ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

排泄の口、誰の前で幼子?

  
  排泄の口
 
神も聖書も謎だらけだが
救いと恵みの後に先に戒めがあっても
祈る姿勢くらいは持っていられる
 
しかし信仰と聖句について
言行不一致の不正直な人が
同じようなことを言ったりすると
なぜか違和感から不快になることさえある
 
自分も言うかもしれないのに
だから
悔い改める正直さだけは持っていたい
 
人間はおかしいところがいっぱい
不完全、欠点だらけ、罪深い、ちょっと変、一面的
いっぱいあって
つくづく聖なることを語るには向いていない
 
人間としては
聖なる言葉・恵み・教えを説くより
聖ならざる自らの不能を語るほうが相応しい
それによっても
聖なる御方に寄せる希望は生まれるだろう
 
まことに意地が強くて悪い頑固な人間が
聖なる神の救いを得々として語る口は
汗腺か皮脂腺か
あるいはもっと臭くて不潔な
しぶきを飛ばす排泄の管になりうる
 
(2011年10月10日、同日一部修正)
(2019年04月27日、修正)
 
 
  誰の前で幼子?
 
聖句「幼子のように」が
「素直に」の意味であるとしても
それはキリストの前でのみ成立する姿勢である
 
キリストの言葉を今の時代
直接聞くことは出来ないのだから
実際には説教者の語る聖書解釈や信仰の話を
信仰者は自分の思いや経験と照らし合わせながら
信仰の成長を期待することになる
 
したがって「幼子のように」は
人である説教者の言うことを素直に
さらに無条件に受け入れよという意味ではない
 
ましてや
疑問や反対意見があるときに
その発言を封じる説教者は最低である
 
そういう説教者は信仰者を
幼子に対するように子供扱いして
キリストの代弁者として
神の権威の立場から物を言う
 
キリストが語るなら
幼子のように素直に聞くのが信仰者だが
 
説教者はキリストではなく人に過ぎないのだから
説教者が語ることを
決して「幼子のように」素直に鵜呑みにしてはいけない
 
巷にも
特にネットには
おかしな説教者がいっぱいいると思っていたほうがよい
 
従順な人を悦び迎え
従順でない人に不機嫌になったり冷たくなる説教者は
ひたすら正体を隠しながら
往々にして偽りを聖句の権威で飾り
「幼子のように」隷属することを求めてくるのである
 
そのような説教者を裸にしなければならない
 
ただ御一人の飼い主たるキリストに
飼われて生きる羊たる信仰者は
少なくとも
そのような説教者に近づいてはいけない
 
飾らず偽らず隠さない説教者は
信仰者に教える人ではなく
信仰者とともに考え
ともに思い悩む共感者でいなければいけない
 
「幼子のように」は人に対する従順を意味してはいない
また、神に対する従順は人には確定できないのだから
「幼子のように」という聖句は
先入観や固定観念にとらわれないで
修正と学習を可能とする虚心をもって考える心を意味するとしか言えない
 
このことは説教者だけでなく
信仰者が信仰者に語るときも同様である
 
(2011年10月10日)
(2019年04月27日、修正)
 
幼子(おさなご)
巷(ちまた)
 
 
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