ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

神と偶像2

 
  神と偶像2
 
 
祈るときに
祈っている相手が神であるか否かは
神と呼ぶかどうかではなく
祈る弁えによると思います。
 
実に神の名を盛んに唱えながら
自尊と自己中の独り合点で
神を口で讃美しているだけの者や
やたら神について語る者がいます。
 
神について語っても
それが
心の中の飼い犬つまり偶像であったり
おとぎ話の超常の主人公であったり
自分の辻褄の中の要素に過ぎなかったり
有頂天の陶酔気分であったり
神という言葉の乱用しか出来ない者がいます。
 
異教の神ということではなく
聖書を根拠としていても
解釈が与える神のことだけになっていて
自分の正当化のための神?になっている人がいます。
戒める神や懲らしめる神を考えないのでしょうか。
神に、愛される、愛されていることだけになっているのです。
聖書に表された神は、そのような神ではありません。
 
ひどいのになると
悔い改めさえも神が与えると言って
罪を認めず悔い改めない者もいます。
そして平気で嘘を吐きます。
これは、さすがに極端な偽善と詭弁の例です。
 
神の愛は寛容ですが
それは人が自ら悔い改めるためであって
正直な告白を
神は待っておられるのです。
 
行為義認ではないですが
救われるのは
信仰を神の前に表すことですから
信仰は行いと無縁ではないのです。
 
つまり行いとして必要不可欠なのは
正直に祈るということです。
 
罪人としての告白と
赦し、癒し、慰め、導きを願い
祈るのが信仰です。
 
しばしば私たちは
神に逆らっているのですから
祈りの回数ではなく
正直さだけが信仰を表します。
 
神は寛容であって
人を見捨てることはしません。
 
偽善も罪として告白すれば
本心から告白すれば
罪として赦されるでしょう。
何故なら
偽善を正直に告白したとき
偽善は、もはや偽善ではなく
一つの罪となって
その人は赦される対象となるからです。
 
告白されない偽善は
いつまでも
神の前に罪を認めず
嘘を吐くことですから
神を偽ることです。
 
キリストは
ご自身の前に正直な人を救いました。
キリストは
罪をお赦しになりますが
罪を認めず善に見せかける偽善を
むしろ自由意志によって神を騙そうとする行いとして
決して赦さなかったのです。
 
キリストの父なる神以外を神?とすることを
偶像崇拝と言います。
 
偶像は、教えを守れないでいる自分の罪を
神の前に隠すために用いられます。
物としての像だけでなく心の中の偶像もあります。
むしろ後者の方が大きな問題となります。
 
偶像崇拝は偽善であり
また、神に対する、神の前での直接の背きになるのです。
 
神の前に
先ず正直であることを第一義に考えてください。
 
罪を悔い改めると言いますが
私たちは
自分の罪の総てを知りえません。
したがって
今は罪はないと思うことも罪なのです。
 
罪は悪魔の誘惑ですから
あれとこれが罪というふうに
人間に分かりやすいはずはないのです。
 
ゆえに、私たち人間が、
見えている、分かっている、知っている、守っている
と言うことも、思うことも、罪なのです。
 
私たちは、神の御前で、生きているのです。
隠れているものも、隠したものも
神は既にご存じなのです。
 
気づかない罪にまみれている私たちが
神の前に出来るのは
たかだか精いっぱいの
この正直さを表すことだけなのです。
 
 
全能者との違いを自覚して
執り成しの救い主を覚えて
神の寛容とキリストの愛に対して
少しでも正直な告白をする気になれる人は
洗礼の有無にかかわらず信仰者だと思います。
 
何故なら
父なる神の子主イエス
誰であれ
ご自身に正直な人の告白を無視されるような御方ではないと
聖書から学んでいるからです。
 
 
(2020年02月03日)
(2021年02月16日、再録+)
 
 

    f:id:stdsts:20210215235226p:plain

              信仰・希望
 
 
※ 
 
 楽山のツイートですが
 https://twitter.com/komo266/status/1361261270041698306
 
 
楽山の目的が、聖書にケチを付けることにのみある、ということが、よく分かります。聖書の姦淫の罪を犯した女についての記事ですが、
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
8:2
朝早くまた宮にはいられると、人々が皆みもとに集まってきたので、イエスはすわって彼らを教えておられた。
8:3
すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、 8:4「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 8:5モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
8:6
彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。 8:7彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 8:8そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
8:9
これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
8:10
そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
8:11
女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕
 (ヨハネ書8:2-11、新約聖書
 
この聖句について、説明らしいことが書かれています。
 

(聖書)ヨハネによる福音書に収録されている「姦淫の女」のはなしは、イエスにまつわる美しい話として特に有名なものであるが、これは後世に付加されたことが明らかになっている。聖書のよっては、ちゃんと括弧にくくられている
 」
 
キリストにまつわる美しい話だけでなく、キリストが、どのような人を救ったかということ、即ち、信仰によって救われるとはどういうことか、ということを表している重要な話の一つなのです。
 

心機一転★こも楽山
@komo266
·9時間
手元にある新共同訳を確認してみたら、〔〕でくくってありました。
ネットで検索しても、あとで挿入されたものだという話が出てますね。

 
楽山は、「姦淫の女」の話を、軽薄にも、後世に付加されたことをもって、否定したいのでしょうか。この話が伝えていることには、一切触れずに、「後で挿入されたもの」ということだけを取り上げています。つまり、楽山は、中身を読み取ることなく、あとで付け加えたのなら作り話じゃろ・・という短絡で、否定してしまう人だということです。
 
聖書を読むに値しない人がいるとしたら、この楽山のような人でしょう。否定するためにだけに読んでいる、ケチを付けるためにだけに他者のコメントを引用する、こういう読み方は、聖書に込められたインスピレーションを受け取る器を持たず、ゆえに、理解しようともせず、おとしめるためにだけ自分を出して、チクリ刺してくる蚊のような根性だから、パチンと叩かれるだけなのです。
 
この聖句を、揶揄の材料にして、ケチを付けるだけ、否定するだけ、けなすだけ、という楽山は、つまり、楽山のような人には、聖書を読むために必要な感受性がない、即ち、聖書全体についても、楽山が、救いを受け取っていない、ということです。
 
ケチをつけ、文句を言っているだけの野次馬には、聖書が説くところの、狭き門から真実への道が、救いとして開かれることはない、ということを、聖書が表し、楽山が、その見本となっているということなのです。
 
聖書を読めない愚か者が、定められていたかのように引っかかって、聖句を無駄にしている様子が表れています。楽山は、愚か者であるにとどまらず、それを、言いふらして、信仰そのものを、けなして侮辱してくるのだから、その有害性は明らかであり、反キリストが、自分は反キリストだと宣言していることになります。
 
ケチをつけたつもりの楽山が、逆に、自らにケチをつけて、信仰とは縁のない自分を表しているだけで、聖書の大事なところを理解しようともせず、ただただ、キリスト信仰をおとしめたいだけの楽山の体質です。まるで、どこにも進めないものだから、小石を投げて、ペッペと唾を吐いてきます。
 
 
あとからの加筆を、楽山もしているようです。
 

心機一転★こも楽山
@komo266
·7時間
〔〕は、「新約聖書においては、後代の加筆と見られているが年代的に古く重要である箇所を示す」とのことです。

 
なお、中身の重要性について、楽山は、書いていません。文献として記事を引用しても、その中身の重要性について、楽山は理解できないのでしょう。
 
 
(2021年02月16日、同日一部加筆修正)
 
 
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楽山のペテン2

 
  楽山のペテン2
 
2020年02月08日
 「信じてもいい理由と信じてはいけない理由」ドーキンス
 http://mn266z.blog.jp/archives/23439198.html
 楽山日記(LD)
  に対する批判記事を加筆して再録。
 
 
楽山は、またしても、無神論の学者らしいドーキンスの本から引用して、ゴタクを並べてきました。既に、私は、楽山の、見当違いの宗教・信仰理解を、批判してきましたが、楽山は、何の反論も弁明も出来ないにもかかわらず、また、書いてくるのです。
 
楽山は、まだ、HSや、アドラー教から自由になっておらず、また、およそ、実質のない自らの心霊理解にも囚われたままであることが明らかになってきたという経過です。もしかしたら、楽山は、カルトを捨てたのではなく、カルトに捨てられたか、あるいは、新たなカルト形成に向かっているのかもしれません。
 
楽山は、人の言うことを無視することに快感を覚えるのかもしれません。経過することの内容に、楽山は、関心をすべて捨てることができる異常者なのでしょう。笑っているとしか思えないほど、平気で無視するのでしょう。
 
そうやって時間が経過して、私のほうには、楽山批判が、2年分蓄積されてきました。どこまでも無視する楽山に対して、批判するほうは、はてしなく批判を積んでゆくことを、務めとするしかありません。そういう場合、結果は、読者に委ねるしかないのです。
 
つまり、誰も、楽山に関わることのありませぬようにと、願うしかないのです。決して、楽山を変えることではなく、あとは、正常な神経を持っている読者が、害虫のように楽山を嫌い、楽山を相手にしないことを期待するしかないということです。そのための根拠が、楽山批判であります。
 
楽山は、本当に、恐ろしい生きものです。いつまでも、自分を見ず、はてしなく、どこまでも、人に文句を言い続けられる男、それが、楽山です。今日も、何事もなかったかのように、ツイッターに、誰かをおとしめる文句を書き込んでいます。徹底した変質者であります。
 
そうやって、日常感覚も経験も、都合の悪いことを、総て無視して、自らの人格を破壊してきたのでしょう。異常人格、人格破壊、精神病質、といった病態のもたらす冷笑が、そして、人間が、おしまいになると、こうなる、という破壊的現象が、ここに表れているのです。
 

「信じてもいい理由と信じてはいけない理由」は、著者のエッセイ集『悪魔に仕える牧師』に収録されている文章であるが、十歳の娘への手紙という体裁で書かれているので分かり易くてよい。
内容は大雑把に言えば、観察し、証拠があるものについては信じてよいが、伝統(伝説)、権威、啓示(お告げ)には注意が必要だというものである。

 
観察し、証拠があるものについては、正当なのだから、まず、信じる必要がないのです。
 
私は、超常を根拠にする言い分については、決めつけや妄想である可能性があり、注意したほうがよいと言ってきました。
 
例えば、シャロームshalomの聖霊体験や神の啓示については、全くの大嘘で、さらに、その文章の滅裂と無法と無根拠が表す非人間性から、反信仰の産物であり教義も信仰も全くの嘘っぱちであることと併せて、自分権威の成り上がりのカルト妄想だと判断しています。
 
また、楽山が、霊が分かるっぽい高慢からの極めて幼稚な短絡の思い込みや、偽牧師シャロームの「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい。悔い改めは(自分でしなくても)神が与える」などというあり得ない信条?に無条件の味方をしたこと、また、楽山の、とても卑怯で嫌らしい騙しの印象操作や詭弁や柔和芝居や婉曲表現のボンヤリ言語と併せて、信用度ゼロのカルトであると判断しています。
 
ここでも、楽山は、間違いを全く自覚していません。観察して証拠があるから信じるのは、事実などの実証が必要なことについての話であって、信仰はそのようなものではありません。
 
信仰は、癒しや慰めそして共感など、情緒的な体験を通して思慮を起こして信じるのであり、キリスト信仰は、決して論理的実証的証明など出来ないものとして、ダイレクトに生きている人間に問うてくるのです。決定するのは、生きるのに必要かどうかだけです。
 
信仰は、伝統、権威、偽牧師シャロームが言う啓示?など、信仰外のものに、支配されてはいけません。しかし、同時に、一方では、楽山のように、理解があるかのように見せかけて、ボンヤリやんわり否定してくる偽善者の言などに左右されてはいけないものです。
 
ここまで、的外れなことを執拗に書いてくる楽山は、とても気持ちの悪い反信仰、そして、反キリストと判断せざるを得ません。何か信仰とは全く別のものに囚われているのでしょう。
 

伝統宗教といっても、親から子へ、子から孫へと幾世代にもわたって伝えられてきたというだけで、それが真実だという証拠はなく、証拠がないなら何十年、何百年とどんなに長く伝えられてきたとしても嘘が真実になるというわけもない、

 
このように、嘘吐きの楽山の言も、この地上で信じると、社会にも個人にも悪い推測と予想しか生まれない誘導として、人間にとっては百害あって一利なきもの、人を惑わし、そそのかすものとして否定されるべき邪教であり、楽山個人の我欲への執着がもたらしたものと言わざるを得ません。
 
楽山に、何かを教える資格はありません。約2年の批判によって、楽山は、無反省、無責任、無理解、無神経の、詭弁や、煽りをしてきただけであり、そして、ひどい嘘吐きであることが、明らかになっています。
 
私を信じる必要はありません。私は、参考にしてもらえば十分です。しかし、詭弁と虚偽だけの専門家である楽山だけは、決して、信じてはいけません。相手にしてもいけません。近づいてもいけないと思います。
 

権威があるからといってその者が絶対に間違わないというわけでもない、一つのことを考えに考え、祈りに祈り、やがてそれが真実だというお告げを得たと確信したとしても、それが真実だという証拠がないなら信じるには足らないなどとしていて、なかなかに辛辣である。

 
また、楽山は、証拠のことを書いている楽山です。証拠ではなく、信仰に必要なのは、癒しと救いとして、必要だという実感だけです。
 
むしろ、楽山が、しつこく書いてくるのは、何らかの人にまさる権威か名声を欲しがっているのでしょう。そういう自己顕示欲を支えているのは、霊が分かるっぽい自身への我執に他ならないと思います。とても病的なナルシシスト(ナルシスト)なのです。
 

また宗教が信じられてきた理由についてはこのような主張をしている。動物は生き延びるためにその環境に適した体をもつものであり、動物である人もこれと同じく環境に適応しようとするものであって、特に子供は生き延びるためにも自分の生きようとする社会環境に関する情報を得る必要があり、大人から聞いた話をすぐに信じるようにできている。

 
ずいぶん、大人と子供を舐めた見方をしている楽山です。宗教は、楽山の言うような、大人の話を子供が信じるなどという次元のものではありません。クリスチャンの家庭であっても、信仰告白は自分で自発的にするものです。個人によって違いはありますが、大人になって、改めて、判断することであります。
 
楽山は、宗教なんて親から刷り込まれたものだから信じるな・・という極めて短絡した先入観を与えようとしています。これが楽山であり、詭弁によって刷り込んで、宗教をおとしめてきますが、全く理解するセンスを持たずに、いちゃもんだけを言うのです。
 
実質としての支えとならなければ、いずれ、空しい信仰?は捨てられるでしょうし、大人の分別を弁えるのですが、その成長がないと、カルトとなり、妄想的となり、自己中となり、いずれ、社会と人間に害を与える存在となるでしょう。楽山は、逆方向の典型として、空しい反キリストなのです。
 
楽山は、そういう成長過程での取捨選択ができなかったのでしょう。それを、人のせいに、キリスト教のせいにしてもらっても、困りますし、大迷惑なのです。
 
聞いたことを、いつまでも、信じたまま、言い続けるのは、引っ込みがつかなくなったカルトか、それこそ、楽山のような我執によって、むしろ、逆に、怨念のようなものが、くすぶり続けているからだろうと思います。欲求不満が、我執を凝り固まらせたのかもしれません。
 
楽山は「大人から聞いた話をすぐに信じる」のでしょうか。いつまでも子供なのでしょうか。あるいは、逆に、大人から、ろくな話を聞いていない人でしょうか。それで、怨念を募らせてきたのでしょうか。なぜか、確かに、楽山は、大人としての反省力と責任感を養い損なっています。
 

そのため、良い情報だけでなく、時には根拠に乏しい間違った情報をも信じ込んでしまいがちである。証拠の無い宗教が長くつづいてきたのは、人々が何でも信じてしまう幼い頃に、大人たちからそれを刷り込まれ続けた結果であろう云々。

 
根拠に乏しい情報というのは、他者の勝手な受け売りで悪用して、信仰も神も、何も理解できないのに、ときには褒めたり、また別の時には否定したりする楽山の言というのが、いちばん当てはまってきたのです。きたならしい詭弁で侮辱する以外、何も出来ない楽山を信用しないでください。
 
およそ説明にも癒しにもならない繰り言で、逆に刷り込みだと否定する楽山こそ、今まで、刷り込み、吹き込み、誘導してきた悪だくみの権化であります。
 
仏様の気持ちがわかるっぽい自覚の楽山の、幼稚な自覚と我執が、子供の時から今に至るまで、楽山の人格を支えているとしたら、とても、みじめで哀れな成長不全なのです。大人の節操を養い損ねている楽山です。
 

本書の副題は「なぜ科学は「神」を必要としないのか」というものであるし、収録されている文章も上のようにキツイ宗教批判が多い。いやはやドーキンスはやっぱり宗教に対して容赦ない。でもこの本気さが魅力でもある。

 
科学は、実証できるものだけを扱います。ゆえに、神、信仰、霊、などというものは、実験も出来ないわけですから、科学が神を対象にしないし必要ともしないのは、当然のことなのです。楽山は、その粗野な根性そのままに、科学も神も語れないから、喧嘩を見るように楽しんでいるだけです。
 
科学によって、宗教を否定するのは、科学教の信者であります。宗教まがいのカルトに酷い目にあった人でないならば、宗教を否定するのは、大方、先入観によるか、自己顕示欲によるものでしょう。
 
科学は宗教を追求できません。宗教は科学を追求できません。
 
楽山は、正常人に教えることは出来ません。正常人は、楽山に学んではいけません。楽山は、あまりにも劣悪であり、嘘を吐き、詭弁を弄し、反省せず、責任を負わず、今もネットに居座って、罠を掛けてきます。引っかかったら、人生を破壊されます。
 
信仰を持つか否かではなく、何よりも、楽山の罠にかかったら人生は終わり、というくらい破壊的だと思っていてたほうがよいのです。陰険で狡猾なだけで、清々しさの欠片もない楽山です。
 
他者の言うことを全く受け取らないで、楽山は書いてくるのです。楽山の、他人事のように語って、信仰を、まだ一度も真剣に自分の課題としたことのない与太話の嘘っぱちに、惑わされないように注意してください。楽山が、キリスト教批判に魅力を感じるのは、楽山が、その無反省・無責任の素質において、既に反キリストだからです。
 
楽山は、信仰を知らないで、信仰芝居をしたり、信仰を目の仇にしながら、信仰をまじめに考えているふうに見せかけているだけのインチキです。
 
信じてもいい理由と信じてはいけない理由、などということを、我欲に合うものだから、本から勝手な解釈で鵜呑みにして、楽山が納得しているつもりのことこそが、楽山の宗教観が、信仰ではなく、一種の個人カルトの教条の屁理屈であり、人を罠にかけるようなカルト的な悪趣味の我執なのです。
 
楽山の主張の中のカルトの証拠となるものとして、すなわち、楽山が何も観察せず見通していないこと、信仰に担保?となるような証拠を求める態度、ボンヤリ言語による印象の刷り込み、魅力としての説得力も共感性も全くない表面的で信仰としては空疎な理屈、これらが、今まで楽山の表してきた邪悪な手法なのです。つまり、楽山こそが、宗教批判に見せかけたカルトなのです。
 
楽山は、証拠がないじゃろ、という、宗教には全く当てはまらないことで、宗教と信仰を否定しようとしてきます。汚い男です。心が無く、余裕がなく、深みのない、自己中の人格が表れています。
 
切実な必要からの実感のある疑問によって、宗教批判をする人は、宗教にとっても、貴重な糧となる存在になりうる人です。そういう人には、宗教人は、誠意を尽くして、説明の用意をするべきでしょう。楽山のような者は、切実さもなく、ただ、凶暴で一方的な、詭弁屋に過ぎません。誰も相手にしてはいけない人格です。決して、正常人の人格ではありません。
 
観察せず、根拠も証拠もなく、楽山の表す情報は嘘と詭弁だらけで、それなのに、宗教の悪い印象を刷り込もうとする楽山こそ、批判され否定されるべきなのです。楽山は、詭弁で印象を刷り込む反キリストそして楽山の自己のカルト思想宣伝者です。自己中と自己愛と決めつけが、無反省と無理解と無反応と無責任と無神経が、いたるところに表れてきています。
 
しかも、このように条件を付けて、大方、否定しながら、一方では、聖書の言葉を引用して、感動したかのように、また、ときには、祈っているかのような嘘のクリスチャン芝居を重ねてきたペテン師が楽山なのです。次元の低さと、自覚の無さが、書いたことに表れています。
 
楽山の主張は、よく読めば、整った思想や思考や共感が全く見られないほどの次元の低いペテンだと分かります。学者の名前を出したり、本を引用したり、刷り込みや印象操作をしたりするのは、自分では、宗教についても信仰についても、整ったことが何も書けないからなのです。楽山が、いくら安い造花で飾っても無駄なのです。
 
 

    f:id:stdsts:20210215001205j:plain

       造花のペテン
 
 
(2020年02月10日、同日一部修正)
(2021年02月15日、再録+加筆)
 
 
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楽山の醜態加速(2)

 
  楽山の醜態加速(2)
 
 信仰と経験
 (『わるい夢たちのバザールⅡ 夏の雷鳴』スティーヴン・キング著)
 2021年02月12日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28037648.html
 
 
もう一度、楽山の記事を取り上げます。楽山が引用した小説の台詞のようですが、
 

神のおぼしめしとはとってもすてきな考えだ。自分が無傷でいるかぎり、それは信じられる。
(「ハーマン・ウォークはいまだ健在」『わるい夢たちのバザールⅡ 夏の雷鳴』〈文春文庫〉ス
ティーヴン・キング著、風間賢二訳、文藝春秋、2020年、p.40)
 」
 
この台詞は、結局、自分を無傷で守ってくれるなら神を信じてもいいぞ、傷を負うたら信じるもんか、という皮肉の意味に取れるだろうと思います。これは、楽山が言ってたのと同じような、宗教への、ありふれた、いちゃもんです。そのような個人に都合のよい条件を付けられて働く神は、どれだけ思い込み信じ込んでも、どこにもいません。
 
しかしながら、楽山は、「人の思考や感情は経験の影響を受けるもの」「信仰は環境や経験に先立つものではなく、その影響下にある」という解釈で話をしています。偉そうな書き方ですが、どうつながっているのか、理解不能な解釈です。環境や経験の影響が表れているなら、それを引用し書くべきところです。
 
楽山は、無反省・無責任のために、理路を学べていないので、自己中心にしか話や記事を勧めることができない、意味不明の理路不全の文章しか書けない人なのです。にもかかわらず、言い張りの執拗さだけが、いつまでも続いています。振り回されないように、ご注意願います。
 
おかしな楽山が、気づくことなく、気づかれることなく、人の心を、狂わせ、おかしくしてゆく文章を書いているとしか思えません。鎧(よろい)のつもりで、まともに見せかける言葉を書いた馬糞紙(ばふんし)を、自らにペタペタ貼り付けるしかない楽山。
 
(ネットより)馬糞紙:
麦藁(わら)などを原料とした質の悪い厚紙のこと。馬糞紙というのは外観からの連想による名前で、一般にはボール紙とよばれ、板紙として紙箱や書物の表紙の材料とされる。
https://kotobank.jp/word/%E9%A6%AC%E7%B3%9E%E7%B4%99-604300
 
何も産みださない無産業ロボットが、楽山だと思います。生産性が、積極性が、共感性が、切実さが、説得力が、何もないと思います。楽山の文章は、こういう熟語や言葉を言っておけば、ちょうどいいじゃろ・・という気安さだけで書かれているようです。
 
文章が苦手でも、経験から、これだけは言っておきたいという文章には、それなりの説得力があるものですが、楽山の文章には、説得力の欠片も無いのです。作為だけで、立派そうに見せかけて通念的な言葉を並べるだけだからでしょう。
 
楽山の宗教観は、キリスト信仰を、社会通念におとしめます。そして、そこで、神を信じ過ぎないのが、真っ当な信仰で、信じ過ぎるとカルトになるという、きわめて単純な見方を示してきました。
 
そういうのがキリスト信仰なら、私は、キリスト教を信じることさえ、キリスト教に関わることさえ、なかっただろうと思います。
 
いい加減であることを理想みたいに語る楽山は、一度も、神、信仰、人生について、洞察といえるほど何かはっとさせるような、深い見方を表したことがありません。
 
楽山は、そういう深い見方を、もともと何も持っていないからです。約2年半にわたって、何も、受け取って実になるようなものがありません。
 
つまり、楽山は、いい加減であることが大好きなのでしょう。いい加減さにおいてだけ、楽山は、徹底しています。そして、それは、楽山において、人の意見を無視することから生まれてきます。
 
そのように、信仰を台無しにして、では楽山が、何か人を救えるようなものを提示したかというと、通念的な道徳だけであって、聞かなくても知っているようなことばかりなのです。深みがない人というのは、自分を信用する他者の深みを奪って、均された平坦な人間に変えてゆきます。
 
そして、そこに、つまり他者の心に、楽山の好きなように、楽山の隠し持っている偏向した思想、恐らく右翼的な思想と命令系統を、植え付けてゆきたいのかもしれません。これは、他でもない、非人間的な、ホラーなのです。
 
楽山は、今までに、2度以上、過激な右翼思想家を支持する記事を書いたことがあります。つまり、楽山は、柔和な人どころか、訂正不能の偏屈であり、詭弁によって、じわじわ危険思想を刷り込む洗脳者・煽動家ではないかと思っています。
 
主張するのは人間の言動だが、植え付け刷り込むのは非人間の謀略である。楽山は後者です。
 
 
ちなみに、自己愛が強く、他者を省みない、無反省・無責任でしかない、・・そういう人が就く職業は何かと考えた場合に、一つ思い浮かぶのは、占い師です。そういう全能気取りのナルシストで、市井のインチキ占い師でもやっているのか、と思える人もいたということを付け加えておきます。
 
 

       f:id:stdsts:20210214002651p:plain

                   醜態2
 
 
(2021年02月14日)
 
 
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楽山の醜態加速

 
  楽山の醜態加速
 
 信仰と経験
 (『わるい夢たちのバザールⅡ 夏の雷鳴』スティーヴン・キング著)
 2021年02月12日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28037648.html
 
 
楽山は、いつものことですが、本をネタに、自己中・自己愛の見苦しさを全開にして、無反省・無責任・無理解・無神経の醜態をあらわにしています。分かってるふうの書き方が笑止であります。
 

*信仰と経験
キングの短編を読んでいたら、信仰と経験について書いている箇所があったのでメモしておく。

神のおぼしめしとはとってもすてきな考えだ。自分が無傷でいるかぎり、それは信じられる。
(「ハーマン・ウォークはいまだ健在」『わるい夢たちのバザールⅡ 夏の雷鳴』〈文春文庫〉ス
ティーヴン・キング著、風間賢二訳、文藝春秋、2020年、p.40)
 」
これはつまり、人の思考や感情は経験の影響を受けるものだけども、信仰もその例外ではないということだろう。一般的にも、仏教徒を両親に持つ子供は仏教徒になり、キリスト教徒を両親に持つ子供はキリスト教徒になることが多いというし、信仰は環境や経験に先立つものではなく、その影響下にあるのだろう。

 
人生の総ての経験は、神のおぼしめしという考え方もありますが、どこがどのように?・・ということは分かりません。ただ、あらゆる戒めの経験を無視しまくって、自我満悦の悪夢の生ぬるい汚泥に浸って、よだれを垂らすように、人を、からかうだけの楽山のような者もいます。
 

またこの文章は、「神のおぼしめし」を、「因果応報」と言い換えるならば、ヨブと三人の友の対立の原因がどの辺りにあったのかを教えてくれるものだ。ヨブは不条理を経験し、深く傷付いたが、三人の友らはそのような経験はなく、ヨブの心情を理解できなかったのだ。

 
「神のおぼしめし」を「因果応報」と言い換えるのだそうです。そのような権威を誰が楽山に与えたのでしょう。思い上がりもいい加減にしてください。
 
ヨブは神に試され、それに反応しました。友人たちへの「神のおぼしめし」は、はっきり分かるほどには書かれていないようですし、ヨブ記は、ヨブの信仰と神のことが書かれているのです。
 
楽山は、楽山への「神のおぼしめし」を、全部、無視してきたのでしょう。それで、今の楽山の人格破壊の悲惨と恥を、惜しみなく露呈してボロ雑巾みたいになっているわけです。
 

人は想像力と理性によって、他者の経験とその感情を思いやることは不可能ではないだろうけれども、それにもおのずと限界はあり、真に理解、共感することはどだい無理な話なのだ。人は人を分かったつもりになって裁いてはいけないのである。

 
楽山の詭弁です。人の理解は限界があるという部分否定から、理解・共感は無理という全否定にして、ゆえに、裁くのはよくない、ということを言いたいようです。
 
人の理解には限界がありますが、楽山の続ける発言が、いつも、偽善と嘘と詭弁だけを、人間としての最低の恥ずかしさだけを、白々しくボロクソに表しているのに、この人は、やさしい、正しい人です・・なんて言えるわけないのです。おかしいことは、おかしいと言うしかありません。まさに、この記事もそうです。
 

結局のところ、ヨブと三人の友との対立は、三人の友はヨブを知らないにもかかわらず、分かったつもりになって裁いたところに原因があったのだと思う。

 
三人の友は、神への恐れが足りず、カチンカチンの教条主義的なことしか、ヨブに言えなかったので、ヨブを変えることができませんでした。
 
楽山は、神への恐れが全くなくて、ズルンズルンの自己愛的妄想しか言えませんでした。その実態が招くものは、もはや、人間的配慮など、してはいられないほどに悲惨であります。
 
分かったつもりになっているのではなく、他に考えようのないほど、ひどい人格を、楽山は、表し続けています。今もです。とても幼稚な嘘っぱちの理路で、泡を吹くように詭弁を書いて責任回避と自己正当化に走る様は、見苦しさを通り越して、吐き気がしてきます。
 
 

      f:id:stdsts:20210212235444j:plain

                  しゅうたい
 
 
(2021年02月13日)
 
 
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楽山の自慰

 
  楽山の自慰
 
 ヨブ記スティーヴン・キング
 (『マイル81 わるい夢たちのバザールI』)
 2021年02月11日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28025513.html
 
 
楽山からの、本の言葉面だけを使っての、飽くなき、地獄への招待状、人間の腐敗への自慰行為のお誘いです。このようになってしまったら、どうしようもない、という、末路の虚無世界であります。こういうのに引っかかると、生産的思考は破壊されます。
 

*偶然
最近はまじめな本ばかり読んでいたので、たまには気晴らしにエンタメ小説でも読んでみようと思ってキングの短編集を開いたら、「ヨブ記」の話が出ていた。

 
真面目な本を、真面目に読んでいないのが、楽山です。楽山は、読めていないのに、読んだつもりになるのです。またしても、ヨブ記を、宗教を、茶化しに来ています。
 
楽山に関わって、与太話に付き合って、人生を無駄にしないでほしいと思います。
 


「ヨブが理由を知りたくなったとき、ミスター・アンダース、神はヨブにたずねた。おまえは、わたし――神――が宇宙を創造したとき、その場に居合わせたかどうか。おまえは返答するに値しないとみなされてるんだろう。じゃあ、中断されている問題をじっくり考えようか。で、どうする? ドアを選べ」
(「アフターライフ」『マイル81 わるい夢たちのバザールI』〈文春文庫〉スティーヴン・キング著、風間賢二・白石朗訳、文藝春秋、2020年、p.343)
 」
これは病気で死んだ主人公が、あの世の案内人らしき男と出会い、生まれ変わりの秘密…主人公は記憶を失ってはいるが過去に何度も今生と同じ人生を生きており、この後もまた生まれ変わって同じ人

 
このように、楽山の話は、いつも、現実離れした方向に吸い寄せられます。現実を見ないで済むような逃避をして、そこで、現実の生き方を求める宗教を語るので、いつも崩壊してゆく害毒なのです。
 
楽山は、現実を生きたくないのでしょう。あの世、生まれ変わり、などという話を宗教的だと思っているのでしょう。空想に遊ぶのが、楽山の宗教観ですから、生きる糧にならないのは必至であり、変わることなく、いつも、宗教と信仰の誤解と曲解を増幅してゆく定めなのです。
 

生を生きねばならぬこと…を告げられた場面である。
生まれ変わりにはいろいろな考え方はあるものの、同じ人生を何度も何度も繰り返さなくてはいけないとしたら、これはあまりに不条理であろうし、「なぜ? どうして?」と問わないではいられないだろうとは思う。

 
空想の話ですから、不条理は当たり前です。空想のお伽噺と、現実の信仰を、いつも混同して、重大であるかのように、人生を問うかのように、「あまりに不条理」「なぜ? どうして?」と問うても意味はありません。楽山と関わると、このような倒錯に誘導されて、現実を見失ってゆく誘導をネチネチ粘りつけられるので、危険なのです。
 

著者はこれと同じような話を、大長編の『ダークタワー』でも、短編の『例のあの感覚、フランス語でしか言えないあの感覚』でも使っていることからすると、相当お気に入りのアイディアなのだろう。

 
「お気に入りのアイデアなのだろう」と、楽山が、もっともらしく言っているのが、考えてもしょうがないような、空想のテーマであり、現実とのかかわりを求めても、断絶してゆく方向性しか持っていないので、まともぶって、人生を語るかのような書き方をするから、大迷惑なのです。
 
つまり、「同じ人生を何度も何度も繰り返さなくてはいけない」人のように、学習もなく、進歩も成長もなく、同じ堂々巡りを繰り返しているのが、楽山自身であります。真実の追求と、趣味の遊びを、全く区別できない楽山が表れています。
 

*義人の苦難
こちらでは、ヨブ記には直接言及してはいないものの、義人の苦難に関連した話が出ている。

ハラスは笑ったが、唇を単に動かしただけだった。「それはいささか考えが甘いね。弁護士さん。どうしてロニー・ギブスンみたいに角膜異常で生まれてくる赤ん坊がいるんだ。そして同じ病院でつぎに生まれてきた五十人はどうして正常なんだ、とたずねているようなもんだよ。あるいはどうして、文化生活を主導している優秀な人間が三十歳で脳腫瘍にかかったり、強制収容所ガス室の管理を手伝った怪物が百歳まで生き長らえたりするんだと、きいたほうがましだ。あんたは、なぜ悪いことが善人に起こるのかとたずねているんだったら、来る場所をまちがえたね」
(「悪ガキ」『マイル81 わるい夢たちのバザールI』〈文春文庫〉スティーヴン・キング著、風間賢二・白石朗訳、文藝春秋、2020年、p.217-218
 」

 
何度言っても分からない楽山が、また、同じようなことを言って、いちゃもんをつけています。楽山の与太話は、不幸が起こるのは、なぜ起こるんだ、神のせいだ、というクレームだけを語って、ならばどう生きるのかについて何も語れないから、徒労と疲労の伝染にしかなりません。
 
楽山こそ、来る場所を間違え続けています。真実の追求の場においては、不幸に対処する意志こそが大事なのに、いつまでも、神のせいにして、"どうして?どうして?"ごっこに終始して、一歩も先へ進もうとしない精神肥満メタボ症候群でしかありません。
 
それに、楽山は、義人とは正反対の嘘つきの詭弁屋ですから、書いたことに、何の責任も負わないし、反省もしないのです。楽山の言うことを聞くことほど、著しく「来る場所をまちがえ」る人にだけはならないでください。
 

この物語では、これといって悪いことはしていないにもかかわらず、どこからともなく姿を現しては消え去る悪ガキ(何十年経っても年は取らず、子供の姿のまま)によって不幸のどん底に突き落とされ、破滅する男の一生が描かれているのだが、これは単なる荒唐無稽な話ではなく、上のようなテーマがあるのだろう。

 
「どこからともなく姿を現しては」責任を取らずに「消え去る悪ガキ」は、まさに、楽山を思わせますが、このような話は、興味本位の単なる荒唐無稽の話でしょう。
 
腐れ切った楽山の精神は、不幸の話を並べて、空想の話を並べて、他者の良心を腐らせてゆきます。楽山の友となることは、だまされるだけでなく、単なる裏切りに遭うだけではなく、永劫回帰ならぬ、永久堂々巡りへの詐欺的誘惑です。悪趣味というより、悪意による終わりのない地獄へのヌルヌル滑降であります。楽山独りが行けばよいのです。関わらないでください。
 

欧米の小説、映画、ドラマの背景にはキリスト教があるので、それらを理解するには聖書の知識が必要だというけれども、どうやらキング作品についてもその例外ではないようだ。

 
楽山は、あざ笑うように、また、キリスト教の名を出してきます。楽山は、キリスト教も信仰も、まるで理解していません。だから、ホラー話や空想話と、宗教・キリスト教・信仰を、同じ土俵に載せて、できない批判の代わりに、揶揄に変えて、終わりのない自慰行為にふけっているのです。
 
楽山の凶悪なるは、それを、公開して、嘘と詭弁で、誘惑し、誘導してくることです。楽山を相手にしないでください、決して関わらないでください、近づかないでください。無反省と無責任と無神経の怠慢思考ゆえの地獄には、楽山独りで行ってもらいましょう。
 
 

     f:id:stdsts:20210211234848p:plain

                     自慰の沼
 
 
(2021年02月12日)
 
 
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霊感と共感

 
  霊感と共感2
 
 
信仰は、理屈ではなく、共感である
と言えば
霊感などを持ちだしてくる人もいるかもしれない。
神の導きや聖霊を知るためだからと。
 
人間の霊感がどれほどあるのか
私は知らないが
いちばん大事なものは
人間性に密かに用意されている。
 
それは心霊現象の霊感ではなく
人間的な共感するための感性である。
 
愛を理屈で語れないのは
いちばん大事なものが知識ではないからだろう。
 
特別なものを何か特別の超常の霊力で扱うのは
超人願望の現れであることが多い。
 
人間には
刺激によって反応するという当然のことがあり
また人間は
他者と共感するという性質を持っている。
 
共感は、共に感じると書くから
二人以上が、同じ感じ方をすることだろう。
だとすれば、共有している感性が必要であり、
共感は、稀ではなく起こることであるから、
多くの人に、備わっているものであり、
特別の霊感や超人になる必要のないものである。
 
共感性は、むしろ、好ましい人間らしさの特徴だろうと思って
私は、たぶんに、憧れているところである。
つまり、私は持っているつもりでも、不十分だから成長したい。
 
いくつになっても、信仰の話を書くようになっても、終わることはない。
 
(ネットより)
共感(きょうかん)、エンパシー(empathy)は、他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指す。もしくはその感情のこと。例えば友人がつらい表情をしている時、相手が「つらい思いをしているのだ」ということが分かるだけでなく、自分もつらい感情を持つのがこれである。通常は、人間に本能的に備わっているものである。しかし、例えば反社会性パーソナリティ障害やサイコパスの人物では、“共感の欠如”が、見られる[1]。近藤章久は深い共感と直観を精神治療の根幹とした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F
 
つまり、共感することが出来ないのは、異常と言ってよい。
 
信仰は、理屈ではなく、共感である。
 
今の時代では、聖書のキリストの言動や
キリストに救われた人々の言動、
そして、キリストと救われた人々との交流の記事に
共感するところから信仰は生まれてくる。
 
つまり、信仰は、とてもシンプルである。
 
へりくだり、かつ、罪人であることを自覚するしかない人々に
キリストは、この上ない共感の慈愛をいだいて接した。
 
そして、そのキリストの道は、
共感のない者たちによって殺される道でもあった。
 
 
処女懐妊、奇跡、肉体の復活、贖罪は、教理かもしれないが、
私が罪を犯す、キリストが代わりに十字架にかかる、私は罪を赦される
だから救われた、という理路が、それほど、ピンとくる話だろうか。
 
キリストを信じる人は、
キリストの十字架によって救われるという理路よりも
また、二千年前に、イエスという人が、
自分の身代わりになって死んだという教理よりも先に
 
聖書からキリストの心や意図を感じることで、
既に、キリストを好きになっていることが多いと思う。
 
信仰の本質は、救われたという共感に支えられることであり、救いの理屈ではない。
 
今までにないキリストの人々への対し方を読むことで、
今までにない感動と共感を覚えることが信仰の始まりであります。
 
 
したがって、楽山のような者が、自分を見て反省することも出来ないのに、屁理屈で、神はいないとか、完全な全知全能の神がいたら何ゆえ悪がはびこるのかとか、神の創造より進化論のほうが分かるとか、腐るほどあるようなベタな疑いの話など、キリスト信仰者にとっては、煩わしいだけで意味を持たないのである。
 
楽山などが、自分の思い通りでないと神を信じないと言うなら、人々を詭弁と嘘で惑わすようなことはしないで、信じないまま黙っていなさい、ということです。
 
楽山が今まで言ってきたような
信仰は人それぞれでカルトも間違っているとは言えないとか、
霊感があって迷信深いから神の臨在を感じるとか、
感情を抑えて通ってもいない論理を通すとか、
断りたいのに断れないという困った状況に信仰をたとえるとか、
押しつけだと言い張るとか、
持っていもいないのに霊感を主張するとか、
宗教書を読むときは自分の霊感に従って読むのがもっとも大事とか、
信仰を何か卑近な揉め事に喩えるような安易な小理屈などの、
信仰の本質からどんどん遠ざかるような、安易さにも、うんざりしている。
これらは、、楽山の世迷言であります。
 
また、一方で、
天地は神が造ったがアダムが罪を犯したことで悪魔の支配がはじまった、
悔い改めは神が与える、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、
などという、人間離れした大昔の辻褄合わせや、
自分を罪の話の圏外に置いた身勝手な自己正当化とかは、
それこそ、共感することの出来ない者の、
自分は聖書を読んで分かっているというペテンの自慢話に過ぎない。
これらは、シャロームの世迷言であります。
 
宗教は、科学に対立するわけではない。
信仰は、学問でさえない。
 
物を相手にする理系の学問は、人を相手にする文系の学問に、無神論の主張に利用されるが、進化論のような、大昔の事実の学説などは、今の、人間一人の生き死にに何のかかわりがあるだろう。
 
そういう対立は無意味にしか思えないし、聖書絶対で、神の文字通りの創造を信じる人々は、神を讃えようとして、実際は、自分が偉大なことに関わっているというアピールをしているに過ぎないとさえ思える。
 
聖書とキリスト信仰に、創造説も、進化論も、むしろ、今を離れて人間は生き得ないことを、逆に、再認識させる意味しかないように思える。
 
だから、創世記や、数々の奇跡的な神のわざも、その史実性に今の人間がこだわることは、かえって、いちばん大事な信仰の愛も共感性も失わせている権威主義のように思えてならない。カルトが、まさに、そうなのである。
 
カルトは、そういうテーマを、わざと、書いてきて、それが、キリスト教の運命を左右する重要なテーマであるかのように、印象を吹き込もうとする。
 
そして、ある者は、その議論において、キリスト教の主張よりも科学のほうを優位と見なすことで、キリスト教とキリスト信仰を婉曲的におとしめたいだけなのだろうと思う。
 
いろいろな論争が、宗教と科学、カルトとキリスト教、教派の違い、信じ方の考え方の違いによって、明朗なキリスト信仰から、いろいろあって難しいですね・・というような共感を装う雑な見なしで、カルトに利用されているようだ。
 
いちばん大事なことは、そんなところにはない。そんなことで、人間が、生きたり死んだり滅びたりはしない。
 
何か自分が持っているものを確定しないと気の済まないようなことに、こだわることこそが、人間としての営みや思考や情緒に、余計な飾りをつけ、余計な理屈をつけ、偉そうに見せたがる者たちの欲望とともに、信仰の中身を損なってゆくことを憂慮している。
 
 
神の民、キリストの羊は、死んでゆく自覚から、生かされる自覚へと、よみがえることによって、生き方の価値基準が変わることによって、地上の生の終わるときまでを、神聖の偉大さに比べて極小な自らであるがゆえの小さい器の希望から信じ仰ぎ、心を砕いて生きてゆくのである。
 
旧約は、おもに、神と人の違いを伝え、新約は、おもに、キリストの慈愛と共感と同伴を伝えている。
 
 
神は創り主として信じられており、キリストは慈愛と共感に満ちた飼い主として愛されて仰がれています。その言葉について、難癖をつけたり、逆に、派手な飾りをつけるのは、大方、自尊のためであり、安っぽくなることはあっても、決して正しい信仰にはなりません。共感できないからです。
 
 

    f:id:stdsts:20210210233337p:plain

               共感
 
 
(2020年02月05日、同日一部修正)
(2021年02月11日、加筆して再録)
 
 

 
 楽山のツイートです
 https://twitter.com/komo266/status/1359120034526752773
 
 
私にとって、過去2年数か月の、やり取り+批判において、楽山のイメージは、お山の上で、嘘と詭弁で逃げ隠れしながら、人が疲れるのを楽しんでいるような、屁っぴり虫です。
 

心機一転★こも楽山
@komo266
○○氏は議論疲れですか。もしそうなら、ゆっくり休んだらいいと思います。
田中氏はアンチへの憎しみが剥き出しになってますね。アンチとの議論でそこまで傷付いているとは気づきませんでした。申し訳ないです。

 
「議論疲れですか」「ゆっくり休んだらいいと思います」・・これは、気遣いではなく、楽山は、どこからも上から目線で、まるで関係ないことで労わっているような言い方です。相手が疲れることが快感なのだろうと思います。相手が疲れたと思って、勝ち誇った気分になって達成感に酔っている楽山の、心地よさの表現でしょう。
 
というのは、楽山が、「申し訳ないです」という謝罪の言葉とは裏腹に、「(楽山への)憎しみが剥き出しになってますね」とも書いて、相手が、感情的になったことを書いていることです。書く必要があるでしょうか。
 
つまり、楽山は、・・自分は平気だけどね・・ということを、婉曲的にも、表さずにはいられないのでしょう。得意気な満悦ぶりが表れています。楽山にとって、確認行為でしょうか。それとも、記念品にでもなるのでしょうか。
 
相手の人は、「相手にするのは、時々で十分過ぎる」「「人生の時間」は限られているので、こういった人達に時間を費やすのは、もったいなさ過ぎます。」と、疲労している様子ですが、降参したかのように受け入れている書き方とも取れそうなのが、心配です。楽山は、悦んでいるでしょう。
 
「そこまで傷付いているとは気づきませんでした。申し訳ないです。」・・これが本心だとすれば、楽山は、過去にも、傷つけているのだから、また、疲れさせているのだから、何度も謝罪しているはずですが、実際には、謝罪したことはないわけです。
 
そのことを考えると、私が、以前から、人格の問題を指摘してきて、罪悪感が無いなどと言ってきために、それを否定するために、謝罪の芝居をしている可能性が高いのです。ですから、どうか、楽山に、踊らされないように、楽山を、まともに相手にしないでほしいと願ってやみません。
 
それはそれとして、芝居であっても、楽山が謝罪の言葉を書いたという事実は残ります。すなわち、今後、批判をして、相手が疲れたときには謝罪しなければならない、という事実からの当為を、楽山自身が作ったことになります。(当為=なすべきこと)
 
楽山と議論する人は、取り込まれる人以外は、必ず、無駄に疲労します。楽山自身の理路が整わないために、執拗な嘘と詭弁を弄して、疲れさせるのは、楽山の人格からの常套手段です。
 
ゆえに、過去の問題について謝罪をするかどうか、そして、それより、今後、数えきれないほど機会があるであろう謝罪を、まめにするかどうか、それによって、謝罪が真実か見せかけかどうかを見てゆくことになります。
 
しかし、それよりも、相手を疲れさせて傷つけた自覚があるのなら、人間ならば、反省して、気遣って、相手を疲れさせるような批判やツイートやコメントは控えるはずです。そこが、いちばん、大事な点だと思います。
 
言葉だけの謝罪であった場合、また、楽山は、疲れさせるだけの記事やツイートを書き続けるでしょう。そして、そのことが、今回の、楽山の「申し訳ないです」という謝罪の言葉は、嘘と芝居の、ごまかしだ、という証明になります。
 
私のほうには、過去、だまされていた期間を含めて、2年数か月の間、"霊が分かるっぽい" 自覚の楽山の、インスピレーションどころか、通念的で偏見に満ちた愚にもつかぬ屁理屈で疲労だけを与えてきたという負の実績があります。
 
以前から、楽山が、謙虚芝居や、弱音芝居や、クリスチャン芝居・お祈り芝居をしたことからも、既に、楽山の発言については、嘘と詭弁と三文芝居癖によって、信頼度ゼロ~マイナスとなっています。つまり、他でもなく、楽山が、自ら賛同と受け入れのハードルを、果てしなく高く高くしてきたということです。
 
「議論でそこまで傷付いているとは気づきませんでした。申し訳ないです。」・・「傷付いている」と書いて、傷つけたとは書いていません。しかし、申し訳ないと謝罪しています。どういうことでしょう。申し訳なくも傷つけたのは、誰でしょう。
 
人を傷つけないではおれない人格があります。しかし、自分のせいだとは言いません。だから、実に気軽に、「申し訳ない」と謝罪の言葉を書きながら、自分が傷つけたとは言わず、相手が傷ついたと平気で書けるのです。
 
誰かを傷つけたと思うなら、反省して、再び繰り返さないために、投稿を控えること、これは、誰もが、正常人ならば、そういう不祥事の機会には、上からの同情めいた言葉を発するのではなく、ふつうに、しないではおれないはずだし、できるはずだし、していることなのです。
 
楽山は、丁寧に書いたつもりでも、よく見れば、謙虚・謝罪芝居をしても、かえって、体質的なボロは、たいてい出てくるようです。ボロを完全に隠そうとすれば、満悦を捨てる以外にないのでしょう。
 
つまり、楽山は、魂胆を隠そうと思えば思うほど、それだけ自分にを縛りを掛けてゆかなければならなくなるでしょう。これからは、どうするのでしょうか。長く長く、見てゆくことになります。
 
 

     f:id:stdsts:20210210233255j:plain

                   霊感
 
 
(2021年02月11日)
 
 
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無神論と有神論2

 
  無神論と有神論2
   過去記事の再録+加筆修正
 
 
神は、道理を通すが、概念ではない。
ゆえに、人の理屈によって語れる御方ではない。
神は、希望であるが、人は、神によるものを区別できず確定できない。
 
語れるのは
人の側における現象からの推測の域を出ない。
 
私たちは、憧れの救い主を想うことによって救われている。
そこは、概念よりも理屈よりも、共感が捉えて放さない関係性である。
 
(ネットより)
有神論(ゆうしんろん、theism)は、「神は存在する」という主張のこと。 名付け親は『橋本和哉』である。 対義語は無神論。 多くの宗教は、その教義の中に有神論を含んでおり、その宗教が信仰する神が唯一なのか複数なのかによって一神教多神教などに分けられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E7%A5%9E%E8%AB%96
 
 
神は、人による存在証明も不在証明も明確に拒否する立場におられ、人の、いかなる知恵も視野も、神の領域に届くことはなく、神を対象にすることは出来ない。
 
神の、全知全能・絶対完全・永遠不変は、人の理解を超えており、人の視野に決して納まることはない。旧約は、神と人の決定的な違いを伝えており、新約は、ならばどうすれば救われるかを、キリストを通して、改めて告げている。
 
無神論は成り立たない理屈であり、また、有神論が理屈なら有神論は成り立たない。
在って在る者である神を、人の論理や学問で語ることは出来ない。
経験上、人が、神を否定できなくなるのが、信仰である。
 
 
無神論が成り立たないのは人間の理屈だからである。
無神論の状況証拠は、人のわざを根拠としているだけである。
 
有神論が成り立たないのは有神を前提として
神を概念の理屈にしているからである。
有神の状況証拠は、信仰を暗示するのみである。
 
以上より、人間にとって、神の存在は、理屈にはなりえない。
神を、演繹の論理によって論じることは出来ない。
 
人は、神よりも人が不完全であることを知っているだけである。
 
人にとって、神は、いかなる概念にもなりえない。
 
人があてがう神の概念は、神ではなく、藁人形のようなものである。
 
 
無神論は、嫌悪感によって、理路の領分を逸脱する。
有神論は、贔屓の引き倒しによって、理路を領分を逸脱する。
どちらも頑固であるところが共通している。
 
だから、科学と論理に見せかけたカルトになると
そこが、ただの頑固に留まらず
結局、感情的になり先鋭化して危険になるのだろう。
 
神の存在を強く絶対否定して問い詰めてあざ笑う者と
神の存在を強く絶対肯定して笑って侮辱してくる者は
なぜか、似てくる。
 
 
客観的事実と言われるものから
無神論は証明できない。
 
客観的事実と言われるものから
有神論は証明できない。
 
神を、論理によって論じることは出来ない。
 
地上の事実は
神を暗示することはあっても
神の存在も風情も証明することは不可能である。
 
証明できなくても信仰は可能だからである。
 
ゆえに、神に対しては、信仰が可能であり
人の、いかなる知恵によっても、証明は不可能である。
人は人の身の程を知るべきである。
 
信仰は信仰対象を証明する必要はない。
 
信仰は信仰対象すなわち神の
地上における影響を人を通して表すのが務めと努めである。
 
 
人は、神の意志を表すことがあるだろう。
ここに既に信仰が機能しているが
それは神のわざを含むので確定することはない。
 
信仰対象である完全の神によってもたらされる救いの
人における不完全の必然ゆえの人の弁えを考えない信仰はあり得ない。
 
したがって
人の自尊を肯定し続けるだけの信仰はあり得ない。
うち続く自尊は、いずれ、神と人に対する高慢~傲慢に通じてゆく。
 
ゆえに、不完全な信仰者にとって
不変の自尊が信仰によって肯定されるものではない。
 
信仰による人の自尊の担保は
神と人の区別を弁えない無節操である。
 
したがって自尊を肯定し続けるだけの信仰は
無理な思い込みを前提としてしまう。
思いこみ信じ込むことは意志が無理をすることであり
心は無理をすると次第に壊れてゆく。
 
信仰は一途であってよいが
信仰は盲目であってはいけない。
 
信仰は人の目を開くものだからである。
 
一途は心を支える感動が動機であるが
盲目は目と心を閉ざすことである。
 
 
感動は永続しない。
人間は感動の影響を残せるが
同じ感動を保つことはできない。
 
あるとき感動しても
次のときには感動したという記憶になっている。
 
人間は、ほぼ恒常的だが
神と同じ不変になることはない。
 
人間は、振り向くたびに時空の
違う風景が見えているから思慮と情感と意志が成長するのであって
目と心を閉ざすところに新しい世界はない。
 
閉ざされた目と心は
いつも同じ良いものがあると思い込み慢心して石になるだけだ。
 
人は、良きものを手に入れると、
それを永続するものと思い込みがちだが
神の与える平安は、変化しない世界のものではない。
 
不変は目覚めも期待できないから
不完全な存在である人には不向きである。
 
不完全だから人は変わり得るものとして成長するしかない。
 
 
神は
危機に際して慰めと励ましを与えるが、
常時快適な揺り籠を与えない。
 
神は
人の超人願望や完全欲に答えることはない。
そこには、どこまでも、沈黙の神がおられるだろう。
 
信仰は、
人間が成長するための必然的遭遇に際して
思い込みを豪語する狂気に陥らないために与えられており
 
神は、信仰を通して
思いわずらいに支配されることのないために
無神の絶対孤独につぶされることのないために
癒しと赦しと導きを与えるのである。
 
 
楽山やシャロームのような、神を偽り、神に偽る者は、
人に対しても偽りをもって、あざむき、だまし、
日々滅びを積み、滅びを礼賛している者たちである。
 
 
私たち信仰者は、
ただ、神という、正直に告白し乞い願う相手を、知っている人である。
人の不完全な善悪や正邪と、その判断は、信仰の救いを左右しない。
 
神に対しては、正直さ以外、何も通用しない。
 
 

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             神
 
 
(2020年02月04日)
(2021年02月10日)
 
 
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