ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山は宗教の敵

 
  楽山は宗教の敵
 
 2022年11月03日
 大川隆法キリスト教(『メシアの法』)
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 http://mmknky21.blog.jp/archives/17442105.html
  を批判。
 
 
楽山は、たちの悪い反キリスト・偽善者です。しかも、相当に陰湿です。楽山と関わると、誘導の詭弁と嘘によって、その性質が伝染するかもしれません。楽山は、信仰の敵です。宗教の敵です。良心の敵です。罪悪感のない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
 

大川隆法キリスト教
 『メシアの法』を読んだら、キリスト教について語っているところがあったので、その部分についての感想をメモしておきたい。
*ドラキュラ?
まず大川隆法総裁は、聖餐式や十字架について否定的な見解を述べている。
「たとえとしても、非常に上品ではないたとえではあります。「自分の肉を食らい、血を飲め」と言っているわけですから、これはドラキュラ伯爵に先立つこと何百年前に、出てきたような感じです。「自分の肉を食べ、血を飲め」というのですが、気持ち悪いでしょう。
そういうようなことで、そのたとえ話は通じず、離れていった人も数多くいることは、『聖書』を細かく読めば分かります。」

 
楽山は、自分では、理路が整わず、共感性がないので、人の口を借りて書いています。楽山は、読書力がありません。言葉面だけを書いて、負の方向に誘導してきます。相変わらず、ホラー趣味で、キリスト教を侮辱して悔いない病質が表れています。信仰を理解できない恨みなのでしょう。
 
楽山は、キリスト教を、分かっていないのに、否定してくるのです。このような他罰性は、サイコパスの特徴です。実際には何も分からないのに、自分の憎しみと共通する言葉の表面だけを引用しては、そうだろ、そうだろ、と暗示して誘導してくるのです。人類の中で最も卑怯な部類だと思います。
 
聖餐式では、パンをキリストの肉として食し、ブドウ酒をキリストの血として飲む、という象徴的イメージを大事にしています。キリストが人間の罪の贖いとして十字架にかかったことを忘れないためです。ヘラヘラ笑って他者を軽く見る楽山には分からないので、アラ探しばかりするのでしょう。
 
 

「また、イエスは十字架に架かっていますけれども、その十字架がキリスト教のシンボルになるというのもちょっと信じられないことでしょう。これは、日本的に言えば、墓石か何かの形をかたどってぶら下げるようなものでしょうから、そうとう倒錯した宗教であることは間違いないのです。
(『メシアの法』大川隆法著、幸福の科学出版、2022年、pp.159-160)」

 
キリストの生と死が聖書に書かれているのは、重大な意味を持っているからです。それを受け取る感受性のない楽山は、自分の理路と感受性で言い返せないものだから、他者の言をもって、貶めてくるのです。とても卑怯です。倒錯しているのは楽山のほうで、根深い反宗教の怨念に生きているのです。
 
 

実を言えば自分も、キリストの体を食べ、血を飲むというのにはギョッとさせられるのだが、それでもその背景にはそれによってキリストと一体になり、清められるという思想があると聞けば、なるほどと思わないでもない。

 
「ギョッとさせられる」「なるほどと思わないでもない」・・いかに、いい加減な言葉を使っているかが分かると思います。これで、楽山本人は、まともなことを書いているつもりなのです。楽山の言葉は、有害であり、信頼度はゼロです。決して関わらないでください。偽者、偽善者の、典型です。
 
 

十字架がシンボルになった理由については、検索してみると、救い、勝利という意味かららしい。なるほど、生贄を捧げることで罪が赦されるという考え方からすれば、イエスの犠牲によって救われたとして、十字架を救いのシンボルとするのは理解できなくもない。

 
また「理解できなくもない」という曖昧な語尾による責任逃れのボンヤリ言語です。「救い、勝利」「イエスの犠牲」によって救われるということの宗教的な意味を、楽山は取引のような理解しかないために、口先で、玩(もてあそ)んでいるのです。なんという腐った根性でしょう。
 
 

私にとってキリスト教は異文化なので、その論理を理解するのは大変なのだが、聖書の神エロヒムの生まれ変わりだという総裁がその論理を解きほぐしもせず、倒錯と決めつけているのは随分とおかしなことだと思う。

 
まともな心を持っている人にとって、理解は、決して大変ではありません。生も死も大切にしない楽山のような知ったかぶりが、単純な短絡で、悪口と偏見の先入観をばらまいているだけなのです。理解できないということで終わりにせず、積極的に、偏見を植えつけているのです。
 
 

ジョン・レノンは、キリストである?

最近では、「ビートルズジョン・レノンも、イエス・キリストの少なくとも分身的な存在であるらしい」ということが分かっております。
(同上、p.181)
 」

 
ジョン・レノンは、数々の名曲を残したミュージシャンであって、キリストでも、キリストの分身でもありません。キリストは一人しかおらず、誰も、その代わりを務めることは出来ません。たくさんの心に残って響き続ける言葉が聖書にしるされています。
 
また、楽山のようなペテン師は一人しかおらず、誰も、その代わりを務めることは出来ません。つまり、楽山ほど、言葉が、いい加減で、何の糧にもならない人は、ただ、珍しいというだけです。死ぬまで、偏見をまき散らしてゆくのでしょうか。ならば、全否定されるだけです。
 
 

HSでは、無神論唯物論を強く批判しているが、天国も地獄も宗教もない世界を理想として語るジョン・レノンを、キリストと同一視するのはどういうわけだろう。おそらくはそれなりの理屈があるのだろうけれども、それでもやっぱり釈然としない思いは残る。

 
有名人を、平気で引用し利用して、けがれた楽山は、「同一視」「釈然としない」という、ほとんど意味のないことしか書けないのです。聖書から何も受け取っていないからです。楽山の、こういう曖昧な言い回しを、楽山のボンヤリ言語と呼んでいます。
 
 

ただ、何となくではあるが、これには霊的、思想的な理由は殆どなく、総裁の周囲にジョン・レノンの大ファンがいて、その期待にこたえるためにジョン・レノン霊格を高く設定しただけという気がしないでもない。

 
楽山の言うことを、真に受けないでください。有名人を引用するのは、有名だからという理由しかないのです。共感するという精神の機能が、楽山にはないということが、今まで、ずっと表れてきました。楽山の興味は、アニメとかホラーとかの、遊び半分の趣味以上ではありません。
 
楽山は「霊的」「霊格」という話にもっていかないと気が済まないのでしょう。その言葉に「高く設定」したなどと楽山が言っても、言葉だけ、霊が理解できるような辻褄を書かないではいられない無理解の楽山です。真実を知らないから、"霊" を付けて言い得たと思う醜さなのです。
 
 

総裁には教団の発足時に、元GLAの人の期待に答えて、高橋信次を高く評価し、霊言集をたくさん出したという話があるので、そんな風に思うわけである。

 
そうではなく、ただ、キリスト教に、いちゃもんを付けたいだけだと思います。楽山は、誰かを参考にして成長の糧にすることが出来ません。尊敬することも感動することもない楽山の人生に賛同すると、人生は、嘘と詭弁と悪意に満ちてゆくでしょう。楽山は、百害あって一利なしです。
 
 

*霊能力信仰?

彼の言葉や行動のなかには、この世的にはかなり倒錯したものもあるとは思うのです。だから、それが理解できないキリスト教徒は数多くいるでしょう。
例えば、「『この山動きて海に入れ』と言わば、しかなるべし」などと言っても、ちょっと、この世的には理解しがたいものがあります。
しかし、霊界では、そうした「アデプト」といわれるぐらいの人になると、霊界の山とかを崩壊させてしまうような力を本当に持っていますし、つくり変えてしまうこともできるのです。
 」

 
聖書の奇跡の話を聞いて「倒錯」としか思えないのが、反キリストで病的ナルシストである楽山の限界です。理解の深みや共感を読み取ることが出来ません。奇跡が分からないならば、保留すればよいものを、霊界の話に持ってゆくのが、無知と無恥の見栄が生き甲斐の、病的ナルシスト楽山なのです。
 
私はどうかと言えば、超常現象としか思えない奇跡については、人間の限界を超えているので、分からないと答えるでしょう。分からないことを分からないと言うことが、人に対しても、神に対しても、そこに正直な敬虔があることを表します。それを理解しないのが、病的ナルシスト楽山なのです。
 
 

エスの言葉には逆説的なものはあるとは思うが、総裁はそれを倒錯と表現しているのだろうか。こういう言葉の選び方には、どうも悪意があるような気がしてならない。

 
悪意と言えば、楽山において、曖昧な語尾などのボンヤリ言語で、保身と防衛を謀る分、「悪意」をごまかす詭弁として、「悪意」の最たるもの、つまり、偽善の典型であり、赦されることはありません。「倒錯」者は、他でもない、楽山なのです。病的ナルシストゆえに気づかないのです。
 
 

とはいえ、それはともかくとして、この聖書読解は疑問に感じたので、聖書の該当箇所を見直してみたら、こうあった。

エスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何にもない。」
(マタイ17.20)
はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。(マルコ11.23)
 」

 
楽山は、分からないのでしょうか。キリストの無理と思える教えは、神レベルの厳しさを持っています。信仰があれば、信じるならば、というのは、私たち人間には、完全な信仰がないことを教えているのです。楽山の聖書をはじめとする読書は、全く信頼できません。
 
 

この文章を読んだ限りにおいては、どうやらイエスは、信仰があれば、誰であっても山を動かせるとしていたらしい。難しい修行を積み、霊的覚醒を成し遂げ、特別な力を得た者だけが可能だというのではなく、信仰があればできると。

 
上に述べたように、楽山は、幼稚に短絡した解釈で、読者を惑わします。しかも「霊的覚醒」「特別な力」と言って、また、霊の話にしています。人間に完全な信仰は成立しないのです。だから、信仰者も、折々に、正直に祈って、神に、赦しを乞うことになります。
 
 

それに対して総裁は、霊的覚醒を成し遂げた特別な人物であってこそ、霊界の山を動かせるとしている。私にはどうもこれはあからさまな霊能力信仰であり、裏の考え方のように思える。

 
いつも、裏にいて、裏話ばかり語って、裏の悪意を、裏の気色悪さで、しつこく、口酸っぱく、繰り返し、性懲りもなく語って、評論家気取りなのが、楽山です。楽山の裏は、見抜きにくいかもしれませんが、くだらないことを、ネチネチと執拗に繰り返す執念が、傍証となるでしょう。
 
 

*イエス批判

十字架に架かったりするような、こういう、みすみすこの世的には命を失うようなことを好んでしたことを、「『この世的な知力』というか、『生きようとする意思』が弱い」、あるいは、「『生き延びようとする知恵』が弱い」というふうに見る人もいると思うのですけれども、これは、霊的覚醒の問題です。
(同上、p.236)
 」
これは他人の意見というより、総裁自身の意見だろう。たしか総裁は、次のようなイエス批判をしていたと記憶している。

 
キリストの十字架の意味を知らないのは、キリスト者ではないからでしょうが、楽山は、それを悪用して、HS批判のつもりでしょうか。人の悪口を言うだけに生きている楽山です。そして、自分が批判されると、何も、まともなことなど言えない出来の悪さを表してきました。
 
 

エスには自虐的な傾向があったので、十字架という悲劇を引き寄せた、アガシャー、クラリオと名乗っていた前世でも、イエスの時と同じような悲劇的な最期を遂げている、これに比べてエル・カンターレにはそのような傾向はないので、ラ・ムー、ヘルメス、釈迦…いずれの転生でも成功し、悲劇的な最期はない、イエスは十二弟子だけでなく、もっと多くの弟子を集めていれば、捕らえられ殺されることはなかったろう…云々。
こういうマウント発言も、そういう自分自身の発言を「霊的覚醒の問題」として否定しているところも、いかにも総裁らしいなと思う。

 
すごいです。前世を語り始めました。アンチHSではないと思います。自分が、宗教家気取りでいたいのでしょう。すごいです。エル・カンターレは、HSの用語でしょう。もう一度、言います。楽山はアンチHSではありません。
 
なお、キリストの十字架は、キリストの使命として、その自覚とともに、聖書に書かれています。
 
 

◇◆ 追記 2022.11.3 ◆◇
*至高神エル・カンターレ
『秘密の法』にも、キリスト教について語っている箇所があった。

世界に二十億人もの信者がいるといわれているキリスト教イエス・キリストでさえ、幸福の科学のなかでは、一人の指導霊にしかすぎません。その現実を知ったときに、「幸福の科学という宗教が、どれほど大きな力を背後に秘めているか」ということを、どうか知っていただきたいと思います。
(『秘密の法』大川隆法著、幸福の科学出版、2021年、pp.297-298)
 」
HSでは、もっとも偉い神様はエル・カンターレである大川隆法とされ、それ以外の神様はみな格下扱いとなるので、イエスについても上のような見方になるのだろう。イエスであっても、エル・カンターレが率いているHSを支援する多くの高級諸神霊たちのうちの一人にすぎないのだよと。

 
このように、人の言葉を引用~悪用しないと、楽山は、主張も意見も、まとめることが出来ません。深い思慮からではなく、他者を貶したい動機しか表れていません。宗教を、まとめて否定したいだけなのでしょう。宗教観を掘り下げることの出来ない楽山が、自分の迷路に落ちて、堕ちてゆきます。
 
 

 総裁は90年代に出版された書籍『フランクリースピーキング』の中で、イエスの悟りが手の平の上に見えたと語っていたが、上の文章を読む限り、どうやらその時の意見は変わっていないということなのだろうな。
こういう考え方は随分と傲慢ではあるが、大抵の宗教では自分のところの神様が一番偉くて、他の宗教の神様は格下だとか、偽物だとするものだろうから、その意味でHSも普通の宗教だということはいえるだろう。

 
楽山は、ORを利用したり、キリストを利用したり、引用が、どんどん、気持ち悪くなっています。考え方が傲慢な分、自己中は目立ってきます。「HSも普通の宗教だ」と言っています。バレたのでしょう。楽山の言は、アンチHSではなく、傲慢な教祖願望に過ぎないのです。
 
楽山の宗教についての感慨は、自己愛、自己中、無反省、無責任、無神経、粗雑、訂正不能、他者無視、読書自慢、様々な気取り、ヒーロー~教祖願望、・・などによって、成長しなかったし、成長しないゆえに、時が経てば経つほど、ほつれが目立ってきて、とても見苦しいものになっています。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の楽山は、結局、自分を書いているようなものです。楽山が、これは嘘だと言えば、そう言う資格のない楽山の嘘になるのです。楽山が書く批判が、全部、楽山に戻ってくるブーメランです。それにも気づかないのが楽山の根深い病なのです。
 
 

       

             自分のいない 嘘と詭弁
 
 
(2022年11月04日)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
 
楽山の害毒メモ:
 
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
偽善者の特徴でもあります。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
奇怪な単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
訂正不能の偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
慢心して中身の無い形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
手段を選ばない楽山は、自分で語れないことを、ORを引用して語らせます。そうやって、楽山は、だんだん自分を失ってきたのでしょう。自己愛の我欲だけで、他者のことばかり繰り返し語ることが、その標的になるのは自分だということを、忘れさせてきたのでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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