ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

焼き切れる楽山2

 
  焼き切れる楽山2
 
 『「死」とは何か』シェリー・ケーガン
 2021年11月28日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/31286432.html
   を改めて批判。
 
 
楽山は、どんどん支離滅裂になってゆくようです。しかも、自覚~病識がありません。その点、統合失調主に似ていますが、楽山は、そういう病気ではないようです。効く薬がない体質的な自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という病気だろうと思っています。
 
シェリー・ケーガンは、人気の大学の哲学の先生だそうです(ネットより)。その人の、死とは何か、という本を読んで、楽山は、何を思ったか、結局、アニメの話をして、いつものように、現実とフィクションを混同して結びとしているようです。楽山の文脈は、空想~妄想で出来ています。
 
楽山は、現実を語れないのでしょう。現実が、あまりにも悲惨だからかもしれません。実感の無い空想は、文脈から浮いてゆきます。それを書いて、公表して、人に見せるのは、恥が浮いてくるだけでしょう。結果として、人をだましたことにしかならないのです。・・実感の無い言葉は、文脈から浮いてきます。
 
 

*魂の存在について
タイトルにひかれて本書を開いてみた。著者の言葉によれば本書の前半は魂は存在するのか? 死んだらどうなるのか? などについて、後半は死をどのように理解するかについて記したというが、日本語版では前半部分はほぼ省略されているとのことである。自分は前半のテーマにこそ興味があったのでこれは残念。

 
このように、書かなくていいことも、無駄に文字を費やして書いてきます。楽山は、死とは何かについて、考えてなどいないと思います。死ぬ前を知っていても、死んだ後が分からない人間には、考えても、結論の出ないことことですが、楽山は、何も言えない世界について考えたふりをしてきます。
 
 

でも、日本語版でも著者の魂についての考えは明らかにされているのは有り難い。著者は「非物質的な魂の存在を立証しようと試みるさまざまな主張」について、次のような結論に行き着いたという。

私の見る限り、それらを念入りに検討することはたしかに価値がある(魂という概念はけっして馬鹿げたものではないし、軽はずみに退けるべきではないから)。とはいえ、そうした主張は魂の存在を信じるのにふさわしい理由を提供することに成功していないのだ。
(『「死」とは何か』シェリー・ケーガン著、柴田裕之訳、文響社、2018年、p.27)
 」
理屈で考えれば、これは当然の結論であるように思う。

 
「魂」という言葉は、意味の広い、言い換えれば、漠然とした言葉ですが、楽山にとっては、超常ホラーでの意味しか考えていないことが、今まで、明らかになってきました。その狭い概念把握だけで、「理屈で」「当然の結論」と評価してしまうところに自己愛性人格障害の短絡思考が表れているのです。
 
 

*「私」という存在
著者は、「私」の存続についても言及している。

けっきょく私が望んでいるのは、将来も存在し続けるということだけではなく、将来の私が、今の私がもっているものととてもよく似た人格を持っているということでもあるからだ。私はその人に、私のようであってもらいたい!
(同上、p.33)
 」
これも自分には興味あるテーマで、以前あれこれ考えたことがあった。

 
「あれこれ」を書けない楽山です。忘れたのでしょうか。今は、全体に、楽山が何かを考えているとは思えない経過です。だから「考えたことがあった」という、内容のないインテリ気取りだけを書いてくるのでしょう。楽山の書く文章は、無駄で出来ています。共感も賛同も出来るはずはないのです。
 
 

現在の自分は幼児期の自分のことはほとんど忘却しており、その頃の自分とは別人となっている、

 
「忘却し」たのに「別人」だと分かるのでしょうか。記憶の曖昧さを、忘却という言葉で表してしまう楽山の、文学気取りで、言論と表現についての理解の、浅さ、いい加減さが表れています。なのに、勉強もせず、学習効果もなく、迷惑も省みず、執拗に書いて、自己満に浸ろうとするのです。
 
 

このことからみると仮に魂は永遠であったとしても、現在の自分と比べれば千年後の自分はまったくの別人となっていることだろう、魂は永遠でも自分は永遠でないなら、そこには一体何の意味があるのだろう?

 
急に話が「永遠」に飛んでいます。さらに「千年後の自分」?!だそうです。楽山の詭弁は、辻褄も合わせ損なっています。「魂は永遠でも自分は永遠でないなら」・・永遠という超常言葉に、今のままの永遠を空想することこそ無意味です。何も受け取っていない証拠でしょう。
 
 

魂の永遠性など現在の自分にはどうでもいいことになるのではないだろうか? それとも現在の自分と千年後の自分はまったくの別人となっていても、そこにわずかでも連続性が認められればそれで自分は霊と同様に永遠だと満足すべきなのだろうか? などなど。

 
「自分には・・ないだろうか?」・・自分のことを、誰に、なぜ聞いているのでしょうか。そして、現在と千年後を比較しているつもりでしょうか、「連続性が認められれば」・・どうやって確認するのでしょう。「永遠だと満足すべきなのだろうか」・・滅裂は、滅裂の結論を生んでゆきます。
 
 

*トチロー
また著者は「私」は人格であるなら、将来その人格をアップロードできるようになったら、それも「私」と言えるかどうかについても論じている。これはキャプテンハーロックアルカディア号と一体となったトチローはトチローと言えるかどうかという問題と通じるところがある。

 
トチローは、検索するとアニメに出てくる架空の人物ということですから、つまり、ここは症状として、娯楽と学問や宗教を、区別できず、思考において混同してしまう楽山の崩れ方です。楽山の知性・感性が、いかに、粗雑であるかが分かるでしょう。それにしても、唐突に、テーマの次元が変わってゆきます。
 
結局、アニメの話にしかなりません。ここで、アニメの話しているのに何言ってるの?とでも言いたいのでしょうか。フィクションとリアル混同は、楽山が、キリスト信仰を否定した時の筆致と似たようなもので、中身のない罠をかけて遊ぶ人だということになります。哲学もアニメも、いっしょの楽山です。
 
人を愚弄した者は、逆に、愚かだという結論になってゆきます。遊んだつもりで、遊ぶことしか出来なくなった人というレッテルを自分に貼ってゆく楽山です。哲学も、哲学者も、アニメも、いっしょにオモチャにして、侮辱してゆく自己愛の、成長しない身の程知らずの、お遊戯模様です。
 
 

個人的な感覚ではオリジナルこそが「私」であって、コピーはコピーでしかないように思えるが、オリジナルは長い期間に変化して行き、ちがった存在になってゆくだろうことを思えば、コピーの方がかえって正しく「私」であるようにも思えてくるからややこしい。

 
コピーは云々・・と、自分のコピーを知っているのでしょうか。楽山には、アニメ、フィクション、空想と現実が混乱しているようです。こういう人が、哲学者を引用して、真面目ぶった記事を書いてくるのです。あっさり自分をコピーして、意味もなく、どっちがいいなどと空想を語っているだけです。
 
 

こういう現実化する可能性の低い仮定の問題はいくら考えても仕方がないことではあるが、「私」とは何かを考えるための思考材料としてはなかなかにおもしろい。

 
楽山の空想であって、現実でも思考でもないのです。楽山が、今後、いかなる学問用語を引用しても、「おもしろい」などと言っても、畢竟(ひっきょう)、このレベルだということを知ってほしいです。決して、相手にしてはいけません。楽山は空っぽですが、本まで空っぽにしてゆきます。
 
 

*この先どうなる?現実ではなく空想
本書はまだ第1講しか読んでいないのではあるが、この先はさらにいろいろと考えさせられそうで楽しみである。ひさしぶりのアタリ本かもしれぬ。これからちょっとずつ読みすすめるつもり。

 
「この先どうなる?」が心配されるのは、楽山のほうなのです。死の問題ではなく、楽山の混乱なのです。哲学ではなく、アニメでもなく、楽山の、軽くない、傍迷惑な、体質的精神障害の問題なのです。3年前から、いや、恐らく、ずっと前から、問題は、そこだけなのです。妄想を真に受けてはいけません。
 
 ※
 
感慨として書いておきますが、私は読書障害の傾向があって、すらすらと本を読むことが出来ません。ゆっくりじっくり読んで、ようやく文脈を把握するという癖がついています。それで、1ページ程度のブログというのが性に合っているようです。
 
 

      

             浅く浅く舞い上がる
 
 
(2021年)
(2022年12月19日、再録+加筆)
 
 
 
  人が飛ぶとき
 
秒速何メートルの風で
時速何キロの風で
人は飛びますか
鳥や虫は
風がなくても飛びます
人が飛ぶためには
何が必要でしょうか
途轍(とてつ)もない強風?
何のことはない飛行機の切符
ワンウェイ・ティキッ
崖(がけ)っぷち
そろえた履き物に込める悲しい怒気?
それとも眠りに落ちて夢に飛ぶ?
人が飛びたいと思うのは
位置を失うか
位置が嫌で
嫌で嫌で
きりきりと突き上げ
抉(えぐ)るような痛みのときに
すでに最後の一線に向かって
飛び始めていることに
人がまるで気付かないとき
 
 
  管と道
 
一時的ならまだしも
長期にわたって
あるいは死に臨んで
あらゆる管を突っ込まれ
管だらけになってまで長らえることを
望まない人は少なくないだろう
もともと管だらけなのだ
管もしくは道
血管・リンパ管
気管・気道
消化管・尿管と尿道
外分泌は管を通って管へ
内分泌は直接血管へ
さまざまな道筋
道と管
細い道を通らなければならない
細い管が大切だ
太い管には管を挿入できる
それで命が助かることもある
しかし管を挿入できない細い管
毛細血管
そこでの営みが生命に直結している
毛細血管に管を突っ込むことは出来ない
あまりにも細く
絡み合っているから
 
 
  川
 
仰向けになっている体の
頭から足の先へ
流れていく小さな川がある
目を閉じても
天井を見ても流れている
 
浅いようだ
ゆるやかではない
川面が跳ねたり踊ったりしている
 
かすかに音を
伴い続けて流れる
脈管ではない
拍動もない
確かに小川だ
流れ以外は見えない
流す力は持たず
勾配にまかせて
少しく急ぐように
しかし絶えることなく
流れつづける
流れつづける
沈んだり浮かんだり
 
眠らないまま
動かない体は川になって
流れるものを許しつづける
 
 
 
トラウマケア専門・こころのえ相談室

www.kokoro-ashiya.com

 
自己愛性パーソナリティ障害の人は、居場所のなさや寂しさに耐えれないので、秘密事が多く、平気で浮気するタイプか、特定の相手に執着するタイプに分かれますが、狡賢く、平気で嘘をつき、その行動についての罪悪感や罪の意識がほとんどないと言われています。
 
自己愛性パーソナリティ障害の男性は、初対面が好印象であることが多いです。
常に有利な立場に居ながら、相手を支配下において、人間関係をコントロールしています。
 
自己愛性パーソナリティ障害の人は、辛い気持ちになったら自分でどうすればいいのか分からなかったりします。苦痛から激怒を引き起こす場面では、怒りの感情をうまく処理できず、後先の人間関係を考えず、その怒りを対象にぶつけます。
 
普段から、自分を元気にするために、非日常空間にハマり、楽しいことを探しに行くことが大好きです。
自己愛性パーソナリティ障害の人とは、言い争うことを避けた方が無難です。
自己愛性パーソナリティ障害の人は、自己中心的で、狡賢く、自分のことしか考えていなく、相手を本当に思いやることができません。
 
自己愛性パーソナリティ障害の人と長時間関わると、疲れ切ってしまうかもしれません。毎日、顔を合わせなければならないなら、ボロボロになる前に逃げ出すことも勇気ある行動になります。
自己愛性パーソナリティ障害の人は、小さい時から、ありのままの姿でいられなく、おとなしく暗い自分は嫌なので、仮面を被り、自分を作っています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html
1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら 誤ったら 素直に詫びて 自分 正さなくちゃいけない」「それが出来て 初めて人間だと それ出来ないなら 人ではないと」
「嘘ばかり 重ねる君よ 保身だけの 卑怯者の君よ そんな君は 魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと 最大限の反省と共に 開いた出店を 畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 
2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。
 
 
誰かが注意しても、聞く耳を持たない楽山は、反省も謝罪もしておらず、邪悪な性根の根深さが治りません。「人間の性」「自分もそんな風です」などと言って、人間一般のように、醜い詭弁の言い訳をしていますが、成り立ちません。人間離れの楽山固有の悪と罪と偽善です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
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