ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

自分を見ない楽山

 
  自分を見ない楽山
 
 大川隆法の人間観(『メシアの法』)
 http://mmknky21.blog.jp/archives/17366936.html
 2022年10月29日 
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
  を批判。
 
 
また、楽山は、何も表現も説明も出来ないのに、しまりのない文章を書いてきました。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が、いかに有害であるか、楽山自身が表さないと気が済まないようです。自分を見ない楽山、良心が育っていないゆえの醜態です。
 
 


大川隆法の人間観
 『メシアの法』の中で、大川隆法総裁は、人間は自己中であって、非常に貪欲なものだとしていた。
 動物的生存と言いましたけれども、私もよく「自己中、自己中心的になるな」という教えは説いているのです。なぜかというと、「自己中である」ということは、動物でも人間でも、自然体でなれることだからです。この世に生まれ落ちて育ったら、どうしてもそうなるのです。食べ物は手に入れたいし、それから自分の命は惜しいし、自分が死ぬぐらいなら、ほかの人に死んでほしいと思うし、食べ物が二人に一つしかないなら、自分のものにしたいと思うし、家も欲しいし、職業も欲しいし、いろいろなものが欲しいわけです。
 これは、当たり前としては当たり前のことなのですが、本能的に必ずそうなります。動物的なものからの延長上でも、そうなってはきます。 
(『メシアの法』大川隆法著、幸福の科学出版、2022年、p.271)
 」

前述したように、自己中になることは誰にでもできます。生まれつき、なれるのです。昆虫も動物もみんな自己中です。自分中心に餌を取り、自分中心に死を免れることばかり考えています。
人間だってそうです。みんな、基本的には、自己中に判断するようになっています。
(同上、p.318)
 」
こうしてみると、大川隆法総裁は性悪説を支持する立場のようだ。

 
性悪説にかこつけて、楽山は、自らの自己中の言い訳に、ORの言を引用しています。ここまで汚い人だと、自ら、悪意の詭弁をを新たにしています。自分を大事にすることと、自己中病質は違います。自分を大事にする人は他人を疎かにはしません。それが自分のためになると分かっているからです。
 
楽山は、後者の典型的な自己中病質です。人を、人とも思わず、詭弁の迷路で混乱させ、騙して、うまくいくと満悦する人格破綻者です。楽山は、説得も聞いているふりだけで、世辞を返すのが精いっぱいの、無理解脳なのです。自分の狭い視野を絶対としてしまうと、こうなるという例です。
 
 

性悪説と信仰
ちなみに、信仰の必要性について、性悪説の立場から説くと、このようになるだろう。
「人は自己中心的で、利害損得にこだわるものだ。したがって人に善を選ばせるには、善いことをしたら天国、悪いことをしたら地獄というアメとムチが必要になる」云々。

 
楽山と話し合うのは止めましょう。宗教を、性悪説や、アメとムチで、語ろうとすれば、道徳のようなものにはなりますが、信仰にはなりません。悪意も善意もあるのが大半の人間です。楽山のようなサディストだけが、悪意しか持っておらず、その自覚もないのです。
 
 

性善説と信仰
 一方、信仰に性善説を絡めて話すとこうなるだろう。
 「人の本質は善であるから、自由な環境では、ごく自然に善を指向することになる。したがって人が善を選ぶには、自由があればいいのであって、アメとムチ(天国と地獄)は必要ない」

 
楽山の空論です。本質が善ということを、善を希望するのではなく、極端な意味でしか語れません。楽山は、自己中の自分勝手を、自由だと妄想的に勘違いしています。楽山に「自由があれば」・・だから、今の楽山のようになってしまっています。
 
 

*HSの立場
 HS教義では、人は神の子(仏の子)であるとして、性善説の立場に立っているのではあるが、大川隆法は上のように人は自己中なものだとしていること、「人は信仰がなければ…天国地獄を信じていなければ…悪に流れる」という旨の発言を繰り返していること等からすると、性善説は建前で、本音は性悪説を支持しているということなのだろう。

 
楽山は、自己中の、殆ど欲望的低次元なので、性善説性悪説、という理屈の辻褄合わせで語りますが、良心を持つ人間は、もっと複雑です。そういう幅を持った話が、何も出来ずに、こっちなら云々、そっちなら云々と、決めつけを語って言い得たと思ってしまうのが、貧相な病的ナルシストの楽山です。
 
 

*疑問解決
「HSは人は神の子だとして性善説の立場に立ちながら、人は天国地獄を信じないと悪に流れるとしているのは矛盾している」と長らく疑問だったのだが、とりあえずこれで疑問解決である。

 
楽山の疑問は、解決不能です。楽山には自覚がまるで無いからです。楽山は、いったい何を解決した気分なのでしょう。楽山自身が狂った軸から、疑問解決などと、言うこと自体が、全て自己愛性人格障害の症状なのです。書けば書くほど、明らかになってきたし、そうなってゆくでしょう。
 
 

*利他的利己
最後に自分の考えを述べておくと、私は、人にしろ、動物にしろ、すべて自己中心的だと決めつけることはできないと思っている。たとえば、捕食動物から雛を守るために自らがオトリになる親鳥、スズメバチを退治するために自らが犠牲になることもいとわないミツバチ、群れの仲間を轢き殺した車に向けて、いっせいに石を投げたサルたち、大飢饉の際に自らの肉を子に与える親、家族の重荷にならないために自死する病者…動物にしろ、人間にしろ、このような利他的行動の例は多々ある。

 
楽山は、人間を考えるのに、動物を挙げて、利他的行動の例としています。楽山自身を例にしたらどうでしょう、楽山は語れない、語らない、利他的なところがないからです。楽山には、それこそ、動物の本能のような自己中の防衛反応しかないのかもしれない・・言動のパターンは一致します。
 
 

見方によっては、これらについて、すべて本能による行動にすぎないとか、その動機の中に利己心が皆無ではないとはいえない等と言うこともできなくはないが、それでもそれらの行動自体の利他性は否定できないだろう。

 
動物の利他性を語っておきながら、反論を恐れたのか、本能について、そう「言うこともできなくはない」と言いながら、「それでもそれらの行動自体の利他性は否定できないだろう」と話を戻してしまう乱れ方です。理路というより、駄々のような言い張りです。楽山には、こういうのが多々あるでしょう。
 
 

そういうわけで私は、人は総裁が言うほどには自己中ではないと思うし、総裁はよくもそこまで人の善性を信じないことができるものだなと不思議に感じる次第である。

 
楽山が、強烈な自己中だということです。しかも、その言い訳に、ORを持ち出し、動物を持ち出し、ボンヤリ言語で、結局、不思議と言って終わりなのです。何も語っていないより、理路に見せかけている分、悪質です。これは、楽山の常態であります。
 
 

◇◆ 追記 2022.10.29 ◆◇
*もう一つ
『秘密の法』にも、総裁の人間観が語られている箇所があったので、こちらも保存しておきたい。

やはり、どのような人にも、心のなかに利害関係というか、損得勘定があるので、修行をしていること、仏法真理の勉強をしていること、あるいは、学業や真理のために打ち込んでいることが、相手の利害と一致しているときはうまくいくと思います。ただ、それが一致しなくなることもあるでしょう。そういうときに大きく崩れてくることはあります。
(『秘密の法』大川隆法著、幸福の科学出版、2021年、p.184)

今まで自分を応援してくれていたような人が急に手のひらを返したようになるというのは本当に残念なことですが、「自分は純粋な信仰者だ」と思っているような人であっても、欲を持っているのです。
(同上、p.187)
 」
総裁は以上のように述べつつ、その実例として、HSの立ち上げの時には大きな貢献をしたが、その後、離れていった人物のことを話している。この人物はHSの中心にいたときは張り切っていたものの、教団が発展し、新しい会員が増えるにつれて、自身の地位と影響力が低下してくると、名誉欲などを満たせなくなり、そのために去って行ったのだろうと…。
私から見ると、その人物は「総裁は真理に背き、道から外れた。損得勘定からすれば、それでも総裁から離れない方がいいかもしれないが、自分にはそれはできない。自分は真理にのみ従う」と考えて去ったのではないかと思うのだが、総裁はあくまで自分は正しいと考えているので、去る人がいれば、その人は真理に従うより、己の欲望に流されたという結論になるのだろう。

 
またボンヤリ言語でありながら、自分の意見のために、他者を決めつけています。「真理のみに従う」「と考えて去ったのではないかと思う」と「欲望に流されたという結論」とを併記して、火の粉を避けたつもりで、醜い自己正当化になっています。そうして、後では、忘れてしまうのです。
 
 

総裁は、性善説を説く宗教家にしては、ずいぶんと殺伐とした人間観を語っていることに違和感があったのだが、要は、総裁は自分は絶対に正しいと考えているので、自分に従わない人たちに対する見方が厳しくならざるをえないということかもしれない。「私は正しいことをしている。それなのに信じてついて来ないのは、彼らが善悪を知らず、欲にまみれているからだ」という風に。

 
「自分に従わない人たちに対する見方が」最悪なのが「自分は絶対に正しいと考えている」楽山です。自己愛性パーソナリティ障害NPDからの無反省によるものでしょう。善悪を、自分の幼稚な知識と、曲解と、妄想と、決めつけないためのボンヤリ言語で、決めつけてくる、という惨事に至っています。
 
 

結局、人に優しく、温和な人間観を持とうとするなら、自分は絶対に正しいという思い上がりは捨てて、謙虚になることが大切だということなんだろう。実際、謙虚な人は、人に優しく、温和な人生観を持っていて、傲慢な人は人に厳しく、荒んだ人間観を持っていることが多いのも、これが理由かもしれない。

 
「自分は絶対に正しいという思い上がり」を一番持っているのが楽山です。決めつけていないとでも言いたいのでしょうが、語尾をやわらげても、いっしょなのです。「人に優しく、温和な人生観を持って」いると見せかけてくるのが、楽山です。訂正不能の「荒んだ人間観を持っている」からです。
 
 
 
 『安岡正篤「こころ」に書き写す言葉』安岡正篤
 2022年10月29日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/34633307.html
  を批判。
 
 

*概略
「はじめに」によると、本書は、名言集としてまとめられ、好評を得た小冊子『天籟の妙音』に新たな内容を加えたものであるという。
目次を見ると、安岡正篤の言葉は、以下のテーマ別に整理されている。自己修養、人生の知恵、日々の心得、「人望」という財産、成功する人、心と体の養生、人間の品格、学び続ける人生…と。

 
言葉だけ拾って、並べるのが、楽山の読後感想でしょうか。それで、読者家なんだと思ってもらいたいのでしょうか。読書家気取りだけで、言葉だけ引用して並べて、理解したかのように思わせる誘導でしょう。こういうのは、読書とは言えません。自己愛性人格障害の壊れた自慢に過ぎません。
 
 

*熏習
名言集であれば気が向いた時にでも、つまみ読みしたらいいだろうという軽い気分でいたのだが、本書を開いてみると、膝を打ちたくなったり、思わす背筋を伸ばしたくなるような言葉が並んでいた。
心に書き写したいと感じた言葉のいくつかを、ここにメモしておきたい。

我々は、何のために学ぶのか。何のためでもない。学ばなければならないから学ぶのだ。学ばずにはいられないから学ぶのだ。学問の第一義は、道心の長養でなければならぬ、道徳の発揮でなければならぬ。
(『安岡正篤「こころ」に書き写す言葉』安岡正篤著、三笠書房、2007年、p.202)
 」

我々は学んで初めてその足らざるを知り、教えて初めて到らざるを知る。そこで自ら反り、強めるのだ。
(同上、p.196)
 」

中国の最も突きつめた哲学では、人間の意識の内にあるようでは駄目で、いわゆる無意識、無でなければならん。人にほめられるようではまだまだ駄目で、人が気付かないくらい偉くならなければいかん。こういうのが理想なのだ。
(同上、p.165)
 」

何でもこつこつ根気よく努力を続けてゆくと、たとえ愚でも、それはそれなりに味が出てくるもので、俄造りはどんなに器用に見えても、必ず駄目になるものだ。
(同上、p.25)
 」
自分にとって、本書の言葉は自らの至らなさを思い知らせつつも、もっと頑張ろうという前向きな気持ちにさせてくれる本である。これなら多くの人々が本書の刊行を希望したというのも納得である。

 
「頑張ろう」「納得である」「膝を打ちたくなった」「思わす背筋を伸ばしたくなる」という褒め言葉だけの感想文というのも珍しいです。中身がありません。これで感想が終わりです。いつも、そういう具合で、はっとさせる洞察や、その切っ掛けさえも皆無です。
 
楽山が、何を書き足しても、思いつきの雑言だけだから、いっしょなのでしょうが、無駄を省くために、書かない、まだ書けない、・・という自覚と選択がないのが、楽山です。そこが、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)なのでしょうが、悪意の偽善者に見えます。
 
それで、インテリ・読書家・学者・評論家・批評家などを気取るのだから、傍迷惑です。一日も早く、ブログの読者を騙すのをやめてほしいです。ボンヤリ楽山が、褒められる日は来ません。また、楽山が、何やら宗教~カルトの、教祖になる日も来ません。
 
何もはっきり書かないことは、柔和でも中立でもありません。その時の定まった意見がないのならば、書かないことです。揶揄するだけの意見など書いてはいけません。書けば書くほど、いい加減さだけが、印象としても、評価としても、積み重なってゆくだけです。
 
 
楽山の成りすましか仲間の、シャロームshalom は、しばしば韓国の教会だけを引用していました。在日なのかもしれません。楽山も在日でしょうか。私は、特に嫌韓ではありませんが、人によるわけです。楽山はネトウヨで、A級戦犯を褒めていました。ネトウヨは在日・・という意見もネットにはありました。
 
 

      

            何もない 嘘吐き 裸の王様
 
 
(2022年10月30日)
 
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山とは、前に、数か月コメントの遣り取りをしたことがあります。何を言われても無視して、殆ど、こちらの理路を受け取らず、言いがかりだけを返してきました。混乱し、疲労しました。以後、楽山を批判して、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だと判断しています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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(古い記事は載っていません)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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