ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

楽山のよいしょ倒れ2

 
  楽山のよいしょ倒れ2
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。(3)信仰について
 2021年09月15日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/30484884.html
   を改めて批判。
 
 
病識がなく、自分を見ることの出来ない楽山が、いつものように、得意気に書いてきます。楽山の言は、論になっていません。言論に必要な、語る節操も、聞く耳も、持っていないからです。どれだけの有名人を巻き添えにして、詭弁を弄するのでしょう。病の根深さを思わずにはいられません。
 
単純に言って、無反省と無責任で、訂正不能であれば、言論する資格はないのです。他にも、楽山の病質については書いてきましたが、病質のために、どこまでも舐めてかかって、まともな話は通じないし、交流ができない以上、だましてくるだけですから、楽山に未来はないと思います。
 
 

*つづき
前記事に続いて、ドーキンスの名言についての感想を書いてみたい。

 
一日も早く、楽山が何も書かなくなる日を待っています。あらゆる言論の害悪です。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の弊害の典型例となっています。
 
 

*信仰と無責任

信仰とは、根拠について考え評価することからのご立派な責任回避の口実である。信仰とは、証拠の欠如にもかかわらず、あるいはそれゆえの、信念のことである。
 」
これらは随分と辛辣な批判だが、前者については、自分かかつて所属していた宗教団体では、長く信者を続けている人は、信仰の根拠について深く考えることを放棄した人ばかりだったことを思えば合点がゆく。

 
無神教カルトとは、共感が分からないために、信仰の根拠を、事実や理屈だけで追って、何も見出せないことを、根拠が無いと切り捨ててしまう短絡であります。前から言っていますが、証拠があれば、信じる必要はないのです。信仰は、信じ込む信念ではなく、共感の絆です。
 
カルトと、宗教を、混同した楽山の幼稚な決めつけです。そこを分かっていない人たちもいるのでしょう。理屈をこねていますが、言い方も高慢で、理路も間違っており、かつ、共感が皆無であります。繰り返しますが、証拠があれば、信じる必要はないのです。信仰の根拠は、事実ではなく、心にあります。
 
信仰は、心に響いて、共感することだから、心のない楽山のような人には、分からないのでしょう。心がないと思考も短絡しやすく、そのせいで、理路は短絡し、共感がなく、表面的な事実との辻褄だけを追って決めつけることになる、という特徴が表れていることにも、楽山は、気づいていないようです。
 
信仰の根拠は、心にあります。ゆえに、表面的で幼稚な理屈屋に届くことはないでしょう。一部のカルト批判から、信仰そのものへの批判と否定を企んでいる楽山は、自己愛性人格障害の宿命のように、偽物の標識を持って廃棄される詭弁の果ての異土の吊り橋へ向かっているようです。
 
 

後者については、司馬遼太郎も似たようなことを言っていたと記憶している。思想や宗教というものは、その出発点は空であり、嘘である云々と…。
率直に言って、信仰というものは本来あるのかないのか分からない神をあると断言するものであろうし、その根本は空言、もしくは嘘といわれても致し方ないものではある。

 
楽山は、また、有名人の口を悪用しています。楽山には、自らを空しくする"空" という思想は分からないと思います。私も、完全に分かったわけではないですが、分からないという自覚はあります。自覚がないのが、楽山です。だから、どこまでも、嘘吐きという評価しか生まれないのです。
 
本来が、あるのかないのか分からない神であるなら、どうして信じ仰ぐに至るのでしょう。考察と共感の出来ない楽山の幼稚な短絡です。信ずるに至る切っ掛けと動機が当然あるわけです。信じないだけでなく、あっさり否定してしまう楽山の軽口こそ、本質的に、嘘そして空疎なのです。
 
思想と宗教の出発点には、現実の苦難に際しての必要があり、必然があります。苦難の時の、心の回復と平安は、人生を支える力があり、信仰に必要不可欠のことでしょう。そこを全く考察する意志も能力も持っていないのが、楽山であり、まことに、実のない、余計な雑言ばかり吐いています。
 
心のない楽山には、心の必要と必然がなく、ゆえに、共感することが出来ず、考えて整える理路も育っていないのでしょう。それで、評論家気取りだけが過剰にあれば、目も当てられない見掛け倒しの悲惨な経過と結果となって表れ、末路への転落が予感されるばかりであります。
 
 

*信仰批判

今こそ、信仰に対し批判をしていくべきときだ。
午後7:39 · 2021年9月2日
 」

 
シュプレヒコールでしょうか。信仰が人類の敵だという悪意の前提が見え見えです。
 

ドーキンスの言葉には共感することは多いが、さすがにこういうところは扇情的にすぎるようだ。
自分は、信仰は人の性であり、撲滅することはできぬものであろうし、それならば信仰にはさまざまな難点があるにしても、違法行為や人権侵害がない限りはさして批判する必要はなく、人それぞれ自由でよいとする他なかろうと思う。

 
楽山の、撲滅できないから、批判する必要がない、というのは、理路として、完全に間違っています。相変わらず理路の整わない楽山です。嘘も詭弁も、無反省も無責任も、思いやりがなく、反省せず、不祥事をみんな人のせいにする病質者の業(ごう)であり、糾弾されるべきは楽山その人です。
 
このように、有名人の言を利用しながら、宥めるかのように、自分はそれよりも上だという満悦からの印象操作を忘れないのが、評論家気取りの楽山です。それによって、全ての言論者の敵であることが明らかになってきました。書けば書くほど、楽山の我欲と傲慢と卑怯さが、あらわになるでしょう。
 
道徳や人間の尊厳を無視した訂正不能の妄想的な、宙ぶらりんの思い付きを、得々と語ってきたのが、楽山です。違法行為の取り締まりは警察の仕事です。犯罪歴の不明か未遂かの、楽山のような、節操と道徳に反する非人間には、徹底した批判を続けるしかありません。
 
楽山には独自の思想はありません。その時その場の、よさそうなことを、自分がひけらかすことによって、自分だけを高めているつもりなのです。楽山の、ボクはこんなに善い人アピール・・を受け入れてしまうと、楽山の従属物となって、自分を見失ったまま、良心を失ってゆく病魔が待っています。
 
楽山は、誰にも共感することはないでしょう。ただ、病質のエゴのために悪用しているのです。だから、人を人とも思っておらず、無視と裏切りは当たり前なのです。無自覚で無反省で無責任の楽山には、最終的に何らかの圧力か強制力をもって排除されるしかない必然が付きまといます。
 
 

*信仰と癒やし、議論

それが「慰めになる」という理由で何かを信じようとする人を、どうして真剣に取り合えるというのだ。
 」
これには、その信仰は真実であるかどうかという議論と、その信仰による効果はどのようなものかという議論をごちゃまぜにしているがゆえの混乱がある。

 
楽山に、そういう分別があったなら、今までの単方向で訂正不能で、随時忘却によって責任逃れしながら惑わしてくるような災いはなかったはずです。混乱をもたらしているのは、他者を好きなように悪用する楽山その人であります。有名無名に関わらず、悪用の犠牲となってはいけません。
 
表面的な辻褄だけを追いかけているような、心のない者たちには、信仰は永遠に理解不能のままでしょう。人間は、修正可能であることを信じたいけれど、楽山を見ていると落胆せざるを得ません。無神教カルトは、多く、信仰の慰めも、癒しも、感受できない自尊過大の者たちのようです。
 
 

信仰に関する議論は、大雑把に言えば、①その信仰は真実であるかどうか? ②その信仰は真実であると感じられるかどうか? ③その信仰による効果はどのようなものか? というものがあり、それぞれまったく別の問題である。

 
何という幼稚な詭弁の理路でしょう。信仰に、効果を問うとは、まるで実験マニュアルのような書き方です。科学のような普遍的な法則や真理ではなく、信仰に必要なのは、個人の心を支えるための、人間的温熱を持った真実なのです。生きている人間について、楽山は、どこまで暴言を吐くのでしょう。
 
信仰が真実であるかどうか、救いとは何か、これは主観的に受け取られる感慨であり、最終的には、神が裁くことです。信仰の真実とは、真実であると感じることです。楽山は分けることの出来ないものを、言葉だけで分けて混乱させる詭弁です。できないことを要求して否定する詭弁です。
 
楽山は、箇条書きにして論理的に見せかけてきますが、信仰の、真実性も、感受性も、効果も、何も分かっていない楽山の言は、屁理屈の詭弁です。決して相手にしてはいけません。楽山は、受け入れられるような文章の体を装うだけで、何度も言いますが、何の実質もなく、責任も負う気はないのです。
 
「それぞれ」「別の問題」ではありません。信仰者は、その人生において無責任ではありません。いかなる罪も認めず、いかなる責任も負わずに済まそうとするのは、楽山という自己愛性パーソナリティ障害NPDの業であり、いずれ、想像を絶する重さをもって、楽山にのしかかり追いつめるでしょう。
 
信仰は、その真実も、感受も、効果も、信じた者に暗示されるだけです。どうして、神の意志が、人に、手を取るように分かるでしょう。本質的な不可知、未知、不明を、分かるものであるかのような安い言質によって、悪用してきたのが楽山です。頭がカチカチ山の楽山です。
 
 

それにも関わらず、信仰者の中にはこれらの問題をごちゃまぜにして、「この信仰によって大きな慰めを得たから、これは真実に間違いありません」とか、「この信仰は真実です。もし真実でないなら、これほど人々の心に訴えかけ、感動を起こさせるわけがないのです」とか主張する者が多い。信仰者は②③を持ち出すことで①について語っているつもりになりがちなのだ。
①についての議論が困難なのは、こういう混乱に原因があると思う。

 
上に述べたように、②③は成り立たない詭弁ですから、信仰については無意味です。効果が証明され保証されて信じるような信仰は存在しません。楽山が、なぜ、信仰に縁がないかが、楽山によって、説明され、証明されたのです。詭弁で文句ばかり言う人には、言論の資格はありません。
 
だから、信仰には、信じるか信じないかの自由があるのですが、それを認識できない楽山は、全部を、いちゃもんの材料にしてしまうのです。一部の体験について、全部であるという言いかがりで責めています。つまり、信仰の自由の、最も凶悪な迫害者は、楽山であります。
 
信仰者は、相手を安心させるために、自身の体験を語ることがあります。それを揚げ足取りに悪用する楽山は、無知と無教養という揚げ足を取られて、さらに詭弁と嘘を重ねて保身を図ることで、人の世界で赦されず、神の世界ではさらに赦されない害毒の泥沼をさまよう者となりました。
 
 

*信仰は悪である!

本当の意味で有害なのは、子供に信仰そのものが美徳であると教えることである。 信仰は、それがいかなる正当化の根拠も必要とせず、いかなる議論も許さないという、まさにその理由によって悪なのである。
 」

 
著者は、議論を許されなかった恨みがあるのでしょうか。前の記事のように人をマヌケ呼ばわりして許されると思うほうが無理でしょう。さらに、それを、楽山というペテン師に、まんまと悪用されています。クレームが来ないことをいいことに、楽山は、悪用の罪業だけを積み重ねてきました。
 
信仰についても、共感に基づく議論は可能ですが、楽山のような反キリストで訂正不能の変質者とは永遠に議論不可です。楽山は、糞尿を引っ掛ける者、そして、善悪と正邪だけでなく、精神衛生において、楽山は極めて不潔です。
 
 

子供の宗教教育は程度問題ではなかろうか? その土地や民族の宗教的な文化伝統が自然な形で子供に伝わるのは必ずしも悪ではなかろうが、あまりに厳格な宗教教義を子供の頭に刷り込もうとするのは児童虐待であろうし、明らかに悪である。

 
程度問題ということで、いい加減がいちばん、という詭弁に誘導するのが、楽山です。信仰の真実も感受性も効果も、楽山は何も分かっていないからです。そして、強引に、児童虐待に結びつけています。悪魔性が明らかです。善を装う悪の醜形が、ここで暗躍しています。
 
むしろ、楽山のような詭弁屋が、カルトでも始めたら、いかなる悲惨を招くかが、楽山によって、表されているのです。そして、今までの記事に、楽山は、霊能者気取りで、教祖願望があると思われることを私は書いてきました。楽山は、人間に対して自己中からの虐待を切望する異常者です。
 
 

信仰と議論については、まったくその通りだ。特定の信仰を絶対視し、その妥当性について議論することさえもゆるさないというのではあまりに高慢で独善的にすぎてまったくお話にならない。

 
神そして信仰の妥当性が、人間に分かるわけはないのです。人間は不完全だからです。楽山が、上のように言うのは、妄想的な全能意識と最終的な審判者に成り上がった人間の、最も醜い姿なのです。丁寧語で人をだまされると、人格破壊の地獄が待っていることを知っていてください。
 
楽山の、曖昧さと、いい加減さでは、病原となるだけで、誰も救うことは出来ません。楽山の言論のベースには、何でも分かるつもりの傲慢があります。専門用語も、日常語さえも、理解せずに使いまくって、単方向に暴発を繰り返す悪魔性が、一日も早く消滅することを祈っています。
 
楽山の自己愛性パーソナリティ障害では、誰に教える資格もないと思います。本人が、それを自覚できないのも、この障害の症状ですが、巻き込まれる側にとっては、死活問題です。危険な圏内に入らないことだけが予防策となります。楽山こそ、全くお話にならない人です。
 
楽山の言は、質の悪い睡眠薬のようなもので幻覚剤併用みたいなペテンです。毒物ですから、副作用として、知情意が鈍麻し、人格の鈍麻~破壊が起きてきます。付き合えば、楽山と同じように、嘘と詭弁で人をだまして平気でいるような、うっすら、ぼんやり、どんよりした不感不応の自己中になるでしょう。
 
楽山は、アンチとしてカルト批判をしているつもりのようですが、宗教と信仰についての見識が、あまりに杜撰(ずさん)で視野狭小で偏屈で、未熟なのに、反面、自尊だけが過大であるために、妄想性になっていて、自己愛性人格障害のインテリ気取りの危険な症例となっています。
 
楽山は、何もうまくいかない人生だから、芝居を覚えたのでしょう。しかし楽山は大根です。さらに、嘘と詭弁と一体となるゆえに、ますます害悪となってきました。しかし、自我の弱い人は、だまされるかもしれません。それに味を占めた楽山が、好都合な言葉を漁り続けているという現状です。
 
肯定と否定を両方言ったら責任問題は生じないというのが楽山の言論の姿勢です。言論にプラマイゼロはありません。責任を負わず、反省もせず、訂正もしない病質者が楽山です。何度も言いますが、言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。楽山は、全否定され続ける無法者です。
 
 

      

              虚空に干上がる心
 
 
(2021年)
(2022年09月24日、再録+加筆)
 
 
 
  責める
 
書いた文字が
起き上がって
僕を責める
何と言って責めているのかわからないが
書けば書くほど責める
立ち上がった文字が
二人寄り三人寄って
言葉になって責める
しまいには
まわりいっぱいになって
うるさく責め続けるので
紙を破って
丸めて捨てる
書きかけの文章を捨てる
静かになった
と思ったら
捨てた紙の間から
はい上がった一人が
弱々しい声で言った
うそつき・・・
 
 
  さぐる
 
時を探っていた
恐らく一生わからないであろう
時間というものを加えた四次元を
三次元の頭で探っていた
 
寝床の中である
夢か現(うつつ)か
限りなく沈んでゆくようだ
限りなく、というもの
無限を枠に嵌(は)めるようなものだ
できるはずもない
頭も心も三次元であるかさえわからない
最近とみに平べったいから
潰れてぺちゃんこにならないうちに
自分を知りたかった
関りと拘(こだわ)りと無関係と無関心
で過ぎてきたことになって
今ここにいる自分を
 
自分の記憶の中にしかいない自分
それさえも忘れやすい自分
実体が欲しかった
眠りに落ちてから
底知れぬ旅に落ちてから
捕まえたかもしれない
でも目覚めたときの仕種(しぐさ)は
その記憶さえ消し飛んでいて
回る走馬燈の中の
残り少ない蝋燭(ろうそく)の
小さい炎に変わる前の
油の蒸気を探るようなものだ
 
 
  夜の向こう岸
 
死者たちに見られているような
影の卑怯な歪(いびつ)さは
深まり広がる陰の暗さに
昇り沈む星々を隠されて
夜の彼岸に近くなる
 
紫の顔や肢体のようでもあり
血まみれの上半身のようでもあり
それなのに一方で
やさしい顔で見守り
守ってくれてさえいるような
彼岸の人たちは総て知っているのに
招いているのか呼んでいるのか
拒んでいるのか憎んでいるのか
視(み)てさえいないのか
此岸(しがん)は何も教えてはくれない
 
ただそんなとき
管に詰まった結石が
管を切り裂きながら
内部から飛び出して
転がって小さく
もっと低く小さいところから
完璧な出血を
乞いたがっているような
寄る岸のない疼(うず)きのうちに
 
やがて沈まない北の星が
空に沈んでゆく頃
死者たちが見ていてもいなくても
誰がいてもいなくなっても
影は別の日の
汗と涙に濡れている
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
自分には自分の臭いは分からないというけど、Pさんもそれだね。Pさんからは自分教の臭いがぷんぷんしてるから、自分教といわれる。一字一句を吟味した上でそう結論づけてるわけではない。
一字一句にこだわってるのは、鉤括弧を多用するPさんの方ですよ。Pさんは自分教の教条主義者みたいです。
午前6:53 · 2021年9月16日
https://twitter.com/komo266/status/1438259602391375873

 
「自分の臭いが分からない」のも、「自分教」も、楽山にぴったり当てはまることです。アンチであるかどうかの問題よりも、楽山は異常者です。しかも、体質的な自己愛性パーソナリティ障害NPDです。無反省、無責任のままで、一生過ごせるとでも思っているのでしょうか。
 
ちなみに、楽山は、とても臭い男です。見せかけだけの楽山は、とてつもない量の汚い香水?を自らに、振り、塗りたくりながら、いつからおれが・・と、臭い野望を燃やしている変質者であり妄想狂であり、反社会性の人格です。決して関わらないでください。
 
楽山が、誰かのことを言うたびに、ブーメランになって、楽山に返ってきていることに、楽山だけが気づかないのです。ここまで、自己愛性人格障害は、分からない人になってしまうから、それこそ "撲滅同盟" でも作らないと、解決しないことなのです。言論では、批判しか出来ません。
 
また、楽山には、「一字一句を吟味」どころか、他者の意見など、都合が悪ければ、一言も受け取らないし、覚えてもいないでしょう。それで、人に対して何か意見や批判をすることなど、決して、できません。それさえ分からない人ですから、けっして楽山を相手にしないでください。
 
 
人格障害というのは、昔、精神病質と呼ばれた体質の病気で、精神病と違って、有効な薬がありません。関わらないこと、相手にしないこと、批判するなら人格の異常を批判することが必須になるのです。つまり、不感不応の楽山を批判するなら、不感不応の病質を指摘するしかないわけです。
 
人格を批判してはいけないというのは正常人の病気の場合です。正常な関係性が成り立つ場合だけです。言論を慎んで、おとなしくしていることが必要な病質なのに、なおも、しゃしゃり出てくる楽山に対しては、病的な人格について、直接、批判してゆく以外ないのです。
 
楽山には、自慢できることも、客観的に評価できることも、全くありません。それをごまかすために、婉曲的な屁理屈のボンヤリ言語という丁寧語を使い、同情を誘うためにトホホ言語という謙虚芝居や嘘の弱音や世辞を言ったりします。楽山は、まとものつもりでも、寒気を感じるほど異常です。
 
しばしば、作為的に、自分が言われそうなことを相手に向けてきます。上のツイートもそうです。病質のために、人に言っても、自分が言われても、実感と実質がないのです。だから、何を言っても言われても、平気で無視して、罪悪感を感じないでいられるのです。
 
楽山の言は、嘘と詭弁に満たされ、良心の欠損を表すだけです。楽山の言には、三文芝居のセリフはあっても、人間らしい温もりと潤い、つまり、思いやりと悲しみへの共感が見られません。乾燥しボンヤリして焦点を外して良さそうに見せるだけの言葉面はあっても、真実の欠片もありません。
 
ですから、楽山の言は、何の参考にも糧にもなりません。こちらとしては、体質的異常者の劣悪さを例示して敷衍したいし、また、資料とするために、批判を続けています。楽山が書けば書いただけ、それは、悪い言論の例として、嘘と詭弁の具体例として、病質を表す資料となってゆくのです。
 
例えば、医者は、精神病でも、精神病質でも、ことを荒立てないことを優先します。説得して、表面的でも治まれば、それ以上は言わないでしょう。そういうことを、半端な知能で知っているところが、病質者の狡さなのです。だから、丁寧語、世辞、甘い言葉・・などを多用するわけです。
 
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
もう何度も説明してることですが、aとbの議論は違います。
bの議論では、総裁の著書を引用は必須です。これなくして議論は成立しません。
a. 信仰とは何か?
b. 信仰について総裁は何と言ったか? 著書にはなんと書いているか?
https://twitter.com/niw79ku8q6qp/status/1572857022349189120

 
a.について、HSは知りませんが、キリスト教と信仰について、楽山は何も知りません。にもかかわらず、キリスト教の神を否定したのが楽山です。つまり、何も気にせず、責任も負わず、言い捨てるのが、楽山です。後悔や罪悪感などの高等感情がないのだろうと思います。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
ちなみに、aの議論は正解は確認しようがないので、人それぞれということで終了かと思います。
ただ個人的には、信仰とは偶像崇拝であり神に対する冒涜である、神を信じる者より、信じない者の方が真の信仰者である場合も有り得ると考えます。
その理由はブログに書いてます。

 
信仰は、人それぞれ(でいい)と言いたいようです。楽山は、いかなる信仰も持っておらず、全く信仰というものを知らないと思います。「信仰とは偶像崇拝であり神に対する冒涜である」・・また暴言を吐いています。偶像崇拝になったら、信仰は、おしまいで、不信仰より悪いのです。
 
「神を信じる者より、信じない者の方が真の信仰者である場合も有り得ると考えます」・・信じていると言って実は信じていない者もいます。なお、楽山は反信仰です。「その理由はブログに書いてます」・・楽山は、何も書き得ていません。信仰など何も分かっていないことだけが表れてきました。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 
 

雑感まとめ2

 
  雑感まとめ2
 
前に「雑感」として書いた記事を、再録+します。
 
 
  障害と人格
 
 
障害を否認し障害に卑屈になれば
障害を補う努力を怠り
障害を隠そうとして
人格が嘘吐きになります。
 
健常者に恨みをいだくなら
健常者をだますようになり
健常者以上の振りをして
人格がますます大嘘吐きになってゆきます。
 
 
障害を認め障害に折れなければ
障害を補う努力をするようになり
人格が障害を克服します。
 
 
私は、小1の時に発症したリウマチ熱による大動脈弁逆流という心臓弁膜症と、対人緊張と、鬱と、自業自得の喫煙による慢性気管支炎が、現症です。最近、不整脈も出るようになりました。耳は遠くなり、目は薄くなり、筋肉は衰えました。
 
今さら、どうしようもないので、予後を含めて、神様にお任せするしかありません。
68年も生かしてもらいましたから、今は、それほど、長生きしたいとは思っていません。
 
 
  詭弁
 
美辞麗句は、実行性が具体的にあるかどうかを判断してください。
美辞麗句だけ並べるのは、詭弁です。
 
聞くに麗しいことばかり言われて、いい気持にならないでください。
実行と実質が伴わなければ、ただの嘘です。
 
やさしい顔・態度・言葉は、やってきたことと一致するかどうかを判断してください。
やさしいふりだけなら、詐欺師や独裁者も見せてきました。
 
似て非なるものを並べて同一のように話を進めるのは詭弁です。
 
大きくて曖昧な道理によって、個別を語るのは詭弁です。
 
個別の事柄をもって、全体を語るのは詭弁です。
 
 
 愛
 
昔読んだ現代詩の中で
とりわけ印象深い詩句があります。
 
 愛の歌には
 なぜか愛のことだけが書かれていない
 
 
本当の愛という感情、また、深い情緒は、必ず悲しみを経ていると思います。
 
だから、愛を讃え、愛を謳歌して、盛り上げようとするだけの歌に愛はないし、それはお祭り騒ぎに過ぎないし、派手な供え物に過ぎないと思っています。人間が、愛を本当に知り、愛に感動するのは、悲しみを知っているからだろうと思っています。
 
愛だけではなく、多くのよさそうな言葉、正義、善、義、というものは、愛を知らない者が使えば、虚言、悪、偽、であるかもしれません。
 
本当の愛は、温もりと潤いを知っており、癒しと涙を知っており、すなわち、共感と悲哀を知っています。それが一番大切なことであり、信仰のいちばん重要なところでもあるのでしょう。
 
 
 神の言葉、人の言葉
 
聖書は神の言葉と言われます。しかし、この表現が、誤解され、多くの躓きとなっていることを憂慮します。
 
日本では、聖書は日本語の聖書が読まれています。日本語って、一般に言葉って、そんなに正確なものでしょうか。一つの言葉が、人によって違う意味で使われていたり、一人の人によっても、ときによって意味が変わることがあります。また、元々二つ以上の意味を持つ言葉もあります。
 
人間の使う言葉は、それほど褒められるような完全なものではないのです。言い換えれば、人の言葉は頼りない出来であると言ってもよいと思います。
 
神の言葉は絶対です。しかし、人間は絶対の言葉を持たないのです。また信仰は言葉ではありません。言い換えれば、聖書の言葉を、人が受け取って、絶対化することは、信仰に反します。言葉を繰り返し唱えておれば、聖書の言葉を繰り返しておれば、信仰になるでしょうか。否であります。
 
そこを勘違いすると、聖書を勝手に解釈してそれを信じ込むというカルトになるでしょう。
 
信仰は心にあり
心に働き
心を働かせる賜物です。
 
信仰の心を、いつも正確に表せる言葉はありません。こう言っとけば大丈夫などと思っていたら、いつのまにか、心を動かさない言葉になっていることもあるのです。
 
大切なのは心であって、言葉は心を伝える手段なのですから、手段として大切にして、聖書を読む必要があるのであって、聖書の言葉は絶対だから安心などと思うと、いつのまにか心を動かさないものが信仰?と呼ばれることになってしまいます。
 
これが、人間の不完全性
そして罪の性質であります。
 
偽善者は言葉でごまかそうとします。
聖書の言葉を悪用します。
都合の良いところだけを取り出して
聖書に書いてあると知ったかぶりをします。
 
人の言葉は絶対ではなく
人間の心においては相対的なものです。
時と場合によって、一つの言葉でも、もたらす働きは、日常的に変わります。
 
神の言葉は絶対でも、それが記された聖書を読む私たちは、人の言葉しか知りません。つまり、聖書の言葉は、人においては、決して絶対ではないのです。私たちにとって、信仰は聖書を読めば何でも分かるというような万能の辞書ではないのです。人間において万能はあり得ません。
 
信仰が私たちに担保するのは、いつでも聖書を読むことが出来て、いつでも学習し直せるということです。信仰は学びの道であります。そして、いつでも正直に祈ることが出来るという恵みがあります。
 
学びを疎かにして慢心するところには
思いこみの繰り返しが信仰を、無意味に分厚くして、無味にするだけでしょう。
 
私たちは、この地上の苦難に接して、聖書を読んで受け取ったことと、経験から受け取ることと、受け取って考えることをもって、生きてゆく存在であり、神とは違う相対的な存在です。
 
生き方についても、言葉についても、聖書についても、私たちは学ぶ務めと意識を持つことが、信仰には大切なことです。そして、正直な祈りだけが、信仰の義に結びつきます。
 
まさに信仰について、正直な祈りに支えられて、聖書と体験によって学ぶという修道は、間違いだらけの信仰者が成長するための、唯一の生き方であり、信仰生活の日常なのです。
 
 
弱くても、成長し得る心の器が、信仰には最も適した器です。それは、聖書において、"心貧しさ" と、また、"土の器" と呼ばれています。つまり、余計な先入観がなく、知恵も情も入れやすく、また、地味だが、ものを入れやすく、馴染みやすい、心の器であります。
 
 

      

              今 ここで 永遠
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月23日、再録+加筆)
 
 
 
  初恋の頃
 
(あんな若い時代があったと懐かしめればいいのだが何故か
  歳をとった今の自分があることが不思議に思えてならぬ)
 
再びめぐり会うことはないと
気づかれもせぬままに
与えられた一つの笑顔さえ
もうはっきりとは思い出せないほど
遠く走り過ぎたような気がする
 
すれ違うバイクに
ピースサインを投げられた
さりげなく手を上げてみせる
ピースサインは出会いの挨拶
そしてまた別れの挨拶
 
出会うことが別れだったあの日
見知らぬ土地のピースサインのように
私もまた笑みを返した
秋の街をとぼとぼと帰った
 
あの頃 バイクを知らなかった
パソコンもなかった
詩も読まなかった
だが人を愛することだけは知りたかった
遠く過ぎ去った面影に
言葉をかけるすべはない
かわりに吹き抜ける風の中で
私は小さな詩(うた)をよみたい
君は今
どんな顔をして生きているのだろう
 
まぶたを閉じれば浮かんでくる
あの教会
あの下宿
およそ二年の歳月が
そこには遠くまどろんでいる
 
 
  逃避
 
命には限りがある
出会いにも限りがある
愛にも限りがある
なのに別れだけは永遠だ
いつまでバイクに乗っていられる
いつまで生きていられる
すべてを変えてしまった時の長さに
深く刻まれた沈黙の中を
捧げるあてもない命
運んで俺のバイクは
永遠を噛みしめながら
走り続ける
かすかな記憶の
さいはてに向かって
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
遠江さんは、批判したら面倒なことになりそうな相手でも、見て見ぬ振りせず、きちんと声を上げる人なんだ。
真理に忠実なのか、単に空気を読めないだけか分からんけど、どちらにしても貴重な人材だな。
午前7:03 · 2021年9月21日
https://twitter.com/komo266/status/1440074064467398656

 
「見てみぬふりをせず」に書いてくる批判を、平気で無視するのが楽山です。不感不応の訂正不能で、書き続ける言論失格者です。そうすることで余計に面倒なことになります。もはや、楽山を、直接には相手にせず、徹底した批判を貼りつけてゆくしかありません。
 
楽山は、文脈を、理路を、流れを、情感を、人の心を、空気を、状況を、全く読めない人です。言論において、貴重どころか、邪魔であり、有害であり、病害因子であるところの、うっとうしいカビ~寄生虫~ばい菌のような存在です。
 
楽山の、丁寧語に、曖昧なボンヤリ言語に、同情を引こうとするトホホ言語に、嘘に、詭弁に、学者気取り・インテリ気取りなどの気取りだけなので、だまされないようにしてください。真に受けると、無思考、高等感情鈍麻、自己中心、という、人間離れのペテンの世界に染まってしまいます。
 
忠実になるべき対象の真理を分かりもしないのに「真理に忠実」と言っています。実は、これ、大言壮語なのです。誰も真理を知りません。ゆえに、何が忠実であるかも知りません。こういうところに、自己愛性人格障害の慢心は表れてくるのです。ゆえに、空気も読めない軽佻浮薄の楽山です。
 
(ネットより)
軽佻浮薄(けいちょうふはく):かるはずみで言動がしっかりしていない様子。

軽佻浮薄とは - コトバンク


 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
心無い楽山は、永遠という言葉を、時間の長さと、無限という言葉を、ものの長さや大きさと認識するだけなのでしょう。神を、超常の王様と、救いを、何らかの利益としか理解しないでしょう。そのような、単純な辻褄で理解しているつもりになる慢心からは、信仰は生まれません。
 

 
信仰というのは、まず、自分の理解できない大いなるものの存在に気づく心の器が受け皿です。それは、能力ではなく、力ではなく、むしろ、無力、とても乏しい自己、それゆえに、受けて、学ぶことを、年齢や才能によらず、成長することを、希望する人が、信仰には向いています。楽山は論外です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 
 

戦争の時代3

 
  戦争の時代3
 
 
私は、戦争を経験していません。1954年生まれで、「戦争を知らない子供たち」の世代です。そして、年を取りました。それはもう、すっかり老人になりました。
 
私の父は熊本が本籍で、母は静岡がお里です。父母は日本人ですが、父は、今の韓国の仁川(インチョン)で生まれたそうです。そして、父と母は、ともに、中国の青島(チンタオ)の交通公社に勤めていて出会ったそうです。つまり、そういう時代に私の親は生きていました。不幸な戦争の時代です。
 
二人とも直接の戦闘には遭遇してはいないようですが、父と母は、別々に、引き上げ船で、大陸から日本に帰ってきました。私の両親は、日本が、朝鮮と中国を侵食していた時代から、戦中戦後を生きてきました。父は2003年に死にました。母は、今、介護付き老人ホームにいます。
 
だから、私は、子供の頃から、戦争のことや、戦後の酷いインフレや、貧しい暮らしの話などを、親から聞いていて、そのために、テレビの、戦争の特集や番組も、わりと見るほうだったと思います。
 
だから、政治家というのは、必要悪であり、基本的に、信じてはいけない人で、批判か皮肉か風刺の対象になることが多い人々という印象を持っていました。事実や報道は、多く、それを裏切らなかったような気がします。
 
 
しかし、現在、40代~それ以下の人々は、親も戦争を知らない世代であります。恐らく、親からも、戦争の話を聞いたことはないのではないかと思います。そして、明るく、元気で、活発なことばかり教えられているような気がします。悲劇が教訓となることを、ちゃんと教えられているでしょうか。
 
平和が、当たり前に続くもので、戦争は、遠い昔の話になっているような若い世代にとって、戦争は、活劇以上ではなくなっているのではないかと思うこともあります。実際、私なども、戦争を活劇のように、映画やテレビで見ていたのです。
 
上記の若い世代は、戦争を、殺人が日常的に起こる悲劇として見る視点を持っているでしょうか。SF、アニメ、ドラマ、映画、ヒーローもの、などと同じような、アクション、娯楽の視点で見ていたりしないでしょうか。
 
私が幼児から子供の頃は、ちょうど映画の「三丁目」の時代になります。子供のとき三輪車のミゼットを実際に見た記憶があります。月光仮面からウルトラマン裕次郎や、若大将の時代でもあり、その1950~60年代、私は子供で、ゴジラなど怪獣映画が大好きでした。
 
約77年前、私も生まれていない時代に、日本は、ほぼ廃墟となりました。僅か人の一生にも満たない時間のうちに、国が壊れ、国が変わったのです。また、逆方向に変わらないと誰が言えるでしょうか。
 
国民(人間)よりも国(観念)を大事にすると、そうなるのでしょう。歴史は繰り返すと言われ、また、歴史は繰り返すようで繰り返さないと言う人もいます。私は、歴史は繰り返さないが繰り返すように見えるところもあるなどとも思っています。
 
優しそうな顔で美辞麗句を語るだけの政治になっていないでしょうか。皮肉を言いますが、昔、プクチノジージツという鳥の鳴き声を聞きました。福祉の充実という選挙演説でした。福祉のことは、前にも後にも、その一言だけでした。言っとかなかきゃと?、ジージツ、、シジュウカラ?、始終空?
 
今の親世代は、いい言葉を、いい意味に受け取るように教えてはいないでしょうか。若い世代は、男女や人間関係の糸をどう絡ませ、どう解いてゆくか、という話に偏ってはいないでしょうか。美しい、正しい・・が、努力目標ではなく、無条件の前提になっていないでしょうか。
 
平和が前提となる真善美は、多くの犠牲と命懸けの歴史を通して、実現されるものです。
 
忘れれば忘れるほど、戦争の時代は、国民にとって未体験になって、悲劇的な事実の迫真性が欠けてゆき、威勢のいい活劇の声となって、大声で吹聴されてゆくでしょう。世界の目まぐるしい政治の変動によって、戦争をめぐる事情も目まぐるしく、世界では、いつも、戦争が実際に起こっています。
 
外国の戦争のニュースは、人がたくさん殺し合って、たくさん死ぬという、警察が役に立たない事態のニュースであります。警察より組織・結社・軍隊が物を言う時代かもしれません。
 
世界には、独裁、あるいは、それに近い政治体制が、相変わらず多いのです。我が国は3つの独裁国家と、海を隔てて、隣国であります。
 
自己中で身勝手な、妄想家、詭弁屋、偽善者、カルト、嘘吐き、詐欺師、などが闊歩しやすい時代は、無理が通りやすい時代であります。きれいごとで、だましたり、ごまかす者が生きやすく、真実の追求が滞ってゆく時代でもあります。それは、隠し事が、疫病のように蔓延する時代でもあるでしょう。
 
 
政治でも宗教でも思想でも、イデオロギーは、心の面倒を見ません。
 
イデオロギーの概念は、言葉を繰り返すことが主体となり、心が疎かになりやすいのです。言葉だけで分かったような気になってしまう教条主義なども同様です。
 
イデオロギー化すると、教条主義に似て、安易に言葉を覚えて思い込む方向に流れやすく、言葉の字面のみで固定されやすく、人間の心から乖離する固着と暴走の傾向を生みやすく、それで正しいと思い込みやすい傾向があります。つまり、イデオロギーは、自己正当化しやすいのです。
 
悪い時代が繰り返さないのは、悪い時代があったという認識が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、悪い時代にしないための警戒心が生きている間だけです。
 
悪い時代が繰り返されないのは、国民が、皆、具体的に政治活動をするのでなくても、国民が、安穏として油断すれば、国というものには、戦争に近づく危険性が常にあることを、それは知らないうちに進行するという可能性を、国民が、忘れないでいる間だけなのです。
 
 

       

              戦争の時代
 
 
(2020年)
(2021年)
(2022年09月22日、再録+加筆)
 
 
 
  未来電子国家
 
アイドルは要らなくなるだろう
顔・形はもちろん声だって
コンピューターで作れるようになる
しかもユーザーはソフトウェアを使って
さらに自分の好みに変えられる
人の感情の特性を分析して
ムードいっぱいのメロディの
作曲さえできるようになる
 
悪者たちは重要人物の情報を
写真や映像から手に入れて
実際にスキャンする以上に
本物に近似した虚像を作る
ある日突然
大国の大統領が
とんでもないスピーチを始める
電子クーデターの始まり
電子犯罪の進化だ
 
パソコンはなくなるだろう
通信速度が今の電話回線の
数百~千倍になれば
今のハードディスクと同じくらいだ
カードかボードのような端末だけになって
家の中では壁がスクリーン
テレビとディスプレイモニターを兼ねる
声やいろんな入力の仕方で
オンラインでリアルタイムで
出力されたり手に入ったりする
でもその恩恵にあずかれる人の方が
だんだん少なくなったら
しまいに戦争か?
電子と原始
 
 
  崩壊
 
荒れた道沿いの丘を走っていく
両手で抱えているのは黒い棒切れ
迷彩服は朝日に照らされて
丘の上これ以上狙いやすい的はあるまい
墨でも塗っているのか
黒人なのか
それとも焼け焦げているのか
黒い顔は眼だけがむき出しの形相で
崩れるように走っていく
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
昼の光の陰の通り
近寄って来て声をかけてくる
「@×~※〇÷#&▽=∞+?・・・」
何か尋ねているように聞こえるが
内容が聞き取れない
崩れるように近づいて
崩れるように何度も声を向ける
恥も外聞もないかのように
自らを投げ出している
わからない
よっぽどつらいことがあったんだろう
 
いっそ崩れてしまえば
本当は赤ん坊になって
胎児になって
宇宙か天空へでも帰りたいのだが
もうこんなに歳を経てしまった
黄昏の地平に砕かれて
粉々になってしまえば
黒い顔のまま倒れて
丘の下の草原へ転げ落ちてしまえば
@×~※〇÷#&▽=∞+?
投げ尽くしてしまえば
声が音になって
引き裂かれたあとの沈黙が
静けさになって引き裂かれたあとの
地獄が天国に・・・
 
そんなにも虚無を
求めるかのようでありながら
引き金のない銃に
空(から)の薬きょうを込めて
崩れかけた顔に
水の化粧をして
崩れかけた声に
塩素の泡を流して
目覚めれば今日も
自らに迷彩を施している
 
 
  地球の持ち物
 
人が地球の持ち物だったころ
責めは平等だった
人は弱かったから
恐れることを知っていた
 
人を持ち物にする人も
地球を持ち物にする人も
責めを負わねばならないはずだった
地球を所有する自由に
見合うだけの責任を
負いきれる者などいないこと
誰でもわかっているはずだった
いろいろ困ったことや
便利なことがあって止むを得ず
不可抗力の弁明は
そのまま人に返され
責めは引き渡される
今度は人の間で
私じゃない誰だ彼だと
人は人を特定して
持ち物のように捨てる
 
地球が人の持ち物というなら
決して特定できない相手から
人はどんなに強くても
恐ろしいことを知らされる
 
荒れた海に接吻は届かない
荒れた海は唇を震わせ顔を歪ませる
海岸線には累々と屍が並び
訪れた人は冷たい波のしぶきに
思い切り横っ面を叩かれる
手はしびれ
血管は縮み
心臓は止まる
 
焼いても焼いてもゴミの溜まる陸と
塞(ふさ)いでも塞いでも穴のあく空と
屍の打ち寄せる海から
生も死も知らない敵が
生も死も与えにやって来る
 
まだ訪れてはいない
不可抗力と言ってしまう結末を
和解と言い逃れの違いを
誰もが垣間見て知っている
それが我が身の未来なのか誰も知らない
 
吐いても吐いても毒の溜まる体から
海鳥の翼は生えてきて
アー、アー、と
なきながら群がって
ゴミの山に餌を求め
奇形の翼で墜落しては
上と下の合わない嘴(くちばし)でつついている
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
·10時間
帯を見て期待して読んだけど、『三四郎』を感じさせるのは、与次郎的なキャラがいることくらい。
全体の雰囲気は、書き手の自己陶酔、自意識過剰、気取りが、文章の表面ににじみ出ていて、延々、他人の自慢話を聞かされている気分にさせられる。→
午後7:57 · 2021年9月11日
https://twitter.com/komo266/status/1436645107160129536

 
ORの小説のことです。批判目的ではなく、「帯を見て期待して」読んだそうです。紹介文で持ち上げて、落とすやり方でしょうか。楽山の立場は、何でしょう、立場とかあるんでしょうか。アンチHSではなかったようです。人をあざむく者というのは、怖いです。
 
自己陶酔、自意識過剰、気取り、これは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の特徴ですが、楽山は、アンチどころか、ORにあこがれていたのではないかと思います。HSの幹部になりたかったのではないでしょうか。いや、自分が教組になりたくて、妬んでいるのでしょうか。
 
ちなみに、私は、楽山を批判するようになってからは、楽山の記事を「期待して」読んだことはなく、「期待して読んだ」と書いたこともないです。楽山は、人の心に、すぐには気づかないような、汚いシミをつけてゆく人です。正体を知ってからは、クズだと思っています。
 
楽山が自認しているキャラは、バランスのとれた人物、アンチカルト、常識あるアドバイザー、宗教に通じている人、・・というところでしょうか。これらを、全部、否定形にすると、楽山の本性が浮き彫りになります。偏見・非常識・無恥・無知・無反省・無責任が、大根役者の楽山なのです。
 
 
 
 私の信仰について、過去の記事より断片
 
キリスト者の正しさは、言動の正しさではありません。
 
キリスト者の正しさは、祈りと赦しが必要なほど切実な告白の正直さにあります。
 
すなわち、神の前に、キリストの御名によって祈る心得は、正しさではなく正直さであります。
 
神に背くような、人間としての弁えの鈍い者たちは、やたらと正しい立場を売りに出していますが、
私たち信仰者は、既に、自らが正しくないことを認めた人間であります。
 
そのような人間が、救いを求めるところは、豪語ではなく、礼儀ではなく、美辞麗句ではなく、世辞ではなく、思い込みではなく、ただ神に対してのみ、一途に正直であろうとすること。
 
そのただ一点においてのみ、救われる信仰者がいて、救い主がいるのです。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
こちらが、書かずにいると、楽山は、また、のぼせて書いてくるでしょう。楽山は、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)で、罪悪感がなく、物事の流れや筋道を組み立てることも、理解して弁えることも出来ません。平気で、刷り込みと印象操作の嘘と詭弁を、泡立てることでしょう。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 
 

煽動者楽山2

 
  煽動者楽山2
 
 「リチャード・ドーキンスbot」を見てみた。
 2021年09月12日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/30451658.html
   を改めて批判。
 
 
「見てみた」と軽く読書をして、無神教カルトの学者らしい人を、べた褒めする楽山の記事です。大袈裟に賛同するだけで、何の洞察力も直観力も理路もない楽山の稚拙な筆致と貧相な中身を見てほしいと思います。自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)の暗夜を徘徊する楽山です。
 
 

ドーキンスの名言
リチャード・ドーキンスbot」を見ていたら、名言がたくさんあったので、自分なりの感想をメモしておきたいと思う。
*超越者としての神

もし神が存在したとしても、それはどんな宗教のどんな神学者が提唱してきたどんなものよりも、はるかに巨大で、はるかに理解しがたい存在だろう。
 」
これはまったくその通り。神は人を超えた存在であるなら、人の思念の外にはみ出しており、その全体像はおろか、一部でさえも認識するのは困難だろう。

 
神の不可知と不思議は、当たり前のことです。何人も、神をこの世の事物のように対象には出来ません。人間に、さらに、楽山ごときに、分かる存在ではないのです。だから信じないのなら、黙っておればよいのに、欲求不満と自尊過大から、文句ばかり言っているのが楽山であります。
 
楽山は、神に会うこともなく、神を感じることもないでしょう。いくら、楽山が、自然の驚異や超常話で、神を語ったことにしようとしても、この2年半、全く、罪を認めず、敬虔も皆無なのは、神を知るための感受性がないということだから、何を言っても無駄なのです。
 
楽山には、宗教など語らず、それよりも、小学校の道徳を身に着けてほしいです。そこが、無反省・無責任のために出来ていないから、今も、厚かましく口出しをするわけでしょう。楽山は、書くたびに外れ、書くたびに醜く、書くたびに知能が低下してゆくようです。
 
神は不可知ということをもって、単純に短絡して、神を否定したい楽山ですが、この主張こそが、信じて、仰ぐ、という希望のスタンスを、全く、理解できない証拠として、これからも、無神教カルトの醜態は続くのでしょう。
 
 

*旧約の神

旧約聖書』の神は、おそらく間違いなく、あらゆるフィクションのなかでもっとも不愉快な登場人物である…血に飢え、民族浄化をおこなった人間。女嫌い、ホモ嫌い、人種差別主義者、幼児殺し、大虐殺者、実子殺し、悪疫を引き起こし、誇大妄想で、サドマゾ趣味で、気まぐれな悪さをする弱い者いじめだ
 」
自分の第一印象も大体このようなものだった。旧約の神は、当時の絶対権力をもった王様がモデルになっているという指摘も、さもありなんと思える。

 
自らの不遇を、あらゆる災難を、神のせいにばかりする人もいるんですね。実際は、歴史の悲劇も、昔の物語も、皆、人のわざを見たからこそ書かれているのです。これを、不愉快だというのは、自分の不完全さも罪も欠点も、何も見ないで、他者を責めるような人物だと思います。
 
 

ただ自分は繰り返し聖書を読むうちに、神は人に何度裏切られても、その度にゆるし続けていることに気付かされ、その慈悲深さに涙がこぼれる思いをしたことがあるので、旧約の神を峻厳だが人を慈しむ存在だと信じる人がいたとしても、その気持ちは理解できなくもない。

 
「ゆるし続けて」「慈悲深さに涙がこぼれる」・・これは、楽山の自己正当化の嘘だと思います。楽山の涙を信用してはいけません。もはや、楽山が書いても、あざ笑いの履歴から、全く信用できなくなってしまっているところの、感動とか涙とかいう大根役者の大袈裟なセリフなのです。
 
昔も今も、信仰者にとって、神は、この世の成り行きを支配する御方として、その全能の権威を恐れ、罪深く病んでもいる人間に共感するキリストとして、その救い主の慈しみに癒され、ゆえに、祈り、人間らしい共感という愛の、同伴にに支えられて生きる恵みであります。
 
 

*神様いろいろ

ありえそうにない話ではあるが、もし仮に死後に神に会ったとしら、最初に私が尋ねるのは、そうだね、「あなたはどの神さんですか?」ということだろうね
 」
これは笑える。巷には各宗教の神々はもちろん、神を自称する人々も無数にいて、神様のおしくらまんじゅう状態であることを思えば、こういう挨拶もやむなしだ。
とある人は「石を投げれば神様に当たる」と言っていたけれども、これは至言だ。

 
神を自称する人と、神は違います。楽山のように神を笑う人と、信仰者も違います。楽山が、いくら石を投げても、当たるのは、楽山が妄想している偽物の紙細工だけであります。神を、十把一絡げにして遊んでいる楽山は、やがて、紙屑になるだけだからです。
 
楽山は、その思念の中で、自分独りで、おしくらまんじゅうをしているのです。それで、神がどうのと言うのだから、全く話になりません。神の大安売りをしている楽山には、決して、関わらないでください。楽山というペテン師の安物の伝道者気取りの被害に遭わないように。
 
 

*個人的な体験による神の存在証明

個人的な体験をもとにした論証は、神の存在を証明できると主張する人々にとって、最も説得力のある証明である。しかし、そうでない人にとって、そして心理学をよく知っている人間にとっては、最も説得力のないものである
 」
かつて自分が所属していた宗教団体でも、大体このような論法がされていた。信者が語る奇跡体験によって、「神の存在が証明された」「この宗教が本物であることが証明された」と結論づけるわけである。

 
心理学は、基本的に、神については語らない、そして、語れないと思います。全く分野の違うところから、神について語る者を信用してはいけないです。心理学の心理は、あくまで、人間の心理であります。まさか、心理と真理をごっちゃにしようというような安い詭弁ではないでしょうね。
 
個人の人生の必要と、個人の妄想的な思い込みを、ごっちゃにしている楽山の詭弁です。信仰を必要とする人は、神がいかに不可知でも、神を信じ仰ぐしかありません。そういう信仰者を、根こそぎ否定するのが、楽山であり、この者からは、何の助言も考察も真実も生まれることはありません。
 
 

人の記憶は書き換えられることがあるだとか、人は関係ない二つ以上のものを結びつけて因果関係があると思い込んだり、偶然にすぎない事柄にも自己流の意味を見出そうとする癖があるということにはまったく注意を払うことなく、自分の実感を最優先にして結論を出し宗教的喜悦に浸っていたのだ。
自分は心理学のことはよく知らないのではあるが、上のような信者の主張を聞く度に、その自我の強固さと、そのことに対する無自覚さに圧倒される思いがする。

 
人の記憶が書き換えられることがあっても、楽山の妄想は病理なので消えることがありません。これからも糞尿のように気色の悪い妄想的断定をしてくるでしょう。事実の意味付け、宗教的喜悦、自我の強固さ、無自覚さ、などは、皆、楽山において、訂正不能に強烈です。
 
「心理学のことはよく知らない」・・楽山は、何を知っているつもりで、図々しく書いてきたのでしょう。「自我の強固さと、そのことに対する無自覚さ」・・また人のことを言って、自己愛妄想の自分を見ない楽山です。またブーメランなのです。強固というより訂正不能なのが楽山です。
 
 

*おまけ
「新無神論bot」では、ドーキンスのこんな言葉が紹介している。

無神論】我々は、かつて人類が信じてきたほとんどの神々について無神論者である。一部の人間はその信仰しない神が一つ多いだけだ―リチャード・ドーキンス
 」
これはたしかにその通りだ。無神論は悪とする人であっても、自分が信ずる宗教以外に対しては無神論者になっているものだ。

 
まず本質的に、どの神も信仰する宗教はありません。ここでは、神という名で、みんないっしょや・・とばかり、同質であるかのように扱っていることが、悪意ある詭弁であり、全く理路の欠片もなく、人間としての分別もない楽山の高い病害性と犯罪性の証拠となっています。
 
 

唯一の神は信じるが、その他の神々は信じないという者と、すべての神々を信じないという者とは、信じない神が一つ多いか少ないかということだけ…。この違いは大きいとするか小さいとするかは人それぞれであろうが、自分にはどうも後者のように感じられる。

 
楽山は、神を知らないので、恐ろしいことに、神を、物を数えるように、数えています。どの宗教についても勉強しない者が、黙する分別を持たず、偉そうに書いて、人それぞれの詭弁で、視野の狭小を、ごまかしています。見識皆無の証拠です。だから、神々という言葉が便利なのでしょう。
 
唯一神という言葉を書いておきながら、楽山は、「その他の神々」と言って、無理解を明らかにしています。万事こういう感じです。これで、キリスト教についてクレームを書いてくる身の程知らずなのです。楽山は、個人の信仰という視点が全くなくて、普通名詞で神を扱っているのです。
 
通名詞で語るなら、楽山が、神と言うとき、それは、神ではないということです。神について、楽山は、何も語っていないということです。それを混乱させるのが楽山の悪だくみです。楽山は、ずっと、書くたびに嘘吐きなのだから、永久に物を言わなくなってほしいと思います。
 
信じないなら、信じなくて結構ですが、ならば、神も、信仰も、知らないということだから、実感も共感もないのです。そこから、知ってるつもりで神を云々することは、絵空事に悪意を含ませて、高く売りつけるような筋違いも甚だしいペテンです。
 
神を必要としないなら、信じる必要もありません。ゆえに、その人は、信仰の世界を知りません。だから、楽山が、必要としない存在について、知りもしないのに、即ち感受も理解もしていないのに、とやかく語ろうとするのは、児戯にも値せず、醜い自己顕示欲以外の何ものでもないのです。
 
 
(著者ドーキンスの笑った顔の写真、省略)

それはそうと、この画像はちょっと怖い。ハンサムな人だし、もっといい写真を使えばいいのに…。

 
酒でも飲んでいるのか、あざ笑っている悪魔のような顔にも見えてきます。楽山は、同じように笑っても、ぼんやりしているだけのような気がします。自分の顔を持たず、何も書けないものだから、また、他者の口を利用しているのが、卑怯で腰抜けの楽山です。
 
楽山は、自己愛性パーソナリティ障害NPD(自己愛性人格障害)という病質によって、心の共感性がないのでしょう。だから、ホラーや超常などの話をたくさん書いて代償しているつもりですが、信仰は、心に受け取る賜物ですから、いくら書いても的が外れてしまうのは当然なのです。
 
楽山には、そういう不全の自覚がなく、自己顕示欲だけがあるために、ハナタカに書けば書くほど、顎が外れ、デタラメとなり、インチキとなり、害毒となり、迷惑となり、真実をけがすことになります。即ち、様になっていないのに、分かったふりをする、まさに、貧相な裸の王様なのです。
 
 
神を決めつけるのはキリスト教系カルトです。
 
神の不在を決めつけるのは無神教カルトです。
 
キリスト信仰は、個人の唯一の希望の同伴と信じて、神に祈り、キリストを愛することです。
 
 

       

           笑っても怒っても締まりのない心
 
 
(2021年)
(2022年09月21日、再録+加筆)
 
 
 
キーワード:卑怯
 
 
  夜の向こう岸
 
死者たちに見られているような
影の卑怯な歪(いびつ)さは
深まり広がる陰の暗さに
昇り沈む星々を隠されて
夜の彼岸に近くなる紫の顔や肢体のようでもあり
血まみれの上半身のようでもあり
それなのに一方で
やさしい顔で見守り
守ってくれてさえいるような
彼岸の人たちは総て知っているのに
招いているのか呼んでいるのか
拒んでいるのか憎んでいるのか
視(み)てさえいないのか
此岸(しがん)は何も教えてはくれない
ただそんなとき
管に詰まった結石が
管を切り裂きながら
内部から飛び出して
転がって小さく
もっと低く小さいところから
完璧な出血を
乞いたがっているような
寄る岸のない疼(うず)きのうちに
やがて沈まない北の星が
空に沈んでゆく頃
死者たちが見ていてもいなくても
誰がいてもいなくなっても
影は別の日の
汗に濡れている
 
 
  遠ざかるもの
 
遠ざかるものに呼びかけてはいないか
危うきものよ
あるいは君子でござるよ
君子が近寄らないのを
引き寄せようと焦ってはいないか
自業自得の危うさを
誰かの所為(せい)にしてはいないか
あるいは流れ
避けられぬ移ろいでござるよ
寒い朝と夜に震える間も
危うきものよ
森も山もこれから
枯れて華やかに色づくというに
一枚の落ち葉のゆえに
卑怯にも
遠ざかるものに呼びかけてはいないか
近づくものから逃げようとしてはいないか
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山には、真の仲間はいませんが、言葉だけ勝手に引用する対象は多いのです。有名人でも、お構いなしに利用してきます。こういう節操のない態度で、宗教を語れば、荒らしレベルにしかならず、卑怯と非人間性を自ら証明しているようなものだと、楽山だけは気づかないようです。
 
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
毒親マイコンとは違うけど、
宗教の信者をやってた頃は、何に対しても「教祖はどう思うだろう」「これは悪霊の惑わしではないか」などと考えてました。
今は、退会して何年も経ってるから、もうそんなことはないけど…。
やっぱ、あれがマイコンだったんだな。こわっ😱
>>
穂野香
@TzGGYiSkTO0OkFO
9月18日
毒親のマインドコントロールが解けているかどうかが一番わかりやすいのは自分の【思考癖】だと思います。私の場合、何かあると『母がどう思うだろう…』と真っ先に考えます。自分の気持ちより無意識に母が優先になっているのです(>_<")↓
<<
午後9:38 · 2022年9月19日
https://twitter.com/komo266/status/1571841082157314049

 
毒親のような刷り込みでマインドコントロールの記事を書いている楽山が「毒親マイコン」について書いています。「教祖はどう思うだろう」・・楽山こそ教祖願望の人です。「これは悪霊の惑わしではないか」・・楽山は悪霊の惑わしのようなことをする詭弁屋です。「こわっ」・・嘘です。
 
いかなる罪の責任も、まるで被害者であるかのような立場で語って、自己の正当をアピールする楽山です。自己愛病質というのは、ここまで、悪意に満ちてくるのです。意識も無意識もなく、病魔が顔を出してきます。また嘘を吐いた、という、いつものことで、赦されることはないのです。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 
 

楽山の毒満ちる魔性3

 
  楽山の毒満ちる魔性3
 
 人のためにできること(シルバー・バーチの霊訓)
 2020年09月01日
 http://mn266z.blog.jp/archives/26099092.html
  改めて批判。
 
 
楽山は、反省や修正をする代わりに、ボンヤリ言語とトホホ言語の、きれいごとを書いてきます。楽山がしてきたことは、嘘と詭弁で、無責任に、人の時間を奪うことです。楽山は、結局、憎まれること以外の結果を受け取ることはないでしょう。
 
こういう種類の偽善者は、楽山やシャロームなどの易坊類以外には知りませんが、ネットにはそういう悪意によって遊んでいる者も結構いるということでしょう。荒らしと同様だと思います。楽山は自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)です。
 
それを何とも思わずに、やさしさ芝居を演じている自己中の大根役者ですから、何の影響も受けないでください。批判以外の目的で、好意的に関われば、無駄に病的な疲労だけが重なることになります。楽山は、訂正不能の病的ナルシストなのです。
 
楽山が、人のために出来ることは、何も書かないこと、何も言わないことです。何事もなかったかのように書いて満悦している姿は、人間とは思えません。楽山に対しては、好き勝手な物言いが出来ないように、浮き上がらせ、アンチ楽山の言論をもって、取り囲む以外にないと思っています。
 
 

*人のためにできること
 『シルバー・バーチの霊訓』を読んでいたら、いい言葉があったのでメモ。

地上世界はいま他人のためになる行為なら何でも必要としております。何でもよろしい。自分でこれならできると思われることをやり始めることです。すると道が開け、進むにつれてどんどん広がって行くものです。
(『シルバー・バーチの霊訓(二)』シルビア・バーバネル編、近藤千雄訳、潮文社、昭和60年、p.59)
 」
人のためになることをする。大きなことでなくても、小さなことでいい。自分のできることをする…。
元気旺盛だと、大きなことをしようとしたり、背伸びしたりしがちだけども、まずは、できることからはじめるというのはすごく正論だ。
近頃は、「ささやかだけど、大切なこと」という言葉がすきなせいか、こういう考え方は心にしみる。

 
楽山は、宗教、政治思想、カルト批判など、大きなテーマで、好き勝手に書いてきたくせに、今回は、「人のために出来ること」「心にしみる」などと、子供だましのような、きれいごとを書いています。今まで見てきて、楽山には、心にもないことです。
 
それが通ると、それでごまかせると、思っているのでしょうか。いっそう、闇を深くする楽山です。今までのことを何も訂正も反省もせずに、こういうことを書いてくるのは、魔性だけが動いているとしか思えません。「すごく正論だ」「心にしみる」・・空っぽだから月並みな褒め言葉しかありません。
 
「「ささやかだけど、大切なこと」という言葉がすき」などと、よく書けるものです。楽山の言は、ますます、催吐剤の作用しか持たないような、白々しい三文芝居となっています。執拗に書けば書くほど、楽山は満悦し、読者は、毒を食らうことになります。
 
褒め言葉と、きれいごとを、書けば、それが、そのまま受け入れられると思っているらしい楽山の、毒満ちる悪魔性だと思います。背筋が寒くなるようなホラーです。つまり、言論者としては、幼稚すぎるのです。それで、自己中なら見るべきものはありません。
 
言葉と人間について、何も分かっていない者が、なおも、心にもない教訓?を書いています。そこに自己満悦しているのは、破滅的です。大嘘吐きという印象が強められてゆきます。
 
 

*組織にはこだわらない
人のためになることをしようとするとき、特定の組織に属して行う場合もあろうが、このアドヴァイスからすると、そうすることを求められる人もいれば、求められない人もいるようだ。

あなたの場合は特定の組織内での仕事よりは、もっと広い範囲に向けるべきでしょう。
(同上p.64)
 」
「組織の歯車になるな」「人につかず、組織につかず、法につけ」というけれども、人間社会にいるかぎりは、なんらかの組織、集団に属しないというのは難しいものだ。
でも、時にはそこから出る勇気も必要なのだろう。自分もそのような勇気を持ちたいと思う。

 
組織が必要だというようなことを書いて、そのあとに、出る勇気も必要などと、白々しく、どっちつかずのことを書いて、平気でいるのが、楽山の筆致であり、楽山の言葉の世界です。どこにも、真実の主張がないのです。「勇気を持ちたい」・・楽山にあるのは悪意だけです。
 
 

『シルバー・バーチの霊訓』は、ややこしい形而上学的な議論ばかりでなく、心の教えをやさしく説いているから、それを読んでいるだけでも心が温かくなっていい。

 
(ネットより)
形而上学(けいじじょうがく、希: Μεταφυσική、羅: Metaphysica、英: Metaphysics、仏: métaphysique、独: Metaphysik)は、感覚ないし経験を超え出でた世界を真実在とし、その世界の普遍的な原理について理性(延いてはロゴス)的な思惟によって認識しようとする学問ないし哲学の一分野である[1][2][3]。世界の根本的な成り立ちの理由(世界の根因)や、物や人間の存在の理由や意味など、感覚を超絶したものについて考える[4]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E8%80%8C%E4%B8%8A%E5%AD%A6
 
子供だましの、小さな親切みたいなことを書いたかと思ったら、今度は、"形而上学" だそうです。哲学用語ですが、楽山は、以前、心理学の「心の理論」さえ、誤解~曲解して、インチキな心霊の話にして満悦していたのです。楽山の理性は妄想的であります。
 
形而上、即ち、形を持っていない世界を、楽山は、少しも知りえないと思います。楽山の頭脳は、形而下の字面の世界でしかないことが、明らかになってきたからです。ということは、どうやら、楽山は、これからも、まだ、精神の詐欺を続けるつもりのようです。
 
やさしいことから難しい学問まで、自分は分かるんだというアピール、即ち、全能アピールでしょうか。字面だけで、整えようとする悪だくみが、見え見えです。実質は何もありません。だいいち、楽山は、理性を促す情性が欠如しているのです。
 
「心が温かくなって」・・この白々しい文言とは裏腹に、温もりと潤いを失った人間像の典型を表してきたのが楽山です。今までと同じように、楽山は、温もり、という字面だけを書いて満悦しています。こういうのは、精神の詐欺行為と言ってよいものです。
 
楽山は、本質的に、人間の心を持たない冷血漢です。その分、言葉の薄い表面だけを、やたら貼り付けて、厚く重ねて、ごまかしてくるので、注意してください。こういうことが、かえって、楽山の情性欠如者としての症状として、これからも表れてくるでしょう。
 
楽山は、人格が発達不全の上に、無反省によって自分で自分を鈍麻させて破壊してゆく人格のモデルであり、さらに、最も重大な問題として、他者の人格を破壊する人のモデルです。楽山が、人のためにするべきことは、公共においては何も言わないことです。
 
反省もせず、自己愛に凝り固まって、言論の責任を負わない者に、言論の自由はありません。毒満ちる魔性の楽山に、誰も惑わされることのありませぬように。祈っています。拝。
 
 

      

               嘘を垂れ流す
 
 
(2021年)
(2022年09月20日、再録+加筆)
 
 
 
  潰瘍
 
手遅れの落花に目盛りを誤り
紙コップにビール注がれ
潰瘍の胃袋炭酸の重みに耐えず
発酵の流れ歯石のうちに語る
葉桜の下疝痛に舞え
充血の嘔吐の結膜
石鹸の剥離を繰り返し
乱脈の破砕の終末
タイル張りの手首を引き
酔い痴れて薄墨の彗星を探し
とても希薄な泡沫に帰すと
 
 
  毒満ちる眼(まなこ)
 
怨の妙法聖櫃に座す
臨死の刹那四方(よも)を眺む
未開の熱未だ暁光の内に在り
紫衣の薄明に降ること頻りと
煩悩疾駆して頚骨を砕く
飢えよ饐(す)えよ地に果てよ
疼痛過ぎて覚醒に及ばず
頭蓋窩に寄する烈火の華(はな)
唯(ただ)流る水銀の涙
毒満ちる眼の裏
 
 
  呪いの丘
 
晴れた日の光をいっぱいに浴びて
洗礼を受けたばかりの若者が
翌日落雷に打たれて死んだ
しばらくは指が動いていたという
つり上がった目が空をにらんでいたという
 
彼が死んだその丘は
その後長きにわたって呪いの丘とされ
ある者は悪魔を恐れるように神を恐れ
ある者は笑いながら
あるいは泣きながら歩み去った
 
人々は
その事件について口にするのをはばかり
最初たてられた十字架は
何者かによって倒された
 
誰も訪れることのない
その丘に
血まみれのキリストだけが
息もたえだえに祈りを捧げている
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 

心機一転★こも楽山
@komo266
余談ながら、唯一絶対神については、自分が最近読んだ本では、当時の専制君主、独裁者などがモデルになってるとしてた。
そういわれてみれば、絶対服従を求めたり、敵の虐殺命令をくだしたりするところは、両者に共通するし、これも一理あると思う。
午後9:49 · 2021年9月10日
https://twitter.com/komo266/status/1436310752118198276

 
神を、人間の専制君主や独裁者と混同して、おとしめる楽山の企みです。神と人の違いを弁えない無知の怖さを感じます。絶対服従を求めるとか虐殺命令とかは、人からしか出てきません。加えて、欺きもペテンも、楽山のような無理やりな悪意の人からしか出てきません。
 
楽山は、神に、絶対服従を求められたり、虐殺命令をくだされたりしたのでしょうか。だとしたら、幻覚か妄想ですので、一切の発言をやめて、療養するべきです。全く、神と人の区別も出来ない宗教マニアというのは、しばしば著しく無分別で危険です。
 
神が、人に何を求めているかは、信仰者の人生によって違うでしょうし、はっきりしているわけでもないし、ましてや、楽山がやっているように一般化してしまうなどは決して出来ません。書くたびに、無知と無恥の弊害をまき散らしている愚劣な楽山です。
 
一日も早く、楽山のように、腐った主張の無理を恥ずかしげもなく排泄してくる輩が、いなくなることこそ望ましく、それは、トイレ掃除のようなものになるでしょう。楽山の欲求不満は、もはや、あらゆる悪臭にもまして、便器の汚れたヌルヌル状態であり、最悪の不浄であり不潔であります。
 
 
 
  楽山の偽善性まとめメモ
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
偏執。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
形骸。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
無反省で無責任が体質ということは、批判を受け取らないということであり、それで批判されなくなると、悦んで、何も気にせずに、何事も無かったかのように、平気で、見た目、明るく、白々しく、ヘラヘラと書いてくるということです。即ち、似たような嘘と詭弁で刷り込んでくるということです。
 
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
ベジータからプライドを奪ったら、角を矯めて牛を殺すことになりそうだけどね。
プライドには直すべきものもあるだろうけど、個性として尊重すべきものもあると思う。
引用ツイート
大川隆法【公式】本日の格言
@hs_word
 · 
9月17日
【プライドの角を矯(た)める】信じ合う心を弱めるものは何であるかというと、各人の個我、個我のプライドです。
プライドの角が出すぎるがために、共に相和していくことができなくなっていくのです。
その事実に気がついたときに、プライドの角を矯(... https://ryuho-okawa.org/quotes/20220917 #大川隆法
午前7:43 · 2022年9月18日
·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1571268539675475968

 
根拠のない歪(いびつ)なプライドだけで、チクチク刺してくる評論家気取りの楽山のような者もいます。楽山のプライドは、「個性として尊重すべきもの」ではなく、根拠のない優越妄想、そして、白々しい嘘と詭弁となって、嘘を垂れ流しながら、平気で人を傷つけ疲れさせて、満悦するのです。
 
楽山のような人が、病識も罪悪感もなく、自他を、雑言によって摩滅させ、消耗する相手を見て悦に入り、勝ったつもりになります。楽山は、そのような、ウソ~クソの国に住んでいるのですが、結局は、支離滅裂になって、それを取り繕おうとして、さらに混乱して、人格崩壊に至るでしょう。
 
 

★こも/楽山日記3さんがリツイートしました
柳本伸良@物書き牧師
@yagiyomogi
「宗教」と「宗教カルト」の違いは、金銭的・身体的・精神的被害をもたらす反社会的な集団かどうかです。①それらの被害が複数報告され、②刑事裁判や民事裁判が複数起こされ、③被害者の会が存在する……という宗教団体は、ほぼ「破壊的カルト」と言って差し支えありません。
午前7:49 · 2022年9月19日
https://twitter.com/yagiyomogi/status/1571632560106799104

 
楽山は、アンチのように見せかけた無神教カルトです。嘘と詭弁で騙すことは、少なくとも、精神的被害をもたらします。何も分からない人だと気づいたときの、徒労感と精神疲労は相当な被害であります。それをせずに放置すれば教祖願望からカルト集団~組織になる恐れがあります。
 
「被害が複数報告」「刑事裁判や民事裁判が複数」「被害者の会が存在」・・これは、一定の規模を持つ組織となった場合の闘い方で裁判に必要なことでしょう。その前の段階で気づいた場合、批判する意欲と適性のある人が個別に批判することが必要です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 
 

詳細不明の楽山

 
  詳細不明の楽山
 
 『「人間」らしさの構造』渡部昇一
 2022年09月18日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/34180165.html
   を批判。
 
自己実現について書いています。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の楽山が自己実現するなら、恐ろしいことになります。自己中が自己実現するなら、妄想世界か犯罪にしかならないからです。楽山に必要な自己は、檻の中にしかないと思っています。
 
「頑張ろうという気分になることができるのはよい」「人の心を元気にする良書だ」・・相変わらず、月並みな褒め言葉です。あとは、記憶違いの話が、半分以上で、合わせても短く、中身が、極端に貧困な記事になっています。書いて発表できることに呆れます。加筆する気なのでしょうか。
 
 

*元気が出る本
 本書では、生きがいとは自己実現であり、そのためにはまず内なる声に耳を傾けることが肝要だとしつつ、これを実践して生きがいを見つけ、自己実現を成し遂げ、幸福になった例を数多く紹介している。

 
楽山が自己実現を語るとき、それは、自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)の欲望を表すことになるので、信頼度はゼロです。どうか騙されないでください。楽山は、無反省、無責任の、嘘と詭弁で書いて、人を丁寧語で、たらしこむペテン師です。
 
そういう人だから何を言われても書いてくるのです。罪悪感がないのです。楽山と付き合えば、それで楽山は悦に入り、受け容れた人は精神を破壊されるでしょう。何の罪悪感も感じていないからこそ、3年以上批判されても、平気で書いてくるのです。書くほどに醜い楽山ですが、自覚は皆無です。
 
 

現実はそう甘くはなく、誰もが本書の事例のように成功できるとは限らないだろうが、それはそれとして本書を読めば自分も内なる声に耳を傾け、頑張ろうという気分になることができるのはよい。これは人の心を元気にする良書だと思う。

 
「それはそれとして」という、とても、いい加減な言い回しを見逃さないでください。書くことが面倒くさくなっているのでしょう。ならば書かなければいいのに、病質のために、書かずにおれないのです。そうして、恐らく、一生涯を、他者に迷惑をかけることに費やしてゆくのでしょう。
 
楽山は、頑張ったことはないと思います。頑張って整っている芝居だけを覚えてきたのです。だから「頑張ろうという気分になることができるのはよい」などと平気で書いてきます。「人の心を元気にする」ことは、楽山には出来ません。病質のために、思いやる能力がないからです。
 
だから、平気で、自分の罪を自覚しないまま、勧めたり、アドバイスみたいなことを言ったりできるのです。他者がどうなろうと、完全に無関心でいられるという一種の感情鈍麻であり、その流れで、自己正当化はしても、罪悪感は感じず、反省も後悔もしません。厚顔無恥の典型でもあります。
 
 

*記憶違い?
ところで、久方ぶりに本書を再読してみて、なにやら自分はしょうもない記憶違いをしていたような気がしてきた。
これまでは、「内なる声を聞け」という教訓はスピリチュアリズムの本で知ったとばかり思っていたのだが、もしかしたらそれは記憶違いで、実際は本書で知ったのかもしれない気がしてきたのだ。本書で「内なる声」について何度も何度も繰り返し言及しているのを読んでいたら、そう思わないではいられなくなってきたのだ。

 
楽山は、内なる声を聴くことはありません。内なる罪を自覚しない者が、内なる声に耳を傾けることはないのです。自分を上において、人に、下を眺めるように、アドバイスするスタンスは、実に、身の毛のよだつホラーと言ってよいでしょう。楽山は、スピリチュアルでも何でもない、欲望の動物です。
 
 

「内なる声」の大切さについては、スピリチュアリズムの本でも、本書でも、どちらでも説かれているから、はじめにどちらで読んだかはどうでもいいことではあるが、今回再読するまで本書のことはすっかり忘れてしまっていたのにはいささか動揺せずにはいられない。やはり再読は大事だと改めて思った次第である。

 
楽山には何の関係もない「内なる声」について、楽山は知っているかのような嘘を吐いています。何度、本を読んでも同じだと思います。内省の一つもしたことはないのです。それをごまかすために、反省芝居や、読書家気取りで、自尊過大の醜い自我を表してゆきます。もはや人間ではない者の所業です。
 
この読書感想文も、詳細不明です。この短い記事で、楽山は、何が言えたと思うのでしょう。書いたから伝わったと思い込むのでしょうか。楽山は、独り、自我の妄想部屋に棲んで、発信だけは続けていて、その発信は、本人にも、他者にも、何の参考にも糧(かて)にもなりません。よく平気でいられる。
 
 

      

          寒いのは 書いたことにする詳細不明
 
 
(2022年09月19日)
 
 
 
  ウソの国
 
男は登っていく
深夜の階段を
息せき切って走っていく
走らねばならないのだ
走らねばならない
遅れてはならない
遅れてはならない
 
遅れた
男は人前に連れ出され
何人もの男から
したたか腹を殴られたが
痛みはなかった
 
夕暮れの街を歩いていく
人々は夕闇と過去に追われながら
すでに死んだ油の眼で
われにもない毒の顔をさらして
ネオンの間から間へ
苦しい巡礼を始める
あぁ この七色の 肉色の
光のおりが天国とは
拳を握りしめて
「何もない」
「何もない」と
壁に向かって叫び続ける男
誰もいない街角に向かって
手を振り続ける女
眼を振り続ける人々
通り過ぎる車が
水たまりをはねて
尻が濡れた
時が引き裂かれた
青春と人情の墓場から抜け出し
人通りの少ない路地で
恋人に声をかける
お茶でも?
あいされたいわ たれからも
 
吐物をまき散らしながら
男は逃げる
転びそうになりながら
 
幾分か小高い丘に
塀のある幼稚園があった
数人の子供が砂場で遊んでいる
ジャングルジムがある
子供たちが登れるようになると
外が見えるようになるわけだ
 
男は登ってみる
もう吐き気はしない
尻のあたりの濡れた感触もない
男はようやく安んじて眺めている
人っ子一人いない街の風景を
 
あたりはもうすっかり明るい
 
 
  ありがとう
 
誰も読まない詩を綴り
誰も理解しない文章を書き
誰も聞かない歌を詠み
誰にも伝わらないもどかしさだけで
誰にも伝えられない痛々しさだけで
何を暗示したかったのだろう
寝起きの顔のまま
泥濘(ぬかるみ)の足取りで
伝わらないものか
伝わるものか
の足取りで 四角いポストに入れた
少し奥まで手を突っ込んで入れた
正直なつもりの
過ちを束ねて
この町の
ただ一度の一瞥にありがとう
そして帰ってゆく
自分の周りに
自分で作った格子窓から見るために
遠い国を
遠い国を
さようなら
 
四九八九、きゃんせる町、こどく市、もろはの県、ウソの国
 
 
「ウソの国」という言葉、結局は私が一生引きずっていく言葉・テーマなのではないかと思っている。
「天国はここにある、そこにあるというものではない。天国はあなたがたのただ中にある」という聖書の言葉がある。必ずしも天国との対比で考えてきたわけではないのだが、今のところ敢えて次のように言っておこう。
 
ウソの国はここにある、そこにあるというものではない。しかしわが身・わが心の内と外のいたるところにある。まずは自分の中に潜むウソを見つけることから、ウソの国への果てしない旅が始まる。私が考え、書いているところの、ウソの国は、神の国の、ネガなのかもしれない。
 
 
 
楽山の害毒メモ:
今までに表れてきたこと。これは、楽山に限らず、聖書においてキリストの敵となった宗教指導者や、世に数多いる偽善者の特徴でもあります。この世で最も迷惑な人の特徴です。楽山は無責任です。決して信用しないでください。
 
楽山は、1つのことを書いて、別の時には、それに反することを平気で書いてきます。そこで、反省、修正、というステップを書かず、あたかも最初から思っていたことのように書いてきます。自分に誤りを認めない自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)だからです。
 
人格:
自己愛が強く自己中である。
笑いと怒りしかなく、悲しみの情がない。
共感がなく、罪悪感がなく、反省しない。
自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)と思われる。
平気で嘘を吐く。様々な詭弁を弄して、柔和に見せかける。
深い情感がなく、共感性がない。相手が疲れるのを見て快感を得る。
後悔、反省、修正ができない。学習による成長がない。
罪悪感、羞恥心が見られない。サイコパスと思われる。
アドラー心理学の宣伝をしていた。自己中心である。
中身や実質のない形骸的精神機能しか持たない。
 
単細胞。
 
議論:
議論や交流が、表面的で、整わないし、できないし、元々する気もない。
相手の意見を受け取っていないので、反論、弁明が成り立っていない。
理路が常識的にも浅く、基本的に訂正不能である。理解力がない。
自分なりの堅実な理路を組み立てられない。
読書自慢。感想は平板で、独創性や深みがない。
様々な気取り。読書家気取り、評論家気取り、インテリ気取りなど。
分かっているという我執から離れられない。
非を指摘されると、逆に、こちらに当てはめて被害者面をする。
人を批判~誹謗中傷するが、その言葉で自分が斬られるブーメラン現象。
真面目に応答~議論すればするほど、病的な徒労感と疲労のみをもたらす。
ボンヤリ言語:語尾を濁し曖昧で婉曲的な言い方で、印象を刷り込もうとする。
トホホ言語:謙虚で弱いと思わせて悪意を隠すための嘘の芝居。
しばしば、自身への同意を期待して、見え透いた世辞を言う。
「反省。とほほ」などと書くが、不自然であり、前後で何も変わらないので嘘です。
騙して、言い分を詭弁や嘘で通そうとする、通っていると思い込む。
 
宗教:
反キリスト、反宗教。聖書およびキリスト信仰を、貶めてくる。
キリスト教とキリスト信仰を字面だけで云々し、理解していると思い込む。
HSを脱会したと言っているが、真実かどうか、疑わしい。
霊能者のつもりだが、それに見合う直観的洞察は皆無である。
 
楽山の書いた文章を、3年数か月のあいだ見てきた結果ですから、大きく変わることはないでしょう。これらについては、新しい情報によって、必要なら加筆し、繰り返し載せることになるでしょう。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
楽山の書く文章は、精神年齢に合ったものになってゆくような気がします。思考が長く続かないのかもしれません。ちょっと書いて、すぐ嫌になって、そこで結論とする癖がついてきたのでしょうか。意地を張って長い文章を書いたら、嘘と詭弁と無駄話の大安売りの大迷惑になるでしょう。
 
楽山のような無神教カルトは、神の奇跡と事実にばかりこだわって、神の御心やキリストの共感には不感であるため、キリスト信仰から大きく外れた宗教観を持ち、それによって、的外れに神を否定しています。それはもう、とても乱暴な話であり、心を持たない強欲な人間離れに過ぎません。
 
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
「謀略論に関心がある人」も、マイコンされやすいですね。
>>引用ツイート
紀藤正樹 MasakiKito
@masaki_kito
20時間
紀藤弁護士が教える「マインドコントロールされやすい人」の10項目 https://tokyo-sports.co.jp/entame/news/4446791/ 1)大学進学(2)新入社員(3)環境変化(4)新しいことにチャレンジしたい(5)社会に役に立つことがしたい(6)素直な性格(7)完璧主義(8)孤独(9)健康不安(10)マイコンに絶対かからないと思っている
<<
午前10:11 · 2022年9月18日
·Twitter Web App
https://twitter.com/komo266/status/1571305894583078913

 
注意してください。「謀略論に関心がある」楽山は、生業としてマインドコントロールしてくる人です。楽山は、仏様の心が分かるっぽい体験?から、霊能、謀略、右翼、無神教カルトに興味があるようで、そういう記事を書いてきました。しかし、読んで糧(かて)になる記事は一度も書いたことがありません。
 
楽山は、社会に役立つことがしたいのではなく、役立っているつもりかもしれません。実際は、有害な社会の敵です。霊能などに努力せずに到達しているつもりです。素直ではなく正反対のサイコパスです。完璧な自分を妄想しています。どこまでも病識も罪悪感もない人です。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html
 
 
 

楽山の余計な感想

 
  楽山の余計な感想
 
 『私の死亡記事』文藝春秋[編]
 2022年09月16日 楽山日記(LD)
 http://mn266z.blog.jp/archives/34163141.html
   を批判。
 
 
楽山は、短くて、上手とも思えず、深い考察もなく、なぜ、感想を公開するのでしょう。自己愛性人格障害(自己愛性パーソナリティ障害NPD)からの自己顕示欲によって、それが、まともだと、楽山には思えるのでしょうか。思考と意志の異常なのでしょうか。
 
いつものように「すごい」「すきだ」「考えさせるものがある」「さすがだ」で、独自の思想など、一言もありません。恥を知らなくなると、このように、短くて、粗雑な記事を書いてくるという例になります。楽山も、自分の死亡記事でも書きたいのでしょうか。
 
 

本書は著名人が自分自身の死亡記事を書くという企画によるもので、100人あまりが参加している。このような企画を思いついた編集者はすごい。

 
楽山は、永遠に生きるつもりでしょうか。自分自身の死亡記事を読んでも、楽山は自身の、記事にならないかもしれない死亡や、無名の死について考えることがないのでしょうか。深い心がないと、このような、乱暴で雑なことを、ぽろっと書くしか出来なくなるという例です。
 
 

ではその中身はどうかといえば、ざっと見たところでは、ほとんどの記事が自己の業績を事細かに並べ、意識が高く、幸福感に満ちており、いかにも著名人らしい文章となっている。そんな中で中野翠だけはたった二行の文章と墓の絵だけで済ませているのは微笑ましい。この方のユーモアと美意識はすきだ。

 
見れば本のようですが、「事細かに」・・細かだからなんだというのでしょう。「意識が高く」「幸福感」・・何が言いたいのでしょう。いったい何を伝えたいのでしょう。ゴシップ好きの、好事家の、趣味以上ではないところの、雑文を書いて、楽山は、どこに満足できるのでしょう。
 
 

死因については、老衰や病死としているものが多いが、安楽死としている人も少しいる。奥付を確認すると本書の出版は2000年10月となっているが、この頃はすでに延命治療を厭う空気はあったということだろう。ちなみに西部邁の「私の死亡記事」は老いと自死について記されており、さまざまに考えさせるものがある。

 
「さまざまに考えさせるものがある」・・どう考えたのでしょう。それを書かないで、ブログ記事になるのでしょうか。主題は何なのでしょう。楽山は、自分の死について書くのでしょうか。死なないと思っているのでしょうか。また、いつものように、高みから眺めるだけでしょうか。気色悪い。
 
 

最後に本書中でもっともおかしかった文章は、自分にとっては横尾忠則のものだった。それは死んで霊となった横尾忠則本人が霊言をするという体裁になっているのだが、「波動」「送信」「受信」というスピリチュアリズムの設定に則っているところはなかなかに芸が細かい。さすがだ。

 
「おかしかった」で「さすがだ」だそうです。楽山は、人の死に、おかしさを求めているのでしょうか。「霊」「霊言」「波動」とは、HS回帰でしょうか、それとも、スピリチュアル賛歌でしょうか。「芸が細かい」・・どこが細かいのでしょう。「さすがだ」・・どう、さすがなのでしょう。
 
身の程知らずのインテリ気取りの、楽山の、評論家気取りが、有名人について、ふつうやらない自分の死亡記事を書いたことを述べて、述べるだけの記事です。本一冊分を、ブログの薄く浅く短い記事一つで済ませて、何が言いたいかというと、自分の有名人気取りを表しているようなものです。
 
自己顕示欲が強いために、生について、特に死について、何も考えられない人なのでしょう。だから、他者の死についても、遊び道具にして、深刻味もなく、スパイスもなく、褒めたからええじゃろ・・という安易さになります。思いつきだけで、いつも、書いては捨ててゆく楽山です。
 
楽山には、自分の死亡記事は書けないと思います。病質のために、知性と感性がなく、つまり、理路と共感がなく、生も死も考察できないからです。いつまでも、偉くなる夢を見ているのでしょう。楽山の老後と死は、とても恥ずかしいものになるだろう、という予感しかありません。
 
いつもながらの、楽山の、小学生レベルの作文です。これで文章を書いたつもりでしょうか。何が言いたくて書いているのかが、全く不明です。何も求めておらず自己顕示欲だけで書くと、こうなる、という例です。3年以上見ていますが、何の魅力もなく、何のためにもならない駄文への誘導です。
 
騙されることのないように、楽山に、誰も関わらないでください。関わる価値はありません。楽山の自己満足なら、ノートに書いて、机にでもしまっておくべきです。それを見せて、さらには、嘘と詭弁で、誘導し、騙してくるから、楽山は、いつまでも、どこまでも、病質からの、悪質なペテン師なのです。
 
私は、過去に数か月遣り取りをして、こちらの発言を全く受け取れないことから批判に転じて、今に至っています。3年以上批判しても変わらないのは、自己愛性パーソナリティ障害NPDという病質だからです。本人だけが、それを理解できず、ヘラヘラと、正常人を気取って書いてくるのです。
 
この楽山の記事は、自分は読書家で書評もするのです・・ということを顕示したいのでしょう。騙すための世辞は言っても、共感力がない楽山の丁寧語に騙され続けると、楽山の文章に誘導されて、疲労して奴隷みたいになるか、人格が鈍麻して、それこそ、読む人が、おかしくされる恐れがあります。
 
 

        

               拙文の豆まき
 
 
(2022年09月18日)
 
 
 
  人間不信と手袋
 
誰も信じることができない
と君はいう
 
自分だけが頼りかと聞けば
その自分自身が
いちばん信じられないと君は言う
 
信じるに足る人がいるものかと
食ってかかる君がいる
 
君は限りなく零下へ凍りつくことで
冷たさを凌(しの)ごうとしている
冷たさにそれ以上の冷たさで
 
されど君よ
そういう冷たさに耐えるための手袋を
人は全く持っていないだろうか
 
信じるに足る人はいない
しかし逆に全身を任せるように
信じられることに
君は耐えられるだろうか
 
君が誰かを凍りつかせないために
資格のない不遜の礫(つぶて)だが
砕けることが出来るうちに投げておこう
 
絶対零度に人は耐えられないように
絶対孤独もあくまで離人の世界だ
 
氷結しているような孤独でも
人が温もりのゆえに苦しみ
冷たくなろうとすればするほど
冷たさに痛く赤く染まる頬があり
手袋で隠そうとするから
手袋で温(あたた)めている
 
そういう手袋は常に懐(ふところ)の奥に
はにかむように柔らかく用意され
出番が始まるのも終わるのも待っている
 
 
  千巌山・二
 
「血」の果てまで続く復讐
は神様に任せるとして
もう一度ぐらい
行ってみたい 千巌の
お山へ
絶筆かもしれぬ
老人会の落書きを見に
乱暴に刻まれた岩の
下手くそな相合い傘を呪いに
 
景色はしばらく眺めるだけにして
何も書かずに帰って来よう
いずれすべては消されるのだから
もう一度だけ行ってみたい
消えないのは感謝で
消えるのは悦(よろこ)びになる日
 
それぞれの孤独の上に
何も置かない
天と地の山へ
 
 
  氷の泡
 
氷の中の気泡である
身動きが取れない
殻を破ってあげようと
氷を割れば
消滅する
 
氷の中の気泡である
位置は分かるし
見えているようだが
見えるはずはないのである
気泡は空気なのである
 
氷にしたって
求めて取り込んだわけではない
氷は無色透明だ
 
気泡にしたって
望んで入り込んだわけではない
空気は無色透明だ
 
せいぜいできることといえば
出来上がる前の
水や温度と出会(でくわ)したときに
弱いものの常套手段だ
できるだけ小さく
できるだけ多く
できるだけ速く
できるだけ密に寄り添い合って
白い氷にしてやった
 
透かして見ることできないだろう
ざまあみろというわけである
 
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
地獄に堕ちるのが怖くて、やめたいけど、やめられないというのは本当につらいだろうな。
宗教は違うけど、自分もそういう恐怖心に悩んだことがあるから分かるよ。
>>
紀藤久保内弁護士「私たちはサタンではありません/私たちはあなた方の敵ではありません/家庭連合を離れてしまうと"地獄に落ちてしまう"そう信じてやめられない方がいるかもしれません/でも大丈夫です/家庭連合をやめて地獄に落ちた人はいません」霊感商法対策弁連が集会で呼びかけ
https://news.yahoo.co.jp/articles/210114c70b28d43746e98f43cc123b6610d5ee3c
<<
午前7:36 · 2022年9月17日
https://twitter.com/komo266/status/1570904537938145282

 
今は、すっかり、悪と偽善が身について感じなくなっていることを、楽山は、前は地獄に落ちるだろうと「恐怖心に悩んだ」が、今は、悩まなくなったと言っているのでしょうか。それこそ、罪悪感の欠如であり、自分の悪に気づいていない証拠になります。最近は、証拠になることが多い楽山です。
 
 

★こも/楽山日記3
@komo266
カルト教祖も、この流れになってるかも。
<<
じゅんご
@jungo_FanMarke
9月16日
嘘をつかれたら「信じてあげる」ことです。そうすると、もっと大きな嘘をついて自滅していきます。
<<
午後7:57 · 2022年9月16日
https://twitter.com/komo266/status/1570728562524819457

 
楽山の言うことを信じなくても、楽山は「もっと大きな嘘をついて自滅して」ゆくようです。ふつうの作文も、無味乾燥になって、自己正当化と、正常人芝居に、明け暮れているのでしょうか。芝居では、何の改善もしないし、自分を見ない限り、悪と偽善に変わりはないでしょう。
 
批判の目的は、一般の読者に、病質者そしてペテン師である楽山の存在を知らせて近づかないようにしてもらうことと、併せて、楽山の、ネットの言論での居心地を悪くすることであります。したがって、楽山が批判を読むかどうかは分からながら、見ても、いい気持はしないように書いています。
 
 
 
楽山日記へのコメント再録 ( 1.が誰のコメントかは不明 )
http://mn266z.blog.jp/archives/19971376.html

1. 隆くんへ 2019年07月26日 22:53(抜粋)
「間違ったら誤ったら素直に詫びて自分正さなくちゃいけない」「それが出来て初めて人間だと それ出来ないなら人ではないと」
「嘘ばかり重ねる君よ 保身だけの卑怯者の君よ そんな君は魅力の欠片もないのに」「失敗した君は 大きな過ちを犯した君は 最大限の償いと最大限の反省と共に 開いた出店を畳むしかないんだよ」「人間で在り続けるのなら 人で在り続けるのなら」
 」
 

2. 楽山(自由) 2019年07月27日 09:13
反省、謝罪は大事なことだと分かってても、これを実践するのは難しいんだよなあ。恥ずかしながら、自分もそんな風です。これも一種の、人間の性なんでしょうかね。

 
最近は、短い記事を書くことが多いようです。自分でも、まとまらなくなってきて、長い文章を書くのが面倒になったのでしょうか。くどくど、ネチネチと、長文を書かれるより、そのほうがマシかもしれません。いずれにしても、理路のない賛辞が多く、人格の荒廃が進んできている可能性があります。
 
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
 
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
(古い記事は載っていません)
 
https://st5402jp.blog.fc2.com/
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
ツイッター
https://twitter.com/st5402jp
(ブログ記事をコピペすることあり)
 
 
ブログ村ランキングリング:INポイントが付かない。
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html