ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

謙遜

 
  謙遜
 
 
例えば元気で熱心な牧者や信仰者にも
ありがちな発言として
「「神のうちに生き、動き、存在している」
という視点に立つとき、
私たちの存在の意味や価値を謙遜に見極めることができる」
  
折に触れて
自分について
神の意思は?と考えるのは
信仰者としては当然だが
 
「御心、測りがたし」の思いがあるからこそ
最終的な真偽や正邪を
神の運びに任せる謙遜がありうるのであって
 
「見極めることが出来る」ならば
神の意思を自ら排他的に確信することになるから
そこに謙遜はない
 
この場合「謙遜」は
取って付けたような虚飾に過ぎない
 
また
「神の導き」
「キリストによる罪の贖い」
聖霊の注ぎ」
などという言葉を
まるで公式のように
常套句のように繰り返し使い
それで真理が伝わると信じていることが多い
 
その理由は「聖書の真理だから」
という信念であり
その信念については
説明できる実感と実体がないまま
そう覚えているだけであるなら
信仰の言葉にはならない
 
その時その場で
与えられた人知としての
経験と知性や感性などを働かせることなく
聖書的な言葉を並べて
伝えた気持ちになってしまう
 
いずれの場合も
謙遜・謙虚・へりくだる姿勢・敬虔
とは無縁である
 
聖書が「生ける神の言葉」であっても
それを受け取り、伝えようとする人は
生ける神と違って不完全なのだから
人が人に伝えるべき「生ける人の言葉」としては
伝える努力が及ばないこともあり
 
そのようなときに大切なのは
聖書は真理でも
それを実感のないまま語って
神の導きにお任せしますと自己満足に浸ることではなく
人と人が互いに
表す言葉の拙さを共感し共有することである
 
敬虔と呼ばれる信仰者の謙遜はそこにあるのであって
 
実感もなく繰り返される言葉の数にあるのではないからだ
 
 
(2011年07月15日)
(2019年04月20日、修正)
 
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