ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

聖句を呪いに変える?

 
  聖句を呪いに変える?
 
   「看取りの家」頓挫 住民「日常的な死」に抵抗感
   https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28987332.html
    by shalom (シャローム、シャロム、あなた、彼)
 
 
今回、シャロームは、社会問題の記事を転載し、そのあとに聖句を引用して、何を言いたいのでしょう。聖句を見てゆくと、やはり、自己正当化のようです。シャロームは、しえたげる者の不義からの苦難に耐え忍んでいるでしょうか。違います。
 
シャロームは、訂正不能の尊大さで、不義からの苦難を与えている者です。このような、とんでもない自身の絶対正義を、シャロームは信仰?と呼んでいるのです。だから、批判されると、被害者の自覚しか生まれないのです。だから、悔い改めもしないのでしょう。
 

旧約聖書詩篇49篇1~20節
 聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子の歌
49:1 もろもろの民よ、これを聞け、すべて世に住む者よ、耳を傾けよ。
49:2 低きも高きも、富めるも貧しきも、共に耳を傾けよ。
49:3 わが口は知恵を語り、わが心は知識を思う。
49:4 わたしは耳をたとえに傾け、琴を鳴らして、わたしのなぞを解き明かそう。
49:5 わたしをしえたげる者の不義が/わたしを取り囲む悩みの日に、どうして恐れなければならないのか。
49:6 彼らはおのが富をたのみ、そのたからの多いのを誇る人々である。

 
コラの子:
(検索)
モーセとアロンのリーダーシップに謀反を起こしたコラは命を奪われましたが、コラの子孫たちは、主と、主が立てたリーダーであるモーセとアロンに忠実に従い、神殿での役目を全うし続けました。
http://rhccjpn.org/wp/2016/06/03/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%81%9F%E3%81%A1/
 
シャロームは、反省力が欠如しているので、批判されると、相手を神の敵と見なして、こういう聖句や、神の復讐の聖句を引用してきます。今に始まったことではないのです。
 
シャロームは、しえたげられるほうではなく、尊大な物言いで、上から教える立場で、しえたげ、だますほうです。シャロームは、被害妄想から、文句を言われると、こういう当てつけをしてきます。訂正不能の自己中心で反省しないから、被害妄想が信仰?になっています。
 

49:7 まことに人はだれも自分をあがなうことはできない。そのいのちの価を神に払うことはできない。
49:8 とこしえに生きながらえて、墓を見ないために/そのいのちをあがなうには、あまりに価高くて、それを満足に払うことができないからである。
49:9 (8節に合節)
49:10 まことに賢い人も死に、愚かな者も、獣のような者も、ひとしく滅んで、その富を他人に残すことは人の見るところである。
49:11 たとい彼らはその地を自分の名をもって呼んでも、墓こそ彼らのとこしえのすまい、世々彼らのすみかである。
49:12 人は栄華のうちに長くとどまることはできない、滅びうせる獣にひとしい。
49:13 これぞ自分をたのむ愚かな者どもの成りゆき、自分の分け前を喜ぶ者どもの果である。〔セラ
49:14 彼らは陰府に定められた羊のように/死が彼らを牧するであろう。彼らはまっすぐに墓に下り、そのかたちは消えうせ、陰府が彼らのすまいとなるであろう。

 
こういう聖句を、人の元々の弱さ小ささとして、共感をもって共有するのではなく、文句言われたからと引用することは、限りなく、相手に対する呪いに近いのです。それがシャロームの特徴です。今に始まったことではありません。シャロームの、無知と無恥を覚えてほしいです。
 

49:15 しかし神はわたしを受けられるゆえ、わたしの魂を陰府の力からあがなわれる。〔セラ
49:16 人が富を得るときも、その家の栄えが増し加わるときも、恐れてはならない。
49:17 彼が死ぬときは何ひとつ携え行くことができず、その栄えも彼に従って下って行くことは/ないからである。
49:18 たとい彼が生きながらえる間、自分を幸福と思っても、またみずから幸な時に、人々から称賛されても、
49:19 彼はついにおのれの先祖の仲間に連なる。彼らは絶えて光を見ることがない。
49:20 人は栄華のうちに長くとどまることはできない。滅びうせる獣にひとしい。

 
このように、神の救いの聖句を、シャロームは、呪いの呪文として使っています。人間性の中で、感性によって共感し、知性によって共有することが、いかに大事かということを、それが全くできないし、しないシャロームの聖句引用の有り様から見て取ることが出来るでしょう。
 
「看取りの家」頓挫、という記事を転載しています(省略)が、
シャロームは看取ることも見取ることも出来ないでしょう。
シャロームが見て受け取ることが、いちいち、的外れになってしまうからです。
 
詩篇の「セラ」:音楽用語のようなので、私は、よく知りません。
(検索)
本来歌唱を伴い、いくつかのものには調べの指定が注釈として残されている。ヘブライ語テキストに本来つけられた曲は失われているが、「セラ」「ミクタム」などの曲の用語が残されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%A9%E7%AF%87
 

新約聖書ヨハネによる福音書3章16~17節
3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
3:17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。

 
シャロームは、人間の定めとして死があることを受け取っていないようです。詩篇を、こうなったら地獄みたいに引用していることが、新約の、滅びない、永遠の命を得る、という聖句を引用することで明らかになっています。
 
聖書に表された神を信じておらず、利用だけしているシャロームだから、被害妄想から誇大妄想へと、つまり、しえたげられた自分、という妄想から、えいえんのいのち、という妄想へと、訂正不能に堕落してゆくようです。
 
共感性のないシャロームの、思慮の浅さと、全か無の考え方しか持たないことと、弱者の怨念と言われるルサンチマン感情が見て取れます。つまり、今に見ておれ、自分は救われ不老不死、お前は呪われ詩篇にあるように滅び失せる、と言いたいのでしょう。全部、嘘です。
 
キリスト信仰は、間違えると、不老不死のことだと曲解し、さらに妄想し、不老不死を欲しがり、豪語するカルトになってしまう、という例が、シャロームなのです。
 
 
地上での死は避けられないものです。皆、ついには死にます。そして、誰も、死を、少なくとも、生きている間に認識することは出来ません。何故なら、死は、神聖の言葉と同様、超常の言葉だからです。最後はそこに、死に至るということしか私たちは知らないのです。死の実感も、死後も知らないのです。
 
この、不安と、恐怖の原因になりそうな、死の訪れというものを、避けられないものとして受け容れ、それでも、その恐怖に打ち勝つために、生も死も統べる神への信仰があるのです。
 
その全能の神の愛が、迫害による死という理不尽に向かうキリストによって、罪深い人間でも分かるように、共感できるものとなっているということです。
 
救い主が冤罪によって殺される、ということが、最も悲惨な肉体の死をもって、避けられない死を超克するための愛が、死をを通過し克服したキリストの言行録を表す聖書の言葉を通して、キリストの愛、慈しみ、慰め、赦し、癒し、導き、救いとして、成就し、同伴してくださる、ということによって、最終的な終末を知らない私たちにも、共感と共有が可能になっている、というのが、キリスト信仰なのです。
 
 
(2019年06月09日)
 
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