ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

カルト体験?実践?

 
  カルト体験?実践?
 
   ★カルト体験 
   (人間観の問題:人は神性を有する神の子だと思い込み過ぎると、
   反省できなくなってしまう?)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41338653.html
   楽山のブログ
 
 
楽山の、かなり前の記事ですが、キリスト者が、コメントを入れているようです。
 

思い起こせば、自分がハマっていたカルトは、人間の本質については次のように規定していた。
・人は神の子であって、神と同一の性質を有する。
・人の内奥には神性が宿っており、それを顕現させれば神と合一できる。
・人は自らの霊性を磨き、高めることで進化し、神となることができる。
・人は心の曇りを晴らすことで、天上界と同通し、高級諸神霊のメッセージを受け取ることができる。
・人は心の曇りを晴らすことで、霊道を開き、霊能力を得ることができる。
・人の本質は霊であって、永遠の生命を有する。
・人の能力に限界はない。思ったことは実現する。だから自分にはできないと自己限定をしなければ、無限に発展してゆくことができる。
キリスト教でいうところの原罪だとか、罪の子などという考え方は間違いである。人の本質は神とつながっている。

 
とんでもない人間離れのカルトです。人間離れは人間を救えません。
 
人間離れは、忍耐せずに結果を一気に求めたがる者の、とても卑しい欲望なのです。
 

これらをまとめていえば、人は本来、神であって、永遠、無限の存在であるということ。高度な悟りを得れば、意識は宇宙大に広がり、宇宙即我、梵我一如、神我一如というような境地に達すると…。

 
楽山は、嵌ってもいないし、信じてもいないと思います。カルトを批判することで、自分のアドラー教の正しさを印象付けたいのでしょう。これもカルトの手法なのです。
 

自分は信者だったので、上のような人間観を信じていたわけだけども、今になって冷静になってみれば、このような人間観は、自己肯定感を高め、より積極的な生き方を後押しするという良い面もあるだろうけれども、鼻持ちならぬほどの高慢さを生み出すという一面もあったのは確かだ。

 
鼻持ちならぬ高慢は、今も、ボンヤリ言語の裏で、楽山が用意しているものです。だから、楽山は、人の言うこと受け容れるように見せながら、証拠不十分とか、難癖を、やんわりつけながら、結局否定してくるのです。騙されないようにしてください。
 

まあ上の思想を信じたゆえに、高慢になったり、反省しなくなったりする者が出たとしても、
それは上の思想が悪いというよりも、その者の解釈、理解がまちがっているとも言えるわけだけれども、たとえそういう場合であったとしても、上の思想自体が、そういう勘違いを生みやすいという欠点を持っていることは否定できない。

 
上の思想が間違っていて、かつ、悪質であることは明らかであり、ひどい人間離れの思い上がりです。しかし、そろそろ、楽山は、本音の、ほのめかしとして、思想が勘違いを産みやすいという言い訳を付けています。上の思想は、勘違いではなく、明らかに傲慢な妄想であります。
 

こう考えると、思想というものは本当にやっかいであるし、それを信じるときにはよくよく注意しなければならないんだなあと思う。

 
楽山が、よく使うやり方として、思想一般を厄介だとしています。思想は、それほど厄介ではありません。厄介なのは、上の思想であり、また、ねちねち勧めてくる楽山のアドラー教の思想なのです。
 
   *
 

ちなみに自分みたいなお調子者は、人は神の子か、罪の子かは証明しきれないことだろうし、
それだったら真ん中を取って、その時々で二つの考え方を活用したらいいんじゃないかと思ったりもするが、多分これは、無宗教的な考え方であって、熱心な信者からしたら受け入れ難いものだろうなあと想像する。やっぱこの種の問題は難しい。
〈了〉

 
シャロームと同じで、やさしく謙遜を装って語りかけるカルトは、難しい、と書いて、共に考えましょう、みたいなアピールをしてきますが、今まで、ボンヤリ言語で、どっちつかずのことを言いながら、全く人の意見に耳を傾けず、理路を無視して、聞いていると結局シャロームという反キリストの味方をしてきました。それで、楽山、シャローム、易坊の、同一人物による成りすましが疑われ続けているのです。
 
 
((以下はコメント欄))
 
(コメント者)

自由さん、おはようございます
カトリック教会の正式な教義では、
エスは、神の子であると同時に人の子であり、
どちらかに限定してしまうことは、教義に反することになります。
教会の教義では、イエスだけが神の子と同時に人の子であって、
他の人は、人の子であるだけ、ということになってますが、
福音書の中で、イエスが、あなた方は、みんな神の子ではないか、
と、はっきりと、神の子と言ってます。
なので、全ての人が、神の子であると同時に、人の子であるということが、
僕は、真実だと思います。

 
神の子であると同時に人の子であると言って理解できるという意見は不可解です。
言葉の上だけの分かった気分だと思います。
神の子と言うとき、その神性を、人は理解できないことを弁えるべきです。
 
神について考えたり想像したりすることはあっても、
神性を決めつけるのは、たいていカルト的であることが多いので要注意です。
 
(コメント者)

人の子の背負った、原罪からの罪については、
自他の罪を共に、全てを赦すことが出来れば、

 
それは、地上で生きている、どの人にとっても不可能です。
 
>罪からの解放も、起こりうることだと思います。
 
ですから、それは決して罪からの解放ではありません。
 
あらゆる悪意ある罪を野放しにすることになるでしょう。
むしろ、赦すべきではないことも多いはずです。
 
そしてここで赦すべきではないのは、楽山であり、また、易坊とシャロームだと思っています。
 
(コメント者)

神の子か、人の子か、どちらかに限定してしまいたい、ということが、
原罪の結果に起こった、自我の誘惑だと思います。

 
神の子、という神性は理解できないことだから、限定してはいけないということです。
原罪の結果は、どの罪ということではなく、あらゆる罪であります。
そして、最悪なのは偽善です。その典型は、楽山、易坊、シャロームなのです。
 
(コメント者)


そして、何かを限定するという思考の結果、
赦すことができない、という罪の状態に陥るのだと思います。
なので、どちらかに限定しないという自由さんの選択に、
とても共感します。
すみません、長々と書いてしまいましたm(__)m
2018/8/21(火) 午前 7:16[  ]返信する

 
大切なのは、不変にしない、訂正不能にしないということです。
時々に是々非々はあるのだから、そのときの根拠をもって判断をするべきです。
 
楽山が限定しないと言っているのは、柔和と見せかける罠だと思います。
 
楽山の記事のボンヤリ言語に取り込まれないようにしてほしいです。
 
(楽山)

エルさん、こんばんは。
自分の感慨を理解してもらえて、うれしいです。
キリスト教でいうところの神の子、人の子のお話も、とても興味深いですね。
それから、カトリックの教義と、私論とをきちんと区別して書いてくださってるのは感謝です。
自分はキリスト教に詳しくないので、いろいろな方のお話をうかがっている時に、正式な教義なのか、私論なのか、よく分からないことが多々あるもので…だから、そこのところを明示してもらえると本当にありがたいです。
2018/8/21(火) 午後 9:03[ 楽山 (自由) ]返信する

 
上のコメント者のようなコメントを、カルトは悦びます。自分は決めつけていることを隠しているのに、人の判断を決めつけだとして、全否定するための前段階なのです。この楽山のブログは、まったりと宗教や信仰を語り合えるブログではありません。まったりした気分にさせて、受け入れさせようという企みに乗らないようにしてください。
 
「興味深い」「感謝」などは、世辞です。「分からないことが多々ある」は嘘です。今までの経過から、楽山は、気に入らないことは無視するという自己中心の、訂正不能アドラー教を宣伝する軟派カルトで訂正不能ナルシシストだと思います。だから、どう批判されても、記事を書き続けることが出来るのでしょう。無反省の無視力とでも言うべき脅威です。
 
(私のコメント)
私たち人間が神の子というのは、神に愛される、ということとほぼ同値だと思います。キリストが神の子、という、神と同じように人を救う存在という意味とは、やはり違うと思います。
2018/8/28(火) 午前 2:34st5402jp返信する
 
(私のコメント)
神の子キリストは大人になってから成長する必要はなかったわけですが、
私たちは大人になってからも神に愛されて成長する必要があるのだろうと思います。
2018/8/28(火) 午前 2:36st5402jp返信する
 
(楽山)

一口に、神の子といっても、その中身(意味)には違いがあるんですね。
ちょっと思い出したけど、みんな神の子だけども、キリストは実子で、普通の人たちは養子になるという話を何かで読んだ気がします。
2018/8/29(水) 午後 7:21[ 楽山 (自由) ]返信する

 
実子と養子という言い方は比喩ですし、その比喩で理解したことにしてしまうのは間違っています。
私たちと、神の子との間には、厳然とした区別があります。
キリストは、人間と直接交わるだけの人間性を持った救い主です。
救い主は、神聖なる御方ですが、人間を愛するために、忘れられない愛の記憶と記録を残すために、人間のレベルに降りてこられたのです。
 
神の子であり人の子であるという言い方では何も理解したことにはなりません。
 
キリストは、私たちとは違います。また、私たちの、はるかに及ばないことを理解し洞察する御方であることを読み取るべきですし、にもかかわらず、ひとりひとりの人生に同伴してくださるゆえ、主と仰ぐべき御方なのです。
 
(シャローム

> 自由さん
神と人とが同じとは考えられません。神は創造者でありてあるものですが、人は被造された存在であり、ありてなきものですし、神は自存的存在ですが、人は依存的存在ですし、神は永遠不変、普遍の存在ですが、人は死すべきもので、神の心は聖、義、愛でいつも、どこでも、どんな時も変わることのない真実であり、人の心はころころ変わりますから心というともいわれますし、ここにいて、また同時にどこにでも存在できるわけでもありません。

 
人は、依存的存在でしょうか。シャロームは、神を讃えるのに「的」を安易に使っています。人は、人からは自立し、神に依存する存在です。その神の御心は、いつも明らかというわけではありませんから、信仰者は、考えることと、感じとることが必要です。
 
そして、ここでも、シャロームの讃美を中心とした言説は、昔から、永遠不変、変わることのない真実と、人が理解できないはずの超常の言葉を並べる特徴があります。
 
人間には、神の前で正直であることだけが必要です。そして、成長する必要があります。ゆえに、訂正不能とか不変とかは人間にはあり得ないということです。
 
これらを、全く無視して、自らを訂正不能にして、あらゆる良識と良心から離れてしまっているのが、シャロームです。「神は・・真実」とシャロームは書いていますが、その真実に真っ向から逆らって、罪を認めず、悔い改めないのが、シャロームです。
 
(シャローム

養子論は私も聞いたことがありますが、養子縁組の前の人はどういう人だったのでしょうね。きっともともと神の子だったけれど、何か悪さをして、勘当されて神との縁を切られたけれど、悔い改めて帰ってきたので、また神の子とされた?ということなのでしょうね。

 
養子という言葉だけに、こだわって、難癖をつけているシャロームです。人間は、神の側から勘当されてもいないし、縁を切られてもいないのです。シャロームのような偽善者や背教者だけが、自ら、神の教えと戒めをないがしろにして、自己正当化から、神の救いを拒んでいるだけです。
 
(シャローム


面白くて興味ある考え方ですね。でも何か悪さをする神の実子というのは神の性質にそぐわないようにも思われますし、神の御子であるイエスさまを実子とすると、人が神の実子でありながら、その人が神の御子であるイエスさまを神を汚すものとして十字架につけたのはどういうことになるのでしょうか?
ウ~ン、むずかしいですね。
2019/1/21(月) 午後 1:44[ shalom ]返信する

 
難癖をつけたくせに、興味あると書いて、ろくな答えも持っていないことが今まで明らかになるばかりだったのに、さらに難癖をつけ、終わりに、ウ~ンむずかしいですね、と書いてくるような、まとまらず、荒っぽくて、いい加減なところが、シャロームの壊れた理路の産物です。
 
このように、偽善者の書く信仰についての記事は、ほとんど、その場の思い付きの興味本位にしかなりません。それを真面目くさって書いて議論したつもりになるのがシャロームです。
 
 
まだまだコメントは続きますが、気が向いたら記事にします。
体調悪いので、申し訳ありません。
 
 
(2019年06月13日、同日一部修正)
 
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