ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山の粗雑な心理3

 
  楽山の粗雑な心理3
 
 素朴な真理(シルバー・バーチの霊訓)
 2020年09月07日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26174749.html
  を改めて批判。
 
 
楽山は、今まで、虚言、偏見、決めつけ、無反省、無理解、自己中、自己愛性パーソナリティ障害、等々を指摘されてきて、いっさい弁明できないという経過でありながら、平気で、以下の記事の始まりのように「素朴な真理」などと書いてくるのです。
 
それは、楽山が、自身の "粗雑な心理" によって、自らの悪と偽善を無視して、なおも、何かを教えたがる自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)がもたらす惨劇に他なりません。罪悪感や、恥ずかしい、という高等感情が、楽山には無いのです。
 
素朴な真理という言葉で、楽山が言いたいのは、素朴だから誰でも簡単に手に入るので、自分も真理を知っていると言いたいがための詭弁なのでしょうか。楽山は、真理を、草花のように美化しているようで、実は、命のない造花のように、軽く見なして、自己正当化を飾る詭弁屋に過ぎません。
 
楽山は、最早、詭弁以外、何も言えなくなっています。弁明が何も出来ないために、批判者を無視して、一般読者をターゲットに、詭弁で騙(だま)そうという詐欺師の企みです。このような下等な策略に、決して、だまされないようにしてほしいと思います。
 
 

*素朴な真理
これは自分にとっては、耳に痛い言葉だ。

本当に必要なのは単純で素朴な真理なのです。新しい大真理ではなく、驚異的な啓示でもなく、新しい神勅でもありません。
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.86)
 」
以前、自分は、「新しい教えが説かれた」「旧来の思想、宗教すべてを統合する教えだ」「高級霊界からのメッセージ」「△△の霊言」というような新興宗教の宣伝文句を真に受けて、信じてしまったことがある。

 
楽山には、耳にも心にも痛覚がないという特徴があります。自己愛が勝っているために、殆ど本能のように、自分に都合の良い話しか受け取らないし発信しないのです。ゆえに、「自分にとっては、耳に痛い言葉だ」というのは、嘘です。こういう嘘を平気で言う人です。
 
今に至るまで、霊が分かるっぽい、本もたくさん読んだ、という特別の気取りが、書くたびに、楽山の文章に表れてきました。それゆえに、他者への侮辱や嫌がらせの攻撃を含めて、楽山の、自分への誇大妄想的慢心は、無反省のきれいごとを平気で書いてくる白々しさとなってきました。
 
こういうことを書くのは白々しいという、良心の好ましい知性による気づきと自覚と、高等感情が、楽山には無いのです。読者を舐めて、言葉だけ反省と謙虚に見せかけたトホホ言語が、今も、通用すると思っているのです。楽山は、カルト被害者でも批判者でもありません。加害者であります。
 
 

心の教えとは、難しい神学や哲学体系とはちがって、単純、素朴で、誰にでも理解できるものだとか、真理は永遠不変という話は知ってはいた。でもそれでも「新しい真理が説かれた」「高度な教えが説かれている」といわれれば興味を持たずにはいられなかったのだ。「いま、天上界の秘密が明かされる」「××事件の霊的真相を解明する」という話にも釣られてしまった。

 
自身を省みることもなく、永遠不変の真理を得られると思うこと自体が、楽山に傲慢不遜のベースがあることの証明であり、さらに反省も後悔も修正もせずに、書き続ける楽山には、真実は、狂気と入れ替えに遠ざかるだけで、決して見えてはこないと言えるでしょう。
 
言葉面だけの反省めいた記事であり、その反省の質量は、今までの不祥事の悪質な積み重なりから見れば、全く相容れない軽さであることを表しているだけです。即ち、その場しのぎに安いペンキを塗るように気安く反省したと言われても、その "粗雑な心理" が、書くものに表れて不正直が暴かれます。
 
また「心の教え」が誰にでも理解できるものと言っていますが、真摯で謙虚な心を持っている場合であって、自己愛で傲慢になった楽山のような者には、単純も素朴も理解できはしないのです。当てはまらない自分を棚に上げて、何を「知っていた」というのでしょう。
 
 

でも、心の教えというものは、古典聖典を開けばいくらでも書いてあるし、日めくりカレンダーにあるような名言名句、ことわざなどでも十分であろうし、そこいらじゅうにあふれていて、改めて教えてもらわなければならないようなものではないのだ。ましてや、どこかの宗教団体だけが独占しているものでもない。

 
心の教えというものは、これで十分ということがない、という特徴があるのに、それを、楽山は、「十分であろう」などと、全く理解できていないことを露呈しています。楽山においては、総ての概念が、風船のように軽くなります。実際には、風船は、そのまま、楽山の存在の軽さなのです。
 
聖典と、ことわざを、同じように並べていること、「そこいらじゅうにあふれていて」「教えてもらわなければならないようなものではない」などという、軽薄に思い上がった見なしは救いがたいもので、楽山の、自己愛と他者への見下しの野蛮さを表しているだけなのです。
 
人生を支えるのが目的で書かれた聖典と、場合によっては言えてるねという程度の軽いノリで頷くことわざとは、明らかに成立と存在の理由とプロセスが違います。これは常識と言ってよいでしょう。楽山は、そこも分かっていません。
 
このように、基本的なところを全く弁えない楽山の言葉に対する認識の甘さと、軽さと、いい加減さは、目を覆わんばかりです。思慮というものが育っていない楽山の、粗雑な見なしは、災いです。楽山の言を真に受けると、心の教えも、心自体も、楽山のように、失ってゆくでしょう。
 
「どこかの宗教団体だけが独占しているものでもない」という言い方で、楽山が言いたいのは、楽山の、自分が教えて何が悪いという開き直りです。いつも、薄汚い狙いがあって物を言う楽山には、無反省と無責任のために、人に教える知性も感性も資格も能力もありません。
 
 

今になって振り返ってみれば、新興宗教の宣伝文句に惑わされていた自分はつくづく愚かだったと思う。こんなことを書くと、「今だって、大して変わらんだろ」という厳しい意見もありそうだが、一応その後、新興宗教は退会したわけだし、その分だけは進歩したと思いたい。反省。

 
進歩したと思いたい、と言って、"反省"、という言葉を付けて反省になるでしょうか、否です。これは、自己満足に過ぎず、「新興宗教の宣伝文句に惑わされて」愚かだったと、被害者のように罪をカルトという他者に向けている時点で相変わらずアウトです。この3年数か月、何も進歩が無い楽山です。
 
また、今に至る経過を見れば、反省になってなどいないのは明らかなのです。楽山は、自分教という唯我独尊の境地を、いつも、出してきては、他者を上から見下ろしているだけでしたし、今も、そうなのです。この記事でさえ、人など芝居で簡単にだませるとでも思っている放屁に過ぎません。
 
楽山は、字面の辻褄合わせでは、軽さ、実感のなさ、嘘臭さが表れるだけだということに気づかないようです。無反省と無責任は、必然的に、学習しないことになり、成長しないことになります。その見本のような成り行きを進んでいるのが、楽山その人です。
 
楽山は、時々、この記事のような、今までのことを無視して、軽い調子の反省言葉を書いてきますが、それによって明らかになるのは、楽山が、いかに、軽佻浮薄に、まるで冗談か世間話のように、気安く言葉を並べる人であるかということです。実際、何も変わらず、反省は嘘です。信頼度はゼロです。
 
 
地上は、国と国ではなく、民族と民族でもなく、良心とサイコパスの闘いだと思います。サイコパスというのは、良心を持たないために、自分の利益と快感だけを求めて、笑いと怒りしか持たず、悲しみの情感を持たず、ゆえに、罪悪感も、責任感も、反省する心も、持っていない者たちです。
 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)や、ほぼ同質のサイコパスは、笑いと憎しみだけが言動を支配し、共感と悲哀の情緒を持てないために、総ての不祥事を人のせいにして、自己愛性から反社会性を帯びてくる必然が生まれます。人類の敵はサイコパスです。
 
 
 『奇跡との出会い。 心に寄り添う。3 』
 (幸福の科学ドキュメンタリー映画
 2020年09月08日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/26187298.html
   を改めて批判。
 
 
箇条書きです。小学生でも、もっと深い感想を書ける子はいるでしょう。
 

*メモ
映画『奇跡との出会い。 心に寄り添う。3 』を見た。
以下に、映画を見ながら書いたメモをまとめてみる。
・はじめから宗教色濃厚。
・証言者のなまりがいい。誠実な感じがする。
・写真はどれもいい感じ。
・インタビューに答えている人たちはみんな、人柄がよく、すごく善良にみえる。


全体的にいって、想像していたより、ずっとよかった。
本作をみていると、みなさん幸福でよかったと思うし、幸福でいる人に対して、宗教問題について傍からどうこう言う気にはならないもんだなと思う。

 
「誠実な感じ」「信仰による安心感」「写真はどれもいい感じ」「インタビューに答えている人たちはみんな、人柄がよく、すごく善良にみえる」「想像していたより、ずっとよかった」「みなさん幸福でよかった」等々、書いています。「感じ」「みえる」「よかった」・・稚拙で曖昧な感じが目立ちます。
 
一見して、楽山が書いている感想は、バラバラな感じの断片だけです。逐一批判が出来ないような書き方です。その分、この楽山の書いた記事が、まとまった意見にも批判にも弁明にもなっていない、ということが表れてきます。しかも、必要な反省ではなく、またしても、他者について判断しています。
 
 

幸福でいる人に対して、宗教問題について傍からどうこう言う気にはならないもんだなと思う

 
この軽さが、楽山の、宗教軽視~反宗教の意見なのでしょう。それで、宗教問題について、誰が、傍からどうこう言っているというのでしょう。余計なことを言ってきたのは、また、何の参考にもならないことを言ってきたのは、批判しにくい形で、今、余計なことを言っている楽山であります。
 
HSの映画について、楽山は、大方、肯定的なことを書いています。HS批判をしていたのではないでしょうか。一貫性がないという楽山の特徴が表れています。つまり、楽山にとっては、宗教など、自分満悦のための材料に過ぎず、どうでもいいのです。
 
つまり、楽山は、宗教を信じている人をバカにして、上から見下ろしているだけなのです。楽山は、宗教と信仰の深みを何も知らないし、知ろうともしない自己満の人です。ならば、黙っておればよいのです。楽山が何かを言って、宗教が助かるわけでも、廃れるわけでもありません。
 
楽山の言は、ただ、鬱陶しいだけで、疲労をもたらすだけで、邪魔になるだけであり、楽山の言は、ことごとく意味がないのです。さらに、意見の遣り取りでもしようものなら、さらに、ひどいことになることを経験しています。楽山は、徒労だけをもたらす人、けっして関わってはいけない人です。
 
 

世の中には不思議なことはあるだろう。不思議なことがあっても不思議ではない

 
元々、霊が分かるっぽい自覚だけの楽山は、不思議に関心があり、不思議な話が大好きな、髭の生えた子供に過ぎません。自己満悦の自己愛から、心霊が分かって知っているつもりの楽山は、自分を出したくて、宗教を論(あげつら)い、結局、茶化しているだけなのです。
 
宗教の不思議な話も、ましてや宗教の共感にあふれる話は特に、楽山には受け取る感性がないのです。浅い先入観が、そのまま偏見になっていて、元々、霊と超常趣味の楽山は、そういう幼稚な興味だけで、宗教に関わり、けなしたり、ほめたりします。
 
楽山は、宗教の超常的な字面が生んだ寄生虫のような存在です。楽山は、宗教と信仰にとって、ただただ傍迷惑なだけの存在です。楽山を相手にしないでください。楽山の、深みのない、丁寧語や、やさしげな言葉に、どうか、だまされないでください。
 
 

全体的にいって、想像していたより、ずっとよかった。
本作をみていると、みなさん幸福でよかったと思うし、幸福でいる人に対して、宗教問題について傍からどうこう言う気にはならないもんだなと思う。

 
「ずっとよかった」・・こういう感想が多い楽山です。小学校でも注意されそうです。
「宗教問題について傍からどうこう言う気にはならないもんだ」・・うるさいほど、いやらしいほど、宗教について、愚にもつかぬことを、どうこう言って揶揄してきたのが、楽山です。
 
 

       

             食えねぇってば・・
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月17日、再録+加筆)
 
 
 
  暑い
 
顔に皮が張り付いて
少しずつずれていく
にじむ足取りで
目線が濁り始める
 
耐えることは愚かで
拭うことは卑怯で
罪悪の糸がゆるく伸びて
どこへ向けようもない苛立ちが
狭い遊び場を探す
 
指に噛みつき糞を浴びせる雛鳥を
壁に叩き付けようかと捕まえて
手の中のあまりに小さい温もりに
手は泥人形の手
泥人形は泥になる
泥の命は誰に任されている
 
全ては未定のまま歩きだす
小鳥のように飛び交うテニスボールが
はね返す澄んだ涙腺に
どこへ向けようもない沈黙が
皮ごと顔を覆い隠す
 
 
  食欲と孤独と忍耐
 
ブラウン管を見ていた
あれが人間だよ
というふうに眺めていた
この世の寄生虫
まだ食欲と僅かの信仰があります
 
信仰は食欲を超えられるだろうか
希望は愛はどうだろうか
試す機会はあるだろうか
森か山の中に行って土へ帰ることなど出来はしない
虫のように小さく干涸(ひから)びることも出来はしない
ヒトの肉体を持っている以上
食欲がなくなれば
ここで腐臭を放ち膨らみ
蛆(うじ)が湧き蠅(はえ)が飛ぶのだ
 
まだ食欲があります
何も感じなくなる前に
最後まで残る問いは
食欲と孤独と忍耐の三つであり
最も長い泡沫の管は食欲であり
最も腫れ上がる虚無の空洞は忍耐であり
耐えて意味なく萎(な)えて耐え難く
しかして最も大いなるものは孤独である
 
多くの悲劇の預言者において
恐らく一見そうであったように
一人の愚かな凡夫において
恐らく実際そうである
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山には、反省力、責任感、思いやり、悲しみ、など、高等感情に属する心がありません。そう見せかける芝居を書いてきますが、実感が文章に表れたことがないのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で慢心しかないために、学習せず、育たなかったのだろうと思います。
 
 
 
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楽山の排泄行進曲2

 
  楽山の排泄行進曲2
 
 2021年09月07日
 「幸福の科学 • • ダメだこりゃ• • 理解不能。。」を見た。
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 http://mmknky21.blog.jp/archives/10967633.html
 
 
既に、3年余にわたる楽山の発言と、そのいい加減さに、私からの批判が積み重なり、それを前提に書いています。いちいち3年前に戻って、一から話を始めることはしていません。3年の間、楽山がまともな文脈を書いたことはなく、悪意の嘘と欺瞞と詭弁といった醜いものばかり見てきました。
 
書けば書くほど醜さが表れても、なお、平気で書いてくるのは、ただの意地ではなく、元々が、そういう病気だからです。自分だけのために生きている自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)という判断です。
 
そういう者が、公共の場に発信してくる、もっともらしい言い草に決して乗ってはいけません。よく読めば、特に、楽山のキリスト教批判には、全く根拠が無く、小学校レベルの知識に凝り固まって、貶めているだけです。心の感性がないから史実や奇跡への執着で書いているだけです。
 
楽山の言は、無責任も甚だしく、発言になっておらず、ペテンでだまして快楽を得ようとする分、言い草というより糞であります。一度、無責任ぶりに気づいた後は、何の役にも立たず、参考にもならない楽山を、聞いても読んでも、その詭弁の悪臭に吐き気を催すだけなのです。
 
 

*ものは試しに
ツイッターで流れてきた動画を見てみた。以下に感想を書いてみたい。
幸福の科学 • • ダメだこりゃ• • 理解不能。。【大川隆法】【大川宏洋】
(動画省略)

 
自己満足疾患の楽山が、また、性懲りもなく、他者のことを書いています。「ダメだこりゃ」「理解不能」・・と笑いたいのでしょう。目的は結局、他者を、自分より劣った者として笑うこと、それだけだと思います。楽山から漏れる笑いは、自分は高い、相手は低い、という嘲(あざけ)りです。
 
楽山のカルト批判・・ではありません。楽山は、批判されるべき人であり、批判する資格もなく、笑うより、笑われている自分を知らない愚か者です。楽山が、うまくやっているつもりの個人カルト思想~妄想を持っているからです。洞窟のピエロが暗がりで独り笑っているイメージです。
 
 

*100パーセントの信仰
動画を見て思ったのだが、この支部長の信仰観は自分が信者だったころのそれと大体同じかもしれぬ。
ちなみに自分が信者だったころの信仰観はこんな感じだった。
大川隆法への信仰は100パーセントでなければならぬ。この教えは信じるが、こちらの教えは信じないというのは自己都合信仰にすぎず、大間違いだ。大川隆法のすべてを信じ切らなければならぬ。
大川隆法を悪く言ったり、それによって救世活動を遅滞させたら地獄に堕ちる。
大川隆法に疑いをもったり、それを口外して他の信者にも疑いをもたせたら地獄に堕ちる。
これらは『仏陀再誕』に書いてあることだけども、この信仰観は支部長の様子からすると今も教団内では続いてそうだ。HSは自由を尊ぶというけど、それはあくまで建前にすぎず、実際はそうではないのだ。

 
楽山の、今に至る思い込みと、ほぼ同じだと思います。自分100%だから訂正不能であり、代わりに他者を、まず、この世の疲労と混乱の地獄に落とします。批判されても、平気で、無視できます。楽山は、どうしたらよいか・・ではなく、今のままで、十分、地獄の住人です。
 
楽山は、以前、自由というHNを使っていましたが、楽山だけの自由に過ぎず、それは、勝手気ままに発言して、反省せず、責任をいっさい負わないということです。つまり、楽山に話しても、無責任が返ってくるだけです。ゆえに、楽山が何か言っても、何の重みもありません。
 
しかも、それら一切を、全く反省しません。そうやって生きてゆける、そうやって物を言ってよい、という病質をもって、今に至っていて、ゆえに、誰かが何か言っても、全然、変わることがないわけです。ゆえに、自己愛性パーソナリティ障害であり、人を傷つけても、何も気にせずにいられるのです。
 
神に比べて、人は不完全ですから、人に100%は、信仰においても、ありません。転んだり、傷ついたり、泣いたりしながら、成長してゆくために、神の完全に対して、人の正直な道を、キリストは説いています。ゆえに、傷ついた人々のために命を惜しまなかったのです。
 
 

*豹変
入会しそうかどうかで対応が変わるというのも、自分が信者だったころと変わらないな。自分が通っていた支部では、入会しそうな人にはチヤホヤしたり、無料サービスしたりするけれども、批判や疑問が多い人は、霊格が低いとか、悪霊憑きとして敬遠されたのだった。

 
楽山は、物わかりがよさそうな、バランスが取れているような、中庸を装い、受け入れる人には、やさしい先生のようですが、ひとたび、疑問を呈したり、批判したりすると、豹変して、言い逃れの詭弁や、当てつけの悪口しか言えないという出来損ないです。
 
広く門を開けているようで、実際は、洞窟の小部屋から、いちゃもんだけを、ぶつぶつ言ってくる卑怯者であり、楽山に出会って、まともに付き合うと、楽山の嘘と詭弁で、混乱し疲労します。こそ泥に遭うより、殴られるより、悪質であります。詐欺師であり、騙されて、損なうのは、心なのです。
 
 

入会しそうな人と、それ以外の人とでは対応がガラッと変わるというのは、宗教としてはあまりに現金すぎるのだが、「救える者から救ってゆく」というHSの教えからすれば、素直に信じる事ができない人は後回しにしてよいとして容認されるのだろうな。

 
楽山は、救われないでしょうし、誰も救いません。救済の意志は、楽山のどこにも表れていません。なのに、救いという話を、このようにしてくるのは、救いに見せかけた誘導によって、相手をおとしめ、自分が快感を得たいからに他なりません。容認も批判も、楽山の満悦のためでしかありません。
 
自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の楽山は、自分だけを愛し、自分で自分を全て赦してしまうというより、最初から、罪の意識など微塵もないのです。反省という精神機能が、元々ないのでしょう。ゆえに、いかなる宗教にも信仰にも、感受性を持っていません。
 
 
前の記事で、引用文献の「自分の良心の命ずるままに」というのを、楽山の自己愛は「良心の自由」という言葉に置き換えて、自らの自己中を正当化しているつもりです。楽山の自由な良心?は、人をだませ、嘘を吐け・・とでも命令するのでしょうか。それは良心に真っ向から背くことです。
 
私は、そういうとき、批判を書きながら、つぶやいています。・・バカが・・。
楽山には、小学校の道徳も、読書も、経験も、意味を持たなくなっているようです。生まれてきて、育ってきて、ずっと反省せず、学習もしないならば、ここまで人間は壊れてしまうのでしょうか。
 
 

       

               災いだけの口
 
 
(2021年)
(2022年09月16日、再録+加筆)
 
 
 
キーワード:排泄
 
 
  踏切の子守歌
 
傾く長い棒に頭を打たれて
鎖のベッドでお休み
石ころの上に板を敷いて
砂利のシーツに木の枕に
身を横たえて三つに分かれて
おやすみ
やがて社会を貫いて
やって来る排泄の霧の
蒸(む)れた熱が全てを散らすだろう
上で社会の窓が放熱し
下で社会の首筋が冷たい
鉄の回廊の
血の道
道の駅の
駅に続かない踏切に
信号も遮断機もない
線路さえない
しかし打たれ縛られる
踏切を余儀なくされる
ここは踏切
社会に手も尾も振ることもなく
砕かれながら眠るものよ
散りながら
ゆっくり
おやすみ
 
 
  排泄
 
折れた骨は
変形して固まっている
血も内部で冷えていく
わずかに臓器を残して
排泄する
老いてゆく自画像の裏で
手が動く
綴られなかった一日
読まれなかった行間

見られなかった空間

排泄するために
欠けていく勾配
 
 
  偽物
 
真実を悟っていると少しでも思うときには
たとえば信仰について
いちばん信じていることに
自ら偽物の称号を与えてごらんなさい
少しはへりくだった気持ちになれるでしょう
少しは自ら信じることに嘘がないか
内省してみる気持ちになれるでしょう
それを謙虚と呼びたいのです
 
人は人が知るべき真実に
近づき触れる機会を与えられていながら
見かけの美しい言葉で飾らなければ
理屈で辻褄を合わせ思いで納得しなければ
真実として人前に出せないような気がして
どこにも響かない空気の流れや
派手な排泄物にしてしまうのです
 
 
  分泌液
 
分泌されたいのです
涙は遠すぎる友だち
乾いて脂(やに)
汗は近すぎる友だち
乾いて垢(あか)
粘液・滲出液は膿(うみ)と交わり
腫れ上がって炎症を取り囲み
延焼を防ぎ自壊して
吸収を待つ累々たる屍たち
排泄されたいのです
検尿コップに浸され
試され繰り返される
別れの長い長いテープ
いつかの思いのように
捨てられ汚くなることによって
きれいになるもの
を終(つい)に見ることはなく
乾くほどに不潔は除かれたいのです
 
 
  死んでいます
   (信仰告白として)
 
私は日々死んでいます
聖者の叫びは程遠く
詩人の鐘さらに遠く
私は日々滅びています
体は衰え心は萎え
気力は失せて
私の耳は砕け散ったかけら
響きも笛も聞こえない
私の目は汚れた鱗
涙ながらに涙は流れず
渇いて乾いて
重なるものを見抜けない
私の昼は空しい排泄に終わり
私の夜は繰り言の始め
ありふれた風景
世界の末席から転げ落ちて
私は日々死んでいます
私は日々滅びています
しかもそれらすべてが
必ずしも悲しみだけではない日々を過ごしています
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
反省は当たり前にすることです。しかし、楽山は、反省が「難しいんだよなあ」と言い「自分もそんな風」と言って「人間の性」という一般化の詭弁で、みんなそうでしょ・・と言いたいのです。これが楽山です。詭弁屋の楽山と真面目な話をするのは、生きている時間をドブに捨てるようなものです。
 
 
 
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楽山の欠格の証明3

 
  楽山の欠格の証明3
 
 自分の良心の命ずるままに(シルバー・バーチの霊訓)
 2020年09月03日 楽山日記()
 http://mn266z.blog.jp/archives/26123313.html
  を改めて批判。
 
 
いつもながら、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの白々しい詭弁で自己正当化しようとする楽山の醜さです。
 

*自分の良心
これは心に沁みる言葉だ。

「人間が自由意志が行使できるといっても、獲得した知識に相当した範囲においてだけということになります」と教師が述べると、 
「おっしゃる通りです。でも私はいつもこう申し上げております───自分の良心の命ずるままに行動しなさい、と」
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.73)
 」
良心と一口に言っても、「良心の自由」といわれるように、人それぞれちがっているものである。ある人の良心による判断と、別の人の良心による判断とが食い違っていてもおかしくない。
シルバー・バーチはこれをよしとしているらしい。だから、「良心」ではなく、「自分の良心」に従うべきことを説いているのだろう。

 
"人それぞれ" で正当化するのと同じような詭弁を、また持ち出してきました。最低限の共通点というところを楽山は考えることができないようです。自分勝手を正当化する凄まじい欺瞞です。楽山の良心は嘘と詭弁を書かせるのでしょうか。それは、楽山には良心などないということです。
 
例えば、だましてはいけない、嘘を吐かない、傷つけてはいけない、悪いことをしたら反省する、などなど、誰でも考えるでしょう。楽山には、それがないのです。だますことしか考えていない楽山の、恐ろしい自己正当化です。今後も、こういうことはあるでしょう。
 
楽山は、ただ、自分の好きなように、言いたいがために、したいがために、公共において、最低限の人道を、ここで、否定しているのです。しかも、人間にとって大切な、「良心」 という言葉を愚弄して自己正当化する詭弁です。言葉面の悪用で正当化する企み、見事に嘘っぱちの証明です。
 
楽山の、共有部分を否定した「自分の良心」 は、楽山の、自己中心に他ならないということです。「良心」を、あざ笑っており、凶悪としか言いようがありません。楽山の精神の崩壊と破綻が見えています。それこそ良心と良識で判断せず、字面をもてあそぶだけの凶暴な慢性症状です。
 
 

従うべきは、どこかにある万人共通の「良心」ではなく、それぞれの内にある「自分の良心」なのだ。教師の言葉も併せて解釈するなら、「自分の良心」とは、自分の知りうる範囲内にあるもっとも正しき心のことともいえるだろう。ひらたく言えば、自分にとっての最善を尽くすこと。

 
つまり、楽山にとって、「良心」は「どこかにある」ものであり、楽山は持っていないことを自白しているのです。すなわち、楽山の「自分の知りうる範囲内にあるもっとも正しき心」の中には、人間として共通する良心はないということです。楽山は平気で悪を尽くしている証拠です。
 
自分は普通とは違うんですアピールになっています。確かに、楽山は、普通とは違います。楽山は、共感できる良心を持たない、自分勝手な、自己中心、自分信仰、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)であることを、自分で証明しています。
 
 

ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』には、あれをやったから英雄だとか、これをやったから英雄だというのではなく、自分の為し得る限りを為した者こそが英雄であるという言葉があったが、シルバー・バーチの「自分の良心の命ずるままに行動しなさい」という言葉は、これと同じことを言っているようだ。

 
英雄の話ではなく、誰もが持っているし、持っていなければいけないところの良心の話なのに、とても白々しいすり替えによる詭弁です。「自分の為し得る限りを為した者こそが英雄」でしょうか。良心の無い楽山の、何をしてもいい、という解釈なのです。
 
例えば、自分のなしうる限りの悪を為した者は英雄ではありません。ただの凶悪犯です。楽山は、良不良、善悪、といった価値判断を、捨てているようです。そうなると、判断ではなく、欲望です。楽山の人格崩壊が始まっています、というより、人格崩壊があらわになっています。
 
なぜ、こんなことを、楽山は、平気で言えるのでしょう。他でもない、楽山には、一人前の良心が育っていないからなのです。当たり前に身についているはずの無条件の良心が、楽山にはないのです。これは、約2年半の批判の経過を踏まえて、あえて申し上げています。
 
だから、ふつうなら良心から直観的に把握して判別できることが、楽山には、出来ないのです。それで、言葉の字面という極めて狭い概念を悪用して、当たり前に除外するべき悪を除外できないまま、辻褄を表面的に合わせたつもりになって、自己正当化の詭弁そして失言に至っています。
 
楽山は、言論者として欠格であることを、自ら証明しています。このような種類の欠格者は、さらに目立った行動化に至る場合が心配で、例えば、病的ナルシスト、サイコパス、人格破綻者、異常人格、変質者、などと呼ばれますが、少ないが、社会の中に紛れ込んでいると思います。
 
今回のようなことは、恐らく、さらに進行する可能性が大です。実際には、良心がなく、良心をあざ笑う楽山に、どうか、関わることのないように、楽山には、決して近づかないでください。
 
良心の最も大事な性質は、自己中心を戒めることです。それができず、しようともせず、その意味さえ理解しないで、結局、人類共通の大切な意味を持つ "良心" という言葉を、もてあそんで、偽造し偽装し、詭弁を弄する楽山は、もはや、人間の悪い見本でしかありません。
 
楽山が「反省」と書いても、反省していると思えないのは、「とほほ」というような安い言葉を添えて見せたり、その前と後で理路の実質に何も変わりがないこと、全体に、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)らしく、後悔と訂正が見られないことによって、明らかとなってきました。
 
 

       

               良心を偽装
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月15日、再録+加筆)
 
 
 
人は無人島にでも住まないかぎり、しがらみというものから自由にはなれないでしょう。しかし人生の父として母として自分を取り巻き支配するしがらみを選ぶことはできるかもしれません。楽山に近づかないでください。
 
よいしがらみに出会った人は幸いですが、善いしがらみか悪いしがらみかを区別するのはたやすいことではないと思います。そして始めは善いしがらみでも悪くなっていくことだってあるでしょう。それを利用する者さえいるのです。それが楽山です。
 
大切なことは自分が良心を持った人間・人格であることを常に自覚して内省することでしょう。いかなるしがらみの中にいても人間離れしないことを深く強く心に刻み付けておくことでしょう。良心がなければ、反省しませんし、罪悪感を感じません。・・楽山に起こっていることです。
 
良心がないのは、人間離れしているからです。人間離れした親は人間離れした子を育てます。人間離れしたしがらみは人間離れした命令を下し隷属を要求します。
 
そして良心のある光の子はその純粋性のゆえにしばしば誰よりも先にその犠牲になるのです。
 
 (テサロニケ人への手紙、口語訳)
5:2
あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。 
5:3
人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。 
5:4
しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。 
5:5
あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。
5:6
だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。 
5:7
眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。
 (1テサロニケ5:2-7、新約聖書
 
楽山の詭弁は、良心という言葉を、自分の良心じゃから、自分で決めてええじゃろ・・という破綻した理路で、逆方向に変質させ、大好きな、何でもありの、非人間の、笑って人を傷つける、しかも、自覚しないままの、ウヘヘ世界に変えてしまう、まさに、悪魔の言葉です。
 
 
 
  肉声が伝える等々
 
肉声は文字と違って
同じ内容でも
声の高低・調子・表情・タイミング
などにより或(あ)る種の感情
悪意・好意・無関心
無関係でありたい気持ち
などを伝える
 
言っている人は気付かなくても
言われている人も気付かなくても
必ず流れている
 
ときには内容より
含まれた感情の方が重たいことがある
そして中にはその時に
あるいは後で思い出されて
脆弱(ぜいじゃく)な胸を打ったり刺したりする
 
当然敏感~鈍感な胸があり
耳があり口がある
鈍感な口は
内容以外に伝わるものがあることなど
知りも気付きもしない平気さで
日々悪意や好意を振り撒(ま)いている
 
 
  (抜粋)
 
緑と水に恵まれた国は
海に限られた土の上で
それ以上に人と文明にあふれ
緑と水を汚してゆく
それゆえ自らの狭い領域を守ろうとしながら崩れ
つまずく者たちにとって川ではない
結びつきのうすい人々の流れ、緑ではないそのざわめき
人波は嵐のように彼らをおびやかし
怒りと災いがふりかかる中、乳と蜜は悪しき誘惑
絆を求める声は心のうちに叫ぶ
私が頼りにするものはどこにあるのか
私をとどめる絆はどこにあるのか
ただ肉体が生き
命は物と金で商われるだけなのか
ただ肉体が死に
死は物と金で商われるだけなのか
そのときどれだけの者が答えられるだろう
いつか人はおびただしい人々の中で
独りで荒野に立っている自らの姿に気づくかもしれない
乳と蜜、緑と川と水、国と民と人々、人間
悪魔は誘惑を用意してほくそえみ
神はそれらすべてを見ておられる
 
 
  山の屍(しかばね)
 
君が登ってくる途中で
不用意に蹴って
転げ落ちた小さい岩を
元の場所に戻してきたまえ
 
振り返って見るがいい
今はポッカリくぼみになって
周囲にちらほら花が咲いている
 
(君が転がした岩の上にも
小さなつぼみが開こうとしていた)
 
そこから遠くないところに
山の屍もあるのだが
それは見ない方がよい
 
君はしばらくの間
下りて行って
岩を戻してくるのだ
 
そうすれば屍も安心して
責めを負い罪を悔い
裁きを受けて消え失せるだろう
 
君がそうするまで
君は山頂を目指してはならない
君がそうしないで
頂に立って見渡すなら
答えるのは絶景ではなく絶壁だ
山という名の地獄だ
何故なら山の屍は
あらゆる暗がりから
君を見ているのだから
(消せるものなら消してみよ)
 
何人(なんびと)も自分が踏みつけたもの
踏みしめた道をなおざりにして
置き去りにして
悔いなく先へは進めないはずだ
 
君は今
前も上も望んではならない
後ろの小さな岩が先だ
 
戻せないなら
せめて告白することだ
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
恥を忍んで告白すると、実は自分も某宗教から出禁を食らったことあります…(笑)
HS信者だった頃、死後に地獄に堕ちるだろう邪教信者を救わねばならぬという使命感で、HS伝道のために某宗教に突撃し、追い返されました。とほほ。顔文字(口を開けて冷や汗をかいた笑顔)
午後9:49 · 2021年9月7日
https://twitter.com/komo266/status/1435223818369335296

 
楽山は、どの宗教からも、どの世界からも、言論においては、出禁であります。自己愛性パーソナリティ障害NPDの楽山は、その言動、百害あって一利ないからです。「死後に地獄に堕ちるだろう邪教信者を救わねばならぬ」・・楽山こそが、邪教であり、自己愛妄想患者であります。
 
いつもの、同情してくだされアピールの「とほほ」もはや、誰も、だまされてはいけません。小さく出れば憐れんでくれるじゃろ・・という企みです。一方で「(笑)」・・憐れみには値しません。楽山は、どの宗教からも、追い返される人です。
 
サイコパス楽山の凄みは、何を書き、何を書かれても、高等感情の鈍麻によって何も感じずにいられることです。「とほほ」・・決まり文句の嘘です。泣きではなく、ふざけた笑いです。罪悪感、羞恥心、自責の念など、良心の所産であるこれらを何ひとつ持っていない恥知らずです。
 
楽山が、元HS信者と言うのは本当でしょうか。楽山にあるのは我欲だけです。使命感などありません。宗教に嵌っても、それは、自己顕示と支配欲を満たすためだと思います。ゆえに、どの宗教からも追い返されるのは必然です。今後、楽山も、楽山の顔文字も、見なくて済みますように。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山には、恐ろしいほどの秘密があると思います。楽山は、平気で、嘘を吐き、詭弁で、悪を正当化する人だということが、この記事で明らかになっています。それで、人生何十年かを行き、幸福が得られるとでも思っているのでしょうか、否、一生を隠蔽魔として過ごすことになるでしょう。
 
 
 
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楽山の妖怪フェチ+

 
  楽山の妖怪フェチ+
 
 
スピ系、幽霊、霊感、そして、妖怪を愛することについて、趣味にとどまるならば、批判する必要はありません。しかしながら、楽山は、リアルの人間関係においては、人の意見を聞かないで自分の言い分だけを図々しくネチネチと、超常カルトのゴタクを並べ続けるという性癖があります。
 
それが、アドラー教(アドラー心理学)の宣伝となり、スピ系讃美、反キリストとなっているので、深いテーマについて書いてゆく弁えを持たないで、雑に、乱暴に、評論家気取りで書いてきて、読者を害する誘導として批判対象となり続けています。
 
この記事では、人間よりも、妖怪好きの楽山が、はっきり表れています。楽山が、人間のことを深く考えることをしないのに、妖怪という空想の生き物に向かう嗜癖が明らかとなっています。自己満悦の幻想に生きている楽山の人間離れの醜態です。
 
真摯に、かつ、謙虚に、深いテーマを考える、という姿勢を持たず、いかなるテーマも、根拠もなく、ぬるま湯の自己満悦から、人を誘導し、だましてゆく無神教カルトであり、満悦地獄の妖怪になってゆくのが、楽山です。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の宿命でしょうか。
 
その分、人間性を軽視し捨てて慢心だけで書いてくる鈍い記事は、決して一般に語られる面白い妖怪話として読むことは出来ません。大人が語る昔話は、何らかの教訓としての意味を持ちますが、楽山の話は、発育不十分な妖怪マニアの独り言でしかないのです。
 
 
 『日本現代 怪異事典』朝里樹著
 2020年08月20日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25953756.html
 
 

先般ひさしぶりに図書館に行った際、タイトルにひかれて手に取り、しばらく前に映画で見て以来ずっと気になっている隙間女を調べてみようと開いてみたら、五十音順だけでなく、類似怪異、出没場所、使用凶器、都道府県別の索引も完備されていて驚かされた。仕事の丁寧さ、細やかさは有り難くもあり、どこかおかしくもある。

 
(ネットより:隙間女、すきまおんな)
『隙間女』(すきまおんな)は都市伝説の一種。桜金造の代表作のため、彼から広まった様に思われるが、江戸時代の随筆耳袋には類話がある。江戸時代には民間伝承として広まっていた可能性がある。
ある日のこと、一人暮らしをしているある女学生が部屋の中でだれかの視線を感じた気がした。もちろん、部屋には彼女(彼)の他にはだれもいない。気のせいかな……そう思って彼女(彼)はそのことを忘れてしまった。
ところが、その日以来彼は毎日のように部屋の中で誰かに見つめられているような感覚に襲われるようになった。部屋はアパートの3階なので外から覗かれているとは考えにくい。部屋のどこかに誰かが隠れているのではないかと思い家捜しをしても見たが、もちろんその努力はむだに終わった。
自分はおかしくなってしまったのだろうか……そんなことも考え始めるようになった時、彼女(彼)はついに視線の主を発見する。彼女(彼)の部屋のタンスと壁の間にあるほんの数ミリの隙間の中に女が立っており、じっと此方を見つめ続けていたのだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%99%E9%96%93%E5%A5%B3
 
隙間女という妖怪のことが、ずっと気になっているそうです。楽山は、今まで、宗教について書いてきて、おおよそ、偏見と妄想と芝居としか思えないような曲解について、何も訂正しないままであります。こういう興味しか持っていなかったということでしょう。
 
 

せっかくなので隙間女は五十音順ではなく、出没場所索引で探してみることにすると、「隙間」という項目はすぐに見つかった。隙間には隙間女だけでなく、隙間男というオバケもいるらしい。人間社会が男女平等になれば、それに連動してオバケ社会もそうなるということか? 他には、三センチお化け、隙間の目、ヒラノといったオバケもいるようだ。こんなにオバケがいるんじゃ、隙間はうっかり覗いてしまわないようにこれまで以上に注意しなければならん(笑)。

 
うっかり覗いてしまうどころか、人間性を失うほどに、超常と霊に、のめり込んで、詳しく語りたい楽山です。霊が分かるっぽい自覚の楽山にとって、趣味ということではなく、空想と思いつき以外、語れるものがないのです。人格が、幻のように失せてゆく印象です。
 
そのような在り方で、人間の弁えを持たないで、霊と超常と妖怪について語るのですから、楽山は、相当に異常です。宗教や信仰については、なおのこと、話のピントが、現実離れして、人間離れして、魔法や魔界のほうにズレてくるのも当然でしょう。
 
 

赤毛のアン」には、アンがあそこの森にはオバケがいると想像した結果、それが本当のように思えて怖くてたまらなくなり、森に近付けなくなる話があっておかしかったが、自分はいい年したおっさんであるにもかかわらず、隙間女の映画を見てからは隙間の向こうにある闇のことをあれこれ想像しては怖がるというアンと大して変わらない失敗をしているのだから恥ずかしい(笑)。

 
「失敗をしているのだから恥ずかしい(笑)」というのは嘘です。楽山に恥ずかしいとか悲しいとかの情があるなら、今までの経緯から、このような記事を書いて「(笑)」でくくることは出来ないはずです。弱い人アピールでしょうか、否、恥を知らない人なのでしょう。
 
聖書において、悪魔が悲しまないのに、楽山は、似ています。そして、退けられても、暗いところから出て来て、誘惑を仕掛けてくるところも似ています。それにしても「失敗」「恥ずかしい」と書いておきながら「(笑)」で括る楽山です。真摯な芝居をして、自分でそれをバラしてゆく大根役者です。
 
 
 『江戸の怪談 絵事典』近藤雅樹監修
 2020年08月20日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25954173.html
   を改めて批判。
 

前記事で書いた『日本現代 怪異事典』のケセランパサランの項を見たら、ケセランパサランについて「江戸時代にはすでに語られた記録があ」(p.147)るというので、江戸時代の怪異譚に興味がわき、本書を見てみた。
子供向きの本なので怖くはないし、誰でも知っている怪談が紹介されているのではあるが、改めてそれらを読んでみると、主人から虐待された女、夫から毒を盛られた女、男に襲われ殺された女、恋い慕う男に煙たがれ嘘をつかれた女など、かわいそうな女の話がやたらと多いのには驚かされた。

 
「主人から虐待された女、夫から毒を盛られた女、男に襲われ殺された女」・・子供向きの本とは思えません。楽山の言は、いつも他者を下に見て憐れみと和みの独り芝居に興じ、詭弁を盛ってはボンヤリ言語で人格破壊へ誘導し、文脈も立場も弁えず平気で嘘を吐くなど、その毒性には驚かされます。
 
 

なんだかこういう話ばかり読んでいると幽霊は怖いというより、かわいそうになってくる。小さかった頃は、大人が幽霊はかわいそうだというのを聞いても、その意味はさっぱり分からなかったが、今になってようやく分かってきた気がする。

 
そして、楽山は、自身も人間性を失って似たようなものだから、幽霊が怖くないでしょうが、かわいそうだと言っていますが、かわいそう、という感情は、楽山にはないと思います。そういう言葉があるから、あわれみ芝居として使っているだけでしょう。かわいそうと言いながら笑っているのです。
 
「分かってきた」を真に受けないでください。今までのことから、楽山に、悔い、悲しみ、あわれみ、共感、罪悪感、反省、などの深い心情はないと思います。そういう言葉があることだけを知っていて、人間味を装う芝居をしているのでしょう。しかも、幽霊が対象です。
 
 

本書の第4章では、「稲生物怪録(いのうもののけろく)」が紹介されているが、主人公の屋敷で家具が空中を飛び回るポルターガイスト現象が起きたり、さまざまな人物が物怪退治に訪ねてくるだとか、現代の視点からみてもエンターテイメント性が抜群の物語となっている。

 
このように、楽山が興味を持つのは、面白おかしいことだけだと思います。ポルターガイストにも、恐らく、幽霊にも、超常現象にも、小学生レベルの気楽なエンターテインメント性だけを求めるのでしょう。そして、娯楽と信仰を、区別できずに、同じ比重で書いてしまうのでしょう。
 
今まで、偽宗教と反宗教を書き、右翼に賛同し、心霊のことをいっぱい書いておきながら、何ごとについても、製作者や著作者の意図にかかわらず、趣味と同様に軽く扱い、実感をもって受け取ることがない楽山こそが、ホラーなのかもしれません。
 
 

当時はこういう話がウケていたのだとすると、今も昔もアクションホラーのファンは沢山いるということなのだろうな…。

 
やはり、ウケる、といった安易なことしか書けないのでしょうか。今も昔もアクションホラーのファンはたくさんいると思いますが、それを書いて何を言い得たつもりでいるのでしょう。楽山は、独自の思想も主張もなく、刹那をつぶす話題を求めているポルターガイスト的な遊び人です。
 
楽山は、まともに見せかけて書くけれど、はっきりした主張をまとめられないのです。なぜ、この記事を書いたかも、はっきりした意図はないのでしょう。楽山は、記事を書いて、まともぶることだけが、満悦につながるのでしょうか。楽山こそ、騒がしい幽霊&祟り付きに思えてきます。
 
丁寧で抵抗のないような文章の曖昧な感じこそが、楽山の狙いであり、受け入れると、知らず知らず、余計な、煤のようなものがこびりついて残って溜まってゆく、という詭弁なのです。付き合っても、何も得るものがないというのは、こういう人のことだと思います。遣り取りしてはいけない相手です。
 
宗教、少なくともキリスト教の信仰について、楽山は何も分かっていません。理路も発想も直観も共感もありません。一方、楽山のような無理解が、根拠が無くても、何か書けるのが、一つは、空想的で超常的な心霊の世界であり、もう一つが、有名人の著作から、都合のよい言葉だけ引っ張り出すことです。
 
そういうことだから、どんなテーマも、趣味のエンタから、思想・宗教・政治などという重要なテーマまで、みな、安っぽい趣味レベルでしか書けないのです。こういう人と付き合うと、結局、一種異様な、侵襲性の高い疲労感だけが残り、それによって人格が摩耗してゆきます。
 
 

       

               騒がしい霊
 
 
(2019年)
(2022年09月14日、再録+加筆)
 
 
 
  小枝
 
木の幹に知らぬ没落
嘆いている御婦人の笑顔
懐かしく見苦しい
さり気なくいとおしい
報いはやがて来るでしょう
握りしめた手を折らないように
そっと太陽を隠しましょう
忘れるためではなく
許すためでもなく
やがては枯れる木の皮の
はがれて落ちる日のために
捧げるものは嘘の光
痙攣の祝福を浴びて
孕みましたか そろそろ
霊に水気をはらいましたか
木の幹のまわり
子供達が駆けていきます
見て見ぬふりのあなた
木の幹に腕を曲げ
涙拭く姿勢の小枝
太陽のいたずら
嘘の町
子供らは駆けていく
 
 
  知らない町
 
昔、駆けていった子供らが
大人の顔で帰ってくる
知らない町へ行ったらしい
蝶々追いかけていた子供らが
花を咲かせておいた
その一輪を
その匂いを
また蝶々が追いかける
知らない蝶々は
区別がつかない
知らない子供らは
知らない大人になる
花を知らない大人たち
匂いをかいでごらんなさい
においに覚えがないのなら
今ここは知らない町です
 
 
  処理
 
耳ザーザーと鳴って
目のまわりや
顔のこわばり
皮脂の具合など気にする
 
累々と並んだ屍を
無雑作に引きずっていく男達
今日のうちに彼らも
この列に並び横たわるかもしれぬ
 
耳ゴーゴーと鳴って
筋肉の痛み
胸のつかえ
骨のねじれた感覚のために
眠ることかなわず
食欲低下し
衰弱して横たわる
 
穴を掘る
大きな穴
小さな穴
屍を放り込む
そのとき
男の眉間に黒い点現われ
そのまま穴の中へ落ちてゆく
一人処理が済んだ
 
耳サーサーと鳴って
横たわったまま
口をきかなくなる
最後に痙攣して
動かなくなる
 
真っ先に
いなくなる人達
涙は
メディアの向こうで乾いてゆく
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山は、超常にしか興味がないから、現実を知らないまま、舐めてかかって、大事なことも趣味的に処理してしまうのでしょう。誰からも信頼を得ることの出来ない人だと思います。そういうことだから、なおさら、バーチャルに逃げて、その軽さで、人に嘘を吐き、人をだますのだろうと思います。
 
楽山は、アニメなどの妖怪のように形があって不思議な想像の産物と、信仰の対象となる神聖との区別をつける思慮を持たない人です。小学校から成長していないので、有名人の言葉を利用して、本を読んだ、読んだと、インテリぶっているだけです。
 
楽山は、理路を理解できず、詭弁となって、感動とは別の、誰も救えない思いつきを語ってくるだけです。議論が成り立つ必然がないのです。さらに、楽山について、こちらが間違いを指摘しても、的外れの荒れ地に誘って混乱させて、相手が対局すると、悦に入って、増長してきたのでしょう。
 
 
 
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楽山は嘘吐きの権化2

 
  楽山は嘘吐きの権化2
 
 『自分のついた嘘を真実だと思い込む人』片田珠美著
 2021年09月05日 
 http://mmknky21.blog.jp/archives/10883498.html
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 
 
(ネットより)
片田 珠美(かただ たまみ、1961年 )は、日本の精神科医
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E7%94%B0%E7%8F%A0%E7%BE%8E
 
このテーマは、楽山に当てはまると思います。結局、自分が斬られている文章なのに、気づかないで利用しようとしている楽山の、悪意と愚かさが表す醜態を、批判として書くことになります。あるいは、書けば、自分は除外されるじゃろ・・と言う魂胆かもしれません。
 
なぜ、楽山は、批判に何も答えられないのに、平気で書いてくるのでしょう。人格に根差している自己正当の妄想があるからです。どんな不都合もオートマチックに、人のせいにするのです。こういう無反省・無責任は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の症状です。
 
 

*きっかけ
タイトルから、とある新興宗教の教祖を連想したので試しに読んでみた。いろいろと参考になるところがあったので、その部分についてメモしておきたい。
*空想虚言癖
まず著者は、空想虚言癖の人は、つじつま合わせが巧みだとしている(下線は楽山による)。

 
楽山は、嘘と詭弁を弄する反キリストですが、理性が壊れていて、辻褄合わせが巧みではありませんので、よく読めば、詭弁だらけです。楽山のデタラメの理路と詭弁と嘘は、既に、バレています。楽山だけが、それに気づかない病質であります。
 
 


妄想を抱いている人は、現実世界の事実と自分の妄想が矛盾をきたしたときに、周囲を納得させることができないのに対して、空想虚言癖の人は、新たに虚言を弄し、容易に細部を改変して、周囲をうまく言いくるめることができる。要するに、嘘の上塗りが上手なのである。
(『自分のついた嘘を真実だと思い込む人』片田珠実著、朝日新聞出版、2015年、p.60)
 」

 
楽山に、そっくり、当てはまります。婉曲表現のボンヤリ言語と、お情けちょうだいのオチャラケの三文芝居で、嘘に嘘を重ねて満悦します。そして、矛盾に矛盾を重ねてゆき、自身の人間的な実質を、ますます失ってゆくのです。
 
妄想と空想を分けて、自分は空想しているだけだから精神異常ではないと言いたいのかもしれませんが、楽山が、継続性として訂正不能であることを考えれば、精神異常であり、かつ、現実において、公共において有害であります。そして今も、嘘の上塗りを続けているのです。これは精神病理です。
 
 

また、このような人が「だまそうという意図なんかみじんもないようにふるまえる」理由についてはこう書いている。

嘘をついていながら、なぜそんなふうにふるまえるのかというと、自分の嘘を本当と思い込んでいるからだ。これは空想虚言癖の特徴で、自分の願望を投影した空想と現実を混同していて、何が本当で何が嘘なのか、自分でも区別がつかなくなっているからこそ、嘘八百をよどみなく話せるのである。
(同上、p.59)
 」
どうもこれは、いかにもカルト教祖にいそうなタイプだ。矛盾だらけのトンデモ話を、さも真実を訴えるかのように熱く語ったり、「これは永遠の真理だ」と断言していたことでも、その時の都合によってコロコロ変えたりなど…。

 
これも、楽山という教祖願望の強い偽善者に一致します。楽山は、よくもまあ、この引用記事を選んだものです。自己愛性人格障害の楽山は、間違いにも嘘にも気づかない人だと分かります。トンデモ話を、さも批判しているふうに語りますが、実際は、自己満悦だけの楽山がトンデモなのです。
 
 

*信じ続ける人
こちらでは、嘘を信じ続ける人の心理が説明されている。

嘘つきの周囲には、嘘をつき続けることを可能にし、ときには嘘に拍車をかけるイネイブラーが存在することが多い。一度イネイブラーになってしまうと、嘘の呪縛からなかなか抜け出せない。誰かを信じるということは、その人を信じている自分を信じることでもあるので、嘘の証拠を目の前に突きつけられても、なかなか受け入れられないからである。
(同上、p.41)
 」

 
(ネットより)
イネイブラー(enabler)とは、嗜癖その他の問題行動を陰で助長している身近な人のことをいいます。「世話焼き人」などと訳されることもあります。
たとえば、表向きには夫のアルコール問題で悩んでいるように見える妻が、じつはその問題がなければ自分の価値がなくなってしまうために、夫のアルコール依存を陰で助けている場合などに用いられます。
https://www.just.or.jp/?terminology=000770
日本トラウマ・サバイバーズ・ユニオン
 
 
イネイブラーは、付き合いが、ズルズル続いて、他に行きようのない人のことでしょうか。私が、たびたび、楽山に近づかないように関わらないように言っているのは、まさに、このためであります。楽山の書くものは、その丁寧そうな表面とは、かけ離れた危険な誘導に満ちています。
 
 

恥ずかしながら、これは自分にも心当たりがある。
以前、とあるカルトから退会するときに、上で指摘されているような呪縛から抜け出せずに苦労したので…。

 
楽山は、自分が呪縛の被害者であるかのように言っていますが、真っ赤な嘘です。イネイブラーは人です。呪縛と言って済ませられる問題ではありません。楽山は、イネイブラーを求める人です。
 
楽山は、誰かを信じるなどということはありません。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)は、自尊以外を必要としません。他者を、支持者か奴隷くらいにしか見ていないと思います。
 
 

少し詳しく説明すれば、
①教祖を信じる(教祖は本物だとした自分の判断力を信じる)
②教祖を信じない(教祖は本物だとした自分の判断の間違いを認める)
という構図になっていたので、②を受け入れるのは、いらぬプライドのせいで難しかったのである。

 
楽山は、自分のほうが上だ、自分が教祖に相応しい、というような構図になっていると思います。だから、ホラー映画も、HSの映画も、右翼の偏りも暴言も、大好きなのです。楽山は、誰も信じることはなく、超常世界と現実世界を、ごちゃ混ぜにした世界チャンポンなんでしょう。
 
何も知らない人が楽山と遣り取りをすると、丁寧でバランスのとれた人と好感をいだきますが、付き合いを続けると、楽山が、人の意見に対して不感不応の的外れ応答の人であるために、精神の疲労から、人によっては、すっかり鈍麻人間になっている、それが楽山症候群なのです。
 
 

*嘘を見抜く方法
本書には、嘘を見抜く方法についても書いてある。

相手の言うことが何となく妙だなと感じたら、その違和感を封印してしまわず、アンテナを張りめぐらすことが必要だ。じっくり観察し、分析しているうちに、相手の正体が見えてくることが多い。
(同上、p.154)
相手を過大評価してしまうと、どうしても目が曇る。そうならないようにするためには、どんな話でもうのみにせず、なぜこんなことを言うのか、こんなことを言う意図はどこにあるのか、などと常に考える習慣をつけなければならない。
(同上、p.153)
他人を疑ってはいけないと思うあまり、自分自身の感覚を封印してしまうのは危険である。そんなふうに感じるときは、これまでの経験や知識から用心しなければならないと本能が自分自身に警告しているのだから、自らの嗅覚を信じるべきだろう。
(同上、p.161)
 」

 
楽山に対して、分析、意図を考える習慣、自分の感受性を注意深く意識して維持する・・こういうことをしないでいると、人格が、鈍麻し、破壊されてゆきます。うすぼんやりとした楽山の奴隷的コピーが出来上がってしまうのです。イネイブラーと言ってもよいでしょう。
 
楽山は、柔らかい表面を装い、鈍いのに、毒の牙を隠し持っていて、喩えるなら、毒を持つ毛虫のような男です。この毛虫には、刺されたことに気づかないことが多く、気づいたときには、心の大事なところに、少なくないダメージを受けているのです。
 
 

「なんか、おかしい」という直感は大事にする、個人崇拝や権威主義に陥らないように注意する、相手の話をうのみにせず、自分の頭でよく考える…これらはどれも正論だと思う。

 
私は、ある時点で、楽山が「なんか、おかしい」と感じました。そのうちに、疑問は、楽山の、理路が詭弁であること、感性が乏しくて月並みな褒め言葉や感動言葉を多用すること、無反省・無責任であること・・などを再三にわたって感じて、批判に転じる決心をしました。
 
 

*過剰反応
著者は、嘘つきの特徴として、他人の嘘に対して過剰反応をしめすことを挙げている。自分自身を相手に投影したり、自分は嘘つきではないことをアピールするためにそのようになるのかもしれない。

こうした否認は、他人がちょっとでも嘘をつくと激しく責めるという形で表れることが多い。
(同上、p.22)
嘘つきほど他人の嘘に敏感なようだ。 
(同上、p.23)
 」

 
この記事のように、楽山は、自分を棚に上げて、他者に対して、逆の過剰反応を示します。他者を批判して、自分を見ないのです。そして、正常人でアドバイザーであるかのようなアピール芝居をします。楽山という嘘吐きは、自分の嘘について恐ろしく鈍感~不感です。
 
 

こういう指摘を読むと、とある新興宗教は、批判者に対して、ちょっとした記憶違いに対しても、悪意ある嘘だと決めつけて非難していたのを思い出す。
他人に対してやたらと差別主義者呼ばわりする人こそが、もっとも質の悪い差別主義者だったということがあるけれども、嘘つきに関してもこれと同じなのだろう。

 
楽山は、記憶力が悪いので、他者の反応が過剰に感じられるのかもしれません。その善後策のつもりで、否定し、のちに肯定するなど、責任を負うこととは逆の、自己正当化の策略を用いるわけです。そういう正当化は成り立たないことを知らないからです。このいい加減さは小学生にも劣ります。
 
 

*これから
著者の本は、『他人を攻撃せずにはいられない人』は読んだことはあるが、他はあまり読んでいない。これを機に他の著作も読んでみたいと思う。

 
楽山が、いくら、読書したつもりでも、受け取って考えることをしないのだから、結局、自己正当化の材料を漁っているだけだと何度も書きました。楽山は、無視して、ずっと読書家気取りで、病害をまき散らし続けています。
 
楽山は、自己愛性人格障害によって、くじけることのない不感不応を貫くことが出来ます。他者を、平気で無視できて、平気で侮辱できるのです。ふつうは出来ません。精神病質ならではのことです。別の言い方をすれば、楽山は、関わる人をイネイブラー化するエナジーバンパイアなのです。
 
自分が言われそうなことを、人に当てはめて言うのは、以前からの、楽山のやり方です。それが分かっているので、驚きもしませんが、よく書けるな・・と、厚かましさと白々しさには、毎度、呆れるので、その都度、批判の決意を新たにしている次第です。
 
私としては、将来、楽山が、間違っても、症例または犯罪者以外の、良い意味でウィキペディアに載ることがあってはならないと思っています。実際、自己愛性人格障害らしいポショポショ言語という気障なしゃべり方をする精神科医は、今も、ウィキペディアに載っているという事実があります。
 
 

 
(ネットより)
 
 自己愛性パーソナリティ障害の診断基準
 
1.自分は非常に重要で偉大な人物だという思い込みがある。それを裏付ける業績や才能を大げさにアピールするが、実際には内容がともなっていない。
 
2.自分の成功、権力、才能、美しさ、愛に関して、現実にそぐわない理想的な幻想にとらわれている。
 
3.自分は一般人とは違う特別な選ばれし者だと信じていて、同じように特別な地位にある人や団体としか関わるべきではない、そういう人たちにしか理解できない人物だと思っている。
 
4.常に他者や世間から、大げさにほめたたえられることを求めている。
 
5.特権意識が高い。周囲は自分に対し、特別有利な対応や意のままに従うのが当然だと思っているが、実際にそのようにされる理由を持ち合わせていない。
 
6.自分の目的達成のために他者を利用する。
 
7.他者の気持ちや欲求や都合を理解しようとしない。
 
8.他者に強烈な嫉妬をする。反対に、周囲が自分の能力や美貌に嫉妬していると決めつけることもある。
 
9.尊大でごうまんな行動や態度が目立つ
 
https://mentalsupli.com/disease/personality/narcissistic/narcissistic-symptom/
 
 」
 
楽山について、
 
1、2、3については、学者気取り、インテリ気取り、などの、気取りが筆致に表れています。しかし、それに見合う洞察力や整合性は、むしろ欠けていると思われます。
 
4については、成就しないことからルサンチマン(劣った者に募る怨念)に至る、あるいは、至っている可能性があります。
 
5については、自尊過大で、いつも、言い方だけ丁寧だが、自分の断定を、上から目線で、繰り返してきます。しかし、学習経過が見えてきたことはありません。
 
6については、生活習慣のように有名人の著作を引用して、自己が正当だということをアピールしてきます。しかし、理路は拙劣で、名前にしがみついているだけだと思います。
 
7については、前から書いてきましたが、思いやり、共感性、羞恥心、罪悪感などが欠如しており、悲しみのうちに反省することが出来ません。高等感情の鈍麻が当てはまるでしょう。経験から学ぶことが出来ないのです。
 
8については、筆致には、何を言われても書き続ける執拗さとして表れていますが、これが8なのかどうかは分かりません。既に負けていないと思っているのかもしれません。
 
9については、意識して隠している狡猾さが伴っています。そして、謙虚芝居など、かなり、作為的な白々しい演技が目立ちます。
 
内容が伴っていない、特権意識の根拠が無い、などは、如実に表れてきました。理路も情緒も、知性も感性も、正常以下のレベルだと判断しています。楽山はイネイブラーなのです。
 
 

     

            あざむきの堕ちるところ 永遠
 
 
(2021年)
(2022年09月13日、再録+加筆)
 
 
 

 
 信仰について
 
人間の心では到底納得できないことを「神は云々」と考えて理屈だけで辻褄を合わせて理解したようなつもりになることは、ちょうど本当は何もわからず悲しいのに無理矢理わかったような作り笑顔を見せているようなものです。
 
人の前ではそういうこともあるかもしれませんが、どんなにうまく作ったつもりの理屈も顔も、その中にある嘘と本当を、ことごとく見抜かれる全知全能の神様に対して、偽りを向けてはならないはずです。
 
信仰は、人間離れしたがっている者たちには、決して理解できません。信仰は、悲しみを感じることの出来る人が、聖書を読んで、キリストが重荷を負う人々に共感することを受け取り、同時に、キリストの悲しみに共感することによって生まれます。
 
また人間として考えれば悪いことだとわかるはずなのに、自らの怒りを「神の御旨」に置き換えて罪を罪とも思わない者もいるかもしれません。そういう者は、凶暴なカルトと同じです。神という不可知の権威に対する最悪の罪であり、偽善であり、背教です。
 
信仰生活のいかなる場合においても人間の持っている、言い換えれば人間に与えられている人間としての知性と感性、特に悲しみへの共感性を、押し殺すようなことをするべきではありません。特に神様の前では、正直な悲しみの告白と祈りができるように努めたいものです。悲しみは正直だからです。
 
 
 
  毒満ちる眼(まなこ)
 
怨の妙法聖櫃に座す
臨死の刹那四方(よも)を眺む
未開の熱未だ暁光の内に在り
紫衣の薄明に降ること頻りと
煩悩疾駆して頚骨を砕く
飢えよ饐(す)えよ地に果てよ
疼痛過ぎて覚醒に及ばず
頭蓋窩に寄する烈火の華(はな)
唯(ただ)流る水銀の涙
毒満ちる眼の裏
 
 
 すべて意欲は
 
すべて意欲はからからと音をたて
枯れ葉のような空回りをした 
その目は絶えず中空(ちゅうくう)にのぞみ
底知れぬ空しさにのめり込むようだ
 
すべて情熱はふれあう縁(よすが)もなく
真っ赤な嘘に目をまわしていた
心は絶えず波の上 木の葉のよう
いつしか海に沈むことに憧れていた
 
 雲がわき
 雲が飛び
 雑多な雲が流れ
 千々に流れて
 虚空(こくう)へ消えた
 
すべて祈りは尽くせぬ歌のよう
とまどう思いに吐息を返した
その手は絶えず
差し伸べる力もなく
さわれぬ何かを待っているようだ
 
ひととき光が枯れ木にさして
ほんの一滴しずくがこぼれた
しずくの下まだ傷ついたまま
春は静かに眠り続けた
 
まぶたの裏に 語らぬ唇に
明日(あす)に届かぬ夢がうずいた
明かさぬ胸に あたためた やさしさだけ
伝えたかった 誰よりも先に
あなたに
 
 
  時は過ぎ去る
 
ときは すぎさる
きおく は すぎさらない
きおくは わすれられるより
わすれられたかどうかを
わすれられて
 
たのしいときは すぎさる
たのしい きおくは すぎさらない
たのしい きおくは
かなしいときほど
たのしかったと
なげきのうちに おもいだされて
 
かなしいときは すぎさる
かなしい きおくは すぎさらない
かなしい きおくは
たのしいときほど
かなしかったと
よろこびのうちに おもいだされず
 
かなしいきおくはすぎさらない
ひきずられたり うしろがみをひいたり
なんども なんども
うつむくような おもさと
あじをもって よみがえる
 
さいわい ときは すぎさる
かなしみや くるしみを
たまもの の ように のこして
もし じかんの じく を
くうかんのように みることができたら
だれも 生きる気 になどなれないだろう
 
 
  しろいあこがれ
 
きばんだ しろ
あおざめた しろ
かいはくしょく
ではなくて
ほんとうの しろ
じゅんぱくの せかいへ
とびたつ とき が きっと
うまれたままの すがた
ではなくて
うまれる まえの すがた
はは と ちち の
からだ に やどる
より まえの すがた に きっと
よろこびなのか かなしみなのか
さいわいなのか わざわいなのか
も しらない まま きっと
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
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1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山という卑怯者には、罪悪感がありません。どこまでも保身を図る自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)、そして、サイコパスなのでしょう。犯罪歴があるかどうかは、ネットでは分かりませんが危険です。関わることが不幸であり、関わらないことが、唯一の防御になります。
 
 
 
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楽山の霊格?と人格2

 
  楽山の霊格?と人格2
 
 信仰心と霊格の関係(ツイッター
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25971633.html
  を改めて批判。
 
 
書けば、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)から、根拠もなく自分を高める婉曲ボンヤリ言語になる楽山です。こういうのは、自分の正体を言わないで自己正当化してくるだけですから、中身を見ようとするだけで、疲労します。理非ではなく、恐ろしい因業なのです。
 
 

少し前に、『シルバー・バーチの霊訓(一)』の記事で、信仰者より唯物論者の方が霊格が高い場合があるという話を書いたけれども、同じ意味のツイートを見つけた。
https://twitter.com/CaIrx4KSwAxAIYO/status/1295284416194007040

 
神を信じない人でも霊格の高い人がいると書いてありますが、当然ながら、神を信じるというのもいろいろですし、十把一からげに言うのは乱暴なのです。何より、信仰は、霊格などという格の話ではありません。さらに、楽山のように、神を信じないで、霊格どころか、人格が最低という人もいるわけです。
 
 

宗教や思想によって人のことを決めつけてはいけないというのは常識ではあるけれども、それを徹底するのは案外に難しいものだ。かくいう自分も、自分と異なる宗教や思想の持主を過小評価しがちなところがある。

 
まず、宗教や思想は、人を決めつけるためではなく、人を癒し救うためにあります。さらに、人が、宗教や神を決めつけてはいけないことのほうが大事です。何故なら、現に、楽山のように、宗教も、神も、人も、自身の貧相な偏見で決めつける輩(やから)がいるからです。
 
つまり、宗教や思想ではなく、楽山のように、病的人格によって、人を自分より低く見て決めつけて書いてくる者がいるということです。そういう者は理路も感性も無いので、そういう者に過大評価あるいは過小評価されることには何の意味もありません。
 
楽山は、理路が整っておらず、感性は殆ど皆無であり、さらに、人間にとって大切な、高等感情の、思いやり、羞恥心、罪悪感などが、育っていないのです。評価そのものが出来ない人であり、さらに楽山の宗教は、霊格でも何でもなく、ただの無反省な自分信仰でしかないのです。
 
 

たとえば自分は政治的には保守であるし、新興宗教にはあまりよい印象を持っていない。だからどうしてもリベラルな人や新興宗教には厳しくなってしまうし、評価も低くなりがちだ。公平であろうとしてもそれはなかなか難しい。

 
政治的立場が保守だから信仰宗教というのは、政治と宗教を混同した見方であります。さらに、楽山には政治的立ち位置などありません。自らを過大評価しているだけの者には、保守どころか、立っておれるようなしっかりした足場はないのです。楽山は、ナルシズムが自分信仰に没入しているだけです。
 
 

政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識などといったものは、後天的なものばかりでなく、先天的、本能的な部分もあるのだろうから、個人の努力だけでどうこうできることではないのだろうけれども、たとえそうだったとしても、公平であろうという努力は続けたいものだと思う。

 
体のいいことを書いたつもりで、実際は、何も書かないより悪い、というのが、楽山の記事です。今まで表れてきたことは、楽山の「公平」は、上から見下ろして悪口を言うことです。それに、楽山は「努力」しない人です。
 
楽山は、いかなる思想も、その中身を理解することも、自らの意見を組み立てることも、出来ない人だと思います。「政治的信条、宗教的感覚、偏見、派閥意識」をいっしょにしていますが、それぞれ、異なる感性と知性が必要な別の分野です。字面だけで、理解していないから「など」と軽く扱います。
 
訂正不能の偏見に凝り固まって、いつも、この記事のように、自己正当化を刷り込んでくる楽山の信頼度はゼロです。努力の跡は、楽山の記事のどこにも見当たらず、自己正当化の詭弁だけが、いつも、手垢で丸めた紙くずのように並ぶという経過です。
 
楽山の、根拠をまるで示すことが出来ず、丁寧語で、良さそうに、ごまかしてくる詭弁と誘導の筆致を、覚えてほしいと思います。今までの批判の経過から、少なくとも、楽山は、普通でも正常でもなく、特記するべき劣悪なナルシストです。
 
楽山には、無反省の自己中の軸しかないので、公平どころではなく、字面だけを振り回します。その手段が、刷り込みと誘導のための丁寧語と、根拠のない婉曲のボンヤリ言語、そして、ときに、実のない反省や努力などの、書いておけばいいという自覚しかないところの、トホホ言語なのです。
 
キリスト信仰では、人間は不完全であり罪深いことを自覚するのが信仰の始まりですが、楽山は、恐らく、どの考えも肯定も否定しないのが正しいと思っていて、それが、ああでもないこうでもない、という、婉曲的な言い方の、ボンヤリ言語となっているのでしょう。
 
こういう人が、正しいつもりで言っていることは、言論と思考の障害物でしかありません。推測ですが、例えば、一般の論理としては、命題Aについて、否定せず、一理ある、と言っておきながら、非Aや反Aについても同様であるなら、何も語っていないし、また、解説も出来ていないということです。
 
楽山は、暫定的を承知で、その時その時の判断をするのが人間の必然だという視野を持たないのです。要するに、怠慢で、考えるのが嫌で、そこから、柔和で広い視野を捏造し、うわべだけの空っぽ思想になって、しかも、それを自慢しようとするから迷惑なだけになります。
 
それで、ねちねちと、宗教や思想に、クレームを入れて、どっちつかずだったり、成り立たないことを主張したり、知っているふりをして、中庸かつ冷静な言論者気取りの慢心で書いてきます。書いた文章の量だけ、楽山は、読者に対して徒労~堕落を生産し促進しているのです。
 
楽山は、一見よさそうで曖昧な言葉を並べているので、読者が刷り込まれてゆく可能性があり、読者が、楽山自身と同じような鈍化のプロセスを通して、人格の鈍化~破壊の被害者から病因となってゆくでしょう。早く、中身は何もないことに気づいてほしいと思います。
 
 
 
 信者との問答は難しい
 2020年08月22日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25971873.html
   を改めて批判。
 
 
この記事は、HSについて書いてあるようです。しかし、楽山の破綻が表れているようですから、抜粋して、批判してゆきます。
 

これは、「生き神様信仰や個人崇拝はおかしい」というHSの問題を指摘する意見に対して、「神を信じることは尊いし、師に学ぶことは正しい」という一般論で返すというパターンだが、信者とアンチの議論ではこういうことが頻繁にある。
自分は気が長い方だとは思うが、さすがにこんなことの繰り返しには疲れたし、いちいち注意するのも面倒くさくなったよ(笑)。

 
ならば、早く、書くのをやめることが、世の中のためです。面倒くさいと言いながら、笑いながら、人を困らせるのは、赦されないことです。
 
「生き神様信仰」や、人間に対する「個人崇拝」は、あり得ません。人間は不完全だからです。「師に学ぶ」というのは、受け取って学習することであり、楽山が、全然、やってこなかったことです。
 
 

ちなみに、このズレの原因は、信者が自分の信仰を客観視できていないことにあるように思われる。

 
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のために、いちばん自分を客観視できない楽山が言っています。今まで見てきて、楽山は、信じることと、証明することの区別も出来ず、先入観や偏見から、訂正不能の主観が見解となって固定しています。曖昧な筆致で、狡猾さらに悪質です。
 
信仰は、個人的な体験がベースとなりますから、完全な客観視は出来ないと思います。かといって、主観で決めつけてはいけないのだから、祈りが必要であり、考えることも必要です。どちらも、楽山には全く認められないものです。
 
 

カッコ内の思いは特殊であるから、それが真であることを証明しつつ語らなければならないのではあるが、信者にはそれは特殊でも何でもなく、まぎれもない事実に思えているのだろう。

 
楽山は、HS信者の思い込みを理路で分析しているふうの文章を書いていますが、そういうことで、変わる人は殆どいないだろうという、いつもの、ネチネチ、くどくど、という、楽山の言い分を書いているだけです。以下の( )内は、補足のつもりでしょうか。
 
 

楽山「教祖(大川隆法)は神だと崇拝し、妄信して、自分を見失ってはいけない」
信者「(大川隆法総裁は仏陀である。仏陀のような)きちんとした師の弟子となり、きちんとした指導を受けることは正しいことだ。(それにもかかわらず、仏陀である)師に学ばず、(その教えに逆らい、否定するために屁理屈を積み重ね、詭弁を弄し)自分勝手流で学んだ気になってはいけない」

 
屁理屈、詭弁、自分勝手流、・・楽山の持ち物です。楽山は、結局、否定しているのではなく、つまり、アンチHSではなく、教祖願望から書いているのでしょう。自分の教えが正しいつもりなのでしょう。しかし、楽山の否定でも肯定でもない心無い理屈は、誰も救うことなど出来ません。
 
 

本来なら、カッコ内の思いは特殊であるから、それが真であることを証明しつつ語らなければならないのではあるが、信者にはそれは特殊でも何でもなく、まぎれもない事実に思えているのだろう。だからそれが真であることを証明することなく、当然のこととして自説を主張するのだろう。

 
ここが、楽山の無神教カルトの要点であり、不成立の証拠であります。宗教と信仰が人を救うのは、証明されたからではなく、心が動かされ、共感し、忘れられなくなるからです。楽山の言説には皆無のことです。「信仰が真であることをを証明」・・ここで、楽山はアウトです。
 
それに、楽山は、自らの主張について、一度も、証明できたことがありません。そういう人に、証明を・・・と要求される人は、気の毒、不運としか言いようがありません。つまり、楽山は、宗教と信仰の性質を考えもせずに、自分の論理=詭弁を自慢して、困らせるだけの存在です。
 
 

この辺りの問題が解決されない限り…つまり信者がHSの信仰から離れるか、それはかなり特殊なものだと自覚しない限りは、こういう対話のズレは解消できないだろうと思う。

 
楽山は、自分が解決してこなかったのと似たような問題を、他者に投げているのです。対話のズレ、と言っている楽山は、誰よりも先入観と偏見によって、ズレが固定しており、殆ど対話が成り立たないレベルであり、偏見と先入観で出来ているような人です。
 
カルト批判は、まず、訂正不能の自分信仰者である楽山自身に向けるべきテーマなのです。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の悍(おぞ)ましさが表れています。楽山の対話は、楽山が話し始めた時点で甚だしくズレているのです。
 
 

信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
信者「書籍を自己流に読んだだけで分かったつもりになってはいけない。きちんとした師から、きちんとした指導を受けることが大切だ」

 
自分勝手な解釈、自己流というより自己中、いずれも、楽山の持ち物です。楽山の言うこと、教えてくることは、誰も救えないような、曖昧で、陳腐な、擦り切れた道徳のようなものです。楽山は、宗教を、楽山風味の退屈さに貶めるだけの、退屈で怠慢な男です。
 
 

どんなに正論を語っても、アンチを批判しても、ブーメランになるばかり

 
(ネットより)
「ブーメラン」の意味は「悪口や批判などの発言が、自分にも当てはまっていること」です。玩具のブーメランと同じく自分がした発言が自分に返ってくることですね。
https://meaning.jp/posts/1670
 

信者「宗教を学ぶ際に、自分勝手な解釈はいけない」
アンチ「大川隆法は、イエスが主と呼んだのは自分(エルカンターレ)のことだと主張してますね。聖書のどこにそんなことが書いてありますか。自分は仏陀であるとか、仏陀も生まれ変わるとしてますが、仏典のどこにそんなことが書いてありますか。仏教もキリスト教も正式に学んだことがないのに、自分勝手解釈をして分かったつもりになってるのではありませんか」

 
信者が自分勝手を戒めたら、アンチの相手から、自分勝手を指摘された、という例示のようです。どちらが楽山なのでしょう。アンチのほうでしょうか。恐らく両方です。必要もなくお節介に、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの自分勝手は、他ならぬ楽山なのです。
 
今まで、それこそ自分勝手な解釈で、キリスト教をおとしめ、中庸を装ってきたのは、他でもない、楽山なのです。楽山は、理路が整わず、理路を乱してゆくような書き方ですから、結局、ブーメランを、誰よりも食らう人なのです。
 
ブーメランと言いながら、楽山は、自分に返ってくる、自分にも当てはまる、ということが、理解していません。それは、自分について考える、自分に当てはめてみる、ということをしてこなかったからでしょう。病質の症状です。ブーメランの痛みも感じないのでしょう。
 
対話になっていないような気がします。どっちが批判者なのでしょう。全部、楽山の独り芝居ではないだろうか、誰にも相手にされないものだから、自慰行為として、独り芝居をして代償しているのではないだろうかということも考えています。
 
楽山は誰からも相手にされないのが当然とは前から思っていました。こちらが批判しているからか、楽山ブログは、最近ずっと・・いいね、拍手、コメントは、殆どないようです。もし賛成している人がいたら、楽山の詭弁に嵌っている人でしょう。楽山を受け入れる価値は皆無です。
 
 

 
偽牧師シャロームも楽山の成りすましだとしたら、二人同士の無条件賛同も頷(うなず)ける。さらに、成りすましについては、以前から、楽山やシャロームなどの易坊類が一人ではないかと疑っています。ネットの性質上、証明されず、また一方、否定の証明もされていないということです。
 
もし一人の成りすましだとしたら、ひどく荒廃した精神の、自己中妄想ペテン師ということになります。いずれ、私のほうが先に死ぬでしょうが、どうか、ずっと、決して近寄らないでください。楽山に関わっても、待っているのは、異常な疲労と、人格の鈍麻と破壊だけです。
 
 

         

               人格がゴースト
 
 
(2020年)
(2022年09月12日、再録+加筆)
 
 
 
  対話
 
光が街中で叫んでいたのに
二人腰掛けて
向かい合って話していた
一人は一人の後ろの人を
もう一人はまた別の人を
二人が話していたという場面
それは対話
光も記憶もそれ以外を写さなかった
光が街中で叫んでいるのに
あれから数々の対話
人とだったか
幽霊だったか
幻だったか
夢だったか
話す方も答える方も
数さえわからない
対話?
今も光が街中で叫んでいる
 
 
  小枝
 
木の幹に知らぬ没落
嘆いている御婦人の笑顔
懐かしく見苦しい
さり気なくいとおしい
報いはやがて来るでしょう
握りしめた手を折らないように
そっと太陽を隠しましょう
忘れるためではなく
許すためでもなく
やがては枯れる木の皮の
はがれて落ちる日のために
捧げるものは嘘の光
痙攣の祝福を浴びて
孕みましたか そろそろ
霊に水気をはらいましたか
木の幹のまわり
子供達が駆けていきます
見て見ぬふりのあなた
木の幹に腕を曲げ
涙拭く姿勢の小枝
太陽のいたずら
嘘の町
子供らは駆けていく
 
 
  妄想(疑心暗鬼)
 
見えなかったものが
ぼんやりと見えてくる
閉ざされた沈黙の奥に
歪んでいく闇がある
ぼんやりとしか見えなかったものが
血を引くように
薄暗い
顔に近づき
不明の表情を持ち
青白い
体になり
地を離れ
次から次へと
倒れ込むように重なり
命のない眼が訴えるように揺れ
色が揺れ
熱を帯びて
息がさまよい
口が開いて
黒ずんだ肉を求め
吐き出されたものが
輪郭をあらわにするとき
爛れた粘膜を貫いて
暗闇から
鬼の目が光る
 
 
  テレビ
 
あぐらをかいて座っている
男の顔は
肌色を消されて
明るくなったり暗くなったり
赤くなったり青くなったり
次々に変化していく
座っているのは同じ男なのに
幽霊になったり鬼になったりする
男は光源を見ている
光源は男を照らす
光源からは目をそらすことが多いのに
じっと見つめ
泣いたり笑ったりを
光源からもらっている
 
焚火を囲む人たち
その顔は炎の色に輝いている
男の顔も赤くなる
しかし炎の色ではない
炎は熱い
テレビの火は冷たい
火を受けて凍りつく顔

外に出て星を見上げた
輝く星の光を受けて
男の顔は真っ暗だ
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山には、人格はないのかもしれません。嘘と詭弁の悪い作用しか見ることが出来ません。出力だけで、入力がないのです。言われたことは、記憶にも耳にも入っていないと思います。記憶の、記銘+保持+想起が、自己愛性人格障害のために出来なくなっているのでしょう。これは人格として異様です。
 
 
 

★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
>>
9月3日はドラえもんの誕生日。
「自分の意見をしっかり持つということと、
相手の意見を認めないということは、
まったくちがうんだ。」
(『じょうずに話せ、発表できる』小学館、P127)
午前8:59 · 2022年9月3日·Twitter for iPhone
<<
https://twitter.com/honnoinosisi555/status/1565851827706290176

 
ドラえもんに事寄せて、また、卑怯なことを言っています。楽山は「自分の意見をしっかり持つ」ことが全く出来ない人です。いちゃもんを書いて、実際は、責任を負う気もないのです。能力の問題以上に、人格と良心の問題において、楽山は、言論において失格です。楽山を相手にしないでください。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
ただ棒氏は、なんでも知ってると言うわりには、修行者として第一に知っておくべきこと…「謙虚であれ」ということは知らないようで、そのせいで増長慢という陥穽にはまっているようだ。残念🙏
https://twitter.com/njw46kv8pu2qo/status/1565307446482325504
このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカ
https://twitter.com/komo266/status/1565334977624940545

 
楽山は、「謙虚」さを微塵も持っていません。楽山は、客観を持たず、自分は整っている、反論できる、という、内実のない妄想的確信で書いてきます。楽山が、どんどん醜く卑怯になっていることに気づかないのは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
棒氏は傲慢キャラだとは思ってたが、さすがに、すべてを経験し、すべてを知ってると言い切るほどだとは想像もしてなかったよ(笑
https://twitter.com/njw46kv8pu2qo/status/1564573289816567808
>>※
このアカウントの所有者はツイートを表示できるアカウントを制限しているため、このツイートを表示できません。詳細はこちら
<<
午後10:45 · 2022年9月1日·Twitter Web App

 
「(笑 」と書いてあるのは、相手に対する軽蔑と侮辱のしるしです。楽山は、勉強嫌いと怠慢を隠して、間違いははなく知らないこともないという訂正不能の病的な前提から書いているので、気に障ると、笑いと怒りしか返せないのです。怒りを隠して「笑」を入れてくるほうが多いようです。
 
「すべてを経験し、すべてを知ってる」という慢心は、楽山の書いていることを3年以上見てきて、楽山について、ずっと感じることです。また、いつものように、ブーメランとなって、楽山の雑言が、楽山に返ってきています。楽山がアカウントを制限されている理由に関係しているのでしょうか。
 
 
 
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楽山の企み3

 
  楽山の企み3
 
 講演会について(幸福の科学キリスト教
 2020年07月28日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/25676640.html
  を改めて批判。
 
 
楽山は、白々しくも、キリスト教を褒めています。このような、あざといことを、平気でやってのける楽山には、同情は禁物です。マイナスを言って、プラスを言ったら、ゼロだ、つまり、責任はないという幼稚な姿勢を持っています。実際は、いい加減で当てにならないということです。
 
キリスト信仰を、後追いで褒めればいいじゃろ・・なんてのが通用すると考えるのは甘いのです。少なくとも、人間なら反省が必要です。それを、ずっと、楽山は、言葉だけ反省と言って、反省したことになったと思う幼稚さなのです。楽山が何を書いても、そこには、人格の未発達が表れてきます。
 
楽山は、言葉だけ、反省、有り難い、などの褒め言葉を平気で使ってきます。実際には、他者を、あざ笑っている軽さが見られるので、褒めるのは三文芝居です。反省したり褒めたりする心性はなく、ペテン師は、だますために、言うだけならタダとばかり、嘘を吐くのです。
 
楽山は、批判をかわすために、キリスト教なんて最初から分かってる?という思い込みからの詭弁です。言葉だけ、好きなように細工してくる楽山の言を、真に受けないでください。嘘を吐くことに全く罪悪感がないのだろうと思います。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の典型です。
 
 

以前、三浦光世氏の講演会を聴きに行ったことがあるのだが、その時に印象的だったのが、会場には老若男女、実にさまざまな人々がいたことである。体の不自由な人も多くいて、ここは幸福の科学(HS)とは全然ちがうと思ったのだった。自分はHSの講演会(90年代)で、体の不自由な人が多くいるのを見掛けたことは無かったので、この相違点はすごく印象に残った。

 
(ネットより)
三浦光世(みうら みつよ、1924年4月4日 - 2014年10月30日)は東京都生まれ、北海道出身の歌人。小説家・三浦綾子の夫であり、財団法人三浦綾子記念文化財団理事長、三浦綾子記念文学館館長を務めた。
正岡子規の影響により歌誌「アララギ」に入り、歌人として出発。1949年、キリスト教プロテスタント)の洗礼を受ける。1959年に堀田綾子(後の作家になる三浦綾子)と結婚。闘病しながら作家生活を送った綾子を口述筆記などで支え続けた。綾子のデビュー作『氷点』のタイトル発案者であるほか、1926年の十勝岳噴火を題材に『泥流地帯』を執筆することを提案した。1966年に旭川営林署を退職。
1999年、妻綾子とともに日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰を受ける。
趣味は将棋で、アマ六段の腕前。2006年より社団法人北海道将棋連盟理事長を務めた。キリスト教関連の著書もある。日本キリスト教団出版局「信徒の友」歌壇選者。
2014年10月30日、敗血症のため死去[1]。90歳没。

三浦光世 - Wikipedia


 
自己中は、自分は知っている、分かっている、という自意識と自己顕示欲があるので、無根拠に説教をしたがり、インテリぶってきます。特に、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山は、自己満悦の気分だけで書いてきます。丁寧語や読書家気取りに騙されないでください。
 
知らない人に、やさしく教えるのではなく、偽インテリの楽山は、心からの慈愛はなく、自分は知っている、あなたは知らないのですか、とでも言いたげに、自慢して得意になっているのです。こんな本も読みましたと自慢しているだけです。だから詳しい説明や解説が出来ません。
 
HSとの相違点を、「体の不自由な人も多くいて」「すごく印象に残った」という褒め言葉だけで、言い得たつもりになって、満悦するのでしょう。自己愛性は、言論の、あらゆる点と線と角度で、表れてきます。そうして、やさしく説いたつもりが、ピント外れになるのです。
 
事情が違うだけで、みな、平等であり、弱さという共感する立場から、他者を疎かにしないということであるのに、楽山は、憐れみの話にして傍観しているところに、どこまでも上から眺める立場しか持っていないことが表れてくるのです。
 
楽山は、未熟とか弱さとか傷とか欠点とか悲しみとかに全く共感できない人なのです。だから、自分については、成熟、強さ、正しさなど、芝居するしかないのでしょう。その高慢な精神を糊塗して隠すかのように「すごく印象に残った」という飾りをつけることしかできないのです。
 
楽山は、HSをネタにして、こき下ろし、ここでだけ、キリスト教をネタにして、持ち上げて、結局、自分はちゃんと分かってるんです、と言いたくて、実際は、愚かさを際立たせるだけで、滑っているのです。いくら書いても、何も良くならない自己中の世界に、楽山は、自我と肉体だけ生きています。
 
 

HSの教えには、病気の八割は悪霊憑依が原因になっているというものがある。心の中に悪想念が凝り固まっているから病気になるという考え方もある。白隠禅師の霊言では、何々の病気は前世で人を殺したカルマだとか、こういう性格だと痔になるとか、そんな風な発言が多くあった。大雑把に言えば、HSの教えは、心が正しいと健康で幸福になるが、心が間違っていると悪霊に憑依されて病気になり、不運続きになるということである(最近では、正しい信仰〈HS信仰〉を持っているとコロナにならないとか、信仰免疫とか言っているらしい)。

 
心という言葉から、恐ろしいほど、"霊" という言葉を使いまくった辻褄合わせです。霊が分かるっぽい?自覚の楽山は、多くを霊に結び付けてきます。このように、楽山個人カルトは、基本から、超常言葉を語ります。楽山が無視しているのは、人間の温もりと潤いです。
 
この "霊" というのが、楽山の子ども時代から、例えば仏様の心が分かると書いていたように、大好きな言葉なのです。宗教を怪談のように超常言葉で表して、温もりも潤いもないものとして、机上の字面の辻褄合わせだけの記事を、宗教を語るかのように書いてきたのです。呆れるほどの的外れです。
 
 

だから、HSでは病気の人の周囲は微妙な空気になる。信者仲間が病気になったときもそんな風になる。ものをはっきり言う信者であれば、微妙な空気をはねのけて、病気だったり、不運続きの人に向かって、心の間違いを注意することにもなる。したがって、HS教義をある程度知っている人が病気になったり、不運続きになれば、支部内では肩身が狭く、居心地の悪い思いをすることになる。

 
人間性を無視して、霊的な何ものか・・ばかり考えていると、派生してくるのは、現実無視と、さらなる超常現象解釈の拡張になります。結果から、霊?という魔法の解釈になり、救済とは逆方向にもなるでしょう。その間違いに気づかないのは、霊が分かるっぽい?自覚からの、楽山だからです。
 
楽山の因業は、霊が分かるっぽい自覚から、妖怪やお伽噺のフィクションに興味が偏って、人間性について感じることも考えることも出来ないことが、キリスト教についての、気味の悪い解釈や、誇大妄想的な、いちゃもんだけになってゆく過程と呼応しています。他者を批判しても、自分を見ない人です。
 
 

一応教義には例外事項も用意されていて、心が間違っていなくとも、悪霊に憑依されていなくとも、病気になったり不運な目に遭うこともあるとしているが、相当なご都合主義の性格でもないかぎりは、自分は例外であると信じきることは難しく、やっぱり肩身は狭く、いたたまれない気持ちにならずにはいられまい。

 
憑依のことを言っていますが、そうでないのは、例外と言い、それを、抵抗もなく、楽山は、使って「ご都合主義」と書いて、信じるのが難しいと、信じることについて整理できないのか、くどくどと混乱した文章になっています。ねじれたHS批判に、楽山の本性が現れてきます。
 
それは、楽山自身が、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの自分信仰というカルトだからでしょう。楽山の怪しさは、いたるところに表れてきます。元々が、霊能者気取りで出発している楽山は、霊が分からない人を蔑み、一方で、現実に必要な心の問題を無視してきたのです。
 
 

自分が「ヨブ記」に興味があるのは、多分このことが遠因になっている。「ヨブ記」を知るきっかけになったのは、三浦綾子のエッセーで、夫婦そろって体調を崩して床についているときに、知り合いから何かの祟りではないかと心配される一方で、他の人からはヨブ記を読むことをすすめられたという話を読んだことであるが、三浦綾子ヨブ記を教えてもらったのは本当によかった。おかげで、実際に「ヨブ記」を読み、次には内村鑑三の「ヨブ記講演」を読み、それによってHSで感じた違和感の正体に気づくことが出来た。

 
体調を崩したときに、ヨブ記が益になるのでしょうか。ヨブが回復したからでしょうか。人は、良いことを神のわざに、災いを悪魔の仕業にしたがりますが、ヨブ記の大きなテーマは、神は、人に、災難や不幸の意味を、いちいち説明しないのだから、恐れをもって神に任せよ、ということです。
 
前に、楽山は、ヨブ記のことを書いていましたが、到底、読んで理解しているとは思えない記事でした。解釈も拙劣で、神と人の関係を考えることが出来ていないと判断されるものでした。だから、「本当によかった」「気づくことが出来た」という単純な言葉しか書けず、それらは、全部、嘘でした。
 
楽山は、解説、説明、説得する、ということが出来ないのです。これは、才能や能力云々ではなく、自分に満悦していて、深刻に疑問を持って考察できず、考察と情緒を深める意志を持てない自己愛性人格障害NPDだからです。それで、クレームを付けたり、大袈裟に褒めたりするのでしょう。
 
 

前の記事で、キリスト教の本を読むことで、HSのマインド・コントロールから脱することが出来たことを書いたけれども、これもその一例であると思う。キリスト教はカルト対策に大きく貢献しているという話は聞いているけれども、こういう実体験からそれも納得である。

 
キリスト教とキリスト信仰を否定し、おとしめてきたことについて、その無理解によって、反省もしない楽山ですから「キリスト教はカルト対策に大きく貢献している」「実体験からそれも納得である」は、反省した、よかった、と同様、決して、真に受けてはいけない楽山の辻褄合わせに過ぎません。
 
まるで何かに誰かにゴマを擂っている感じの、世辞の印象です。楽山は、言動がバラバラになって、統合した人格を欠いたブログの流れになっています。結局は、解体に向かい、スクラップに、鉄くずに、ゆくゆくは、廃人になってゆくのでしょうか。
 
楽山は、自分はちゃんとわかってるんだと示したいようですが、実質がまるでなく、自らに溺れて、自らを見失い、あちこちから噴き出してくる矛盾に、その場その場で言い訳をする亡者であります。本人が気づかないところで、信仰ではなく、悪意と病気が進行しているのです。
 
反キリスト、反宗教の、病的ナルシスト、という評価は、後追いの付け足しの、おべっかや世辞や褒め言葉では覆ることはなく、破綻百出になり、むしろ、強化されてきました。今後も変わることはないと思います。楽山は、公害を弁明するのに必死な加害者のようです。
 
楽山は、反省していると思わせるために、よかった、気づいた、納得である、といった勢いだけの肯定の言葉を並べてきます。それで、いたるところに深みのなさが表れてきます。だまされないでください。今までのことから、楽山は、真逆であり、無反省と無責任の権化のような人です。
 
だいたい、知りもしないキリスト教を、けなし、そして、ちょろっと本を読んで、ほめる、なんてのは、ありえないことです。知識は、いくら積んでも、信仰を保証しません。信仰は、心の温もりと潤いに生まれるものです。楽山にはそれがないのです。思いやりと共感がないのです。
 
信仰は、共感と悲しみを知る心を持たない楽山には生まれません。楽山は、信仰を語ることなど出来ないと思います。誰も、本をちょろっと読んで、キリスト教とは・・云々、などと得々と語るような楽山のような悲惨な有り様になってほしくないと切に思います。
 
悪名が、よそに向くことを期待しているのか、誰かが、同情してくれるだろうと思っているのかもしれませんが、方向がバラバラで偽りに満ちた楽山の言は、流れを知っておれば、わざとらしく、白々しくて、書き続ければ、いずれは、誰もが気づくことになります。楽山は、早く、書くのをやめるべきです。
 
楽山は、まだ、何か、解説か評論のようなものが書けると思っているのでしょうか。楽山は、混乱と疲労と苛立ちと迷いしか与えてこなかったのに、頷く人に対しては、しめた!とばかり、みな、だましていいとでも思っているのでしょうか。
 
それに、何度も書いたけど、言論の責任をいっさい取ろうとしない態度で、言論は自由じゃろ・・とばかり、書いていいと思っていること自体、反社会的です。無反省で無反応であります。言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。
 
これは、社会人の当然のルールなのですが、やはり反社会人だから、正常な社会人たる自覚がないのでしょう。楽山は、ブログという囲いから発信すれば、安全に人をだませるとでも思って、高をくくっているとしか思えません。
 
キリスト信仰者は、神の前で、人から神への唯一の音信の手段として、精いっぱい正直に祈る人です。地上の人の世界では、神への音信は祈りだけですが、神の全知全能を思えば、神にとって私たちを知らない時と所はないという信仰ですから、私たちは、神の前で生きているということです。
 
その神の前で、キリスト教の信仰について、悔い改めることなく、故意に、悪意で、だますために、平気で、けなしたり、ほめたり、また、嘘を吐く者を、神が赦すでしょうか、否であります。楽山の、ふざけ芝居など、一日も早く止めてほしいです。
 
 

     

              嘘が内燃する反信仰
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月11日、再録+加筆)
 
 
 
  自由・不自由
 
拾うも捨てるも自由
与えられるも奪われるも不自由
感謝するも迷惑するも自由・不自由
 
一生を小屋の中で過ごし
与えられた餌(えさ)を食っている隷属の畜生
 
動物園の檻(おり)から抜け出して
街中を走りまわる狼狽(ろうばい)の獣(けもの)
 
水中で呼吸はできず
空を自由に飛ぶこともできず
鋭い爪も牙も厚い毛皮もないが
その代わりの物を作り出す知恵があり
その代わり作り出した物に苦しめられる
 
買うも買わぬも自由
来るも去るも自由
狂うも障(さわ)るも不自由
集まるも離れるも自由
集められるも遠ざけられるも不自由
 
自由は広漠たる平原に立ち
不自由は狭いトンネルを歩く
しかも区別できることの方が少なく
手に入れた物に縛(しば)られる
 
貧しさ豊かさ自由?不自由?
死ぬも生きるも自由かつ不自由
 
自由は全方位が空いていて未知だから
行く先を選んで走ろうとして
迷うことも飢えることもある不自由
つまるところ
自由ほど不自由なものはなく
不自由ほど自由なものはなく
自由ほど・・・
 
その両価性を循環しながら
存在するのにも存在しないのにも
払える代価はないのです
 
 
  世辞の思い出
 
あの日しらじらしいお世辞を言われて
真に受けて
しくじった
あのときから嘘をつくことを覚えた
実際はもっと前から嘘をついていたのだが
初めて嘘をつくということを考えた
自分から出る嘘に気づいてしまった
お世辞
世辞
世・辞
今も華やかな人々の国では
標準語なのだろう
その言語を嫌いになったばかりに
しくじり続けている
 
 
  恋・悪・夢・現実
 
ただ一度の恋
の夢なら何度も見た
恋の夢はいつも変
初恋の人が禿げていたりとか
しかし今日の夢は違っていた
 
その後に出会った人々の夢だ
悪い夢ではなかったのだ
夢はいつも変な脈絡だが
あとで手痛い目に会うような
冗談めいたお世辞も言われなかったし
高慢な自我の遠回しの攻撃も
きつい一言も露骨な悪意もなかった
 
むしろ快楽のような宴の夢だった
といって実際の彼らが格別
悪人というわけではなかったし
彼らの言動は更なるその後の成り行きに
具体的には何の影響も及ぼさなかったから
印象も薄く
彼らの夢は記憶する限り初めてだ
 
なのに目覚めた後の
顔を顰(しか)めたくなる脂汗のように
べっとりと付いてくるものは
また一日ゆがんだ放物線上に
投げ出されて落ち損ねて
また夢の裏側に目覚めるまで
付いて回り続けるのだろうか
 
洗面所に行って顔を洗えば
針のように刺してくる光の明確さ
これが現実だな
間違いなく
現実
だな
・・・
 
 
 
楽山が、シリーズもののように、書いているのですが
 
 「ブログ村騒動」発言集(ピア健論争)
 2021年08月10日 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 http://mmknky21.blog.jp/archives/10548304.html
  を批判。逐一批判はしません。
 
楽山は、また、似たような引用の記事を書いています。数年前の騒動とやらを、まとめたいのでしょうか。今問題なのは、楽山が、原因なのですが、その後始末の責任から逃れるために書いているとしか思えません。楽山は、それどころではない状況を無視するために他者のことを書いているのです。
 
今回は、他者からの引用のようです。例によって、記事の引用はしません。それにしても「>」が多すぎて、どこからどこまでが他者の発言なのか不明瞭になっています。記事の体裁だけ作りたいのでしょうか。あざとく、嫌味な、逃避だと思います。厚顔無恥&無知の策略です。
 
前からの疑問ですが、今さら、楽山に読者がいるのでしょうか。誰かが読むとは思えないような、不躾で、読みづらい引用で、自分の正体隠しが出来ると思っているのでしょうか。見苦しい限りです。自分の問題を無視して、他者のことばかり問題にして書きたがる体質が、剥き出しです。
 
 
 
楽山の成りすましが疑われる taka のツイッターサイトですが
 
去年の日付になっているのは引用元のツイートのほうで、リツイートは、掲載位置から見ても、最近であろうと思われます。
 

takaさんがリツイート
三浦春馬 & STAFF INFO
@miuraharuma_jp
·2020年1月29日
明るみになる事が清いのか、明るみにならない事が清いのか…どの業界、職種でも、叩くだけ叩き、本人達の気力を奪っていく。皆んなが間違いを犯さない訳じゃないと思う。 国力を高めるために、少しだけ戒める為に憤りだけじゃなく、立ち直る言葉を国民全員で紡ぎ出せないのか
午前1:33 · 2020年1月29日·Twitter for iPhone
https://twitter.com/miuraharuma_jp/status/1222195883271344130

 
楽山は、恐れを知らないようです。自殺した芸能人の、スタッフの言葉を、自己正当化のために、リツイートで悪用しているのです。厚かましさが、恥を忘れているようです。このように恥知らずの楽山が、何かの切っ掛けで、犯罪行為に走りやすい病質です。
 
楽山の場合のような、悪については、明るみに出すことが必要であり、隠すことが汚いのです。常識です。「皆んなが間違いを犯さない訳じゃない」・・詭弁です。過ちや間違いと、楽山の、故意に人を傷つけて快感を得るサイコパス的な罪は、当然、違います。後者は、許してはいけないのです。
 
正義を論じているふうな発言を選んで引用しているのが、楽山の隠れ蓑なのでしょう。楽山のような、罪を認めず、しらばっくれ続ける自己愛者に、立ち直る言葉や、励ましの言葉などは、当然、禁忌であります。故意・作為・悪意による悪だくみに対しては、批判なので、時効もありません。
 
楽山の無責任な自己愛性パーソナリティ障害NPDの体質が、表れていると思われます。殆ど、他者の言葉であること、殆ど、自分の意見を書かないこと、殆ど、放り投げて終わり、という投げ捨て投稿であることなどが、最近続けざまに書いている楽山ブログの投稿と共通します。
 
楽山は、まだ、だませると思っているようです。もはや、楽山が、常識人のような真似をすることなど、通用しないのですが、プロのペテン師なのでしょうか。ピュアな詐欺師のクリミナルマインドなのでしょうか。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
日常的に嘘を吐いている楽山は、だんだん演技的になって、俳優にでもなった気分なのでしょう。寒くなるような下手くそ芝居で、善人を気取ってきます。評論家を気取ってきます。生きていることに本音がなく、人のいるところでは芝居をするようになるのでしょう。現実には、嘘吐きでしかないのに。
 
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
これはその通りだ。順調なら変える必要はなかろうが、行き詰まってるなら変革の時が来てるということなのだろう。
そういえば十代の頃、『風と共に去りぬ』で、国が滅ぶ時と興る時がチャンスだという話を読んだのが未だに記憶に残ってる。
 #本日の格言
ryuho-okawa.org
厳しい時代はチャンスの時代
厳しい時代はチャンスであり、思い切って改革をする時期なのです。 それをすれば、未来は、まだまだ、たくさん開けるのではないかと思います。
午後9:50 · 2022年8月19日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1560610139899854849

 
楽山には「順調なら変える必要はなかろうが、行き詰まってるなら変革の時が来てる」などと、他者に偉そうに言う資格はないのです。「滅ぶ時と興る時」・・自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)のままの楽山には、興る時はありません。どんどん滅ぶ時が進行中です。
 

★こも/楽山日記3
@komo266
「○○は認めがたいので、そのようには思ってはいません」
これはある意味、信仰の本質かもしれん。人は信じたいことを信じ、信じたくないことは信じないということ。一言で言えば、願望充足。
#本日の格言
ryuho-okawa.org
政治の理想
「ある民族が呪われていたり、生まれつき原罪を持っていて迫害されたりしなければならない」というようなことは認めがたいので、そのようには思ってはいません。それぞれに可能性を持っており、そういう意味での「平等性」は持っています。 ただ、「結果の平等」だけを目指すのが政治の理想だとは思っていません。目指すべきなのは、「機会の平等」「チャンスの平等」であると思うのです。
午後9:44 · 2022年8月19日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1560608657695739905

 
「人は信じたいことを信じ、信じたくないことは信じない」・・これは、楽山の本質です。楽山は、また不幸に他人を巻き込もうとしています。信仰を得たら、都合のよいことばかり起こるなどという幼稚さは、信仰にはならず、カルトになってゆきます。小学生レベルの偏見で信仰を否定してくる楽山です。
 
「一言で言えば、願望充足」というのは楽山の願望~欲望です。まともな信仰者は、全ての願望が上訴腐れるわけではないことを知っています。都合のよいことだけ信じるのは信仰ではありません。願望の中で御心に適うものを学習し成長することが信仰の目標でもあります。
 
願望~欲望の充足だけを信じるのは、楽山のような自己中のケダモノの所業であります。楽山は、信仰において大切なことを何も知らないので、あざ笑うかのように、足りない知恵と、無学を、一般則のように、振り回すしかない恥知らずなのでしょう。
 

★こも/楽山日記3
@komo266
悟りを開くと、この世的なものに執着しなくなるというのは本当だと思う。
でもそうすると、高級時計の自慢したり、名誉にこだわって名誉毀損の裁判したり、霊言・講演回数や著書数を誇ったりするのは、悟れてないことになりそうだ。
ryuho-okawa.org
「真に知る」ということ
真に知るということによって、 この世的なる価値といわれるものが、 ことごとく、蜃気楼のごとく淡く、色が褪せて、 取るに足らないものに見えてくるのです。 そして、ただ一筋に、仏法真理の道を歩みたくなるのです。 そうならなければ本物ではありません。
午後9:39 · 2022年8月19日·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1560607454207291394

 
信仰は「執着しなくなる」悟りではなく、最も大切なものに気づくことです。楽山には、その大切な気づきがないために「高級」「名誉」「霊言」などに執着するのでしょう。悟れていないどころか、何も気づかずに、何も知らずにいるのです。それは自らが「取るに足らないものに」なってゆくからでしょう。
 
楽山が執着しないのは、他者の心です。だから、思いやりもなく、共感もなく、反省もしないで、我欲を通そうとし、通るものだと思い込むのです。楽山の信仰についての見方は、全て、幼稚なお伽噺の蜃気楼と言ってよいと思います。それを平気で刷り込んでくる気が知れません。正気ではないのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
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(古い記事もインポート済み)
 
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