ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

軟派カルト

 
  軟派カルト
 
 
   是々非々だと恨まれる?
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41551431.html
   楽山のブログ
 
 
楽山の、ボンヤリ言語による婉曲的な当てつけと刷り込みです。結局は、批判者を貶めて、自己正当化をしてくるという直球を持たない卑怯な楽山なのです。それで、荒らしの易坊、偽善者の偽牧師シャロームとの、なりすましが疑われています。
 
書き方が違っていても、本質的に、また経過において、訂正不能、不感不応、自己絶対正当化、無反省、罪悪感欠如、などの点で、同一を疑われるべき必然があり、書けば書くほど、疑惑を強化する結果になると分からない楽山です。
 

個人的には、
是々非々というのは、よいことだと思う。
よいことはよい、悪いことは悪いというのは当たり前だし、
結構なことだろうと。

 
「結構なことだろうと」・・当たり前のことを言う楽山の筆致を知っている人にとっては、既に、あとで、そうでもない、ああでもない、こうでもないと、やんわり、ボンヤリ、否定して、反対を刷り込んでくるだろうと感じます。
 

でもこれは、
場合によっては、
よけいな恨みを買う原因にもなるようだ。

 
「でもこれは」「なるようだ」という、曖昧なボンヤリ言語を使って、つまりは、恨みを買う原因と言って、否定に向かいます。
 
是々非々の話を恨みの話にすり替えています。楽山の中では、区別が出来ないのかもしれません。ボンヤリ言語に隠されているのは、楽山の底知れぬ怨念なのです。
 

たとえば、こんな流れ。
「おまえが、Aを嫌うのは分からなくもない。たしかにAには嫌われても仕方がない悪いところがある。でもそればかりじゃなくて、いいところもあるよ。Aを嫌うにしても、そこのところは認めてあげてもいいんじゃないかな?」

 
いい加減で曖昧な理路を通用させるために是々非々の話を、曖昧が当たり前の好き嫌いの話に、すり替えています。
 

「Aを擁護するのか!? Aは酷い奴なんだぞ。あんな奴を擁護するおまえも同類だ! 裏切者!」

 
ここで、批判者が決めつけているさまを、醜く再現しているつもりなのでしょう。批判は、根拠を示しています。楽山が根拠を整えて言うのを見たことは一度もありません。こういう点が、シャロームに酷似しています。
 

もう一つ、こんな流れもある。
「君の意見には、もっともなところもあるけど、ここはちょっとまちがってると思う。考え直した方がいいんじゃないかな」
「僕を批判するのか! そんなら僕も言わせてもらうが、君はここも、あそこも、どこもかしこもダメダメだ。君には僕に意見する資格なんかないぞ!」

 
もう一つではなく、同じ流れの悪口です。応答において、嫌いな一方の口調を乱暴に表して、悪い印象を吹き込もうとする印象操作です。
 

宗教絡みだと、こういう流れもある。
「君から勧められた宗教のことだけど、教祖はいいこと言ってるね。でもどう考えてもおかしいと思うところもあるよ。自分にはやっぱり信じられないよ」
「そんなこと言っちゃいけない。ただの凡人のくせに、教祖様の説法にケチをつけるなんて許されないことだ。教祖様を誹謗したら、来世は地獄だぞ!」

 
宗教的脅迫のことを言っているようですが、教祖様とは、神やキリストのことではなく、恐らくHKのORのことでもないでしょう。こういう刷り込みこそが、教祖でありたい楽山の話なのです。
 

是々非々というのは、
是々非々な態度をよしとする冷静な人に対してはいいけど、
全肯定、全否定に傾きがちな人に対しては、控えた方が無難かもしれない。

 
全肯定、全否定に傾くことは戒めるべきです。
 
しかし、楽山は、元々の必要な是々非々を控えよ、という話に持っていきます。
 
楽山は、インチキです。
 
 
   是々非々について (宗教には向いていない人)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41551429.html
   楽山のブログ
 
 
カルトについて書いて、楽山は、自分がバランスの取れた人間であることをアピールしたいのでしょう。しかし、ああでもない、こうでもない、という態度とボンヤリ言語は、楽山の芝居に過ぎず、また、決してバランスにはならないのです。錘(おもり)のない天秤は秤(はかり)になりません。
 

一口に宗教といっても、
その中身はいろいろだろうけれども、
大概の宗教は、
神や聖典を全肯定することを求めるように思う。
カルトともなれば、
神や聖典にくわえて、
生身の人間である教祖をも全肯定することを求める。

 
批判を100%無視して、絶対自己正当化のために、気に入らないことは無視するというアドラー教を広めて、不感不応で執念深く記事を重ねてきたのは、楽山です。シャロームと、文章を見た感じは違っていても、こういう成り行きは、実によく似ています。
 

自分は一時期、宗教に凝ったこともあるけど、
じきに離れたのは、この辺りに原因があったのかもと思う。

 
凝ったこともないのかもしれません。離れてもいないのかもしれません。楽山のボンヤリ言語は、どんどん信頼性を失わせる筆致です。
 

自分は、
誰かを全肯定するのも、全否定するのも苦手だし、
たとえ、神、聖典、教祖であっても、
それらを全肯定するのは難しいのだ。

 
人間は、神を全肯定することは出来ません。人は神を理解など出来ないからです。人は神ではないからです。楽山の宗教観は、思慮が浅く、とても単純な構造を持っているようです。そして、楽山が広めようとするアドラー教も、単純で幼稚で、そのくせ、将来的には、きわめて危険であります。
 

また、
教祖なり、有識者なりの権威者が、
悪と断定したものであっても、
それを全否定することもできない。

 
このように、楽山は、婉曲的に、否定も肯定もしないように見えて、全否定は良くないという刷り込みを経て、教祖になりたい自分を肯定し信じ込ませる方向へ誘導してゆくのでしょう。
 
こういう怖い人が、成りすまし疑惑とともに、危ないことを企んでいるネットなのです。近づかないようにしてほしいと思います。
 

もし仮に、
それらを全肯定、全否定できたとしても、
それは一時期のことであって、
その状態を長く維持することはできない。

 
全肯定が、信条であったなら、シャロームのように壊れても教祖ぶって訂正不能になることがあり、総てを失って立ち直れないほどの悲惨なことになる例はメディアなどで知られています。長く続くというか、一生を犠牲にすることもあるということです。
 

こうしてみると、つくづく
自分は宗教には向いてないなあと思う。

 
宗教に向いてない自分(楽山)が書いています、という安心感のアピールに引っかからないようにしてください。ボンヤリ言語を使うのも、安心させて引き込もうという企てだろうと思います。
 
そのことは、楽山が一度も言説の非を認めないことに表れており、都合の悪い批判を一切無視してきたことに表れているのです。
 
楽山は、シャロームや易坊と同様に、罪悪感や羞恥心を持たず、反省することがない、という、欠落した人間性によって、うわべだけ、謙遜で優しそうな言葉遣いで誘い込み、結局は、自分を上において他者を従わせ、結果として、一生消えることのない傷を与え、毒をすり込むことに生きがいを感じるサディスト的カルトであろうと推測しています。
 
 
楽山、シャローム、易坊、もっとあるかもしれませんが、この3者は、成りすまし疑惑とともに、カルトとしてロックオンし、注意と警戒の情報を敷衍するべき危険なネット人格です。
 
 
(2019年06月12日、同日一部修正)
 
敷衍(ふえん)≒広めること
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
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