ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

復讐?告白?

 
  復讐?告白?
 
   「彼に神の救いなどあるものか」 (詩編3)
   https://blogs.yahoo.co.jp/jiyuu2013/41555857.html
   楽山のブログ記事
 
 
シャロームがしたことと同じような聖句の悪用です。都合の良いところだけ利用・悪用するのです。
 
ただ、終わりのほうで、楽山は、罪を認めるような発言をしています。罪の告白は、キリスト信仰において、重要な意味を持ちます。一般的にも、罪を認めるのと認めないのとは、判断において軽くはないはずです。
 
また、罪についての重要な発言をしながら、それも嘘であったなら、もはや、神の前にも、人の前にも、決定的になるでしょう。だから、私は、より慎重が上にも慎重に、その実質があるかどうかを考えなければなりません。ずっと今後も。
 

主よ、わたしを苦しめる者は
  どこまで増えるのでしょうか。
多くの者がわたしに立ち向かい
多くの者がわたしに言います
「彼に神の救いなどあるものか」と。
(詩編3:2-3)

 
ダビデ王が書いたとも言われる詩篇ですが、楽山はシャロームに酷似しています。批判されると、自分はこんなに苦しめられている、敵を滅ぼしてください、という聖句を並べてきました。同じ体質を持っていることから、シャローム、楽山、易坊の、一人による成りすましを疑っています。無反省の被害者気取りです。
 
楽山が神の救いを信じているはずはないです。神を信じていたら、あるいは、最低限の謙虚さえ持っていたら、今までの私の批判もなかったわけです。真実から遠くなるほうを選んだ人だと思います。
 
キリスト者でもないのに、聖句を当ててきました。批判に対しても、反省はなく、弁明も反論もないのに、聖句を引用することは、キリストとキリスト者への嘲笑いと怒りしかないと、聖書を恐ろしく軽く扱っている自分を表しているようなものです。
 
聖書で、神の復讐を願う聖句として、適当に選んできたようですが、その心を理解しないまま、被害者気取りしか持たない自分によかれと悪用しているだけでしょう。詩篇3章という、はじめのほうというのも、そのためでしょう。知らない土俵で相撲を取ることを企むと、こうなるのです。前に、根拠もなくシャロームの味方をしたときのように。
 
怒らせて感情的になったら料理してやる、とでも思っているのでしょうか。
この聖句も、次に私が引用する聖句も、楽山に対して当てはまります。前者は苦しめる者として、後者は偽りを慕い求める者として。
 
 (詩篇、口語訳)
4:1
わたしの義を助け守られる神よ、
わたしが呼ばわる時、お答えください。
あなたはわたしが悩んでいた時、
わたしをくつろがせてくださいました。
わたしをあわれみ、わたしの祈をお聞きください。
4:2
人の子らよ、いつまでわたしの誉をはずかしめるのか。
いつまでむなしい言葉を愛し、
偽りを慕い求めるのか。
 (詩篇4:1-2、旧約聖書
 
私は、ボンヤリ言語、ほのめかし、刷り込み、など、虚しい偽りの言葉しか言わない楽山に対して、当てはまると思います。妄想讃美説教者のシャロームにも当てはまります。偽りの快楽だけを追い求めているので、不都合な本音をひたすら隠しているのです。
 

宗教関連の議論をしていると、
「彼は救われないだろう」
「彼は地獄に堕ちるだろう」
などと言う人がいるけど、
この詩を読むと、
そういうことを言う人は、
何千年も前から、いたようだ。
ということは、
こういう人たちは、
 何千年経っても、
ずっと居続けるんだろうな。

 
「彼は救われないだろう」「彼は地獄に堕ちるだろう」は、推測ですから言ってもいいのですが、私は、言ったことはないんじゃないかと思います。
 
言っていけないのは、「彼は救われない」「彼は地獄に堕ちる」と決めつけることです。先のことは、神のみぞ知ることで、人には分からないからです。
 
しかし、故意としか思えないような、偽り、偽善、隠蔽、偽装、改ざん、嘘、妄想、などが、ひどいシャロームと楽山なので、言いたくなることは、あります。
 
批判は、不正を指摘することです。だから、キリスト者として、あまりに外れたことを言う人には、外れていると言いますし、キリスト者ではないとも言います。
 
ボンヤリ言語で書く楽山の記事は、ほぼ全部が芝居だと思っています。今の時点で、そう判断するしかないからです。
 
批判などの刺激によって、反省しないため、反応する側の批判される態度・姿勢が変わらないで、相手が嫌になるようなことばかり書いてくるのは、偽善者やカルトの、一つの特徴です。いつも、人を下に見ているから、常に尊大で、それを隠すことはあっても、改めることはないのです。
 

でも、
人のことを
とやかく言っても仕方ないかな。

 
散々、呪いのように、とやかく言った後で、これを書くのは、冷静を装って柔和に見せかけるためです。
 
普通、批判されたら、弁明し反論をするか、わけを聞いてくるか、投稿を控えるはずです。
楽山、シャロームには、弁明も反論もできないので、婉曲的な当てつけをしてきます。
 

まずは自分自身が、
人をむやみに裁いたり、
神の心を分かったつもりになって、
神は誰を救い、誰を救わない
などと言ったりしないように、
気をつけよう。

 
言ったりしないように気をつけるよりも、言われないように気をつけるべきです。
宗教には、偽者やカルトが、付きまといます。
 
無条件に、言わないようにしようと言う者は、大方言われている者であり、言われる理由がある者なのです。今まで、ずっとそうでした。
 
どうか、このペテン師に近づかないでください。性根から腐っていると思います。だから、どんな善の芝居もするでしょう。そういう偽善者です。
 

ていうか、
考えてみれば、
自分も宗教にハマっているときに、
人に対して、「地獄行きだな」と言ったことがあったのだった。
自分はこのことはすっかり忘れていたのだが、
ずいぶん経ってから、当人から、次のようなことを言われて思い出した。
「ずっと前に、おまえから、地獄に堕ちると言われたことがあった。
あの時は、ぶんなぐってやろうと思ったぞ」

 
「ていうか」と若者を装っていますが、そんなに若くはないと思っています。
 
この話・・あったのでしょうか、そんなこと・・なかったのではないでしょうか。これも、芝居ではないでしょうか。不都合は無視しているはずの楽山ですから。これは推測です。
 
シャロームは、最近の記事で、私のコメントを承認しないまま、他の人とは、丁寧語で返していました。その嘘吐きで隠蔽魔で削除魔のシャロームに、理路を弁えないで味方をしたのは楽山です。それ以降・・発言の信頼度はゼロになっています。
 
ただ、何かを言って、それを、反省も訂正もしないだろうから、そのために怒りを買うことは、あるかもしれません。
 

これは今、思い出しても恥ずかしくてたまらない。
胸がどきどきして苦しくなって、ご飯が食べられなくなるくらいの恥ずかしい。
恐らくは、この他にも、自分で犯していながら忘れてしまっている罪はたくさんあるだろうし、
ひたすら反省である。とほほ。

 
恥ずかしく、苦しく、ひたすら反省、自分で犯していながら忘れてしまっている罪はたくさんあるだろう、ひたすら反省、とほほ、・・総て芝居だと思います。
 
芝居がかっている、ということと、言葉だけ言ってみても、今までの経過で、これらに相当する心が表れたことはないからです。
 
今回、楽山が、この記事を書いたのは、前の記事を私が批判しているからでしょう。受けを一足飛びに、よくして、善人ぶる必要があったのでしょう。そういう理由と因果があります。
 
笑いと怒りしか感じない、その体質だけが今までの記事に表れてきた、楽山とシャロームは、書く記事も、上からの嘲りが怒りの裏返しになった大仰なものです。この辺も、シャロームの讃美口調に、よく似ています。
 
例えば、ご飯が食べられなくなるくらい恥ずかしい、そして、罪を認めるような話ですが、罪を認めているなら、今までにも、そういう話が出てきているはずです。それに、ボンヤリ言語による暗示の刷り込みをする必要など全くないのです。
 
人間にとって、罪や失敗のたぐいは、大小含めると、稀ではありません。今になって、山盛りの形容といっしょに、どどっと書いてくることこそ、怪しいと思わざるを得ません。
 
今さら、言葉だけ、謙虚を装っても、実質がないのです。芝居がかった、わざとらしさ以外、ずっと、私が見る限り、どこにも謙虚さは書かれていなかったのです。その体質から、急ごしらえのフィクションではないかと思います。狼と少年に似ています。
 
例えば、シャローム、楽山が、悲しくて泣くシーンを想像できません。悲しくて沈んでいるシーンも想像できません。ずっと、人を食っている態度だったからです。私は、それで、批判を始めて、かつ、続いているのです。
 
つまり、心を痛めて、胸がドキドキ、ご飯が食べられない、などということとは無縁の尊大さを、示してきたのが、シャローム、楽山、易坊なのです。
 
特に、「とほほ」が、とても、わざとらしい。
 
形容・修飾が多ければ、真実味が増すとは限らない例でしょう。
 
とはいえ、以上は、もう一度言いますが、今までの経過を根拠とした推測です。弁明と反論をするかどうかは、楽山が決めることです。ただ、一時しのぎだと判断されたときには、今まで以上に、より巧妙で悪質な嘘を吐いた、という証拠になります。
 
ということで、楽山は、罪はたくさんあるだろう、と言い、罪を認める発言をしました。これは、キリスト教の告白とは違いますが、今までになく、シャロームには、全く無かったことです。今後の記事において、どう違いが表れるかをしっかり見させていただくことになります。
 
 
(2019年06月25日、同日一部修正)
 
 
私の「ウソの国ー詩と宗教」ブログ:
https://ameblo.jp/st5402jp/
https://stdsts.hatenablog.com/
https://st5402jp.blog.fc2.com/
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp (更新、コメント不可)
http://st5402jp.livedoor.blog/ (移行スピードは速かった)
 
 
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html  
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
https://philosophy.blogmura.com/christian/ranking.html
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]
 
ブログランキング
https://blog.with2.net/rank4482-0.html