ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

祈りと讃美

 
  祈りと讃美
 
 
長崎から東京まで
という距離は、
地図があるから
ある程度把握できる。
 
その時間はと言うと
交通手段によって変わる。
飛行機か記者か車かなどによる。
昔の人は歩いたのだから大変だ。
 
しかし、天国までとか
永遠とかになると
まるで把握できない。
推測しても想像しても
だいたい正しいだろうとさえ言えない。
 
ということで
神の性質については
人の世界にあるものとは全然違って
神聖を表す言葉
全知全能、絶対完全、永遠不変を
手に負えないと前に書きました。
つまり
人の概念把握の外にあるということで
超常の神の領域と弁えて
意味の確定した言葉として使うのは無理だということです。
 
そういう言葉ばかり書いている信仰者もいます。
中にはキリスト者とは到底思えない偽キリスト者もいます。
 
そういう絶対言葉は
特に讃美するときに多用されるようです。
 
分からない言葉で満たしても
分かっていることにはなりません。
 
神にあこがれ
キリストにあこがれ
キリストの愛にあこがれ
祈りをささげるまでは
とてもキリスト者らしいのですが
 
讃美をし始めると
とたんに顎が外れるように大仰になり
誇大的な超常言葉になるのは
むしろカルト的ではないかとさえ思うときがあります。
 
誇大的ではなく
いかに神の前に自らを
小さく弱い存在の人間として弁え
へりくだることができるか
それをためし
それをためされているのが
祈りなのです。
 
 
讃美するように、という聖句は多いですが、
「ほめたたえよ」で検索してみると
 
 (ローマ人への手紙、新約聖書
15:8
わたしは言う、キリストは神の真実を明らかにするために、割礼のある者の僕となられた。それは父祖たちの受けた約束を保証すると共に、
15:9
異邦人もあわれみを受けて神をあがめるようになるためである、
「それゆえ、わたしは、異邦人の中で
あなたにさんびをささげ、
また、御名をほめ歌う」
と書いてあるとおりである。
15:10
また、こう言っている、
「異邦人よ、主の民と共に喜べ」。
15:11
また、
「すべての異邦人よ、主をほめまつれ。
もろもろの民よ、主をほめたたえよ」。
15:12
またイザヤは言っている、
「エッサイの根から芽が出て、
異邦人を治めるために立ち上がる者が来る。
異邦人は彼に望みをおくであろう」。
15:13
どうか、望みの神が、信仰から来るあらゆる喜びと平安とを、あなたがたに満たし、聖霊の力によって、あなたがたを、望みにあふれさせて下さるように。
 (ローマ15:8-13、新約聖書
 
このことは、讃美すれば、ご利益がある、などという意味ではないことはキリスト者なら知っているでしょう。でも、讃美すると、なにかいいことがありそうな、とか、讃美しないと、いけないような、神の御不興を買うような?、罰が当たりそうな?、というのに似た気持ちがあって習慣づけ、あるいは、強迫的になっているような気がすることがあります。これは、自分として、ちゃんと出来ないといけない、という気持ちの表れかもしれません。
 
それ以上に、自分は、神様のおかげさまで、幸せだと確信しようとしているのではないかとも思います。
 
神は、人が、まるで、偉い人へのお世辞のように、成就したかどうかわからないことを、思い込みの繰り返しで讃美して、本音、本心、すなわち、不信仰を隠すことを望んでおられるでしょうか。
 
12節には、キリストに望みを置くことが書いてあり、
13節には、祈り願っているわけですから、
信仰は、祈りであります。
 
聖句は、そうすれば救われる、そうしないと救われない、ということを言っているのではありません。
 
 
讃美の言葉や教理の言葉をどれだけ山のように並べて唱えても、
聖書においてキリストに救われた人々の、そのときの一言にも一つの行為にも及ばないと知るべきでしょう。
救われた人々は、讃美の言葉、教理の言葉など、尽くしたでしょうか。
 
それら讃美と理屈を神の前に並べたのは、キリストを殺したパリサイ人たちなのです。
 
 
神様は、今、願いを叶えたけど、などとは、いちいち、教えてはくださいません。したがって、今、讃美しなさいとも、いちいち、教えてはくださいません。だからといって、いつも、讃美の言葉を並べれば、神様は満足なさるでしょうか。
 
そういう神ならば、それは行為義認のカルトの世界に近くなります。そこに、お祭り騒ぎや強迫性はあっても、人間の、他にはないという、せつない気持ちが込められていないからです。
折に触れての、正直な告白と願いと実感からの感謝に、重きを置くべきでしょう。
 
しかし、とても特殊な場合、例えば、臨終のようなとき、まだ意識がある間に祈る、というような特殊な自発的な場合は例外です。そういう場合には、先のことを考えられないし、世辞や偽善の入る余地がないから、強い讃美もありうるでしょう。
 
 
ふつうに生きている日常では、余計な気持ちが無意識に入りやすいことを知るべきでしょう。
 
神に世辞は通用しないのです。
人は、大方、不信仰なのです。
日々の信仰告白は、正直な不信仰告白なのです。
 
折に触れての正直な告白と感謝の祈り以上に、讃美できる人はいないと思います。
 
 
(2019年05月31日、同日一部修正)
 
弁え(わきまえ)
 
 
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