ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

不思議さがし?

 
  不思議さがし?
 
 
キリストの十字架より二千年
 
今も奇跡が中心なのか。
 
驚くべき奇跡だ
ゆえに信じなさい
というのが信仰ならば
ベースとなる伝道の骨格が
カルトと同じだ。
 
キリスト信仰は
人間なら誰でも持っている心で
理解し共感できる信仰なのだから
不思議さがしからは
卒業していなくてはいけない。
 
不思議さがしではなく
現実の人間が共有できる信仰の世界であり
 
不思議さがしではないところに
キリストの負いやすいくびきはかけられる。
 
いくら不思議を探しても
奇跡をありがたがっても
そこにキリストはいないと思うのは
 
キリストから受けた最も大いなるものが
物や肉体の奇跡とは別のところで
人間の最も切ない心を揺さぶっているからだ。
 
 
 カルトや偽善者などの
 キリストを殺す群れにいる悪意の反キリスト者は、
 まるで定められているかのように
 
 教えを守って完全になれる、
 罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい、
 悔い改めは神が与えるからしなくていい、
 偽善も罪だから赦される、
 奇跡を固く信じることが信仰、
 どんでん返しの奇跡で救われる、
 達しえたところがあるから聞かない、
 などと言って誘い
 
 罪を認めず嘲笑いながら
 今も魂の奇跡を超常で飾って
 一途に真実を滅ぼそうとしている
 
 その自己中心の自己顕示欲の正体を
 ときに隠し、ときに表し、
 あらゆる正直の実を枯らそうと
 丁寧語と聖書語で誘惑しては
 醜い裏の顔を垣間見せるだろう
 
 決して飽くことのない魔性のレギオンである
 
  (マルコによる福音書、口語訳)
 5:7
 大声で叫んで言った、「いと高き神の子イエスよ、
 あなたはわたしとなんの係わりがあるのです。
 神に誓ってお願いします。どうぞ、わたしを苦しめないでください」。
 5:8
 それは、イエスが、「けがれた霊よ、この人から出て行け」と言われたからである。
 5:9
 また彼に、「なんという名前か」と尋ねられると、
 「レギオンと言います。大ぜいなのですから」と答えた。
  (マルコ5:7-9、新約聖書
 
 
どうして神が
カルトや偽善者の都合に合わせて
奇跡を起こしたり
教条で救いを決めたりするだろうか。
 
超常の奇跡や
神の全知全能・絶対完全・永遠不変、
これらにこだわるところに
キリストの愛は存在しない。
 
不思議の国の不老不死と超常を悦ぶ者は
現実離れしたところばかりを見て
現実に起こる魂の奇跡を見逃すだろう。
 
 
キリストの愛は
超常を表すのではない。
 
キリストの愛は
無常の現実の中に生きている。
 
イエス・キリスト
一人一人の悲しみに寄り添うために
最も悲しい道を歩まれた。
 
それが十字架の秘跡である。
 
 
(2019年05月20日)
 
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