2019-04-19 依存と拒否(古い記事修正アップ) 批判 依存と拒否 神に依存すると神は人に忠告したり否定したり直接なさらないからいつも神を裏切っているような気にもなる。 そうならない信仰者は少しおかしいと思う。 人に依存すると人に思いがけない忠告をされたとき自分を否定されて裏切られたような気になってしまう。 人は人の助けなしには生きられないが人に寄りかかってしまうと寄りかかられた相手は完全無欠でも全知全能でもないのだから相手にとっては酷というものだろう 寄りかかられて耐えられる人はいないということは寄りかかるに値する人はいない しかし人は孤島にでも住まない限りある程度は他者に頼らなければ生きられないところがあって依存と独立の距離感は微妙だが人にもよるし付き合い方にもよるのです。 少なくとも対等に重要な問題について話し合おうとするならば 同好会の談笑とは違うのだから 遠慮や忌憚があるような付き合いは偽物だと言っておきたい。 したがって都合が悪くなるとすぐに人と人との依存を当てはめるのは問題回避か自分の都合に過ぎないものでそこに自分勝手な距離を一方的に定めるのは依存の否定ではなく関係の否定に他ならない。 そう言えるのは問題とテーマがそれだけ重要であり人と人とが正面を向いて対決しない限り深めることも掘り下げることも出来ない場合であり それを一方が依存だ甘えだなどと受け取るのはもう一方にとって「誰があんたなんぞに甘えるか」という気持ちの悪い陰性の感情とさらなる対決姿勢を呼び起こすもので 相手を依存だと言っている側が依存の距離感と性質を理解していないという間違いであり依存が拒否されたことを依存が裏切られたと見なして依存している相手が悪いと言ってしまう勘違いであり自分が依存されるに相応しいという自己陶酔か思い上がりに過ぎないだろう。 むしろ依存して甘えているのは相手ではなく相手が期待通りの発言をしてくれると思い込んでいる自分のほうなのである。 (私)そもそもシャロームは依存されそうなほど頼りになる人物ではありません。自分にとって不都合なことがあると相手が、依存したからだ、と言ってくるだけの浅はかな人なのです。(私)一般的には、実際、依存された場合でも、依存されるような対応をしてしまったという責任から罪悪感も生じるのが正常なのですが、シャロームは、いっさい、そのような反省は見られらない人です。(私)何の頼りにもしておらずただ、キリスト教として、おかしなことを言っているシャロームに対して私は、おかしいと言ってきたのであり、シャロームは、それを、相手が依存しているのだ、という言い逃れをするほどに卑怯な人物であることを、彼のコメントが表していたに過ぎません。 (2011年07月13日)(2019年04月19日、一部修正アップ) 私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:https://ameblo.jp/st5402jp/https://stdsts.hatenablog.com/https://st5402jp.blog.fc2.com/https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)] https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)] キリスト教ランキング