ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の自慰

 
  楽山の自慰
 
 ヨブ記スティーヴン・キング
 (『マイル81 わるい夢たちのバザールI』)
 2021年02月11日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/28025513.html
 
 
楽山からの、本の言葉面だけを使っての、飽くなき、地獄への招待状、人間の腐敗への自慰行為のお誘いです。このようになってしまったら、どうしようもない、という、末路の虚無世界であります。こういうのに引っかかると、生産的思考は破壊されます。
 

*偶然
最近はまじめな本ばかり読んでいたので、たまには気晴らしにエンタメ小説でも読んでみようと思ってキングの短編集を開いたら、「ヨブ記」の話が出ていた。

 
真面目な本を、真面目に読んでいないのが、楽山です。楽山は、読めていないのに、読んだつもりになるのです。またしても、ヨブ記を、宗教を、茶化しに来ています。
 
楽山に関わって、与太話に付き合って、人生を無駄にしないでほしいと思います。
 


「ヨブが理由を知りたくなったとき、ミスター・アンダース、神はヨブにたずねた。おまえは、わたし――神――が宇宙を創造したとき、その場に居合わせたかどうか。おまえは返答するに値しないとみなされてるんだろう。じゃあ、中断されている問題をじっくり考えようか。で、どうする? ドアを選べ」
(「アフターライフ」『マイル81 わるい夢たちのバザールI』〈文春文庫〉スティーヴン・キング著、風間賢二・白石朗訳、文藝春秋、2020年、p.343)
 」
これは病気で死んだ主人公が、あの世の案内人らしき男と出会い、生まれ変わりの秘密…主人公は記憶を失ってはいるが過去に何度も今生と同じ人生を生きており、この後もまた生まれ変わって同じ人

 
このように、楽山の話は、いつも、現実離れした方向に吸い寄せられます。現実を見ないで済むような逃避をして、そこで、現実の生き方を求める宗教を語るので、いつも崩壊してゆく害毒なのです。
 
楽山は、現実を生きたくないのでしょう。あの世、生まれ変わり、などという話を宗教的だと思っているのでしょう。空想に遊ぶのが、楽山の宗教観ですから、生きる糧にならないのは必至であり、変わることなく、いつも、宗教と信仰の誤解と曲解を増幅してゆく定めなのです。
 

生を生きねばならぬこと…を告げられた場面である。
生まれ変わりにはいろいろな考え方はあるものの、同じ人生を何度も何度も繰り返さなくてはいけないとしたら、これはあまりに不条理であろうし、「なぜ? どうして?」と問わないではいられないだろうとは思う。

 
空想の話ですから、不条理は当たり前です。空想のお伽噺と、現実の信仰を、いつも混同して、重大であるかのように、人生を問うかのように、「あまりに不条理」「なぜ? どうして?」と問うても意味はありません。楽山と関わると、このような倒錯に誘導されて、現実を見失ってゆく誘導をネチネチ粘りつけられるので、危険なのです。
 

著者はこれと同じような話を、大長編の『ダークタワー』でも、短編の『例のあの感覚、フランス語でしか言えないあの感覚』でも使っていることからすると、相当お気に入りのアイディアなのだろう。

 
「お気に入りのアイデアなのだろう」と、楽山が、もっともらしく言っているのが、考えてもしょうがないような、空想のテーマであり、現実とのかかわりを求めても、断絶してゆく方向性しか持っていないので、まともぶって、人生を語るかのような書き方をするから、大迷惑なのです。
 
つまり、「同じ人生を何度も何度も繰り返さなくてはいけない」人のように、学習もなく、進歩も成長もなく、同じ堂々巡りを繰り返しているのが、楽山自身であります。真実の追求と、趣味の遊びを、全く区別できない楽山が表れています。
 

*義人の苦難
こちらでは、ヨブ記には直接言及してはいないものの、義人の苦難に関連した話が出ている。

ハラスは笑ったが、唇を単に動かしただけだった。「それはいささか考えが甘いね。弁護士さん。どうしてロニー・ギブスンみたいに角膜異常で生まれてくる赤ん坊がいるんだ。そして同じ病院でつぎに生まれてきた五十人はどうして正常なんだ、とたずねているようなもんだよ。あるいはどうして、文化生活を主導している優秀な人間が三十歳で脳腫瘍にかかったり、強制収容所ガス室の管理を手伝った怪物が百歳まで生き長らえたりするんだと、きいたほうがましだ。あんたは、なぜ悪いことが善人に起こるのかとたずねているんだったら、来る場所をまちがえたね」
(「悪ガキ」『マイル81 わるい夢たちのバザールI』〈文春文庫〉スティーヴン・キング著、風間賢二・白石朗訳、文藝春秋、2020年、p.217-218
 」

 
何度言っても分からない楽山が、また、同じようなことを言って、いちゃもんをつけています。楽山の与太話は、不幸が起こるのは、なぜ起こるんだ、神のせいだ、というクレームだけを語って、ならばどう生きるのかについて何も語れないから、徒労と疲労の伝染にしかなりません。
 
楽山こそ、来る場所を間違え続けています。真実の追求の場においては、不幸に対処する意志こそが大事なのに、いつまでも、神のせいにして、"どうして?どうして?"ごっこに終始して、一歩も先へ進もうとしない精神肥満メタボ症候群でしかありません。
 
それに、楽山は、義人とは正反対の嘘つきの詭弁屋ですから、書いたことに、何の責任も負わないし、反省もしないのです。楽山の言うことを聞くことほど、著しく「来る場所をまちがえ」る人にだけはならないでください。
 

この物語では、これといって悪いことはしていないにもかかわらず、どこからともなく姿を現しては消え去る悪ガキ(何十年経っても年は取らず、子供の姿のまま)によって不幸のどん底に突き落とされ、破滅する男の一生が描かれているのだが、これは単なる荒唐無稽な話ではなく、上のようなテーマがあるのだろう。

 
「どこからともなく姿を現しては」責任を取らずに「消え去る悪ガキ」は、まさに、楽山を思わせますが、このような話は、興味本位の単なる荒唐無稽の話でしょう。
 
腐れ切った楽山の精神は、不幸の話を並べて、空想の話を並べて、他者の良心を腐らせてゆきます。楽山の友となることは、だまされるだけでなく、単なる裏切りに遭うだけではなく、永劫回帰ならぬ、永久堂々巡りへの詐欺的誘惑です。悪趣味というより、悪意による終わりのない地獄へのヌルヌル滑降であります。楽山独りが行けばよいのです。関わらないでください。
 

欧米の小説、映画、ドラマの背景にはキリスト教があるので、それらを理解するには聖書の知識が必要だというけれども、どうやらキング作品についてもその例外ではないようだ。

 
楽山は、あざ笑うように、また、キリスト教の名を出してきます。楽山は、キリスト教も信仰も、まるで理解していません。だから、ホラー話や空想話と、宗教・キリスト教・信仰を、同じ土俵に載せて、できない批判の代わりに、揶揄に変えて、終わりのない自慰行為にふけっているのです。
 
楽山の凶悪なるは、それを、公開して、嘘と詭弁で、誘惑し、誘導してくることです。楽山を相手にしないでください、決して関わらないでください、近づかないでください。無反省と無責任と無神経の怠慢思考ゆえの地獄には、楽山独りで行ってもらいましょう。
 
 

     f:id:stdsts:20210211234848p:plain

                     自慰の沼
 
 
(2021年02月12日)
 
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
https://twitter.com/st5402jp
(ここは、ブログ記事をコピー・リンク)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html