ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の破正顕邪2

 
※ 光への工事が終わりました。パパパパと、ほぼストレスなく表示、・・速いです。
 
 
  楽山の破正顕邪2
 
 「ブログ村騒動」発言集(外伝 破邪顕正
 2021年08月11日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 http://mmknky21.blog.jp/archives/10560488.html
 
 
執拗につづく「騒動」シリーズのようです。楽山が書く理由は不明ですが、「数年前」と書いてありますから、他に書くことがないときに、何も書けなくなったときに、こういうことをするのだろうと思うしかありません。書いて、説明しないのが、楽山の特徴です。
 
一連の記事において、引用の「>」の使い方が雑なので、楽山のコメントなのか、後のほうにある別のHNのコメントなのか、分かりにくいです。責任の所在を不明確にするための作為でしょうか。こちらは、推測して、引用し、楽山だけを批判しています。
 
 

*まえおき
数年前、ブログ村幸福の科学カテゴリー内において、HS信者同士の争いがありました。通称、「ブログ村騒動」です。
この騒動ではさまざまな争いがありましたが、その背景には「破邪顕正」という考え方があったようです。今回はそこに関連した発言をまとめました。
編集方針は前記事と同様です。名前のない文章についてはアドレスをみれば、発言者またはその派閥の見当はつくだろうと思います。

 
学があることを見せる、いや、見せかけるために、用語の説明をしない楽山、今に始まったことではありません。「破邪顕正」とは、漢字を見れば、邪を破り正を顕す、ということだから、だいたい、分かるとは思います。つまり、意味としては、新しくはなく、当たり前の正義を表しています。
 
(ネットより)
はじゃ-けんしょう【破邪顕正
誤った考えを打破し、正しい考えを示し守ること。不正を破って、正義を明らかにすること。▽仏教語。「破邪」は邪道・邪説を打ち破ること。「正」は「せい」とも読む。

dictionary.goo.ne.jp


 
相変わらず、プロデューサー気取りか、編集長気取りで、楽山は、自分が、なれない、できない、通用しないところを、お伽噺のように、独り芝居で演じて、満悦するのでしょう。楽山の人生は、芝居で出来ており、真実・真理・現実がないのだと思います。「破邪顕正」に、ずっと背いた来たのが楽山です。
 
 

*これもおもしろい
上とは違った意味で、これもおもしろい。口が悪いことで有名な英さんを正義感が強いとべた褒めした人が、コピペ攻撃で有名なポン吉さんを正義の人といった人を批判するという……。

 
このように、楽山は、他者の名を出し、他者を指して、他者のことをとやかく言って、邪悪だとけなして面白がることしか出来ません。自分を見ない者の地獄が、既に表れているのです。
 
 
 

選挙中おじゃまします
「某掲示板におかしな書き込みがある。アモーレさんのブログのコメント欄が発端」という連絡をいただき、確認のためにおじゃましております。
かつてLiberty webで、英の降魔成道さんと喧々諤々の議論をしていた、私 着ぐるみと他のお二人とも、アモーレさんのブログで、英さんに対して謝罪したことはありません。
今後英さんに対して、謝罪することもありません。
一体何が原因の謝罪かも理解不能です。
最近忙しくしておりますので、幸福の科学会員さんのブログに訪れることも殆どできませんので、無責任な書き込みに、これで終止符を打てたらと思っております。

 
楽山が、謝罪したとしても、現実感のない楽山の嘘ですから、無責任な楽山への批判は、無視が長期にわたって訂正不能であることを確認した時点で、楽山への信頼度ゼロが既に始まっており、楽山の記事がなくなるまで、止むことはないでしょう。信頼回復は、楽山の場合、ほぼ不可能だと思います。
 
 

破邪顕正公開処刑
ひょっとしたら、レオさんたちが法友批判しているのは破邪顕正の一環なのでしょうか。
そうして、レオさんたちの法友批判(破邪顕正)を、ぽん吉さん、コウさんらは「公開処刑は止めろ。法友を屠るのか」と非難しているという……。
レオさんたちの法友批判は、破邪顕正なのか、公開処刑なのか、それとも他の何かなのか、これはなかなか難しい問題です。
*結果から逆算すると
とはいえ、リバティwebのコメント欄が閉鎖されたという結果からいえば、そこでは破邪顕正というより、荒らし行為が横行していたんだろうなあとは思います。

 
楽山の記事とコメントは、人間離れした楽山芝居から楽山自身への、"破正顕邪" とでも言うべきものです。言論と言論者を、宗教と宗教人を、公開処刑ではなく、謀殺~暗殺してゆくことになる、というより、楽山が、自身の鈍麻病を伝染させることによって、実際、やってきたことです。
 
つまり、楽山というペテン師の言は、無反省に、無責任に、評論家気取りやインテリ気取りなど様々な気取りや、見せかけの丁寧語、ボンヤリ言語、トホホ言語、三文芝居、などによって、真面目に真実を追求する人と努力に対する、悪質な荒らし行為であります。
 
3年以上批判しているのを承知の上で、それを無視して、平気で、自分の言いたいことだけ書き続けられるという楽山の心性には、いつも呆れます。不都合を無視、罪悪感なし、ということでしょうが、それにしても、人間としての性質を、良心を、どんどん捨ててゆく楽山です。
 
私が関わりのないカルトの話でも、楽山という無神教カルトの話でも、一貫しているのは、人を欺くという罪悪が善を装うという偽善の色彩を帯びてくると、人間性がなくなり、いくら丁寧語を並べても空しく、ケダモノの臭気だけが、悪臭とともに噴き出してくることでしょう。
 
 

       

               臭気はケダモノ
 
 
(2021年08月12日)
(2022年09月10日、再録+加筆)
 
 
 
以下は、失恋の詩ですが、なぜか、ここに載せたくなりました。対話というものが、成立しない状況は、いろいろあります。また、言葉というもののもたらす罪もあるでしょう。
 
真実と詩情から離れれば、世の中には、言葉に、対話に、悪意と嘘と詭弁を載せて運ぶ病原菌のような人もいるのでしょう。腐敗は感覚を鈍らせ、悪臭には慣れるからです。
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  古い端末
 
誰かを判別し
誰かを裁いたかのような日々の終末
誰も愛さなかったことの結末は
ひとつの端末のように
ここにまだ残っていて
狭い箱の中で
飛び散る暗号をころがしては
間違った解読を遊んでいる
 
遠い遠い昔
「一応働いてもらってるから」
君は笑いながら言ったのち
求める位置へ去っていった
 
一応働かなくなってしまって
たまっていくほこりを払うように
たまに体を動かしてみる
腰と首と頭と
どこからどこまでだろう
解読できない痛みが
壊れかけた端末に年齢を刻み
安否だけは知りたいけれど
不意に現れるデータひとつひとつの
とびとびに欠けた部分の
傷つけたり壊したりの
入力を拒み
修正をできなくしている
もうこの顔しかない
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までの記事の流れに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、反省と共感がない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わない、できないし、する気がない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
真実は、飾る言葉ではなく、事実でも喩えでも、人間性の精いっぱいの叡智なのです。決して、偽善者やカルトやサイコパスを飾るためにあるのではありません。楽山の妄想は、どこまでも言葉と人間に対する侮辱であり、正直の結晶を、病原の伝染から腐敗に変えてしまいます。
 
 
 
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「排泄の口、誰の前で幼子?」3

 
NTTより電話がありました。今日が、光接続の工事です。私はネットの仕組みが分かっていないので、ブログを休むのかどうか分かりません。
 
 
 「排泄の口、誰の前で幼子?」3
 https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12457324506.html
 を修正して再録します。
 
 
  排泄の口(改)
 
神も聖書も謎だらけですが、
救いと恵みの後に先に戒めがあっても
祈る姿勢くらいは持っていられるでしょう。
 
しかし信仰と聖句について
言行不一致の不正直な人が
同じようなことを言ったりすると
なぜか違和感から不快になることさえあります。
 
自分も言うかもしれないのに
だから
悔い改める正直さだけは持っていたいです。
 
人間はおかしいところがいっぱい、
不完全、欠点だらけ、罪深い、ちょっと変、一面的、
など、いっぱいあって
つくづく聖なることを語るには向いていないと思います。
 
人間としては
聖なる言葉・恵み・教えを説くより
聖ならざる自らの不完全を語るほうが相応しいと思います。
それによって
聖なる御方に寄せる希望は生まれるでしょう。
 
自らの不完全さすなわち罪深さを抜きにして
ありがたい恵みばかり説くのはカルトの所業です。
 
慢心して
ときに強迫的に
神の言葉だからと思いこみ信じ込んで
自我の教条の奴隷になっている者がいます。
 
意地が強くて悪い頑固な人間が
聖なる神の救いを得々として語る口は
汗腺か皮脂腺か
あるいはもっと臭くて不潔な
しぶきを飛ばす排泄の管になりうるのです。
 
 
 
  誰の前で幼子?(改)
 
聖句「幼子のように」が
「素直に」の意味であるとしても
それはキリストの前でのみ成立する姿勢であります。
そしてそれは正直さに他なりません。
 
神にキリストに
完全に従順であることは人間には出来ません。
だから悔い改めの祈りがあるのです。
 
キリストの言葉を今の時代
直接聞くことは出来ないのだから
実際には説教者の語る聖書解釈や信仰の話を
信仰者は自分の思いや経験と照らし合わせながら
自分の罪や悔いや欠点に思いを致すことによって
正直に祈り
赦しと導きを乞い願い
信仰の成長を期待することになります。
 
したがって「幼子のように」は
人である説教者の言うことを素直に
さらに無条件に受け入れよという意味にはなりません。
 
ましてや
疑問や反対意見があるときに
その発言を封じる説教者は偽善者であります。
 
そういう説教者は信仰者を
幼子に対するように子供扱いして
キリストの代弁者として
神の権威の立場から物を言うでしょう。
 
キリストが語るなら
幼子のように素直に聞くのが信仰者だが
説教者はキリストではありません。
 
説教者はキリストではなく人に過ぎないのだから
説教者が語ることを
決して「幼子のように」素直に鵜呑みにしてはいけません。
 
巷にもそして特にネットには
おかしな説教者がいっぱいいると思っていたほうがよいでしょう。
 
従順な人を悦び迎え
従順でない人に不機嫌になったり冷たくなる説教者は
ひたすら正体を隠しながら
往々にして偽りを聖句の字面だけで飾り
「幼子のように」隷属することを求めてくるのです。
 
そのような説教者を裸にしなければなりません。
 
ただ御一人の飼い主たるキリストに
飼われて生きる羊たる信仰者は
少なくとも
そのような説教者に近づいてはいけません。
 
飾らず偽らず隠さない説教者は
信仰者に教える人ではなく
信仰者とともに考え
ともに思い悩む共感者でいなければいけません。
 
「幼子のように」は人に対する従順を意味してはいません。
 
また、神に対する従順は人には確定できません。
 
ゆえに「幼子のように」という聖句は
先入観や固定観念にとらわれていない幼子のように
反省と修正と学習を可能とする虚心をもって
聖書の教えを受け取って考える心を意味するとしか言えないでしょう。
 
このことは説教者だけでなく
信仰者が信仰者や求道者に語るときも同様であります。
 
 
自分を含めて、人のもとにあれば、人を恐れるが、
 
神のもとにあれば、神のみを恐れる。
 
 
心貧しさ = 余計な先入観のないこと  = 柔軟で成長可能 = 幼子 =  敬虔
 
精神の貧困= 余計な先入観しかないこと = 固着と成長不能 = 偽善者 = 傲慢
 
 
少なくとも現代において、神・キリスト・聖霊は、目に見えません。神にお任せするのは、非力でも人が精いっぱい、できる範囲で、正しさを求める言動に努めた上でのことです。神にお任せすると言って、努めず、学ばず、考えないのは、安穏教であって、キリスト信仰ではありません。
 
人には考えることと感じることがあります。このことに無頓着になっているような信仰はありません。神は、人を、感じて、考え、行動する存在として造られたからです。聖書の、悲しみ苦しむキリストを忘れてはいけません。精いっぱいを尽くしたのち、祈りに答えて、安らぎは与えられます。
 
"精いっぱい" というのは、作業や結果の量ではありません。
 
マタイによる福音書22:37,39
エスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
 
"精いっぱい" は、個人によって違います。病気の人は治療と療養で精いっぱいでしょう。怠慢で人をだましてあざ笑う楽山などは、精いっぱいだったことは一度もないのだろうと思っています。
 
 

   

        信仰は道 道は学習 思い込みの固定は妄想
 
 
(2011年)
(2019年)
(2020年)
(2021年)
(2022年09月09日、再録+加筆)
 
 
 
  ふくらむ陰と影
 
雨に濡れ風に飛ばされ日に焼かれてもなお
個は個でしかあり得ないのに
ふくらみすぎた陰(かげ)の中に
ちっぽけな影が没してゆく
 
個は集まり固まり
個々は要素の数になってゆく
 
にもかかわらず影は
ふくらみすぎた陰の中へ向かう
埋もれてゆく虚像として
 
しかし当然そこには影の存在する場はない
したがって凍結も燃焼もできないまま
伝えようとする目論見は
陰という巨大な虚像の中で
鏡の枠に括られた自分が
常に自分とは違うように
すでに語るに落ちて足りない
 
だから個よ
たったひとつの
あまりにも限られた真実でさえ
もはや死ぬことでしか伝えられない
しかし個よ
しかも死をもってしても伝えられない
 
さらに自(みずか)ら死を選ぶことは
自らにまつわる真偽
と虚実の伝達をも
ともに殺してしまうことに他ならない
 
 
  眠りの傾斜
 
今にも折れそうな枝に吊した
虚脱の揺籃に
身を委ねて眠ろうとする
永久(とわ)
果てもないエロスの海は
まだ跳ねている夢でいっぱい
霞(かすみ)のように
手繰(たぐ)る十進法の指を折り
待ち侘びて怠い
漠(ばく)のうちに
崩れ落ちた楼閣
残骸が潤いを求める
ときに休息の伽(とぎ)の傾き
海と揺籃
 
 
  約束のない地へ
 
無情でも無常でもなく
速度を測れる暇も与えず
出会ったものは皆お互い
それぞれ一目散に駆けてゆく
 
宝の地図を焼き捨てて
地図に名のある町を捨て
すべての飾りを脱ぎ捨てて
古びた預言を拭い捨て
もはや信じられるのは
されど信じられないのは
歌が止むときだけだ
 
 
  いだかれて眠るとき
 
昔覚え
昔忘れた幼い言葉に
包まれて眠る夢の中に
生き生きと遊んでいる
雫の時
まるで未知のように
幼子とひとつ
そのときは長さではなく
そのときは広さではなく
そのときは名前ではなく
滴り落ちる前に
影絵のように切り抜かれて
短い目覚めの朝
心残りに細い記憶を
たどれば呟くのだ
何か低く
きらめいていたと
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
Pさんの書き方だと、一般のアッパレな「高校生」だと思えるけど、実際は占いビジネスで稼ごうとしたり、HS支部長からもう関わりたくないと言われてる特殊な人で、手放しで褒めるのは無理なんだよなあ。
Pさんは、印象操作のために重要な事実は伏せて報道するという悪徳マスコミと同じやり方してる。
午前7:15 · 2021年9月7日
https://twitter.com/komo266/status/1435003826583392257

 
楽山が、印象操作を批判しています。今まで、人それぞれ、自分を貫く、個人の自由、などといった広い意味の言葉で、まともだと印象を吹き込もうとしてきたのは、楽山であります。この3つ、いずれも、公共の福祉に反しない範囲、迷惑かけない範囲、という条件が付くわけです。
 
このように、公共の害として、詭弁と印象操作によって、自己正当化を企んできた楽山に、他者の悪徳を批判する資格はないと思います。楽山は、恐らく、自分のしたことを記憶できないのだろうと思いますが、ならば、なおさら、平気で書いてはいけないことがあるはずです。
 
楽山は、若いのかどうか知りませんが、大人でしょう。決して、アッパレなどではなく、人のことを言える立場も器量もないと思います。褒めるどころか、今まで、やってきたのは、詭弁、嘘、印象操作、無視、無反省、無責任、・・どこまでも、追及されてしかるべき人です。
 
振り返って、私は・・と言えば、特に優れたところもなく、褒められたものではありませんが、そういう自分の有り様を、少なくとも、ある程度、折に触れて内省もしています。そういう自分を弁えてさえおれば、どこまでもハナタカな楽山に対して、批判を遠慮する必要はないと思っています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山は、自己顕示欲から、多数のHNを使って成りすまし、無責任に、あちこちで言いたい放題で、否定を言い、肯定を言って、断定していないから、責任問題は生じない、などと言っていました。そういうのは、混乱させるだけだと分からず、百害あって一利ないことを繰り返しています。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
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楽山のねっとり右翼2

 
  楽山のねっとり右翼2
 
 『餓死した英霊たち』藤原彰
 2021年08月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/30222075.html
 
 
楽山がネトウヨぶりを発揮して、戦争を不可抗力と主張して、危ない方向へ誘導したいようです。楽山は、その時点でアウトです。既に、あちこちでアウトですが。自己顕示欲だけの自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)者が縋りつく右翼思想に付き合わないでください。
 
 

*きっかけ
もう随分前のことになるのだが、ひょんなことから知り合ったお年寄りと雑談するうちに、いつのまにか戦争の話になり、南方に行った兵隊の大半が餓死または病死したと聞いたことがあり、そのことについて書いた本はないかと探していたところ本書を見つけたので読んでみた。

 
戦争の話というのはトラウマを語ることにもなり得る重いテーマですが、「ひょんなことから」知り合って出てくるようなものでしょうか。そもそも、楽山のような軽薄な人が、深い経験を持つ人と語り合うなどということが、まず、信用しかねるわけです。
 
しかも、結局、記事の中身は、本を読んだだけの楽山の話であり、体験談とは別の話なのです。面談したというのは、また、成りすましと捏造の悪意で出来ているような、楽山の、インテリ気取りの、自慢したいだけの、作り話ではないでしょうか。
 
 

*概要
まず本書は前半において、ガダルカナルポートモレスビー攻略戦、ニューギニアインパール作戦、フィリピン戦、さらには中国戦線でも餓死、病死が多かったとしている。太平洋での戦いだけでなく、中国での戦いでも食糧難、栄養失調に起因する死が多かったというのは意外である。
後半ではこのような悲劇の原因は、日本軍の補給・人権の軽視、精神主義の偏重、作戦参謀らの能力、人格的欠陥などが原因であったと指摘されている。これらはすべて著者の言う通りであり、もっともな理由なのだろう。

 
楽山の意図は、次に、明らかになります。「著者の言う通りであり、もっともな理由」と言いながら、全然、逆の方向に誘導してゆく、気持ちの悪さが表れています。何だか、右翼の誰かに言われて書かされているのではないかという感じもするような、下手くそな文章の運びでもあります。
 
これから、もっと、ボロを出してゆくのでしょう。自己愛性パーソナリティ障害(自己愛性人格障害)の宿命でしょうか。柔和を装い、婉曲と詭弁と嘘を表してゆく楽山は、むしろ、自慢したいらしい思想モドキによって、滅びつつある自らの姿を表してゆきます。
 
 

*賭け?
ただ、日本軍が兵たちに降伏を禁じることなく、「もし降伏が認められていれば、実に多くの生命が救われたのである」(p.265)というのはどうであろうか。
『人種偏見』(ジョン・W. ダワー著)の内容が真実だとすると、日本兵が降伏しさえすれば、米軍から人道的な処遇を得、餓死、病死、玉砕、自決以上に過酷な運命と対峙することにならなかったとは限らないのではなかろうか。この辺りのことはやはり大きな賭けにならざるを得なかったのではないかと思う。

 
「降伏しさえすれば、米軍から人道的な処遇を得、餓死、病死、玉砕、自決以上に過酷な運命と対峙することにならなかったとは限らないのではなかろうか」・・なんてまわりくどい言い方なのでしょう。過酷な運命の二重否定+否定疑問による肯定です。楽山のボンヤリ言語の中でも最も劣悪な長さです。
 
降伏を禁じることはない、降伏すれば助かったとは限らない、と言って当時の日本の軍部の戦争犯罪を、不可抗力として、免責したいという、ネトウヨらしい意図です。事実関係について、私は、よく知りません。しかし、情報操作の腐敗臭がプンプンしてきます。
 
本来、兵士に自決を勧める国は、ろくでもない国だと思います。楽山は、そういう詭弁の群れの中にいるのでしょう。しかし、いちばん臆病で、自己中で、戦争中でなくても、卑怯に言い逃れている楽山こそ、最も人間離れした自己中であり、戦場では最初に仲間を放って逃げる輩だと思います。
 
戦後の人間として、実際はどうであったかについては、詳しく知らないのだから、本を読んだからと、降伏したら皆殺しの恐れもあるみたいな書き方をして、疑問を投げておきながら偏向した結論を、ボンヤリ曖昧な言い回しで刷り込んでくる楽山が、最も邪悪であります。
 
それは、楽山が、今まで、嘘を吐き、詭弁を弄し、他者の意見を無視し、言うには言うが聞かないという成り立たない身勝手に偏重した態度で、反キリストの考えや、右翼の賞賛や、自己正当化の言を、重ねてきたという負の実績があり、その時点で、信頼度ゼロだからです。
 
楽山が何か書けば、決して鵜呑みには出来ず、その裏の意図があるということが、2年半にわたって、積み重なってきたのです。ここで、また、このようなインテリ気取りの発言を、平気でしてくることが、失敗や悪に不感不応で、何も感じないでいられる病質の表れだということです。
 
戦争は、決して是とはされません。その惨禍が、歴史として明らかになっていることを、ねじ曲げて正当化してゆく姿勢は、戦争正当化から戦争讃美へ向かう姿勢であります。それをしているのが、楽山というペテン師の反キリストのネトウヨとなれば、ますます、信用してはいけないと思います。
 
楽山は、反キリストのネトウヨから、本格的な右翼思想家として出世したいのでしょうか。今さら真面目に書いた姿勢を見せても、その根底にある腐った自己顕示欲と自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害)は、否むべくもなく、楽山がどこにも立場のないことを示しているのです。
 
 

     

        人類の恥 架空の演壇に立ってご機嫌のペテン師
 
 
(2021年)
(2022年09月08日、再録+加筆)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山さんがリツイート
みんなの動画(動画省略)
@minnano_dougaww
·22時間
お母さんのいじめに対する教育が素晴らしすぎる…
午後10:10 · 2021年8月21日
https://twitter.com/minnano_dougaww/status/1429068465474727941
(このリンクは動作しないようです。)

 
いじめは、謝っても、傷は残り、完全に元には戻らないことがあります。謝ったからいいじゃろという言い訳は成り立ちません。あとで謝るような、悪いことはしないようにしましょう、という話であります。決して、謝っても無駄だから謝らなくていいという話にはなりません。
 
世の中には、楽山のように、何を言われても平気で同じことを言い続け、反省しない人もいます。訂正すらしない人もいます。この話は、一方で、そういう人の悪意を際立たせてもいて、そういう人は、さらに、救いがたいということを忘れてはいけません。楽山を相手にしてはいけません。
 
その根底には、病質として、自己中があり、罪悪感や羞恥心の欠如があるのです。楽山は、また、勘違い、あるいは、故意に、都合がよいと思ったのか、自分の罪が軽くなりそうだ、みんないっしょだろ、みたいな印象を吹き込もうとしています。楽山の印象操作に騙されないでください。
 
楽山のように、自分で語らなくても、婉曲表現や暗示で詭弁を仕掛けてくる人がいるという例です。楽山は、このように、自己の正当を暗示するために、言い訳みたいに、今までも本などから、都合のよい文言を漁っては引用して、自己正当化を試み、己の醜さを増幅させてきたのです。
 
 
 
  動物気分
 
人は鳴かない
時鳥(ホトトギス)が鳴いている
部屋の中までよく響く声だ
確かに「てっぺんかけたか」
とも聞こえるが
それより、・・ホットットギス、・・と
自分の名を唱えているようにも聞こえる
 
人は飛ばない
 
蠅(ハエ)が一匹
部屋の中を飛び回る
死んだ誰かの生まれ変わり
 
まだお恨みですか
 
でもまさに五月蠅(うるさ)い
スプレーで狙い撃(う)ち
二度外れ
三度目に命中
 
鳥の声は聞きながら無視
何の生まれ変わりだろうと
虫は殺して
せいぜい黙(もだ)すこと数分
 
またどこからか飛んでくる蠅
隙間だらけの家の外では
犬があちこちで吠えている
 
この町にどれだけの猫の眼差し
動物は何でも知っていて
知らない振りをする
 
ふと鶯(ウグイス)はまだ鳴いているだろうか
と徐(おもむろ)に出かける支度を始める
 
山に向かって
人は鳴けない
人は飛べない・・・から
 
 
  忸怩(じくじ)
 
怒りは常に自らを嘖む
烈火のごとく
仮借ない呵責である
 
繰り返してみるがいい
あらゆる初(うぶ)と
あらゆる甘さを廃された
否定しようのない道は
そこで完結し
進めぬ先を更に塞ぐ
それゆえ泣いても笑っても
人の顔は美しく
自らは常に醜い
 
怒りは嘖む
滑稽なほどに
火は常に焼かれている
 
 
  忸怩たるもの
 
独り思い倦(あぐ)み
独り遊び学ぶことしかできない
忸怩(じくじ)たるものよ
そのままでいいとは言わない
しかし今こうあること
しか考えられないあいだは
そうありなさい
 
さいわいなるかな弱きものよ
役に立たない力なき腕よ心よ
自らを責め呵(さいな)むものよ
 
烈々たる強き腕は未熟な腕を取り
助けることができるが
脆弱(ぜいじゃく)な腕や心を気づくこともなく
ずたずたに切り裂き潰すこともあるのだ
 
だからたとえ侮(あなど)られ嘲(あざけ)られ
さらには総ての嫌悪と憎しみが向けられて
死ねばよいと思われているとしても
今日一日のパンが与えられているなら
今日一日のうちに死んではならない
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
共感性皆無で不感不応の自己愛者、楽山を批判するには、理路の正しさに努めるだけでなく、怨念か幽霊にでもなるような情熱~情念が必要です。楽山は、変性し崩壊してゆくプロセスにあります。企めば企むほどに失敗ばかりの楽山の人生を描くのです。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
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楽山の醜い虚栄2

 
  楽山の醜い虚栄2
 
 『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三
 2021年09月05日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/30374305.html
 
 
聖書のいちばん大事なことを、全く理解していないのに、なおも、自分は分かってるつもりで重箱の隅をつついて満悦する楽山の、みじめな姿が、あらわとなっています。楽山には、聖書の知識はありません。いちばん大事な理解を飛ばして知識とは言えないからです。
 
既に浅薄だということがバレているのに、虚栄に走る楽山は、人間性の破壊された悲惨な姿を露呈するだけなのですが、自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山だけは、客観視ができないために、気づかないのです。見栄だけを張ることの醜さを、楽山によって学ぶことになります。
 
 

*通読
何年か前に本書を開いたときは難しすぎて読み通すことはできなかったのだが、先日また開いてみたら今度は最後まで興味を持って読むことができた。これはうれしい。本書の中で、特に印象に残った箇所について以下にメモしておきたい。
*熱心党
まず著者は、イエス在生の当時、その弟子に熱心党に属する者がいたという話はきっぱり否定している。

熱心党そのものはイエスの生きていた当時はまだ存在していなかった。あるいは、存在していたとしても、人々の間で問題になりうるほどの活動はしていなかった。
[省略]
マルコが福音書を書いていた五十年代(もしくは六十年代)になって、ようやく熱心党の活動が顕著になってくる。
(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.93)
 」
「イエスの死からユダヤ戦争の勃発まで、約三十五年間であ」り、これはさして長い期間には思えぬかも知れぬが、日本の歴史にたとえれば「日本の一九三五年に、七十年の新左翼の存在を予測」できたかということにもなるし、この点を考えれば、この三十五年間という期間がどれほどの時間かは想像できようとのことである。そうして「熱心党の活動が顕著になってくる」のは、「マルコが福音書を書いていた五十年代(もしくは六十年代)」だという。
自分は、ユダは熱心党であり、イエスユダヤ人の独立解放の救世主となることを期待していたものの…云々という話を信じていたのだが、どうやらこれは全くの見当違いだったようだ。

 
二千年前の話に確定はないと思います。楽山だから都合のよい否定の方向に確定したいのでしょう。それに、熱心党がどうとかいうことは、今の信仰には何の影響もないのです。いつものように、史実がどうとかでキリスト教を否定できると思っている楽山の無知と無恥が表れています。
 
聖書の、いちばん大事なところを、全く理解していないことが明らかになっている楽山ですが、なおも、いつものように、他者の口を借りて、分かってるんだと、まるで学者のように気取ってきます。読むことが、災いにしかならない者もいるということです。
 
なぜ、娼婦や取税人が天国へ行くのか、キリストがどういう人を救ったのか、大事なところをすっ飛ばして何も理解しないのでは、聖書を語ることは、どこまでも、無意味であります。つまり、楽山にとって、読書は、インテリ気取りの飾りに過ぎないのです。
 
 

*書きかえ
本書では、聖書の書きかえについていくつかの指摘があるが、そのうちの一つをここにメモしておきたい。

マルコは二度「怒る」という語を用いてイエスの行為を描写している(三・五、一・四一。このうち後者は写本によっては「憐む」という動詞に書きかえられている)。ところがイエスを怒らない柔和な人にしたかった後の教会は、この二箇所とも削ってしまった(マタイ八・三、一二・一二、ルカ五・一三、六・一〇)。
(同上、p.293)
 」
新共同訳で確認してみると、たしかにマルコにある「怒って」(3:5)が、他ではなくなっている。また後者は「深く憐れんで」(1:41)としてあった。これらは写し間違いではなくて、著者の言う通り意図的な書きかえだったのだろうな。

 
理解も信仰もないのに、知識人を気取ろうとすると、細部を知っていると見せかけることになるのでしょう。無視してください。楽山は、重箱の隅をつつきますが、重箱に何が入っているか、全く知らないままなのです。悲惨な楽山は、読むことより、目を失うほうが幸いでしょう。
 
細かいところをあげてケチを付ける楽山の評論家気取りは、見るも無残な病質からの虚栄心の災いであります。こうはなりたくないし、かつ、こうなってしまわないように、気をつけるべきだという、戒めとしてください。聖書は、細かいところにこだわらなくても、命を救う力があります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)5:27-28
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:27、新約聖書
 
神レベルの正しさとは、こうであると語ることで、人間は、みな罪人であることを教えている聖句です。しかし、新共同訳では「女」を「人の妻」と書き換えて、キリストの教えを、月並みな安い道徳におとしめています。新共同訳は、神を、人の掌に乗せようとする悪魔の訳です。
 
 

楽天
個人的にはイエスには悲劇的でさみしそうなイメージがあるのだが、著者はそれとは反対にイエス楽天的なところを繰り返し指摘している。

ここにもイエスの、神と神のつくった自然とに対する、実に楽天的な信頼感があふれている。
(同上、p.307)
 」
著者がその根拠としている箇所を確認してみると、たしかにこれは楽天的といえそうだ。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。だが、あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
(マタイ6:26)
だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。
[省略]
あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない。
(マタイ7:8-11)
神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
(マルコ4:26-29)
 」
改めて読むと、神に対する信頼感はすごい。これを読むこちらの方まで心が落ち着き暖かくなってくる心持ちがする。なんというか、つい武者小路実篤を連想してしまう。
こうしてみると、キリスト教からニューソートが出てきたのは、必ずしも反発反動というわけではなく、当然の流れだったのかもしれぬという気がしてこないでもない。

 
「神に対する信頼感はすごい」・・キリストは神の子と言われているのだから当たり前です。楽山は、何も知ろうともせずに、外から石を投げてきますが、そのたびに、ボロを出しているのです。それでも自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だから書いてくるのです。
 
プラスのこと、プラスの喩えを、キリストが言えば、楽天的なのでしょうか。キリストが洞察力と共感性あふれており、十字架で死ぬことを覚悟するほどの人だから、真実として言えるのです。
 
楽山が言えば、ウンコを投げつけられるでしょう。今、そんな感じです。汚い楽山です。
 
楽山は、自己愛性人格障害のために、自分の表現を持ちません。真摯に学ぶ、ということを怠ってきたからです。そういう場合、楽山が今までもしてきたことですが、難しい言葉や文章を引用して、べた褒めすることです。楽山の崩壊した虚栄の魔界です。
 
(ネットより)
ニューソート(New Thought、新思考)は、19世紀アメリカ合衆国で始まったキリスト教における潮流のひとつ、一種の異端的宗教・霊性運動である。現世利益の追求を戒めるキリスト教プロテスタントカルヴァン主義への反発を背景に生まれた[1]。
ニューソートは、聖書の内容を従来とは違う立場から解釈しようとするもので、「人間の意識は宇宙と繋がっている」と考え、その根拠を聖書に求めるのが主流である[4]。
ニューソートウィキペディア
 
「神に対する信頼感はすごい。これを読むこちらの方まで心が落ち着き暖かくなってくる心持ち」・・アホのべた褒めの、世辞そして嘘ということです。ひねくれついでに、正当が分かってもいないのに、超常のカルト的異端に走る楽山です。当然の流れだそうです。
 
「実に楽天的な信頼感」「たしかにこれは楽天的といえそうだ」・・キリストの教えは、決して「楽天的」ではありません。楽山が楽天的だと思うのは、神が与える「良いもの」を全く知らず、字面の狭い通念だけで判断しているからです。楽山は、キリストさえも、あざ笑いのネタにしています。
 
「心が落ち着き暖かくなってくる心持ち」・・嘘です。かつ、作為の、べた褒めの幼稚さと言ってよいでしょう。楽山の心が落ち着くことは、なかったと思いますし、ありえないことです。楽山は、いつも、分かっていることにするために、わざとらしい台詞しか言えないのです。
 
 

*罪
著者によれば、イエス楽天性は、自然に対してだけではなく、罪に対しても変わらなかったらしい。

ともかくこういうイエスだから、人間の数多くの行為を洗い上げて、どれが罪になるかを定めて断罪し、あるいはそもそも、人間存在そのものが罪なる存在であるとみなす、などといった発想からはほど遠かっただろう。この人の楽天ぶりは、そういった陰湿な思想とは無縁である。
(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.271)
 」

 
キリストが救った人々と、キリストが厳しく批判した人々の違いを考えないのでしょうか。誰よりも、罪については厳しい見方をして、罪を認めた、あるいは、認めざるを得なかった人々を選んで、愛し、救いました。そこを理解してないのは、楽山と同じで、浅い辻褄合わせだけの思考のようです。
 
キリストは「罪になるかを定めて断罪」するスタンスは持っていません。それはキリスト信仰ではありません。この著者は、楽山と同様、無理解であります。しかも、それを楽天性と言ってしまうのは、著者は、キリストについて、真面目に考えていない人なのでしょう。
 
(ネットより)
田川 建三(たがわ けんぞう、1935年 - )は、日本の新約聖書学者、著述家。大阪女子大学名誉教授。宗教批判を通じて現代批判を試みた著作でも知られる。「神を信じないクリスチャン」[1]を名乗る。
1935年東京生まれ。聖学院高校、東京大学宗教学宗教史学科(1958年卒業)
文献批判に立脚した新約聖書学の伝統の上で、キリスト教批判や宗教批判、そして現代社会批判を展開したことで知られる。

田川建三 - Wikipedia


 
私は、信仰を語る上で、○○学というのを、あまり信頼していません。信仰は、心の問題だからです。著者は、キリストを見下ろしているような気さえします。「人間存在そのものが罪なる存在であるとみなす」のではなく、人間は、必ず罪を犯すという本質なのです。著者は信仰者ではないようです。
 
聖書の学者が、信仰者でなければ、何の意味もありません。誰の助けにもなりません。楽山と似たような妨害者です。それにしても、楽山の聖句の選び方は、悪意によるものです。楽天的なキリストが、十字架につくでしょうか。類は類を呼ぶという記事になっています。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)26:39
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。 
 (マタイ26:39、新約聖書
 
 (マタイによる福音書、口語訳)27:46
そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 (マタイ27:46、新約聖書
 
キリストが、その優れた弁舌の能力によって、パリサイ人に、少しでも歩み寄る姿勢を示せば、十字架は、免れたでしょう。しかし、キリストは、十字架の道を歩まれました。十字架は、どこまでも、悲劇です。それは、私たちの悲劇だからです。
 
 

これについてもその根拠を確認してみると、たしかにそのようである。

はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
(マルコ3:28)
「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
(マルコ2:5)
 」

 
 (マルコによる福音書、口語訳)
2:4
ところが、群衆のために近寄ることができないので、イエスのおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたまま、床をつりおろした。 
2:5
エスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
 (マルコ2:4-5、新約聖書
 
赦されたのは、病人です。人々は、何とか、キリストのもとに連れてこようと努めました。楽山の言うことは、悪意による言いがかりです。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
3:28
よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。 
3:29
しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。 
3:30
そう言われたのは、彼らが「イエスはけがれた霊につかれている」と言っていたからである。
 
楽山は、恣意と悪意によって、キリストを汚しました。しかも、悔い改めることなく、今回も、その反キリストぶりを発揮しています。引用された学者は、楽山というネズミ男に、好きなように悪用されています。楽山は、自らが赦される余地を、自ら捨ててゆくようです。
 
 

ちなみに著者は、これらの言葉についてこう書いている。

右の中風患者の話にせよ、この明快な宣言にせよ、別に、罪が赦されるために悔い改めねばならぬとか、悔い改めにふさわしい実を結べ、とか、洗礼を受けろとか、そういったことは一切言われていない。ここに洗礼者ヨハネとイエスの決定的な相違がある。 
(『イエスという男 逆説的反抗者の生と死』田川建三著、三一書房、1981年、p.275)
 」

 
 (マタイによる福音書、口語訳)4:17
この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
 (マタイ4:17、新約聖書
 
この学者は、何を言っているのでしょう。ひょっとして、楽山と同じ反キリストなのでしょうか。はっきり言いますが、信仰の無い神学者宗教学者ほど、無意味な職業はありません。信仰者の共感がないのです。結局、楽山のような無神教カルトに利用されるだけでしょう。
 
悔い改めは、神の前に正直に祈ることであります。悔い改めたからといって、完全な正義の人になることはありません。信仰は、成長するための道です。一気に悟る境地ではありません。こういうことは、何度も書いてきたのですが、楽山は、聞く耳も、感じ取る心も、持っていないようです。
 
 

また、マルコ3:28の後の文章についてはこう書いている。

(原始教団はこのせりふの明快さにたじろいで、「しかし聖霊の冒涜は赦されない」とつけ加えてしまった)。
(同上、p.275)
 」
そう言われてみれば、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に許されず、永遠に罪の責めを負う」(マルコ3:28-29)というのは、但し書きの部分は、前文の断言を弱めるために後から書き加えられたという感じがしてこないでもない。

 
聖霊を汚すのは、神聖をけがすことだからです。聖三位をけがしてはいけない、という当然の教えであります。神聖をけがすことは、楽山が、長いこと、続けてきたことです。それで、学者気取りでいるのだから、語ること自体が、疫病のように忌まわしいことなのです。
 
付け加えたのであろうとなかろうと、楽山のように、神をけがし、キリストをけがし、聖霊をけがす者が赦されないのは、当然のことであります。悔いることなく、改めることなく、遠慮することさえなく、駄文を書き続ける楽山の、自己正当化の尿臭が汚らわしいだけです。
 
 

*洗礼者ヨハネキリスト教
上はイエスについての記述だが、著者は洗礼者ヨハネについてこう書いている。

その宗教的厳格さを極限までおし進めたのは洗礼者ヨハネであった。
[省略]
このヨハネが人々に対して呼びかけた言葉が、「悔い改めよ。神の国は近づいたのだ」(マタイ三・二)であった。
(同上、p.264)
「悔い改め」とそれに伴う「罪の赦し」という、通常いかにもキリスト教的と思われている宗教行為と宗教理念にしたところで、洗礼者ヨハネの宗教行為の中心にすえられていたものであって、イエス自身はそのどちらの言葉もほぼまったく口にしていない。 
(同上、p.267)
 」

 
 (マルコによる福音書、口語訳)
1:14
ヨハネが捕えられた後、イエスガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた、 
1:15
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
 (マルコ1:14-15、新約聖書
 
 (マタイによる福音書、口語訳)4:17
この時からイエスは教を宣べはじめて言われた、「悔い改めよ、天国は近づいた」。
 (マタイ4:17、新約聖書
 
悔い改めは、生きる寄る辺を、世俗から、神に求めることです。つまり、信仰と、信仰生活に、なくてはならないものです。楽山にだまされて、行為義認と勘違いすることのありませぬように。
 
 

著者はこれに続けて、「最古の福音書マルコにおいて、「悔い改め」という語は、後述する一・一五を別とすると、洗礼者ヨハネ(一・四)とイエスの弟子達(六・一二)の活動を表現する場合にしか用いられていない、というのは象徴的である」とし、さらに続けて、「ルカは、「復活した」イエスが弟子達に、洗礼者ヨハネとまさに同じことを宣教するように、と命じる場面を作文している」と指摘しつつ、「洗礼者ヨハネの説教の型が、キリスト教化されて原始教団によって継承されたのである」としている。
どうもこの辺りのことは、この間、『信じない人のためのイエス福音書ガイド』(中村圭志著)で読んだことと同じことを説明しているようだ。これは専門家の間で定説になっているのかどうかは知らないが、いかにもありそうなことだという感じはする。自分には学がないので、著者の言葉の真偽を確かめ、自分の意見をはっきり固めることはできず、「…と思う」「…と感じる」と呟くことしかできぬのがつらい。

 
信仰を知らず、さらに、信仰を否定したい楽山が「…と思う」「…と感じる」としか書けないのは、知らないのに書いてくる傲慢であり、惑わしであり、自己顕示欲であり、侮辱なのです。楽山は「学がない」というより怠慢であり、知ったかぶりのために書いて、人の意見は無視する単方向の害毒です。
 
聖書は、それを読んだ人に何を残すかが大切であって、それが救いになってゆくことは、信仰者が証拠なのです。だから、聖句に、ああだこうだと、いちゃもんを付けること自体が無意味なのです。受け取った人は、受け取ったものを忘れられず否定できないから信仰なのです。
 
史実性にこだわって、大切なものを見逃してゆくのは、知性が勝っている人に見られると思います。信仰は、辻褄合わせではないので、いくら、キリスト教と信仰を傷つけても、傷つけた人の資料が出来るだけで、何も解決しないのです。信仰は共感性の無い人には分からないと思います。
 
引用元の学者は、厚顔無恥で恥を知らない楽山によって、好きなように悪用されています。楽山は、いつも、婉曲表現で語って、責任を負わない人です。嘘吐きの楽山が「つらい」なんてことはないでしょう。そして、ますます反キリストに徹しているようです。
 
書籍紹介一覧は省略します。楽山は、いちゃもんを付けても、キリスト信仰に代わる良きものを、ひとかけらも提示できないのです。何も解決できない惨めなクレーマーなのです。書けば書くほど、楽山の汚さが伝わってくるのに、楽山は独り悦に入って、また、嫌われに来るのでしょう。
 
 

著者の率直な書評は、キリスト教に疎い自分にも、それぞれの書物がキリスト教においてどのような位置にあるかが察せられてありがたい。

 
楽山が紹介してくるのは、大方、信仰否定に関する書籍だと思います。字面だけなぞって、都合のよいところを引用~利用~悪用するなど、率直さが皆無で嘘吐きの楽山が、本を悪用することは、そこに諸悪の根源を表すことになるでしょう。楽山は特別の滅びですから、楽山にだけは関わらないでください。
 
 

        

               すり込み業者
 
 
(2021年)
(2022年09月07日、再録+加筆)
 
 
 
  命のほとり
 
いのちの
ほとりで
あそぼ
 
いのちの
のこり火に
手をかざそ
 
投げられた
ちいさな つぶて
ひとつひとつに
ていねい過ぎるほど
苦しんで
 
たかぶる神経
その線の果て
 
なにもかも
むだ
だったのでしょうか
失うものばかり
だったでしょうか
わからないことにさえ
苦しんで
 
あきらめの
ふちで
こころおきなく
なけるなら
言ってみたい
ことばがあります
 
もういつ死んでもいいです
もういつ生きてもいいです
 
いのちのほとりで
あそぼ 
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
反省が難しいのだそうです。これは、人間であるのは難しいと言ってるのと同じです。その通りに、楽山は、人間らしいことをやめてきたようです。平気で嘘を吐き、詭弁を弄し、人の口を悪用して刷り込み、悔いず、反省せず、不感不応で、訂正不能で、・・何も残らない表象です。
 
 
 
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すいすい曲解する楽山

 
※ 光への接続工事は、9月5日と聞きましたが、書類では9月9日のようです。失礼しました。
 
 
  すいすい曲解する楽山
 
 『超訳 種の起源ダーウィン著、夏目大訳
 2022年09月04日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/34029508.html
   を批判。
 
楽山には、正常ならばあるはずの学習機能がありません。学習して成長するということがありません。平板な褒め言葉だけを並べて、一人前のつもりでいられるのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状なのです。考えても単純な賛同の言葉しか浮かばないのでしょう。
 
そして、楽山自身の人格崩壊が進行したのか、書けば書くほど、ますます浅くなるようです。よかった・・と言うのと同じことしか書けず、正直を忘れた未熟者が、発作的に書いたところで、おおよそ感想文としては小学生レベルであることから、正常な節操を失っているという判断になります。
 
 

*読みやすい本
著者の言葉によれば、本書はダーウィンの『種の起源』を「できるかぎり内容を損なわないよう、簡潔にわかりやすく書き直した本」(p.8)とのことである。
そのわかりやすさはどの程度かというと、『種の起源』を数ページで挫折して完読できなかった自分でも、すいすい読めるくらいである。おかげで最後まで楽しく読めた。これほど読みやすく面白い進化についての本と出会えたのは、ドーキンスの『進化とは何か』以来である。

 
読書を悦びながら、一ページ程度の、しかも、褒め言葉だけのイージーライターが楽山です。つまり、言論の無法者、放浪者ということです。改造バイクではなく、壊れた一輪車に乗って、転んで、また乗って、すぐ止めてしまって、短くて中身の無い一記事でも、数え歌に加えて気持ち良いのでしょう。
 
楽山が「すいすい読める」と言っているのは、すいすい曲解してゆくからでしょう。極めて単純に、自分の自己愛の妄想に合っていることだけを、すいすい飲み込んでゆく楽山の読書のやり方は、楽山の自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)人格を、正当化し、促進し、破壊します。
 
「読みやすく面白い進化」「楽しく最後まで読めた」とだけを書いて、感想文のつもりです。自分なりの評価がなく広がりのない楽山の読書は、巻き込まれてはいけないし、決して鵜呑みにしてはいけないものです。中身の無い単純べた褒めモードを真に受けるならば、楽山の闇に感染するでしょう。
 
 

*自然選択と変化の速度
 個人的には本書の中でもっとも刺激を受けたのは、次の箇所だった。

自然選択は、生物に多様性をもたらす一方で、生物の多様化を抑制するはたらきもしている。
(『超訳 種の起源ダーウィン著、夏目大訳、技術評論社、2019年、p.82) 
 」

自然界の生物に、飼育栽培されているものほど急激な変化が生じないのはなぜか。それは、個体差の多くが、自然界では、生存にとって不利になるからである。
(同上、p.81)
 」
自然選択は進化を生じさせ、促進するというイメージがあったけれども、これは言われてみれば、なるほどその通りだ。こんな風に自力ではとても思いつけなかったことを教えてもらえるのは有難い。本を読んだり、人の意見を聞くと、こういうことがあるから実に楽しい。

 
楽山は、自分の妄想思想に合わせて読書したことにするのです。、この短い記述で種の起源や進化論を理解したつもりになる軽率さが、楽山の特徴です。「その通り」と言ってますが、楽山は「本を読んだり、人の意見を聞く」ことはありません。結論は、訂正不能に決めつけています。
 
楽山の、妄想に近い決めつけに合っているように読めば、それは「実に楽しい」でしょう。違う意見を、全く受け付けず、全く問題外として、何を言われても、同じことを、ネチネチと言い続けて、うんざりした批判者が去ることを待つやり方は、もはや、正常人の神経では説明できません。
 
楽山の「なるほど」は、なるほど自分の見方に合っているから合格、という、上から見下ろした褒め言葉なので、議論によって深くなる可能性もなく、何かが修正されて新しくなることもなく、楽山の自画自賛おのうちに読書した気分になってしまう習性から、洞察も理解も生まれようもないのです。
 
楽山は、感想を書いても、賛同するために自分と同じ方向の本を読んでいるだけなので、理解の実感を表すことが出来ません。だから、とても単純な褒め言葉「なるほど」「有り難い」「実に面白い」しか書けないのです。反省も学習もしないので、褒めるために選んで読んで、ただ褒めているだけです。
 
 

        

             イージー 安易
 
 
(2022年09月06日)
 
 
 
  メッキは剥がれて
 
板よりも紙よりも細胞膜よりも
薄いスチールをメッキして
それに塩水をかけてゆく
 
成長と老化
 
剥(は)がれてゆくメッキの中は
恐らく醜(みにく)く見にくい
 
好きになれない自分のために
メッキは錆びて剥がれて
ボロボロになりながら
時々そっと中身を垣間(かいま)見せる
 
人を愛するためには
まず自分を好きにならなければ
と多くの人が言う
 
でもどうしてもやってしまうなら
自己嫌悪
それは愛すべき高さを持っている
 

 
自己満悦
それは憎むべき低俗であります
 
自分を愛するためには
自らを省みて
人に共感し
人を愛することを学ぶことが必要です。
 
人を愛せない者に
自分を愛することはできません。
 
 
  希死と質量
 
体重はあるが
質量がない
と自己評価を
重力以上に下げて
死にたいと思ってしまうとき
その陰で軽々しくも罪を
誰かの何かのせいにしてはいないか
 
自ら死にたいと望んだとしても
死ぬことを好む者はいない
死を思う分だけ切実な
生きる願望
死を思う分だけ薄弱な
生きる欲望
当たり前だったはずだから
意識されなかった生きるための条件
 
しばしば希死において考慮されないのは
自己評価は下げるのに
生きているという事実に基づいて
生きる条件を下げる試みである
 
差し迫って今
誰かが何かが殺しに来る予定はなく
仮にあったとすれば
希死にかかわりなく死ぬのであるから
今息をしている
というところまで
条件を下げることが出来たら・・・
とは言っても辛いとは思うのだ
 
体重はあるが質量がない
これが下げるものは重くも軽くもない
量(はか)れない質(たち)なのである
 

 
量れないものを
我欲から高く見積もって
満悦する者は
実に
体重を量って悦び
心の成長を無視して悦び
満悦して人を侮る者となっている
 
そして無条件に
鏡を見て悦ぶのである
 
 
 

★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
本ノ猪
@honnoinosisi555
9月3日はドラえもんの誕生日。
「自分の意見をしっかり持つということと、
 相手の意見を認めないということは、
 まったくちがうんだ。」
(『じょうずに話せ、発表できる』小学館、P127)
午前8:59 · 2022年9月3日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/honnoinosisi555/status/1565851827706290176

 
楽山は、自分の妄想的な意見を訂正不能に持ち、他者の反対意見を、批判できないのに認めません。これは、言論というより、むしろ、そういう恣意の生き方だということです。煽動屋、そして、他者を低く見て、上から決めつけて見なしの結論の塊だけを投石してくるのです。人間の生き方ではありません。
 
なお、人の意見が、公共の福祉に反していて、自己中心で、反省もしないならば、その意見を、決して認めてはいけません。その意見は、しっかりしておらず、身勝手な自己中だからです。その意見に、流されてもいけません。批判が苦手ならば、決別し、関わらないことが、いちばんの批判になります。
 
上のような、楽山のリツイートは、その意味を、楽山の、巣穴のような狭小ワールドで歪曲して、都合よく偏向した自己中正当化に悪用するものです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、このように偏りながら、嘘と詭弁で擦り寄ってきます。決して近づかないでください。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 

 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
私が1~3日休むと書いたら、楽山は、すぐ記事を書いてきました。楽山は、ここまで我欲のみに執着しているのでしょうか。楽山が書いたところで、ろくな記事ではないので批判しているわけです。ただ、こういうことから楽山の原始的な自己顕示欲からの無反省がバレてゆくわけです。
 
 
 
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楽山の逃避と堕落3

 
※ 今日、ADSL→光に切り替え工事のため、1(~3)日ほど、お休みします。
 
 
  楽山の逃避と堕落3
 
 『〈霊〉の探究 近代スピリチュアリズムと宗教学』津城寛文著
 2020年08月17日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25920191.html
  を改めて批判。
 
 
楽山の、本当にお気楽な空想の世界です。そこに現実逃避して、誰かが、褒めてくれるのを待っているのでしょうか。褒めてくれるのは、シャロームのような偽善者の世辞でしかないでしょう。
 

本書は面白かったのですぐ読めた。

 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)らしい、気安い書き方です。今まで、楽山から、本の理解が伝わってきたことはありません。今日も深みのない文章が続きます。
 
 

全体の流れをメモしてみると、序章では近代スピリチュアリズムの始まりとその概要について説明されている。「同時的に起こる諸事件」として「一八四八年の共産党宣言」とハイズヴィル事件、「一九一七年のロシア革命」と「ファティマのマリア出現」(p.13)などについての考察や、死後生存の有無の議論と高等スピリチュアリズムの思想性の議論の違いを、シェイクスピアは実在したか否かの議論とシェイクスピア作品の中身の議論の違いになぞらえている箇所は個人的にはツボだった。

 
楽山は、すぐ読めたなどと強がって、自慢して字面の項目を並べるしかない読解未熟と説得力不足をあらわにしています。そして「ツボだった」と、どう気に入ったのかを言えずに、言葉面だけの賛辞を書いています。学問・思想の本の感想文は、どう受け取ったかという説明なしでは成立しません。
 
小学校のとき、感想を聞かれて、よかったと言って、ニヤニヤしている子が、国語の先生に叱られていたのを思い出します。楽山は、専門用語を、これも説明せず並べて、いかにも分かっているふりをするのが習慣になっているようです。
 
 

1章では「比較宗教学の祖マックス・ミュラーの著作」とモーゼスの「霊訓」はその主張のみならず文章表現さえも類似性が認められることを指摘し、その理由を探求している。本章で例に挙げられている部分を見る限りにおいては確かに著者の言う通り両者の考えは似ている。ただ両者に類似性が認められることについて、著者の考えはややスピリチュアリズム的に過ぎるように感じられた。

 
大雑把なあらすじの項目のようなものを書いています。楽山は、詳しいことが書けないのです。"ややスピリチュアリズム的に過ぎる" ・・これで伝わるものは不明です。理路と共感によって中身を説得力をもって説明することが出来ないのです。
 
読書して、理解・洞察・共感が足りなければ、良心がある人は、どこが分かって、どこが分からないかを、記事にすることが出来ます。なのに、楽山は「読めた」「ツボだ」「感じられた」としか書けません。そこに、独自の形容がなく、楽山の自己愛性人格障害らしさが表れています。
 
出来ないことを、出来たかのように言う障害は、体質的なものでしょう。読めたと言って、本人は、自己顕示欲を満足させるかもしれないが、思想において、一見、読解を装う態度は、邪魔であり、迷惑であり、害悪でしかありません。
 
 

2章ではスピリチュアリズムと心霊研究の間における争点…霊言を語っているのは霊なのか、それとも「媒介者」の一部である潜在意識、第二人格などなのかという問題や、守護霊という存在について語られている。

 
今までの、霊言、霊、媒介者、潜在意識、第二人格、守護霊、総て、楽山の空想で受け取った言葉です。誰も本質を理解できない代わりに、誰も否定できないような、曖昧なことを言う以外に、楽山には、自分で主張する手段がないのです。だから、現実から、さらに、離れてゆくのでしょう。
 
 

3章では臨死体験がテーマになっているが、キュブラー=ロス、ムーディに対する批判が紹介されているところは面白い。その理屈は、治療現場では臨死体験直後の患者が、怖ろしい体験をしたと証言することがある、しかし好ましくない記憶は時間が経つことで抑圧されることがある、キュブラー=ロスらは治療現場にはおらず、したがって臨死体験直後ではなく、一定の時間が経ってから証言を集めることになっている云々ということらしい。これが本当なら、二人が語る以上に怖ろしい臨死体験は多いということになるだろう。

 
楽山自身は、結局、その臨死体験を認めているのでしょうか、それとも、時間がたってから証言を集めるのだから、本当かどうか分からないと言っているのでしょうか。ホラー映画を見るのと、ほとんど変わりのない感想ではないかと思われます。
 
楽山は、「二人が語る以上に怖ろしい臨死体験は多い」と言って、否定していないので、臨死体験を認めるほうのようです。全体に理路が不整です。自分が満悦するためにだけ書いているからでしょう。楽山の、恐ろしい・・は、興味の婉曲表現かもしれません。
 
常識的には、楽山は前者で、真実は後者ではないかと思われます。患者の臨死体験だという発言によって、臨死体験だと証明することは困難です。こういう超常現象もどきは、根拠のない世界の話だから、楽山は、繰り返し印象付けるのが好きなのでしょう。本気にしないほうがよいと思います。
 
 

4章ではホイットンやワイスの前世療法、ケイシ―のリーディングやカルマ説、シルバー・バーチ、マイヤーズ(霊)、カルデックの輪廻説などが紹介されている。ブラヴァツキの死後、その名をかたる霊が生前の輪廻に関する自説を撤回したエピソードにも触れられている。

 
楽山は、努力せずに、反省せずに、さすが出来る人と言われたいので、どんどん不思議話をつぎ込んでくるでしょう。やさしい人と思わせ、考える人と思わせ、読書家と思わせ、実際に書いているのは、目次のような文ですから、それ以外、何も言えなくなってゆきそうです。
 
 

終章ではスピリチュアリズムと神智学オカルティズムとの対立と議論に触れつつ、両者の差異について説明されており、

 
神智学と来ました。しかもオカルティズムだそうです。楽山が好きそうな言葉です。さらに、楽山が、自分は分かるんだと、いちばん言いたい言葉なのでしょう。しかし、今までの楽山の記事の、いい加減さや、詭弁が、それを全否定しています。
 
そういう不思議な話の記事ばかり集めて性懲りもなく字面だけ披露してくる楽山は、相当なインチキだと思います。楽山は、根拠のあることが言えないから、根拠が無くてもいいような分野で、格好をつけたいのでしょう。
 
神智学について:
(ネットより)

神智学(しんちがく、英: theosophy)とは、神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて、神とむすびついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとするものである。神知学、神知論、接神論とも。
神智学は、名前のとおり「智」と「認識」を重視するものであり、神あるいは超越者が叡智的性格をもち、宇宙や自然もこのような叡智からつくられ、人間の智も神の智に通ずる性格をもっており、人間は霊的認識により神を知ること、神に近づくことができるとされる。
グノーシス派、新プラトン主義、インドの神秘思想などにも神智学的傾向がみられるが、狭義には以下の二つのものを指す。一つは、17世紀にヨーロッパで顕在化した近代の「キリスト教神智学」の潮流であり、もう一つは1875年に設立されたインドに本部のある「神智学協会」の思想である。
後者は近現代に新たに創出された体系であり、両者には共通点もあるが、系譜上のつながりはない。通常、神智学と言えばニューエイジ(現在のスピリチュアル)、大衆的オカルティズムの源流である神智学協会に関するものを指すことが多い。
 」

神智学 - Wikipedia


 
「神智学は、名前のとおり「智」と「認識」を重視するもの」ではなく、人知を超えた霊的認識?を扱っているわけです。科学ではないと思います。まるで、カルト思想の源流のようです。こういうこともウィキペディアだから載っているのでしょう。
 
「宇宙や自然もこのような叡智からつくられ、人間の智も神の智に通ずる性格をもっており、人間は霊的認識により神を知ること、神に近づくことができる」・・むしろ、これが、何よりのオカルト~ホラーではないかと思います。現に、楽山のような物好きだけの者が飛びついています。
 
 

ここで著者は「説明を透明にするため、あらかじめ筆者の位置を明らかにしておくと、私は「高等」と呼ばれるスピリチュアリズムの思想文体に親近感をもつ一方、オカルティズム(神智学を含む)のそれには所々に違和感を覚える」(p.195)云々と信仰告白? をしている。本書の前半部分からすでに著者の文章にはそのような雰囲気は感じられてはいたが、それを明言するというのは生真面目な方なのだろう。こういう著者の文章であれば、他の文章もぜひ読みたいと思う。

 
引用元著者は、スピリチュアルに親近感を持つが、オカルト神智学にはところどころに違和感を持つ、と書いています。それで、楽山は、著者は生真面目な人だから、ぜひもっと読みたいと書いています。何か「透明に」なったでしょうか。霊感商法のような話に、楽山は興味があるのでしょうか。
 
著者は、宗教学者のようですが、保身か、安全弁のつもりで書いているのでしょうか。スピリチュアルを既に認めているのであれば、学者とは思えません。実証も、実験も、一般的には出来ず、みな、特殊な個別の場合しかないのがスピリチュアルでしょうから、学問の体を為していないと思います。
 
だから、楽山のような、自己顕示欲だけの劣悪な宣伝者が寄ってくる隙が出来てしまうわけです。根拠も、理路も、説明も、要らないからです。超常という現実離れの世界に興味を持つ人は、現実に希望を見い出せない人なのでしょうか。
 
どんな境遇でも、希望を求める人間らしい心があれば、希望につながる多くの道しるべがあると思います。ただ、自己愛性パーソナリティ障害NPDなどの、自己愛が過ぎて、反省力や罪悪感が育たない人には分からないでしょう。
 
人間離れしてゆくと、人間らしい感性も思慮も失ってゆきます。そういう人を、ずっと批判してきました。もはや、他者の意見を無視し続けるような楽山をどうしようというのではなく、楽山みたいにならないように、楽山には近づかないでくださいと、批判を続けています。
 
楽山という自らの人格をも破壊してゆく者が書き続けています。楽山は、ますます、考えることをやめて、幼稚になり、退行してゆくのでしょう。批判は、ますます単純で白々しいペテンの詭弁に対するものになってゆくでしょう。
 
 

     

            おとぎ話も色褪せる
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月05日、再録+加筆)
 
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
 
  夜から夜明け
 
電灯の下
影になって
不眠の夜をおとなしくあきらめていた
 
夜明けに先立って始まる
カエルの声と
ニワトリの声と
どんな都合でないているのか
遠くから取り巻かれているように
飢えたもの
耐えられないもの
死にそうなもの
おびただしい
遠い叫び
それほどさっきまで
夜は静かだったのだ
 
オートバイに乗って
出かける頃には
もうカエル聞こえない
ニワトリも聞こえない
 
壊れつづける機械といっしょになって
朝の騒ぎにまぎれていく
ひとつと数えられない
覚えられることもない
命のまわりを走りぬけた
命の後を行く
死んだように
かつて夜は静かだった
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

★こも/楽山日記3
@komo266
ただ棒氏は、なんでも知ってると言うわりには、修行者として第一に知っておくべきこと…「謙虚であれ」ということは知らないようで、そのせいで増長慢という陥穽にはまっているようだ。残念🙏
>>
このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカウントを制限しているため、このツイートを表示できません。詳細はこちら
<<
午後10:52 · 2022年9月1日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1565336897450233861

 
「第一に知っておくべきこと…「謙虚であれ」ということ」を「知らない」のは、楽山です。謙虚芝居が通用しなくなっていることに、まだ気づかないようです。だから「残念」と書いても、「増長という陥穽にはまっている」自分に気づかず、滑稽なだけの恥ずかしいピエロぶりを晒す楽山です。
 
賛成できるのは「このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカウントを制限しているため、このツイートを表示できません」という警告と制限だけになりました。残念なのは、オレじゃない、アイツだ、アイツだ、・・と、わめいている楽山です。荒らしは永遠でしょうか、違います・・という例示のようです。
 
 

心機一転★こも楽山
@komo266
昔々のHSなら、イエスをトップとした白色霊団が現代医療を指導している、ワクチン開発には光の天使が関係しているとして医療関係者にもっと信頼と尊敬を向けたろうに、
今のHSは、現代医療を全否定しているようで、白色霊団に対する信頼、尊敬はないみたいですね。もっと信仰を大切にしたいものです。
午後9:47 · 2021年8月25日
https://twitter.com/komo266/status/1430512232530464775

 
楽山は、昔の霊団?なるものを、よしとしているのでしょうか。「医療関係者にもっと信頼と尊敬を向けたろうに」・・正気でしょうか。それとも、楽山は、アンチだと言っていましたが、是非が分からなくなっているのでしょうか。平気で、嘘を吐いているのでしょうか。
 
「信仰を大切にしたい」・・白々しい嘘です。楽山は、信仰と宗教を、好きなだけ、おとしめてきましたが、その根拠は、小学生レベルのご利益主教の知識によるものでした。つまり、楽山は、全く整わない反キリスト・反信仰です。また、平気で、嘘を吐いています。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
従順とは、「君よ、涙の谷を渡れ。」で説かれてることだろうと思います。ごちゃごちゃ考えず、判断せず、ただ信じてついて行くと。(画像省略)
午後7:24 · 2022年8月26日
https://twitter.com/komo266/status/1563110002252214272

 
楽山は、自分信仰の自己愛性人格障害なので、自分を疑いません。自分を見ることが全く出来ません。内省、反省が、全く出来ません。つまり、まともな判断ができず、無条件に絶対の自信を持っていることは、カルトと同じです。自己カルト、無神教カルト、などと呼んでいます。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、無反省、無責任、不祥事を全て人のせいにする、罪悪感がない、高等感情、特に、悲しみの情がない、など、サイコパス(精神病質、反社会性人格障害)と共通するものが多く、連続しているように思われます。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
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楽山の本性(3)2

 
 
※ ADSL→光に切り替え工事のため、1(~3)日ほど、お休みします。
 
 
  楽山の本性(3)2
 
 信者ブログを見たけれど 3(st関連)
 2020年09月02日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26111945.html

  を改めて批判。

 
 
露骨に攻撃に転じている楽山です。楽山が付けたリンク先の記事は、かなり前のものです。恐ろしく長いのがあり、今は、今が問題です。批判したかどうかも忘れていますので、リンクURLは省略します。
 
楽山は、昔はあんなに愛されたのに、とでも言いたいのでしょうか。
 
 

*どっちが本当?
元記事は読んでないのだけれども、これはst氏が言っているということだろうか。

幸福の科学とは無関係のキリスト信者からも、お前はキリスト教を信じてないではないかと批判されています
 」
それなら、過去のst発言を貼っておく。

1. st5402jp2018年08月31日 04:37
一応キリスト者のつもりの私より、自由様は、立派な教理と解釈の説明をなさっておられるのに感心します。
 」

 
楽山を批判するようになって、はっきり調べてはいないけど、約1年半(今は3年余り)くらい経つと思いますが、それより前は、楽山を信頼しようと思って好意的なコメントも書いていたのです。それが、上のコメントになります。
 
そういう気持ちが最初あったから「キリスト者のつもりの私」は、謙譲のつもりに他なりません。つまり、私は、完全に間違えたのです。私は、間違いを認めます。私は、楽山の丁寧語に、すっかりだまされていました。この過ちについては、読者の皆さんに申し訳ないと思っています。
 
ちなみに、もう一人の批判対象である偽キリスト者&偽牧師のシャロームについては、10年ほど批判してきましたが、その前、数年間は、聖書の先生だと思っていて、だまされていたことを告白いたします。
 
私は、容易に、だまされますが、いつまでも、だまされていてはいけないので、批判しています。この私の動機は、言うまでもなく私の信仰によるのです。
 
シャロームは、ヤフー終了後、所在不明であり、時々、名無しの猫などというHNで、ライブドアの私のブログを荒らしに来ました。そのシャロームの荒らしコメントについては、その都度、批判記事を書いてきたつもりです。
 
 


加えて、ということになりますが、アブラハムが息子イサクを神への生贄とするために殺すという行為が、たとえ神の正しい命令であったとしても、人間がそれで、はい、理解しました、と言ってしまうのはおかしいという考え方を私はしています。聖書を読んでいると、正直言って、神の正しさを、いつも人間が理解できるとは思えないのです。だから、ここは保留するべきという主張になりました。
http://mn266z.blog.jp/archives/17513036.html
 」

 
ここについては、ヤフーブログ時代の、別のキリスト教系カルトである自称ヨシュアと自称マグダラマリアのブログについてのことです。この二人は、聖書の戒めを守って完全になれる、という行為義認という過ちを信条としていたので、批判対象となりました。
 
行為の善悪ではなく、また完全になるからでもなく、罪深い人間として、信仰のみによって救われるというのがキリスト教です。信仰義認と言われます。
 
つまり、アブラハムが息子イサクを殺そうとしたのは、神の命令だから正しいと、無条件にアブラハムを完全な義人として書いていたことを批判したことがあります。信仰は、人間性を失うことを正義とするようなことはありません。
 
聖書では、息子イサクを殺そうとしたアブラハムを、神が止めるという話ですから、アブラハムが完全ではないことは明らかです。神の義と、人の義は、違うということです。
 
楽山は、まだ、2年前に自称ヨシュアの言ったことを信じているようです。学習しないというのは、こういうことに表れてくるのでしょう。固執したままになるのです。
 
 

*自分教
これはおかしなことになっている。

キリスト教を中心にやっている人からも、ニセモノと言われるような態度では、やはり、幸福の科学から逃げても、自己都合のエセ信仰に頼っている、自分教信者でしかないのだな、ということでしょう。
 」
どうやら、LEO氏は、st氏は教会には通わず、聖書も通読していないということを知らないようだ。だから自分教信者を信頼しながら、自分教を批判するという、おかしなことをしている。
何はともあれ、これによって、LEO氏は、自分教を批判するけれども、自分教者かどうかの見分けがつかないことがわかった。

 
教会に通わず、聖書も通読していないと、キリスト者ではない、という楽山の偏見と先入観が表れています。それで、自分教信者だと決めつけています。もはや、楽山は、最低限の判断力の冷静さも捨て去って、いちゃもん攻撃に専念しているようです。相当な悪意が表れています。
 
結局、この短慮からの攻撃性、これが、楽山の正体です。楽山は、とても情けない人なのです。
 
 

ダブスタ
ここもおかしい。

こちらのブログ主はキリスト信者だそうですが、この方も、ここでわたしが指摘している退転アンチに大迷惑をこうむった方のようで、延々と該当アンチのことを批判し続けているようです。
おかげで、ああ他にも批判している人が、幸福の科学信者以外でもいるんだな、と知ったわけですが、
 」
st氏は、ヤフーブログの一部では、ネットストーカーで有名だった人だ。たしか6年だったか、8年だったか、shalom氏をストーカーしていたという。現在、自分は、氏のブログは全然見なくなったが、それでもその状態はおよそ見当はつく。

 
楽山が、私を、ネットストーカーだと言っているのは、私が偽牧師シャロームを10年批判し続けているからという理由以外にはありません。「ネットストーカーで有名」は、楽山の、でっち上げです。私は、残念ながら今もアクセスの少ない無名のブロガーです。
 
シャロームを長く批判した理由は、シャロームが、批判を受け取らず、嫌がらせだけを返してくるような、楽山に似た人種、すなわち、自己中で無反省の反キリストだからです。シャロームの「罪は悔い改めなくても許されるから気にしなくていい」という発言には、身の毛がよだちました。
 
批判者をストーカー呼ばわりする楽山です。批判とストーキングを一緒にするとは、楽山は、実に、次元の低いところで、文句を言っているわけです。つまり、楽山は、根性において、野蛮で下品な荒らし以上ではないということです。丁寧語に騙されないでください。
 
楽山のこの記事も、批判をまともに受け取ることが出来ないために、批判に対して正当に弁明を返せないから、手段を択ばず、悪そうに見える材料を探してきては、文句を言っているだけなのです。楽山とシャロームと荒らしの易坊の、同一人物の成りすましも疑っています。
 
楽山は、シャロームの、罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、という反キリストとしか思えない信条に賛同したということも、楽山批判の、そして、楽山の知性と感性を疑う動機の一つでした。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)が人格を捻じ曲げているのです。
 
 

LEO氏は普段は粘着ストーカーは悪としながらも、論敵が延々ストーカーされるのはよしとしているのだからおかしい。
こういうところをみると、LEO氏は真理に忠実であろうとするよりも、論敵を叩けるなら何でも有りの人だとわかる。

 
批判者を、粘着ストーカーと決めつけることしか出来ない楽山です。自己中心のために、低劣で、議論ができないのです。このような幼稚な決めつけをするのが楽山の特徴ですが、それは、楽山が、完全に宗教を舐めているからです。中身がなく、粘着した筆致は、むしろ楽山の特徴です。
 
 

*仲間
ここで、LEO氏は、st氏に賛同している。

この方の該当アンチ批判、いくらかを読んでみましたが、当たっている批判が多いと思えました。
退転した悪質アンチよりも、(別に幸福の科学信者ではないけれども)キリスト教信者であるこのブログ主の方が、遥かに正直で素直、純粋に信仰を述べて、該当アンチを切り捨てています。よほど不愉快なことを過去にされたようです。さもありなん、あのアンチならやりそうなことです。
 」
意見が合うなら、二人は仲良くなれるにちがいない。LEO氏はブログでたくさんキリスト教の記事を書いているし、案外、st氏はこれを読んで感化されて、HSを信じるようになるかもしれない。

 
これは露骨な侮辱です。まともに返せなくなると侮辱してくるのは、楽山もシャロームも同じです。楽山は、そういう野蛮な性質を隠してきましたが、もう隠せなくなったようです。これによって、今までの楽山の、丁寧語も、やさしさ芝居も、嘘だとバレることになります。
 
既にキリスト者である私について、楽山批判という共通点だけをもって、「二人は仲良くなれるにちがいない」「HSを信じるようになるかもしれない」などと言って、楽山は、自分が有利になるとでも思っているのでしょうか。退行し破綻して嫌がらせしか言えなくなった楽山です。
 
 

*経緯
一応、st氏との経緯を書いておこう。
自分はヤフーブログ時代に、st氏のshalom批判を読んで、shalomという人からよほど酷いことをされたのだろうなあと気の毒に思ったのだった。またその宗教観にも一理あると思った。それで交流するようになったのであるが、その後の顛末は、こちらにまとめてある。

 
私は、楽山の「一理ある」等々の肯定を、今は全く信用していません。シャロームは、楽山と同じように、批判に反論も弁明も出来ないので、嫌がらせだけをしてきました。こういう人に、信仰者も求道者も近づいてはいけないというのが批判の動機です。シャロームは偽牧師です。
 
そして、この3年余、楽山についても、ほぼ同様の動機と理由によって批判しています。この楽山とシャロームのような無反省の者に対しては、彼らを変えようなどと思わないほうがいいです。病的な精神疲労が残るだけです。彼らの書いたものを否定してゆくしか方法はないのです。
 
ですから、批判対象自身を変えようとするのではなく、批判対象に誰も近づかないように、一般読者に伝えたいという強い動機を持つことが大事です。そして、出来ることをする、出来ないところは無理をしない、という心構えが大切です。
 
以下は、いちいち批判している暇も気力もないので、リンクは省略します。
 

・st、楽山 問題を振り返る - 楽山日記
・st、shalom 問題を振り返る(追記、加筆修正アリ) - 楽山日記
楽山の言うことは信用できないというなら、マグダラのマリア氏の記事を読めばいい。
追記あり、批判ストーカーされてます。
・ヤフーブログでは、批判して、、、他人を攻撃したりするための、ブログ利用は禁止事項。
・追記 裏でクリスチャン潰しをしてた人、。
ひさしぶりに、マリア氏のブログを見たら、こんなことを書いておられた。

 
(自称マグダラマリアの記事より)

【禁止】いやがらせ、悪口、脅し、あるいは有害な内容の掲載など、他人を攻撃したり、傷つけたりする目的で利用すること
Yahoo!ブログでは、特定の他人への攻撃や、参加者同士の誹謗中傷を禁止しています。
 」
 
私も、ときに辛辣な比喩を書きますが、批判は、「嫌がらせ、悪口、脅し、あるいは有害な内容の掲載など、他人を攻撃したり、傷つけたりする」ことを目的としてはいません。また、誹謗中傷が目的でもありません。
 
批判は、不正だという指摘が主体であり、それにもかかわらず不正が続く場合には、きびしくなり、長く継続するということです。それを、自己愛性パーソナリティ障害の楽山は、ストーカーだと決めつけて、とても、幼稚な、原始的な決めつけをしてくる人です。楽山は、批判を理解できないのです。
 
楽山は、批判と中傷の区別が、以前から、付いていません。これも、楽山の無反省からくる訂正不能の未熟さなのでしょう。だから、楽山本人を説得するのではなく、楽山ブログに近づかないように、むしろ読者に、楽山の不正を継続して訴える記事になっています。
 
上のような中傷だという決めつけは、楽山とシャロームに共通してみられる特徴です。つまり、文章の読解力がないか、反論や弁明を返せないかのどちらかです。同一人物による成りすましを疑う根拠でもあります。楽山ブログから、楽山という大根役者は三文芝居ごっこが大好きです。
 
 

・人の意識が変われば
これはなかなか意味深だな。

 
自称マグダラマリアが、やさしい言葉で書いているようです。しかし、批判者に対しては、驚くほど豹変して、荒っぽく「プププ」「ケロッ」などという異様でグロテスクな書き方で、あざ笑い、決めつけてくる人でした。やさしさは、見せかけでした。
 
それにしても、楽山は、よほど、まとめて悪口が言いたいのか、今回の問題とは直接関係ない人を、平気で巻き込んできますね。よほど援軍が欲しいのでしょうか。荒らしの本性丸出しです。
 
 

*おしまい
ふう、やっと、ここまでたどり着いた。
ほんといえば、まだ書き残したこともあるのだが、それはまたいつか機会があればということで…。
とりあえず、今回はここまで。

 
楽山は、悪口漁(あさ)りの果てに、いったい、どこに、辿り着いたつもりでいるのでしょう。荒らしとしての本領を発揮するつもりでしょうか。機会は、この先、いくらでもあるでしょう。しかし、楽山の言い分が成り立つことはないのです。
 
なお、楽山とシャロームの関係は、シャロームと一緒に私を攻撃してきた荒らしの易坊を加えて、一人の成りすましか、親族か、荒らしのグループか、などを疑っています。ネットの性質上、証明できませんが、否定の証明も出来ないのです。少なくとも仲間として振る舞っていることは確かです。
 
ネットが嫌いにならないために、どうか、楽山には、決して関わらないでください。そのためにも、決して近づかないでください。楽山とシャロームと易坊は、ネットという便利な世界の、匿名性という弱みを悪用する無法者です。
 
 
 楽山が追記しています。細長い画像2つ、おかしいです。
 

*st自由同一人物説
今回のことで、ヨシュア氏のst自由同一人物説を思い出した。自由(楽山)の文章は、キリストを信じたことがないと書けない文章だ、その他にも二人の意見には共通項がある、自由の正体はst氏だ!というような主張だ。

 
自由、というのは、楽山の以前のHNです。自称ヨシュアは、キリストを信じているつもりの人です。実際は、ガチガチの教条主義で、聖書の教えを守って完全になれる、という、要するに、完全になりたがる信条だから、キリスト信仰ではありません。
 
読む人のことなど考えない楽山が貼り付けた見苦しく黒く長い画像は、以前の、ヤフーブログのときでしょうか、自称ヨシュアが、あと何日だ、とか、私を呪っていた頃の話でしょうか。2018年の夏から秋にかけてだったか。
 
「自由(楽山)の文章は、キリストを信じたことがないと書けない文章だ」・・とんでもない。イエスキリストを信じる信仰者は、楽山のように下劣な嘘や攻撃や詭弁を書いたりはしません。楽山は、平気で嘘を吐く自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
私と楽山が同一のようなことが書いてあります。私は、もちろん、気色の悪い自由(楽山)ではありません。楽山は、偽善者、背教者、反キリスト、無神教カルトです。私は、楽山には真っ向から対立する批判者です。すなわち、身に覚えのないことだから謝罪はしません。
 
あと、なんだか説教してきているようだが、覚えがないか、忘れているのか、自称ヨシュアに、とやかく言われる筋合いはないのですが、今さらのように、それがどうだと楽山は言っているのでしょう。攪乱したいだけでしょう。
 
 

これは、いま読み返しても、おかしな主張だと思うが、ヨシュア氏側が繰り返していたst氏の粘着批判は迷惑だというのは正当な言い分ではある。でもアブラハム関連の議論については、自分はやつぱりst氏の方に理があるとは思うし、ヨシュア氏が議論と関係ない、st氏のプライベートなことを持ち出して、ああだこうだいってたのはよろしくないと考える。あれはst氏が気の毒だった。

 
私は、粘着ではない。楽山を、はっきり否定している。くどくどと長いだけの記事を書いている粘着気質は、他でもない、楽山であって、それを、ネチネチ書いてくる・・と、私は今までの批判記事に書いてきました。楽山は、とても低劣で、議論に耐えるものではないのです。
 
 

もっとも、ヨシュア氏側の身になって考えてみれば、st氏の粘着ストーカーに切り返すには、そのくらいの強硬手段に訴えるしかなかったのだろうし、実際それはst氏を退散させるのに効果はあったようだし、止むを得ないことだったのかもしれないな。また当時のヨシュア氏は、自分のためというよりも、マリア氏を守ろうとして奮戦していたのだろうし、あの口調の荒々しさも止むを得なかったのかもしれない。こう考えてみると、あの頃の自分は、ヨシュア氏に対してあまりに厳しい見方をし過ぎていたようだ。反省。

 
今度は、こちらを攻撃するために、偽キリスト教カルトのヨシュアの味方をしています。このように、全く軸を持たないのも、楽山という荒らしの特徴でしょう。自らを高め、他者を苦しめることを生き甲斐としているのです。
 
すりおろしたヤマノイモを、首に塗りつけるように、気持ち悪く粘着してくるのは、楽山その人であります。思いついたら、整理もせずに、一つの記事に、なりふり構わず、追加で、だらだら書き込むのも、しつこいし、しまりがない、節操がない、と言うべきでしょう。
 
楽山は、深い情緒が欠けていて、しんみり悲しんで反省する、ということが出来ないために、他者の身になって考えてみることも出来ず、憑りつかれたように、自己の利益を図るための字面の小細工を弄しているだけです。楽山の中身の無さが、どんどん明らかになってゆきます。
 
楽山は、またしても、他者を巻き込んで、混乱させてきます。私について、見た目の悪そうな材料を探して、載せては的を外して、結果、どこまでも卑怯者ぶりを見せ続けているのです。楽山の文章を読むときには、その非人間的な、無味乾燥の、悪意の筆致を見抜くことが必要です。
 
楽山の反省は嘘です。文脈を見抜いてほしいのですが、楽山は、恐らく今は関わりの薄い自称ヨシュアの、恐らく、ずっと前の記事を利用して、同情を装い、私を、おとしめているだけです。
 
楽山は、元々反省する気のない人です。私が、何度も楽山のことを無反省と書いてきたものだから、当てつけて、反省という言葉の字面だけ書いてくる。それにしても・・なんて姑息な・・。
 
嘘と詭弁と嫌がらせの決めつけだけを並べてくる楽山の筆致に、どうか惑わされないようにしてください。
 
楽山は、自身の狭い狭い思考の部屋の中で、広がらない視野と理路を字面だけで無理に広げようとしています。思いつきだけが散乱してゆく定めのようです。誰も巻き込まれることのないように、祈っています。どうか、楽山に近づかないでください。
 
 

        

                 本性
 
 
(2020年)
(2022年09月04日、再録+加筆)
 
 
 
   夏の終わり
 
陽射しにからんで
山に吸い込まれる風
風に乗る草
気配のように
乱れて舞う
 
家並みは遠く
乾いた玩具のよう
太陽と山の間で
熱が行き交う午後
 
だるい恐れに疲れて
慈愛の錯覚に落ちても
夢の善し悪しを問わず
旅人の来歴を問わず
 
草原に連なる山の間に
止まったオートバイの横で
小さな墓穴のように
くぼんでゆく命と眠り
やがて黒い点となって
遠景の中に消える
 
小さい光 一瞬きらめいた
オートバイを残して
熱は輝く
あらゆる夏の終わりに
 
 
   メディア
 
テレビを見ながら
きらめくスポットライト、
歌声がつくる笑顔、
まぶしい衣装、
明るいショーに
笑っている自分と
部屋のすみで嘔吐している自分と
いつか耐えきれず
うずくまる
 
拍手はちぎれてゆく紙の音
笑いはがらがらと震え過ぎた紙の声
派手な衣装は次から次へと去ってゆく
この街も変わりましたねえ
深みのない視線で見渡せば
遠い山から吹いてくる風が神の声にも聞こえよう
人格の崩れゆくとき
悪意と作為を拒んだときから
愛は悪い夢の中で目覚め
流涎して悪い現に夢を見る
 
メディアの渦巻く
エリアをさまよい
マルチでなかった神経の先端から
悲鳴をあげる
泣いても届かず
叫んでも届かず
システムから飛び降りて
渦巻くメディアの上に
乗って振り回され
はじき飛ばされた果てに
「楽になりたいのです」と
いつしか古い
ブラウン管にうつっている
 
 
  満たされるとき
 
人のいる場所で
歩いているとき
腰掛けて順番を待っているとき
人目(ひとめ)を気にする
緊張と不安
不安は対象のない恐怖だ
そんなとき逆に居直ってみる
見下(みくだ)されよ
見縊(みくび)られよ
侮(あなど)られよ
貶(おとし)められよ
忌(い)み嫌われよ
蔑(さげす)まれよ
嘲(あざけ)られよ
誰からも嘲笑(あざわら)われよ
不審者か変質者のような
二目(ふため)と見られぬ
お前の醜(みにく)い顔を晒(さら)せ
この世では何の益(えき)も意味もないが
それが仕事だ
それが役目だ
それがお前の時ならば
悦(よろこ)び安んじて死を賜(たまわ)れ
神の御手のうちに死ぬるがよい
聖霊の働きを待ち望んでいるのだ
我がうちに巣くう諸々の邪悪よ
恐怖よ悪意よ敵意よ…
…去れ
と自らの心に語りかける
力が柔らかく抜けて目蓋(まぶた)が少し温もり
周(まわ)りの人を見る目が
優しい気持ちに変わるなら
緩(ゆる)やかに謙(へりくだ)り遜(へりくだ)り
自らを神の懐(ふところ)に投げ出している
 
 
  死んでいます
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
  旧約聖書:伝道の書7:14-17
 
順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
 
わたしはこのむなしい人生において、もろもろの事を見た。そこには義人がその義によって滅びることがあり、悪人がその悪によって長生きすることがある。あなたは義に過ぎてはならない。また賢きに過ぎてはならない。あなたはどうして自分を滅ぼしてよかろうか。悪に過ぎてはならない。また愚かであってはならない。あなたはどうして、自分の時のこないのに、死んでよかろうか。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 

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