無知と無恥
無知と無恥 (補足記事)
シャロームの言は、信仰に根差していないと判断しています。シャロームという人は、本当に、詭弁と言い逃れと騙しと罵りの小細工だけを覚えてきた人なんだと実感しています。
そういう者を批判するという悍(おぞ)ましいことは、早く終わりにしたいのですが、書けば、シャロームが、また、ボロ布のような作りごとを並べて書いてくるので、また、批判せざるを得ない状況です。
シャロームを、キリスト教についてただ頑固なだけの人だと思ってはいけません。彼は、そんな微笑ましい人物ではありません。権力を持たないのが、せめてもの幸い、と言ってよい人です。
底知れない不感不応で、訂正不能の妄想をもって、人を、騙し貶める者です。どうか、生きながらにして滅びる落とし穴からの獣道を、誰も、シャロームとともに歩むことのありませぬように、祈っています。
まず「嘘と世辞と侮辱(4)」において
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12542381051.html
(シャローム)
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イエスさまは言われました。
「私は平安をあなたがたに残していく。
わたしの平安をあなたがたに与える。
わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。
あなたがたは心を騒がせるな。またおじけるな。」
(ヨハネによる福音書14章27節)
st5402さん あなたはイエスさまがどのような状況で
弟子たちに語られたのかをご存知ですか。
イエスさまが私が与えると言われた平安はありますか。
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(記事に私が引用)
14:29
今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。
(ヨハネ書14:29、新約聖書)
私は、次のように書きました。
「聖句の中の、事が起った時、というのが、キリストの死と復活なのか、終末なのか、私は知りません。しかし、それが、シャロームのような偽善者を喜ばせるものでないことだけは知っています。」
そして
「嘘と世辞と侮辱(5)」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12543556446.html
に表れたシャロームの侮辱を、もう一度、書いておきます。
(シャローム)
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答えは「聖句の中の、事が起った時、というのが、キリストの死と復活なのか、終末なのか、私は知りません。」でしたね。
stさんの答え・・・
それは私は福音がわかりません.、知りませんという告白の言葉です。
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ここぞとばかり、シャロームは、私の無知を、あざけるわけですが
信仰において、無知は罪ではありません。学習すればよいことです。
ここで、無知だと告白したと喜ぶシャロームの言は、実に醜いのです。
さらに、知らないことがあるからといって、
福音を知らない、という結論は、どこからも出てきません。
一から十まで間違っているシャロームであります。
シャロームが、自ら、いかに、自分の知識をひけらかし、それで、人をおとしめて喜ぶ人間であるかということを示しているのです。
ここにおいて、既に、シャロームが、恥知らず、すなわち、いかに無恥であることが表れています。
キリスト信仰は、無知を理由に、救われないような信仰ではありません。
しかし、キリスト信仰においては、
無恥の者は、敬虔のない者として、自ら救いを拒む者ということにになるのです。
シャロームに対して、私は、次のように、答えています。
「知らないなら、知らないと言います。私は、聖書に精通している者ではない。
私は、空っぽに満たされているあなたシャロームと違って、人間だから。」
https://ameblo.jp/st5402jp/entry-12543556446.html
このように、知らないということ、すなわち、無知を、神の前で、隠さずに言うことが、信仰者の節操となります。
そうして、知ってるつもりのシャロームの答えはどうでしょう。
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ヨハネ書14:28-29のイエスさまの言葉も十字架の苦難と死を前にしてのイエスさまの言葉なのです。
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答えとして、何か、詳細な情報でも知っているのかと思ったら、
「どのような状況で弟子たちに語られたのか」と問いながら、
シャロームの答えは、
「十字架の苦難と死を前にしてのイエスさまの言葉」と言っています。
そんなこと、キリスト者なら、誰でも知っていることなのです。
私「私が上のヨハネ書の聖句について、いつのことか、はっきりとは知らないと正直に言ったら、私が知らないことを罵りながら、あなたの言うところの答えが、十字架を前にして、ということなら、キリストの使命が十字架ですから、公生涯全部が当てはまるでしょう。」
ただ、十字架を前にして、というのが、実際に、十字架を眼で見ていたかというと、
キリストが十字架につけられるとき、弟子は、大方、逃げていました。
一番弟子のペテロさえも、十字架の主イエスを前にして、鶏が三度鳴いて、ペテロが泣く、という話にあるように、逃げました。そして、自らの裏切りを悔いて、泣きました。
したがって、十字架に付いた時には、弟子に語ることは出来ません。十字架を目で見ていたということではなく、もっと前の、十字架の苦難と死を前にして、キリストが、十字架を、既に、考え、知っていた時ということになります。これは、キリストの公生涯の全部なのです。
私「それくらいのことなら、当たり前のことです。人をバカにして、言うほどのことでしょうか。あなたシャロームは、おとしめる目的だけで、実に、くだらないことを言っています。あなたが知ったかぶりで言う時って、本当に災いですね。」
さらに、キリストを裏切った張本人であるユダさえ、
裏切ったことを悔いて、キリストの復活を知らないまま自殺しました。
なのに、シャロームは、悔いることがありません。
さて、シャロームは、十字架を前にして、という、誰でも知っているような、曖昧な答えしか用意していないのに、いつなのか、はっきりとは知らない私を、福音を知らない、という言葉を吐いて、おとしめているのです。シャロームは、人をあざ笑って快感を得る人なのでしょう。
つまり、シャロームの偽信仰は想像を絶するものがあるということです。
誰でも知っている、十字架を前にして、ということしか語れないシャロームが、こういうことで、人を侮辱して、しかも、キリスト信仰者であることとは何の関係もない、無知を、あざ笑っていることが、即、シャロームの無恥を表しているのです。
シャロームはどういう人物でしょうか。キリスト者の弁えを何も持っていない、そして、相手に、不十分なところがあれば、それを利用して、あざけり、それによって、自らの優越を誇る人であることを、彼は自ら表しているのです。
このような、シャロームの性質は、キリスト者にはありません。ないだけではなく、このような性質、すなわち、他者をおとしめて自らの知識を誇るなど、キリスト者にあってはならないことです。
キリスト者は、誰もが、神に比べて、知性も感性も劣っており、完全ではない、という、人間の罪の性質を認めて、その共感とともに、信仰の道に入ります。そこから、謙虚、謙遜、敬虔が生まれます。
シャロームのように、丁寧語で敬虔を表したつもりで、聖書の半端な知識で、聖書の先生を自負して、他者を嘲笑う者などは、キリスト者の風上にも置けない者であることが、はっきりと表れているのです。胡散臭さが特徴のシャロームなのです。
(ネットより)
風上にも置けない:
風上に嫌なニオイを放つものがあると、その臭いが風下にどんどん溜まってしまい、非常に臭くなってしまうのです。 つまり、「風上にも置けない」は「風上の悪臭は風下に向かってやってくる。。(つまり、風下にいる人はたまったものではない)」という科学的な根拠から来ています。
https://biz.trans-suite.jp/20717
だから、私は、書きましたし、いつでも言います。
私「知らないなら、知らないと言います。私は、聖書に精通している者ではない。
私は、空っぽに満たされているあなたシャロームと違って、人間だから。」
どうか、シャロームのような、偽者の、現代のパリサイ人の、偽善者の、恥を知らない愚か者を、ひとときでも、ほんの一部でも、信用することのないように気をつけてください。
シャロームは、人に関われば、人を疲れさせて、滅びに導き、自分を高める材料にすることしか出来ない者です。そのことで、シャロームは、逆に、自らを滅びに定めています。
あらゆるキリスト信仰とは真逆の偽善者であり、自己中心の自己絶対の妄想家です。
キリスト者と分かち合えることなど、何一つ持っていない人、それがシャロームです。
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パウロの弱さ自覚はst5402さんのような弱さの偽装ではないでしょう。パウロの弱さ自覚は自己の全人格にかかわる生ける神のみ前におけるみじめな死の身体としての全存在にかかわる自覚であって、人間は誰でも弱いという単なる人間の言動における弱さの自覚ではないのです。
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シャロームは、私について、単純に、批判しているから弱さが無い、偽装だ、という短絡した判断を言っています。私は、シャロームに対して、弱さゆえに受け容れて破滅するなんてことのないように、言うべきことをはっきり言うわけです。信仰を偽装という言葉で裁くシャロームは、信仰を舐め切っているだけなのです。
「人間は誰でも弱いという単なる人間の言動における弱さの自覚」さえ持っていないし、弱さということが信仰に持つ深みも理解もしていないシャロームは、
やたら重たい言葉、全人格、全存在、などという大仰なだけの言葉で飾って「自己の全人格にかかわる生ける神のみ前におけるみじめな死の身体としての全存在にかかわる自覚」だと豪語して、
神の前に、自分はこんなにも重大だと思っていると見せかけようとしますが、この飾り言葉に騙されるような神ではないのです。
またしても、弱さ、という、誰でも理解できる言葉を、超常神秘の大仰で難しい言葉に変えて、自分は分かってる感を出したいようですが、みずぼらしいかぎりです。言葉が伝わった先を考えず、自分で発するだけで自己満足してきた結果が、これなのです。
信仰は、大袈裟な言い方をすればいい、というものではないのです。中身が空っぽの人ほど、飾りたがるという表れです。
このように、シャロームは、しばしば、造語的な大袈裟な言い方をしますが、その結果は、いつも、自ら性根の卑しさを露呈するだけなのです。
キリスト教は万民救済を目的としています。しかし、誰でも気安く救われるわけではなく、信仰には最低限必要な節操とか弁えというものがあります。シャロームと付き合って、批判して、分かることがあります。
(マタイによる福音書、口語訳)5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
(マタイ5:4、新約聖書)
この聖句を、私は、最近、若い頃に比べると、経験から、少し広がった印象で見ています。
救われる人間は、悲しみを知っている。そこから罪の自覚と反省と悔い改めが生まれる。
救われない人間は、悲しみを知らない。快楽原則の快においては、愛想笑いか、ゲラゲラ笑うか、あざ笑うかであり、不快においては、不機嫌、怒り、憎しみ、恨み、といった陰性の攻撃的な感情だけで、他者のせいにして反省せず、それゆえ罪を自覚できない。
シャロームの、わざとらしさなのですが、シャロームは、コメントを、ライブドアのほうに書いてきます。そして、そこで、私のライブドアブログを見る人が少なく、仲間がいないこと、コメントを書くのは自分つまりシャロームだけ、ということを書いて、私をおとしめ、仲間のいるシャローム自身を高めようとするのです。
シャロームは、アクセスやコメントの数で、ブログの価値が決められると思っているのでしょうか。それで、おとしめられると思っているという程度の低さを一度ならず表してきました。けなせば相手にダメージを与えたと満悦するのでしょうか。とてもじゃないが宗教や信仰を語れる人物ではないことを、自ら露呈してきて、なお平気でいられるのです。
シャロームは、約8年間の批判によって、素っ裸になっているのです。本人が何も感じないで、嫌がらせを書いてくるだけの孔だらけの空しい軽石のようなものになっています。
まことに、自尊だけからの信仰?と言うのは、社交の世辞に、言葉だけの感謝と讃美?をまぶしているだけの説得力のない受け狙いであり、一般の人が、時間を費やして読む価値は全くないものであって、さらに、丁寧語に騙される危険があるのでは、百害あって一利ないものです。
だから、シャロームに対しては、全部、罵詈雑言だけ返してもいいようなものです。しかし、そうすると、私のブログが、内容のない空しく汚いことばだらけの印象になるので、できるだけ控えて、冷静に書こうとしています。完全にではありません。
理路を全く理解せず、読んでもいないだろうと思われるシャロームに対して、本音を掘り返すために、時々、罵詈雑言や、特に辛辣な比喩を、書いています。理路を理解しない以上、世辞や丁寧語だけでは、ここの引用にもあるように、気持ちの悪い世辞を返してくるだけだからです。
そして、出来た記事を読んでほしいのは、理解力のないシャロームではなく、一般の読者であり、シャロームに近づいてはいけないことを広める目的であることは、言うまでもありません。
それと、このように、いくら批判しても、対象の悪と背教を良くするのが不可能という場合でも、悪い例は、その者が全く知らない正反対の対極に、良い例、即ち、福音を表している、ということがあります。それを知るために、なお、批判には意味があります。
すなわち、憎むべき最悪の悪であるところの偽善は、いつも、その対極に、愛すべき真実を暗示するという役割だけはあるようなのです。
(2019年11月15日)
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
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