ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

気づくべき荒野

 
  気づくべき荒野
 
    イースターを覚えつつ。。。山本七平の言葉


   https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28956641.html
    by salom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 

平成三年十二月十日午前八時半、山本七平氏は天に召されました。
山本七平告別式次第に紹介されている
山本七平氏の言葉「イエスとの邂逅」を引用します。

 
シャロームのような人物は、罪を悔い改めず、反省もしないので、しばらく黙っていても、また、自己顕示欲が治まらず、書いてくるのです。そして、先人をけがしてゆきます。改まることのない恐ろしい因業とでも言うべきでしょうか。シャロームが選び、書けば、そこに、自己顕示の反信仰が表れてきます。
 

エスとの邂逅
エスはすべての人を招いている。
しかし、自分は義人であると考えている人は、この招きが見えない。
それはパリサイ人には見えなかったし、イエスの足跡を歩いていたはずのヨセフスにも見えなかった。
自分は正しい、そう信じている人にはイエスは見えない。

 
罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、悔い改めは神が与えるので悔い改めない、と言ったのは、シャロームその人であります。シャロームは、悔い改めましたとか、悔い改めています、とは、一度も言っていないのです。
 
また、悔い改めた、あるいは、反省した、という形跡が、シャロームの書く文章に表れたことは一度もないにもかかわらず、シャロームは、何か、良いことを書ける、という傲慢だけが独り歩きしているのです。
 
つまり、自分を悔い改めなくてもいい義人と見なし、それが正しいと信じているのは、シャローム自身のことであります。このようにして、先人の言葉を引用しながら、先人をけがしてゆくのが、シャロームの反信仰の生業なのです。
 

同時に、神は律法を超えてイエスの口から語りかけたもうとは信じられず、
神の律法に従うことで、逆に『神にもできないこと』があると
不知不識のうちに信じ込んでしまった者にも、イエスは見えない。

 
このように、シャロームは、仮想する他者を、何も知らない、イエスが見えない、と決めつけて、自分は知っているという立場において、いい気になるのです。他者は愚か、自分は出来ている、このスタンスこそが、シャロームの特徴であるボロクソ節の源泉なのです。
 

しかしイエスの荒野の試みの場所を見たものは、
おそらく二千年前と少しも変わらない石だらけの情景の中に、
同じように変わらない言葉をも見るであろう--
「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」と。
人は今では、石に命じてそれから原子の火を取り出し、それを“パン”と化すことができる。
宮の頂上から足を打ちつけずに下りることもできる。
また多くの民は二千年の昔には空想もできなかったような栄華と富を手に入れることもできた。
サタンが口にしたことはすべて成就し、人は全世界を手に入れたのかもしれぬ。

 
そうして、先人の言葉から、悪魔がキリストを試す場面をあげて、身の程も弁えず、原子の火を取り出し、などと作話して、付け焼刃に現代の問題を語ったことにして、人は全世界を手に入れたのかもしれぬ、などと口走る始末です。シャロームの幼稚な宗教観が、ここに表れているのです。自分に都合が良ければ、聖書の話さえ、好きなように脚色してしまうのです。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
4:1
さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
4:2
そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
4:3
すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4:4
エスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
 (マタイ4:1-4、新約聖書
 
このような聖句の4節の大事な教えについて解説を書く代わりに、シャロームは、大それた、原子の火、という幼稚な発想のフィクションの話のほうを、現代的じゃないか、という短絡で選ぶのです。殆どマンガのように短絡した話で、何かいいことを語ったつもりになるシャロームは、このようにして聖句を貶めてゆきます。
 

しかし、荒野の石は語りかけるであろう。
「それであなたがたは救われたのか、いのちを得たのか、本当に生きているのか」と。
それに気づいたとき、人は、二千年前のイエスの言葉が、その変わらざる石と同じように、
今も荒野に響いていることを知るであろう。

 
荒野の石が語りかけるでしょうか。語りかけるのはイエス・キリストであります。この無作法で乱暴な比喩の類が、シャロームは大好きなのでしょう。
 
聖書の言葉から離れて、聖句を支えて助けているつもりで、のぼせ上がった口調が豪語していることを受け入れてはいけません。荒野に響いていることを知るであろう、という、主人公か預言者気取りの妄想で、シャロームはこのような語り方を好んでいるだけなのです。神を恐れる敬虔の欠片もないからです。
 

同じことが、聖地のすべての場所に、荒野の光景の一つ一つについて言える。
それを見、語りかけるその光景を見ていけば、
二千年前と変わらぬイエスの言葉がそのまま響いてくる。
そしてそのとき、パンを、名声を、栄華を見せていたものの姿は消え、
人は身近に立つイエスに気づくであろうーーーその人がだれであれ・・・・・・
(『イエスの歩いた道』より抜粋)
最後に山本七平氏夫人れい子さんの「死を超えた生命復活の眼差し」を紹介します。

 
シャロームは、聖地の総てと荒野の光景の一つ一つを見たのでしょうか。このように、いたずらに誇大的になって奔逸してゆく筆致が、シャロームの特徴であり、そのような文章を何よりも大好きで、ここに書いているのです。このような大袈裟な豪語から、イエスに気づくでしょうか。
 
私たち信仰者は、荒野を見て信仰に目覚めたのではなく、人間として生きている日常の思いから、キリストの言葉に触れ、キリスト信仰に目覚めていったはずです。
 
有頂天の誇大妄想からイエス・キリスト気づいたのではありません。私たちが気づくべき荒野は、外国の聖地の荒野にあるのではなく、私たちの心の中にあります。
 
このような低劣な説教話に付き合うのは、シャロームのように荒れ果てた自らの荒野に気づかない鈍重な精神の現れに過ぎません。内実の伴わないのを、話だけ世界的に?大きくして豪語すれば言い得たと思うような安っぽい説教話に付き合わないようにしてほしいです。
 
もう一度言います。
 
私たちが気づくべき荒野は、私たちの心の中にあります。
 
 
(2019年04月24日、同日一部修正)
 
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