ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

神への恐れ

 
  神への恐れ
 
 
教会の、ある集会に出たときです。
私が洗礼を受けた日本基督教団の教会ではなく、
教会の独立を主張している日本基督教会の集まりでした。
 
伝道活動の報告を信徒がしていました。
そして、捗々しくない進み方について
少し、言い訳めいた感じで、小声で言いました。
「力、足りなくて・・」
 
すると、同席していた一人の牧師が
「しかし、それは、君・・」と言いかけて、
止めたのですが、
裁いて責めようとしている自分に気づいたのか、
殆ど、息まで止めたみたいでした。
見る間に顔が赤くなって、姿勢が小さくなりました。
 
この牧師さんは、神への恐れを知っている
と思ったことでした。
 
自らを、見ることが出来て、悔いることが出来て、反省することが出来る人です。
 
自分という人間の恥ずかしさを弁える人は、
キリスト者の場合、神を恐れる人です。
 
 
また、コメントにも書いたことですが、
 
こちらが、問い詰めたときに、
泣き顔になったり、シュンとする人は、
サイコパスではないと思います。
悲しみを知っているからです。
 
また、驚いて問い返す人は、
問い返す内容にもよりますが、
たぶんサイコパスではないように思います。
問われて驚くのは、問いを受け取っているからです。
 
一方的な人、または、サイコパスは、
何を言われても、受け取ることなく、悲しむことなく、
いつも、余裕ありげに上から見下ろす姿勢です。
まるで、びくともしてないぞ、と言いたげに、
笑っているようにさえ見えます。
 
こういうことは、
書いたものの筆致にも、ある程度、表れてきて、
批判の動機や根拠になることがあります。
 
キリスト者は、裁いてはいけない。
しかし、不正を、不正だということを遠慮してはいけない。
務め~使命と言ってもいいでしょう。
 
できない人もいて、向かない人もいて、
そういう人に、せよ、とは言いませんが、
批判をしない人も、
それで自己正当化することは出来ません。
 
また、批判をする人も、
それで自己正当化することは出来ません。
 
罪人である私たちの言動には、
大方、間違いが含まれてしまうからです。
 
悪口で決めつけて裁くのと
批判して指摘するのとは違うということを知ってほしいと思います。
 
 
聖書から学ぶべきことは、表し方は多様でも、
信仰としては、それほど多くはないのです。
大切なことはただ一つ、という聖句もあります。
結局、信仰は、教理にではなく、
神に対する恐れと正直さと
キリストの愛とキリストへの愛に収束します。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)10:42
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:42、新約聖書
 
 
裁くな、という聖句を盾に、
批判を拒否し、自己正当化することは、
ときには、信仰者も、やっちまっているかもしれませんが、
それとは別に、一方的な人やサイコパスにとっては言い逃れの常套手段なのです。
 
悔いて反省できるか否かが、正常人とサイコパスを分けます。
 
神を恐れない者の特徴として
聖句を、自分の都合の良い解釈で平気で利用してきます。
聖書から大切なことを受け取らずに
都合の良いように悪用しているだけなのです。
聖書読みの聖書知らずということです。
 
 
(2019年04月02日アップ)
 
捗々しい(はかばかしい)
 
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