ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

気づかない楽山

 
  気づかない楽山
 
 2022年11月03日
 『秘密の法』大川隆法
 http://mmknky21.blog.jp/archives/17442653.html
  を批判。
 
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、自分の無責任に気づきません。素の自己中の立場を、まともだと思い込んで、そこから、他者に向けて書いているので、書いた文章には、嘘と詭弁と無反省と無責任など、害毒がいっぱい表れてきます。
 
ここまで、白を切り、嘘を吐き、詭弁を弄し、なおも他者に影響を与えようとするのは、サイコパスとしか言えないと思います。楽山の発言は、信頼度ゼロです。平気で嘘を吐きます。リアルでどう生きているのかを思うと恐ろしいです。
 
 

*まえおき
『秘密の法』を読んだので、その中で賛同できた部分、賛同できなかった部分について、記事の前半後半に分けて書いてみた。
 まず以下が賛同できた部分である。
*触らぬ神に祟りなし

全体的に見ておかしいと思うものからは、やはり、距離を取ることが大事ではないかと思います。
(『秘密の法』大川隆法著、幸福の科学出版、2021年、p.91)
 」
大川隆法総裁はここで、おかしいと思う宗教には近付かない方がいいとしているが、これには私も賛成である。
仮に、「この宗教は正しい」と確信を持って近付いたとしても、あとで「何か、おかしい」という違和感を覚えたなら、早々に離れた方が賢明である。

 
自分の「何か、おかしい」ところに気づかないのが、楽山です。生まれて一度も気づかないから、今のようになっていると思います。正しい宗教は、現実の個人の生活において、実感できることや知っておくべきことから気づきが得られることでしょう。楽山は、何も気づいいていません。
 
 

*責任

やはり、年齢相応に成熟して、自分のことは自分でできるようになり、あるいは、自分以外の人にも「責任」を負えるようにならなくてはいけません。
(同上、p.152)
 」
これもその通りだ。世の中で生きていくということは、その立場によって責任を負い、義務を果たすことを求められるということだろう。人の立場は、人それぞれ異なるので、その責任や義務の中身はそれぞれ異なるだろうけれども、責任や義務は世の中で生きている限りはついてまわるし、それらを果たしてこそ人は幸福を実感できるのだと思う。
 
楽山は、たとえば自分の言論について、全く責任を負わない人です。忘れるのかもしれませんが、否定を言い肯定を言ったから断定じゃないので責任問題は生じない・・と言っていました。丁寧語で、かつ、語尾をごまかす筆致もそのためだろうと思います。
 
 

*相性

世の中には「相性」というものもあるので、相性の悪い人もどうしても出てきますが、それはしかたがないことです。すべての人に愛されはしません。
(同上、p.160)
 」
 これもその通りだし、自分にもよく理解できる。世の中には、さまざまな個性を持った人たちがいて、それぞれ感性も、考え方もちがっている。それならその中に自分と気が合う人がいる一方で、合わない人もいるのは当たり前である。
 すべての人たちと仲良くするのが理想ではあるけれども、どうしても合わない人は敬して遠ざけるしかない。

 
また、自己中の自己正当化です。相性が合わないと発言の責任はないのでしょうか、違います。相性と責任問題は、全く別のことです。楽山のような嘘つきには、精神衛生上、関わるだけで、否定も肯定もない無責任ワールドの餌食となります。
 
 

*石橋を叩いて渡る

このように、自分自身を客観的に見て、平均率を見て、さらに、「細分化の原理」等を通して、「キャパオーバーでアウトになること」をできるだけ避けていくことが大事だろうと思います。
(同上、p.131)
 」
これはその通りだと思う。適度なストレスは必要かもしれないが、過度のストレスは避けた方がいいし、時には新たな挑戦をすることも大切だろうけれども、無謀な賭けは止めておいた方がいい。

 
楽山は、自分のストレスだけを避けようとします。ストレスを避けたいなら、何も書かないことです。言論は、双方が責任を負いながら進めることです。自分だけ、詭弁や嘘や論理遊びの迷路で遊んで、人にストレスを与えて笑っていられるのは、サディストです。
 
 

*学問

特に、あの世で長い間、地獄界とか裏側とかにいる人には、はっきりと勉強していない人も多いので、教学を続けている態度が、彼らの言葉や惑わかしを、ある程度避けることにもなるのです。
(同上、p.145)
 」
あやまちを防ぐには、人はいかに生きるべきかという意味での学問があった方がいいのはその通りだ。
学問があれば絶対に大丈夫だというわけではないが、ないよりは、あった方がずっと良い。

 
いかに生きるべきかは、学問だけの問題ではありません。そういう意味で、楽山が、キリスト教を、あまりにも幼稚な偏見で否定することを批判してきました。学問は、あった方が良い、という問題ではありません。言論に必須の条件である責任感と反省力を、楽山は、全く学んでいません。
 
 

*唖然
ここからは、賛同できなかった部分について書く。

まず私は、この発言はあまりに酷いと感じないわけにはいかなかった。
残念ながら、アッラーの神は向こうで応えたまわないのです。もう少し、“東”のほうに向かって呼んでいただければ光を送れるのですが、天上に向かって拝んでいるので、残念ながら聞こえていないことも多いのです。
(p.291)
 」
 これはつまり、至高神エル・カンターレである自分に向かって祈れということだろうか。冗談か、本気かわからないが、真面目に祈っている人たちに向かって、こんなことは言うべきではないだろう。

 
常世界の解説と、超常マニアの楽山の批判です。おおよそ、常識からは乖離していて、読んで理解するのは不可能でしょう。なお、楽山は、真面目に祈ることなど、一度もしたことはないと思います。祈る人であれば、今までの、厚顔無恥は無かったはずだからです。
 
 

神罰

「これらが、なぜ同時に起きるのか」ということについては、今は内緒です。ただ、まったくの内緒でもなく、少しぐらいは分かるかもしれません。「エル・カンターレが下生しているのに、人類はたるんでいる!」という意味での自然現象も起きているかもしれないのです。
(同上、pp.302-303)
 」
これはさまざまな自然災害の例を上げたあとの発言だが、まるでそれらの自然災害は、エル・カンターレである自分を信じない人々に対する神罰であると言いたげである。
前々から疑問だが、神様が「自分を信じない者は懲らしめる」というのは、神様が奪う愛をしているということであり、これはHSの愛の教えからすれば大きな矛盾になるのではないだろうか。

 
奪うというなら、神は、必ず、人間の命を奪うわけです。それが、肉体の死です。しかし、老化の果てに、まだ、さらに永遠に生きるなら、そのほうが、想像を絶する悲劇でもあります。神の凝らしめは、楽山においては、すでに起きていることでしょう。楽山が、罪も罰も、不感不応なだけです。
 
 

*礼儀

高級霊が来る場合でも、今はわりと普通に話をしているように見えていると思いますが、私が霊道を開いた最初のころは、もう少し畏れ多く、「遠い高い世界から来るものだ」と思い、「こちらも人間として、高級霊を敬わなければいけない」といった気持ちもありました。ところが、悟りの内容が、こちらのほうがだんだん高くなってくると、逆転してくるような感じがはっきりと出てきたので、これも相対的なものにしかすぎないのではないかという気はしています。
(同上、pp.26-27)
 」
この発言の背後には、他者との関係を霊格の上下で判断し、上の者は下の者に礼を尽くさなくて良いという発想が見て取れる。
また高級霊と立場が逆転してきたというのは、悟りが高くなったからというより、悟りが落ちて傲慢になったというだけのことだろう。
私は、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」という考え方に共感するので、より謙虚になり、相手を尊敬するようになるのでなくては、悟りが高まっているとは思わない。

 
楽山は、上下や、高い低いで、人間も神も判断しているようです。人間は、神より、明らかに低い存在であるのが、信仰です。そして、楽山の「実るほど頭を垂れる稲穂かな」に、いちばん反しているのが、楽山その人であります。またしてもブーメランです。
 
 

イエス・キリスト

世界に二十億人もの信者がいるといわれているキリスト教イエス・キリストでさえ、幸福の科学のなかでは、一人の指導霊にしかすぎません。その現実を知ったときに、「幸福の科学という宗教が、どれほど大きな力を背後に秘めているか」ということを、どうか知っていただきたいと思います。 
(同上、pp297-298)
 」
イエス・キリストは神のひとり子ではなく、たくさんいる指導霊のうちの一人にすぎないと…。
私は自分の傲慢さを反省することがあるけれども、総裁を見てると、そんな自分がすごく謙虚に思えてくる。というより、総裁を基準としてみるなら、世の中には傲慢な人は一人もいないことになるのではないかと思う。

 
また、楽山は、嘘を吐いています。楽山は、決して謙虚ではありません。傲慢を反省することもないと思います。楽山は、特別に傲慢であり、不遜であり、他者を滅ぼす異常者です。このような嘘吐きは、早く滅びたほうがよいと思いますし、何かのリーダーになることなど、決してあってはならないことです。
 
 

*一番?

日本のなかでは、「戦後において最大に発展した宗教」として記憶されるでしょうけれども、まだ、それ以上のものではありません。しかし、やはり、世界的に知られる必要があるのです。
(同上、p.331)
 」
総裁は、幸福実現党の選挙結果を知らないのだろうか。それとも忘れてしまったのだろうか。
幸福実現党の選挙結果をみれば、HSは「戦後において最大に発展した宗教」とは言えないだろうと思う。

 
楽山は、このように、他者のことを、批判というより悪口で、貶めることはしても、他者に良い影響を与えることは決してありません。この3年以上のブログの言動が、楽山の言を否定します。またブーメランです。楽山が他者を批判することは、楽山が自分の言に殴られることです。
 
 

*金縛り

幽霊は横回転に弱いようです。金縛り状態では、縦には起き上がれないので体が動きませんけれども、幽霊は、横に回転する動きを止める方法をあまり知らないような感じがします。
(同上、p.49)
 」
総裁は横回転で金縛りを解いた経験から、この結論を得たそうだが、これは幽霊がどうこうとうより、横臥している人は、縦に起き上がるより、横に寝返りを打つ方が簡単だということではないだろうか。
また至高神エル・カンターレの本体であり、偉大な霊能者である総裁が、金縛りにあうというのはおかしな話である。

 
楽山は、幽霊話を引用していますが、楽山を、金縛りにするのは、恐らく、楽山自身だろうと思っています。病識のない精神障害は、放置すれば、患者を破壊してゆきます。楽山は自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)によって、思い上がり、ゆえに、破壊されてゆくのです。
 
 

*脱毛症

ある女性に妬まれて、髪の毛が抜けて、丸ハゲがいくつもできた女性に、来ている生霊を特定し、「生霊退散」を私が命じると、一、二カ月で、髪がボウボウと生えてくるのである。
(同上、p.336)
 」
生霊退散を命じてすぐに髪の毛が生えたというなら奇跡かもしれないが、症状改善に一、二カ月かかったというのは、病院での治療効果が現れるのにそれだけの時間がかかったというだけのことに思える。
また結界に守られ、総裁の傍にいる女性が生霊の被害にあったというなら、これもまたおかしな話だ。

 
こういう奇跡話に、楽山が、その期間がどうとか言って否定してゆくという判断は、すっかり超常現象が分かる、判断できるという安易な自覚になり、魔界の審判員にでもなった自覚なのだろうと思います。超常現象を語って、超常の霊能者気取りに陥っているのもブーメランでしょう。
 
 

*昇進試験?

 また、「天使系」の方だと、あの世でも何段階かの試験を受け、イニシエーション(秘儀)を受けないと、上に上がっていけないことが多いのです。
(同上、p.74)
 」
天使が試験を受けるというのは、まるで漫画のような話であるが、HS的には漫画が現実の天上界の仕組みを写したということになるのだろうか。
総裁は、まえがきで「本書では、不思議なエピソードや体験が満ちあふれている」と書いているが、自分にはそこに神秘性よりも、どうしても漫画っぽさを感じてしまうのである。この意味で、HSは宗教というより、スピリチュアルエンターテイメントであり、サブカルだといった方がいいのではないかと思う。

 
魔法のような神霊の秘儀を受けると言うのは、キリスト教にはありません。秘蹟と言われているのは、神の秘密であって、神の為さることを、人は解説など出来ないという身の程を弁えるべきです。このように、カルトを、カルトが、批判しているというのは、どこまでも成り立つことはないのです。
 
楽山は、サブカルチャーにもなりません。楽山の無神教カルトは、エンタにはなりません。害を及ぼすだけです。楽山のようになったら、おしまいです。関わっている人は、直ちに離れてください。病識のない楽山に対しては、批判者以外、関わらず、逃げることだけが必要です。
 
サイコパスに対しては、治療薬はありません。言動の範囲を最小限に限定してゆくしかありません。それよりも、サイコパスの影響を受けないように、情報を拡散することが必要になるでしょう。緊急避難信号が必要かもしれません。人格が有害なら、その人格の影響を少なくするしかないのです。
 
 
 
 『安岡正篤「こころ」に書き写す言葉』安岡正篤
 2022年10月29日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/34633307.html
  を批判。
 
楽山は、しばしば、自分とは逆のことを勧めたり、そういうことが書いてある本を引用したりします。自分を悪から除外するための保身の悪知恵なんでしょう。醜い限りです。
 
 

*概略
「はじめに」によると、本書は、名言集としてまとめられ、好評を得た小冊子『天籟の妙音』に新たな内容を加えたものであるという。
目次を見ると、安岡正篤の言葉は、以下のテーマ別に整理されている。自己修養、人生の知恵、日々の心得、「人望」という財産、成功する人、心と体の養生、人間の品格、学び続ける人生…と。

 
3年以上見てきて、楽山は、自己修養をする気がなく、知恵がなく、心得もなく、人望は陰謀であり、騙しており、成功もしてはおらず、養生を乱すだけで、品格も学習も阻害するだけの、異常人格です。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の害を被らないようにする必要があります。
 
 

*熏習
名言集であれば気が向いた時にでも、つまみ読みしたらいいだろうという軽い気分でいたのだが、本書を開いてみると、膝を打ちたくなったり、思わす背筋を伸ばしたくなるような言葉が並んでいた。
心に書き写したいと感じた言葉のいくつかを、ここにメモしておきたい。

我々は、何のために学ぶのか。何のためでもない。学ばなければならないから学ぶのだ。学ばずにはいられないから学ぶのだ。学問の第一義は、道心の長養でなければならぬ、道徳の発揮でなければならぬ。
(『安岡正篤「こころ」に書き写す言葉』安岡正篤著、三笠書房、2007年、p.202)
 」

我々は学んで初めてその足らざるを知り、教えて初めて到らざるを知る。そこで自ら反り、強めるのだ。
(同上、p.196)
 」

中国の最も突きつめた哲学では、人間の意識の内にあるようでは駄目で、いわゆる無意識、無でなければならん。人にほめられるようではまだまだ駄目で、人が気付かないくらい偉くならなければいかん。こういうのが理想なのだ。
(同上、p.165)
 」

何でもこつこつ根気よく努力を続けてゆくと、たとえ愚でも、それはそれなりに味が出てくるもので、俄造りはどんなに器用に見えても、必ず駄目になるものだ。
(同上、p.25)
 」
自分にとって、本書の言葉は自らの至らなさを思い知らせつつも、もっと頑張ろうという前向きな気持ちにさせてくれる本である。これなら多くの人々が本書の刊行を希望したというのも納得である。

 
反省と学習の必要を説いている本のようです。「人が気付かないくらい偉くならなければいかん」というのは、目立とうとして自己主張するのではなく、目立たない努力が必要だということでしょう。勉強も学習も反省も努力もせずに、自己主張だけしてくる楽山は、この本に対する最悪の例であります。
 
 

        

               散乱する我欲
 
 
(2022年11月05日)
 
 
 
  郷愁
 
椅子にうたた寝しながら
誰かの呼び声を聞いた
低く小さい声
やさしげな声だった
 
果てしなく続く
原野を旅していた
暖かいのに
太陽はどこにも見えなかった
空は青くもなく
雲があるわけでもなかった
起伏に富んだ
果てしない原野
誰の心の中だろう
 
金網の向こうに山が見えた
濃い緑に包まれた山々が
どこまでも続く金網は国境である
警備している兵隊はいない
金網をつかんで
もたれていると
人の形をした黒い影のようになった
なったのが見える
それでいてどこか眠たく
金網の
一体どちらが祖国であったかなどと考えていた
 
海辺の岩に腰掛けていた
何故か苛立つ心を抑えきれない
もっと冷たく激しい風を欲して
でも白波のない海に
遠く釣り舟が一そう
よく見えないのに知っているような気がして
 
それが思い出というものだ
呼びながら届かない
呼ばれながら行くすべもない
海鳴りよりも遠く
やがて眠りを誘うだろう
見つからない故郷(ふるさと)のように
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山は、また雑な投稿を多数アップする衝動に駆られているようです。その分、中身は、単純に安っぽく空っぽになってゆきます。自分で考えなくなってゆく症状なのでしょう。整理して書くことが出来なくなってゆきます。言葉も乱れるでしょう。視野は狭小となり、考えもまとまらなくなるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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(古い記事は載っていません)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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