ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

信仰と固定

 
  信仰と固定
 
 
人間が信じられることは
人間性で理解できて
人間性で共感できることです。
 
聖書にはたくさんの奇跡が書かれていますが
キリストを理解できるのは
人間の知性で理解できることであり
人間の感性で共感できることです。
 
したがって
奇跡そのものを信じることは出来ないはずです。
理解も共感も出来ないからです。
 
人間が理解できる信仰は
現実の人間の心を動かすことです。
 
物や肉体の奇跡を信じるのは
ご利益信仰に過ぎません。
 
物や肉体の奇跡は
神にお任せするしかありません。
 
分からないことは神にお任せする
このことは
限りある人間の能力を思えば当然であります。
 
物や肉体の奇跡は
最初から分からないことであります。
 
したがって私たちは
奇跡で救われた人が
なぜ、いかなる経緯で救われるに至ったか
キリストが、なぜその人を憐れんだか
という魂の奇跡を考えることが
人間として必要なのです。
 
信仰においては
物や肉体の奇跡そのものに拘泥してはいけません。
 
奇跡で救われると信じるのは
まさに、キリストを試みた悪魔の誘惑にあるように
石がパンになる=物への奇跡
飛び降りても死なないかどうか試す=奇跡の実現で神を試みる
この世の栄華によって悪魔を崇拝=奇跡の実現で神ならぬ者への崇拝
へ向かうことです。
 
知性と感性とは特別な才能のことではありません。
神が人に与えた賜物として
人間ならば誰でも持っているもので
その中に
思慮が含まれ
良心が含まれています。
理路と分別が含まれ
温もりと潤いが含まれています。
 
それらの賜物によって
聖書を理解し、
信仰に至ります。
人間の理解は完全な理解ではなく
心を動かすものとして受け取ることです。
 
神、キリスト、そして聖書は、心を動かします。
 
心を動かすのであって、固定するのではありません。
 
信仰者は
訪れる数々の出来事や疑問に揺れながらも
去りがたい愛と希望と信仰に生きることになります。
そこに不変の境地はありません。
成長を促す道があります。
 
 
※ 
 
神ならぬものを信じてしまうと
神を信じるために必要な知性も感性も損なわれてゆきます。
 
心について考えない者が受け取るのは
手っ取り早く得をしたいがための奇跡と超常だけであり
それゆえに理解も共感もなく自己中心に
やたら讃美しまくって
奇跡の必然を自己暗示して
自分の中で固定してゆくのです。
 
このような信じ方が
思い込み信じ込む信仰?であり
まず自分の人間性を壊し捨て去るので
次には他者の人間性を破壊してゆきます。
そうして人間離れの精神を固定してゆくのです。
 
 
(2019年05月14日)
 
病(やまい
 
 
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