ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

感情と人格

 
  感情と人格
 
 
人間が人間であるために必要なものは
という簡単ではない問いに対して
 
必要な無形のものとしては
知識とか論理性とか才能や能力によることを
重視する人が多いかもしれませんが
 
私は、いちばんに
むしろ感情の中の悲しみをあげておきたいと思います。
誰もが普通は持っていて経験もしていることです。
 
罪悪感は悲しみを伴います。
悔いることは悲しみを伴います。
 
悲しみを経験することで
人は反省し
悲しみを克服することで
人は成長するのです。

 
悲しみのない人とはどういう人でしょう。
私がネットで出会った悪い例は
 
笑いと怒りしか持っていないようです。
快と不快という原始的な感情に近いです。
 
賛同者を大袈裟に褒めます。
批判されると相手を嘲笑います。
 
快で、誉め言葉
不快で、嘲笑い
 
お祭り騒ぎのような
浮かれた乗りを好み
肯定か否定かは
全か無かで豪語します。
 
何よりも
聖書を読むときに
必須と言ってもよい人間の悲しみについて
平板な言葉以外何も言えません。
 
悲しむことが出来ないのです。
 
悲しい経験を語ろうとしません。
たとえ語っても
ごまかしのような月並みな言葉を並べるだけです。
 
悲しむことが出来ないのです。
あるいは
悲しみに共感できないのです。
 
悲しむことがないから
反省できないのです。
 
反社会性人格障害を思わせる人格です。
ナルシシストやサディストとも関係がありそうです。
 
真面目な相談事とか深い話に反応できません。
それらは多く悲しみを含むからです。
 
そのとき
ちょっと急に言われても難しいです
というような返事や
ごめんと、自らの不甲斐なさを詫びるとかが
全くできないのは
相手の悲しみに対応できない自分を認めないからです。
 
そのとき
せいぜい単純なことを言うか
場合によっては
関係のない話へと話題を逸らそうとしたり
叱咤激励しますが
具体的に役に立たないことを言います。
 
部分的には当てはまる人も多いでしょう。
 
いちばん大事なのは
自らの不完全と不備を全く認めないということです。
 
自己中心に
すでに完成しているつもりでいるからでしょう。
 
そういう人が信仰を持つことは
少なくともキリスト信仰においては困難です。
キリスト信仰は
罪を認めて悔い改めることが必要だから。
 
悪を控え
そこそこの善行を積む
という生き方は出来るかもしれません。
しかし
それでは満足しないという特徴を持つことが多いので
教えたがり、謎をかけたがります。
 
愛想がよい、人を褒める、言い方が丁寧、
こういうことは、本心でなくても世辞で真似が出来ます。
そういう学習はしていることが多いと思います。
生きるのに必要だからでしょう。
 
しばしば社交によって善人ぶりますが
悲しみをいだけず
ゆえに悔いることが出来ず
正直さを持たないで
嘘で飾って凌いでいるだけでなく
本気で妄想的な善人の自覚や
信仰熱心の自覚を持っていることもあります。
 
そういう人に何を言っても無駄です。
また何を言われても聞けば聞くだけこちらが傷つきます。
それを悦ぶ相手だと思ってください。
 
被害を防ぐために
不快を与え続けて本性を明らかにする
というやり方がありますが
半端でない疲労感を伴い
特にリアルでは危険です。
 
注意し警戒して近づかないのが一番です。
 
 
(2019年06月10日、同日一部修正)
 
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