ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

知らないこと

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  知らないこと
 
 
私がレスとしてコメントに書いたこと:
 
「神と神の国、私もよく知らないです。
聖書を読んで、知らないことを弁えて、キリストを好きになることが信仰です。私にとって希望がそこにしかないからです。」
 
人に、ひょいひょいと分かるような神なら、私は疑い深いので、信じなかったでしょう。
神とキリストについて、人が分かることというのは、キリストが、その最高の洞察力と共感力という人間らしさで、人間と交わったところだけです。
 
そこだけが、人間にとって、いちばん大切なことだからです。それは今も、地上の人間にとって、折々の成長として、もたらされるものであり、完成してはいません。
 
 
今までに見たところの
神を知ってるつもりの間違い~大嘘~反信仰:
 
「罪は、悔い改めなくても救われるから、気にしなくていい
実際、いかなる不祥事にも、罪を認めない。
悔い改めは神が与える、と言って、悔い改めないことの言い訳の詭弁。」
 
これらは、反信仰、反キリストの偽善者の暴言である。 
神は悔い改めを与えるにあたって、人を操り人形みたいに変身させて、他動的に悔い改めさせたりはしない。そのような記事は聖書にはない。
 
悔い改めるのは、誰なのか、人である。人は、その人格において、自ら悔い改めるのが信仰である。
 
アブラハムは、神に義とされたから、どこまでも正しい」
「女ではなく、他人の妻だから、情欲の教えを守れる」
「教えを守って完全になれる」
 
これらは、キリスト教の初歩において、人間というものを知らないがゆえの誤解が、曲解から信条にまでなっているカルトの例である。
 
アブラハムだけでなく、ダビデも、使徒も、罪を犯したのち、悔い改めて、祖、王、あるいは、使徒となった人々。
 
情欲は湧いてくるものであって、情欲を湧かせないようにして教えを守れる人はいない。
 
行為義認に走れば、著しく心の問題を疎かにする、という例。
 
完全になれる、に至っては、神への冒涜であり、背教である。
完全なのは、ただ神お一方のみである。
 
 
キリストは、人間の肉体を持ち、神聖と人間性を兼ね備えた御方であり、
私たちは、キリストの神性の表れとしての、処女懐妊、物や肉体への奇跡、復活、について、何かを理解しているとは到底言えない。私たちが人間だからだ。これらの超常の奇跡に、人間の真実の心はふるえない。分かっていないし、現代では滅多に起こらないし、驚きはあっても、それは、理解できないことへの驚きであり、人間を成長させる感動を与えることはないからだ。
 
私たちが理解でき共感できるのは、キリストの人間性である。
 
二千年前に、現代も悪の本質である偽善を洞察し、それを赦さなかった。
 
敬虔の本質を洞察して、罪深さを知っている人々に共感し寄り添ったのである。
 
そして、誰もキリストを、本当には理解していないことを承知の上で、命をささげた。
心ある人々は、それがどんなに孤独で、どんなに苦痛であったかに共感する。
偽善を見抜き、神の真実のために、理解者ゼロの境遇にもかかわらず、命をささげたから、私たち信仰者はキリストから離れられないのである。
 
そのことが、当時の心ある人々を動かして、贖罪の教理が生まれたが、教理は信仰にとって、糧に過ぎない。何故なら、信仰と希望と愛は、言葉で語っても、決して、言葉で表したことにはならないからである。
 
キリスト教は、その成立から今に至るまで、政治に利用され、宣伝に利用されてきたけれども、
 
一方で、聖書を通して、また、心あるキリスト者を通して、
言葉で表せない一番大切なことを、信仰者に、そして、非信仰者にも、
キリストは今も伝え続けている。
 
 
言葉だけで分かったつもりの教条主義、信条を捏造しているカルト、平気で嘘を吐き、それを社交の世辞と預言者気取りで糊塗して隠蔽している尊大な偽善者に決して騙されてはいけない。これらの者たちは、神を、本当には恐れてなどいない。キリストを、本当には愛してなどいない。人を騙し、人よりも上に立つためのツールとしているのだ。
 
彼らは、命をすてても・・みたいな大仰な言い方をすることもありますが、本当に命を懸けている人は、そういうことを人前で言うことについて、神への恐れのために控えるはずです。真に受けないでください。
 
彼らは、もっともらしい言葉?のみを武器に超常の物語の辻褄だけにこだわり、人間の心を疎かにして、人間ならばわかるはずの理路を持ちません。つまり人間らしさを持たず、むしろ嫌っていると思われます。世辞の優しそうな言葉を使うが、共通して、敬虔、謙虚、謙遜が、実質として見られず、共通して尊大であり、自己中心の訂正不能であることを特徴としています。
 
 
(2019年06月04日、同日一部修正)
 
近況:
6月2日に、朝起きてより、筋肉痛、筋力低下を来して、ピンポンにも出られず、電話にも出られず、排泄もソファーに寝たまま手の届く範囲にあったペットボトルにして、飲まず食わずでいました。
夕方、やや回復して、記事を書いたが、翌日3日、また同じ感じで、救急車を呼ぶことを考えておりましたが、電話が固定電話しかないのでできず、症状がよくなったら、とか、死ぬんだろうか、など思いながら、今日を迎えました。
今日は、なぜか分からないけど、何とか、起立と、ゆっくり歩行が可能となり、トイレ、電話、ピンポンのほうも用事をすませました。どうなるか分かりませんが、明後日は、あちこち病んでいる母を、診療科の多いほうがよいだろうと、新しい病院に介護施設のほうで連れてゆくことになったので、私はその時間にその病院に行って付き添うことになっています。・・できるかどうか・・
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
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