ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

依存と拒否(古い記事修正アップ)

 
  依存と拒否
 
 
神に依存すると
神は人に忠告したり否定したり
直接なさらないから
いつも神を裏切っているような気にもなる。
 
そうならない信仰者は少しおかしいと思う。
 
人に依存すると
人に思いがけない忠告をされたとき
自分を否定されて
裏切られたような気になってしまう。
 
人は人の助けなしには生きられないが
人に寄りかかってしまうと
寄りかかられた相手は
完全無欠でも全知全能でもないのだから
相手にとっては酷というものだろう
 
寄りかかられて耐えられる人はいない
ということは
寄りかかるに値する人はいない
 
しかし人は孤島にでも住まない限り
ある程度は他者に頼らなければ生きられないところがあって
依存と独立の距離感は微妙だが
人にもよるし
付き合い方にもよるのです。
 
少なくとも対等に
重要な問題について
話し合おうとするならば
 
同好会の談笑とは違うのだから
 
遠慮や忌憚があるような付き合いは
偽物だと言っておきたい。
 
したがって
都合が悪くなるとすぐに
人と人との依存を当てはめるのは
問題回避か自分の都合に過ぎないもので
そこに自分勝手な距離を一方的に定めるのは
依存の否定ではなく
関係の否定に他ならない。
 
そう言えるのは
問題とテーマがそれだけ重要であり
人と人とが正面を向いて対決しない限り
深めることも掘り下げることも出来ない場合であり
 
それを一方が依存だ甘えだ
などと受け取るのは
もう一方にとって
「誰があんたなんぞに甘えるか」
という気持ちの悪い陰性の感情と
さらなる対決姿勢を呼び起こすもので
 
相手を依存だと言っている側が
依存の距離感と性質を理解していない
という間違いであり
依存が拒否されたことを
依存が裏切られたと見なして
依存している相手が悪いと言ってしまう勘違いであり
自分が依存されるに相応しい
という自己陶酔か思い上がりに過ぎないだろう。
 
むしろ依存して甘えているのは相手ではなく
相手が期待通りの発言をしてくれる
と思い込んでいる自分のほうなのである。
 
(私)
そもそもシャロームは依存されそうなほど頼りになる人物ではありません。
自分にとって不都合なことがあると
相手が、依存したからだ、と言ってくるだけの浅はかな人なのです。
(私)
一般的には、実際、依存された場合でも、
依存されるような対応をしてしまったという責任から
罪悪感も生じるのが正常なのですが、
シャロームは、いっさい、そのような反省は見られらない人です。
(私)
何の頼りにもしておらず
ただ、キリスト教として、おかしなことを言っているシャロームに対して
私は、おかしいと言ってきたのであり、
シャロームは、それを、相手が依存しているのだ、という言い逃れをするほどに
卑怯な人物であることを、彼のコメントが表していたに過ぎません。
 
 
(2011年07月13日)
(2019年04月19日、一部修正アップ)
 
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