている」と思うものがあったら、一石を投じ、意見を言ってください。
やはり、「おかしい」というものには「おかしい」という一言を言っていただきたいと思います。
(同上、p.61)
 」
これは、「幸福の科学の行っている政治経済マスコミ批判は正しいと思うなら、『幸福の科学の言う通りだ。政治経済マスコミはおかしい』と声を上げてください」と同調することを求めているのだろうか。
幸福の科学の行っている政治経済マスコミ批判は間違っていると思うなら、『幸福の科学の行っている政治経済マスコミ批判は間違っている』とそう言ってくださって結構です」と批判を求めているのだろうか。たぶん、前者なんだろうけれども、どうなんだろう。

 
ごちゃごちゃと、めんどくさいことを、しかも、まわりくどく言うのが、楽山の特徴です。かつ、自分がどう思うかについては、言いません。つまり、雑言専用の口しか持っていないのです。かつ、それを丁寧語で包んで、書いて、いい気になっています。楽山は、時間の無駄を作るだけの男です。
 
 

*宗教と平和

唯物的な科学万能主義を抑止するものがあるとすれば、それは一つには、やはり、「地球全体のことを考える神への信仰を持つ、そういう、民族を超えて国を超えた信仰を持つ勢力が一定の抑止力になる」ということは確実だと思っています。
(同上、p.111)
 」
民族や国を超える宗教といえば、一神教を連想するけれども、一神教は果たして地球全体の平和に貢献できるものだろうか。現状を見る限りにおいては、一神教が対立と騒乱の原因になっていることが少なくないように思えるのだが…。

 
楽山は「一神教を連想」しても、まるで理解していません。言葉だけ、無遠慮の極みで、引用するのです。そして「一神教が対立と騒乱の原因」などと言っています。対立と騒乱を生み出すとすれば、無知がインテリを気取る楽山が典型でしょう。
 
また、楽山は、宗教の悪口を言っています。宗教を悪い例をもって決めつけていることを、指摘し批判しても、やはり、同じことを言い続ける無理解・無反省・無思考・鈍感の楽山であります。楽山は、言うには言うが聞かない、そのくせ、正義の論者だという妄想に駆り立てられて生きています。
 
 

個人的には、世界全体を民族や国を超えると称する宗教の影響下におこうとするよりも、宗教には民族や国を超えさせない、自国、自民族の宗教によって他国、他民族を裁かないという方が、全体の平和と幸福の増進に寄与するのではないかとは思う。

 
国が、他国を、宗教によって裁いているでしょうか。国の対立は、利害が主な原因です。利害が関係なければ他国の宗教など、どの国も、どうでもよいのです。楽山は考え方が幼稚です。楽山は、宗教が他国も何でも裁くから宗教は悪い奴だ、という先入観を刷り込んでくる無知の悪意です。
 
 

唯物論と個人崇拝

「無信仰である」ということは、「神や仏の目はもう意識しなくていい」ということなので、これは自動的に「地上で権力を持った者が“現人神”になる」という思想です。その人の考え方によらず、「人民からの本当の意味での支持を得ているかどうか」にかかわらず、最大権力を持った者が地上での“神”になるのです。
これは何を意味しているかというと、中国で言えば、「古代の暴君と同じような者が神を名乗れる」ということを意味しているということです。
(同上、p.123)
 」
神仏の存在を否定する唯物論国家では、指導者の銅像を建てて個人崇拝に向かう傾向があるという話は聞いたことがあるが、総裁はこの話を膨らませて語っているのだろうか。

 
人間には心があるのに、唯物論国家というのがあるのでしょうか。精神を持つのは、神仏だけでしょうか。救いがたいほど楽山の理路と言葉は雑です。こういう些細なところにも、オレサマが上という自己愛と自己中の高慢が表れてくるのです。自己愛病質者は一般常識も節操も分別も欠けてゆきます。
 
 

でも私は、唯物論国家における個人崇拝は、新興宗教における教祖崇拝(生き神様信仰)と同じようなものだと考えているので、神を自称する新興宗教の教祖が、唯物論国家の個人崇拝を批判する図は滑稽に思えてならない。

 
神仏なしで宗教なしの国家を、唯物論国家と、平気で言ってしまう楽山こそが、唯物人間です。楽山には真っ当な心がないのです。加えて、正しい理路もありません。それが自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)なのです。
 
そういう無情・唯物の楽山が、お高く留まって「個人崇拝を批判する図は滑稽」だそうです。一日も早く、崇拝されたい教祖願望のインスタント乾麺のような楽山を、決して崇拝することなく、吸うことなく、二度と関われないように、遠くへ排出するべきです。
 
 

天上の神の権威を認めない地上の人(生き神様)と、天上の神の存在を認めない地上の人(独裁者)は、神を畏れず、冒涜しているところは同じであって、どちらか一方が正しく、他方は間違っているということはないだろう。

 
「天上の神の権威を認めない地上の人」こそ、教祖願望の高慢から、神も人も貶めて、誰の批判も受け取らない楽山その人であります。頭も心もおかしいのに、指摘しても、無視・無反応で、平然として、また、書いてくるのです。相手にしないでください。楽山の言は、言論ではなく、症状なのです。
 
 

*共通項

日本の作家では、私と今、霊的に少し交渉があるというか、話をしたり仕事を手伝ってもらったりする作家としては、芥川龍之介川端康成などもいますが、こうした人たちはシャンバラに出入りしているので、かなり霊的な、精神的なインスピレーションは受けていると思います。
(同上、p.205)
 」
芥川龍之介川端康成の共通項というと、自死ということが思い浮かぶが、これはHSでは禁忌事項となっているのではあるまいか。
記憶はおぼろげながらも、総裁の見解としては、川端康成については大方の使命は果たした後だったので指導霊から注意があったくらいで済んだとのことだったと思うが、芥川龍之介についてはもう少し厳しい話になっていたのではなかったろうか。
どちらにしても自死した作家の霊たちと頻繁に交流しているというのは、HSの価値観からゆくと筋が通らない感じはする。

 
楽山は、ORの、川端康成芥川龍之介の "霊" の話に乗っていますね。そして批判しています。つまり、楽山は、自分は、OR以上の霊能者だと言っているのです。こういうところが、根拠のある批判と、無根拠の楽山の、言論における違いなのです。霊能優先?の楽山です。
 
「あるまいか」「なかったろうか」「感じはする」・・以前からの、ボンヤリ言語で、はっきり言えない楽山です。はっきり言って、責任を問われることが怖いのでしょう。ぼかしても、言った責任は、必ず、追いかけてくるのです。そして、いずれ、楽山の、いい加減さを追及するでしょう。
 
 

*嘘はつかない

宗教にも違いはあるのですが、幸福の科学では、「真理は真理で正しいけれども、ある程度、そういう社会的摩擦を避けつつ、正々堂々と広げていく、嘘をつかない」ということです。そういう、騙して入れたり、ダミーを使ってやったりするようなことはしないで、正々堂々の陣でいつもやっているのです。
(同上、pp.302-303)
 」
このくだりを読みつつ、ふと思ったのだけれども、総裁は霊言集の表紙について何らの問題意識も持っていないのだろうか。霊言集の表紙を、まるで本人の著作であるかのような体裁にして売り出すことは、嘘ではなく、騙しでもなく、正々堂々としたやり方であると…。
また香港の活動家の守護霊霊言を、まるで本人が発した言葉のように宣伝したことも、正々堂々とした行為であって、嘘でも騙しでもないと…。
もしそうであれば、総裁と世間一般とでは、嘘、騙し、正々堂々という言葉の意味は多少ちがっているのかもしれないなという気はする。

 
嘘吐きの楽山が、他者の嘘を責めています。「ふと思ったのだけれども」「かもしれないなという気はする」・・ボンヤリ言語で、ごまかしても、無駄なのです。人の嘘を責めれば、同じように、楽山の嘘も責められるでしょう。そのことを無視している楽山の卑怯さが、自身の人格崩壊を早めるでしょう。
 
 

*神学

オックスフォード大学だって、ハーバード大学だって、神学部からできているのです。ですから、神の教えを教える修道士をつくるようなところから、まず大学はできて、修道士たちが教えていたのです。それが「大学の始まり」なのです。
〈省略〉
こういうことを知らない人たちが大学の審議をしていて、「宗教の教えが入っているから、これは学問ではない。大学ではない」とか、「霊言が入っているから、学問ではない。大学ではない」とか言っているけれども、霊の言葉、あるいは神の言葉が降りてこなかったら、宗教など、この世で成立していません。ですから、「根本のところで理解していない」ということだと思います。
(同上、pp.321-323)
 」
総裁にとっては、キリスト教神学と霊言とは同レベルのものなのだろうか。「キリスト教神学が学問として認められるなら、私の行った霊言だって立派な学問だ。これを認めないのは間違っている」と。
『黄金の法』では、アウグスチヌスやトマス・アキナスについても書かれていたので、総裁は彼らの著書を読んだことはあるのだろう。熟読はしていなくとも、少なくとも、およそどういうものであるかぐらいは知っているのだろう。それでもやはり、霊言はキリスト教神学と同等、またはそれ以上に学問的だと考えているのだろうか。

 
楽山も、霊言を引用していました。"仏様の気持ちが分かる" と言うこともありました。不思議世界の使者でもあるかのような空想虚言のヒーロー願望があると思います。その実は、無反省、無責任、無理解、偏見、訂正不能、趣味の超常と現実の信仰の混同など、混乱を極めている不潔な病巣です。
 
 

もしそうであるばら、嘘と同様に、学問についての判断基準も、総裁と世間一般とでは多少ちがっていそうだ。総裁の考える学問とはどのようなものなのか、ぜひ聞いてみたいものである。

 
楽山は、人のことなど言っている場合ではないのです。楽山の判断基準は、世間からも、常識からも、正しさからも、遠いというより、自己中の欲のままに、デタラメだということです。楽山は、味方になるような人や、書物や、言葉を、好きなように利用して、言い捨ててゆきます。後には何も残らない。
 
楽山の「学問についての判断基準」は、殆ど、精神症状と言ってよいくらい、自己正当化に方向づけされています。そのような、救いがたい妄想的誤謬によって、楽山の見解は出来ていて、もはや、そのベースが改まる可能性はないでしょう。批判して3年以上になるからです。後には何も残っていない。
 
 
楽山にとって、生と死は、どういうあり方なのでしょう。信仰者は、限りある生を終えるとき、また、思わぬ不幸によって、寿命が縮まるとき、最後に身を任せる相手がおられます。そのような生き方のお手本となる救い主もおられます。信仰は、人生の最後においては、そのためにあるのです。
 
夢も希望もない悪事に毎日を費やしている楽山は、最後に、壊れ、腐れ、気を失ってゆくとき、自分に自分を救えとでも言うのでしょうか。それで、悪事は、御破算になるとでも思っているのでしょうか。楽山は、何の希望も救いもなく、唯物として破壊されてゆくことを実感することになるのでしょう。
 
 
この世の生が終わるとき、救われるのは、信仰者だけではないでしょう。神に、恐れをいだくか、少なくとも、神に対して、慎みを持つことが出来た人も救われるような気がします。聖書の神は、単なる救いの教理ではなく、神は、人の言葉よりも先に、心を見抜いておられるからです。
 
マタイ21:42-43
21:42イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、
『家造りらの捨てた石が
隅のかしら石になった。
これは主がなされたことで、
わたしたちの目には不思議に見える』。
それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。
(口語訳)
 
洗礼は救いの生命保険ではありません。神は、信仰の教条や、儀式ではなく、心を見られるのでしょう。私は、神に救われたいですが、半端な信仰者ですから、異邦人としてでも、神に裁かれるなら、嘆きながらでも裁きに従うでしょう。悪魔に遊ばれ裁かれるよりはマシだからです。
 
楽山は、神に悪態を吐いてきた今までの罪と、最大の罪である偽善によって、悪魔に引き渡されるとき、お得意の世辞と詭弁で悪魔をだますつもりでしょうか。そこでは、楽山の詭弁は通用しません。楽山は、お伽噺かホラーのように、ふざけて、汚言をもって、神を侮り、信仰を貶めてきました。
 
 

     

            悔いることのない似非評論
 
 
(2022年10月29日)
 
 
 
  森の虚像
 
美しい言葉 編んで
秋の森の木漏れ日の
落ち葉の中に佇んでいたかった
 
落ち葉を拾い
投げ捨てて
空を見上げる足元の
無数の陰に阻まれ
飛ばせない光の墓地
湿った森に伏して
枯れ葉を叩きながら
こめかみの動脈の
拍動を引きちぎるような
支離を閉じている
 
形あるものの
運命の崩れ
形なきものの
逆説の汚れ
そこにある
神の賜物たちの
ひとつひとつにこめられた
虚像と実像
まっすぐ立った虚像は
かすんでつかみようもなく
はっきり見える実像は
何もかも裏返しだ
 
不確定と確率と
不信が
本質になる世界で
まだ描いている
ほんの戯れではなく
ただ偽りを解きたくて
 
 
  ふくらむ陰と個
 
雨に濡れ風に飛ばされ
日に焼かれてもなお
個は個でしかあり得ないのに
ふくらみすぎた陰の中に
ちっぽけな影が没してゆく
 
個は集まり固まり
個々は要素の数になってゆく
 
にもかかわらず影は
ふくらみすぎた陰の中へ向かう
埋(う)もれてゆく虚像として
 
しかし当然そこには影の存在する場はない
したがって凍結も燃焼もできないまま
伝えようとする目論見は
陰という巨大な虚像の中で
鏡の枠に括られた自分が
常に自分とは違うように
既に語るに落ちて足りない
 
だから個よ
たったひとつの
あまりにも限られた真実でさえ
もはや死ぬことでしか伝えられない
 
しかし個よ
しかも死をもってしても伝えられない
さらに自ら死を選ぶことは
自らに纏わる真偽と虚実の伝達をも
ともに殺してしまうことに他ならない
 
 
  悪魔と基督
 
悪魔は密かに隠れて働きかけることを好むが
 
基督は常に顕れて意識されることを喜ばれ
またそのように導かれる
 
基督の負いやすい軛は
人間性の最も温かい部分に架けられ
ゆえに一度架けられた軛は人を捕えて放さないだろう
 
それゆえ人が基督を忘れようとしても
温もりを求めないではおれないがゆえに忘れられず
死や狂気や悪しき謀に走ろうとしても引き戻される
 
人が人の都合で神を選ぶのではない
神が神の都合によって人を選ぶ
 
肉の心と体が動くとき悪魔は陰で欲望をけしかけ
知恵に悪知恵を吹き込んでそそのかす
 
意識できない悪魔を探そうとしても大方困難である
悪魔は隠れ住むことに巧みである
 
しかし基督は既に明らかな絆によって人を導かれ
御自身も明らかなることを好まれる
 
ここに明暗は分かれ、光と闇は分かれる
闇は光に勝つことはなく
闇は光が来れば消えるか更に狭く隠れるほかはない
 
このように肉の心と体が動くとき
更に深く潜む悪魔を見出そうとしても至難である
 
強い軛によって私を放さないで下さい
という祈りによって明け暮れる日々は
人に与えられる分け前として
いかなる苦痛と苦悩の中にあっても
人が希望を楽しむのに必要であり十分である
 
 
  水と空気
 
ときに無常
ときに空しさ
 
形の定まらないもの
汚染されやすいもの
汚染されているかどうか
わかりにくいもの
 
しばしば意識されないが
無いと生きてゆけないもの
わかりにくく
必要不可欠
 
水と空気のような
知・情・意
分けられない心の中から
 
汗、涙、息、……
 
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
十字架の意味や復活のことは私には難しいですけど、キリスト教の入門書で、十字架上の言葉と詩編22の関連について読み、実際に詩編22を確認した時は目からウロコでした。
たぶん総裁はキリスト教の入門書も、聖書もきちんと読んでないと思います。
>>引用ツイート
10月25日
エスの天の父であるはずのORは、
「十字架上での刑死は失敗だった」
だの
「イエスは十字架上でエリヤを呼んでいただけだった」
だの
「イエスの復活は霊的な復活であり死体は弟子が隠した」
だの
キリスト教上の最も重要な救いと愛を全く理解していないのである。
<<
2022年10月26日
https://twitter.com/komo266/status/1585233144693002241

 
「私には難しいですけど」ではなくて、キリスト教も神も信仰も救いも否定したのに「目からウロコ」などと白々しいことを書いてくるのが、楽山の大嘘なのです。もはや、一言も信用できません。嘘しか言えなくなったのでしょう。無駄なのです。楽山は、霊ではなく零なのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山は、自分のことは、自己批判も反省もしない病質で、人に対しては、平然と批判をしています。身の程知らずは、ここまで来るということです。嘘を吐く楽山が、嘘を吐かないことを教えるなど、成り立つはずがないのです。これも一種の、楽山の性なんでしょうかね。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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