ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

神義論?

 
  神義論?
 
   『サピエンス全史(下)』の感想 つづき
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12528138068.html
   楽山日記 (a) 2019-09-21 19:23:49
   テーマ:ななめ読み
 
 
神義論とは、神の正しさについての議論というようなことでしょう。
神を信じていない楽山などには書いてほしくないし、全くの見当違いで、神を否定してくる楽山の幼稚な理屈に付き合う人がいないことを祈るばかりです。
 

『サピエンス全史(下)』をぱらぱら見直してたら、第12章の「善と悪の戦い」で神義論的な話題が出てた。善であり全知全能である神は、なぜこの世の悪や苦しみを無くさないのだろうというやつ。著者はこれに対してよくある回答例として「神はそうすることで人間に自由意志を持たせているのだ」というものを挙げつつ、それならば全知である神は、誰が悪を選び、地獄で永遠に罰せられることになるかを知っているだろうに、なぜわざわざそのような人を創造したのかという疑問をぶつけてる。多分この疑問にはそれなりの回答はあるのだろうけれども、この手のことが議論になるということは、少なくとも著書の言う通り「一神教信者が「悪の問題」を処理するのに苦労していることは否定できない」という点だけはまちがいなさそうではある。

 
悪の苦しみをなぜ神はなくさないのか、また、全知である神が、何故、悪を創造したのか、という疑問は、信仰の初期に、多くの人がいだく疑問ですが、信仰者にとっては、神の秘密として、人には分からないこととして、この地上では答えを出そうとせず、保留するのです。
 
何故なら、信仰者は、疑問をいだく以上に、神を必要とし、キリストを必要としているからこそ、信仰者であり、生きてゆく上で、神の、キリストの、癒しと救いと導きがないと、生きてゆけない経験を持っているからであります。
 
神の導きに与ることを拒否し続ける妬みの権化となった楽山のような者だけが、信じたこともないくせに、あたかも、真理を見つけた、信仰はこうだ、神がいるのはおかしい、などと言うためだけに、克服も保留もできなかった課題に、心で信仰を必要と認めることが出来ない自分の正当化のためだけに、要らぬ差し出口を挿んでくるのでしょう。
 

ちなみに自分がこの話に興味を持ったきっかけは、スティーヴン・キングの「デスぺレーション」を読んだことだった。これはキング作品なので当然のごとくホラーものなのだけど、大雑把なあらすじは、主人公の少年は、友人が交通事故で意識不明の重体になったことを切っ掛けにして、宗教に興味を持ち、牧師のもとに通いはじめ、やがては多大な犠牲を払いながらも、永い眠りから目覚めて悪をなしはじめた邪悪な悪霊らを地下に封印し、世界を救うという使命を果たすというものだけども、この少年は作中で、神は僕に僕の役割を果たさせるために、友人をあんな目に遭わせた、神は友人を救うことができたのに、そうしなかった、友人があんな目に遭うのをゆるしたんだ、僕はそんな神をどうしてもゆるせないと悩んでいたのだった。

 
そうして、楽山のような、心で読み取ることのできない者は、興味本位だけで、本を読み漁りますが、心と人間性において読める本ではなく、超常話のホラーやヒーローものの心のない筋書きを読んで、いい気になり、神聖についての知識であるかのように、ひけらかすのです。楽山の、子供だましに引っかからにようにしてください。
 
神は神聖でありますから、人が、人の劣った知恵で読み解けることなどないのです。むしろ、神にとって、どういう者が、救いの導きから自ら漏れてゆくかということを、表すために、楽山のような者が存在するのかもしれません。それが、今言える真相であり、私たちは、神を知識として知るのではなく、神を仰ぐ人は、神に逆らう者を区別するために人間の知性と感性と信仰が与えられているとしか言えません。まことに、そのことに沿って、楽山は、アンチ信仰を言いまくるという成り行きになっているのです。
 

自分は不覚ながら、これを読んで初めて、もし神が全能であるなら、神はこの世の不幸の全てを止めることができるなずなのに、それをしない、これはつまり不幸の存在をゆるしているということになるのじゃないかと気付いたのだった。

 
信仰が興味に過ぎない段階で、欲望まみれの知性をもって、そういうことを気づく者は、稀ではないのです。私もそうでした。そのことに、大人になっても、中高年になっても、成熟しない者だけが、こだわり続けているという悲惨を、楽山は表しているに過ぎません。心で感じることのできない者は、そうなってしまうのです。そして、楽山のような者は、信仰者を嘲笑いながら、信仰者の信仰を、むしろ鍛える結果になってゆくのです。
 

もう一つこれと似たことは、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」にもある。有名な大審問官の前段で、イワン・カラマーゾフは大体次のような主張をしている。歴史上、罪もなくいたいけな子供たちが不当な仕打ちを受け、虐待され、殺される事件は幾度も起きている、なぜ神はそんな子供たちを救わないのか、なぜ子供たちが苦しめられるがままにしておくのか、もし仮に偉大なる神の計画なるものがあって、その計画の成就のために子供たちの犠牲が必要であり、一切が済んだ後は犠牲になった子供たちも復活してみんなが幸福になるというすじがきがあったとしても、子供を犠牲にするようなそんな計画は認められない、神は存在しないというのでなく、そのようなことをする神は認めない、認めたくない云々と。

 
もろにキリスト信仰者を攻撃しているようです。本当に嫌な奴って、いるものですね。誰も、楽山など、何の当てにもしていないのに、文句だけ言って、分かるなら答えてみろと、自己満悦の境地から、なおも、心ない者としての役割を果たしているのです。
 
神の秘密、すなわち、神秘について、人は、決して答えを見つけることはできません。もし見つけることが出来るなら、その者は神秘を知る者となり、神の秘密ではなくなるからです。楽山のような者が、いかに、神を、自らの浅薄な知恵をもって、批判しても無駄なのです。必要だから信じるのです。必要ない者は黙っていなさい、ということです。まことに、楽山は、執拗で、小蝿か蚊のように、なんて煩わしいことでしょう。
 

これも言われてみれば確かにその通りではある。善であり、何でもできる全能の神であるなら、誰をも犠牲にしない計画を立てて、それを成就することもできるだろうに、なぜに子供が犠牲になるのをゆるすのか分からん。そんな計画をする神のいる天国に入るより、そんな神にノーと言い、天国への招待券は謹んでお返しすることこそが正しいことであり、これこそが真なる神の求めていることではないかとさえ思えてくる、もし真なる神が存在するとしたならば。

 
このように執拗に、自分の知恵だけで理解できないと、おかしいと文句を言ってきます。人間の知恵で理解できるなら、それは神ではありません。すなわち、楽山は、今まで、一度も神について語ったことはない、ということです。邪魔するだけの存在だから、ますます、宗教にも信仰にも縁がなく、ただ自尊の自惚れだけを後生大事に、神?として崇めているのです。真なる神が、心無い楽山に対して存在を示すことは、恐らく、ないでしょう・・。
 

ちなみにマクグラスの『キリスト教神学入門』ではイワンの無神論を「抗議する無神論」としてるし、同書によれば孫引き的になるけどユルゲン・モルトマンは「唯一の真剣な無神論」としていたそうだ。宗教信者のなかにはイワンの主張を理解せず、単なる無神論であり典型的な悪魔の論理であり間違いであると断定してバッサリ切り捨ててまったく心を動かされず関心も持たない人もあるようだけども、自分としてはそれよりかは「抗議する無神論」「唯一の真剣な無神論」と受け止める方がよほどまともなのではないかと感ずる。

 
無神論は、一定の役割を果たします。何故なら、多くの信仰者は、神がいるなら云々、神はいるのか、という疑問にぶつかるからです。そのとき、物を言うのは、神、私の場合はキリストですが、キリストを離れて、生きてゆくことが出来るかどうかなのです。その問題を、投げかけてくるのが、無神論かもしれませんが、既に、絶対孤独からの解放という信仰の恩恵を受けている、ゆえに、キリストを離れることはできない。
 
その疑問を克服し、限りない愛を示すために、御自ら、全く無力で孤独な殺され方をもって、命を捧げたゆえに、イエスは、私に共感と解放を与え、私の主となった。
 
楽山のような知恵の浅い者は、いつまでも、浅薄な自意識で、魔法使いのヒーローのような救世主を、きっとこうだ、きっとこんな神だ、来なければ信じない、答えよ、神、とでも、わめきながら、待っているがいいでしょう。さもなければ、神についての記事など書くのは、全くの身の程知らずで、人心を惑わす偽善でしかない。
 
楽山は、その引用する無神論ほどにも、何の役割も持っていません。ただ煩わしいだけの人です。楽山が、どんなに本を読み漁っても、楽山の幼稚な興味を卒業しない限り、神の恵みも導きも、楽山に訪れることはないのです。心が別の余計な自尊の執着で満たされ、心貧しくないからです。
 

…と、まあ、あれこれと書いては見たけれども、やはり一神教的な見地から、悪の存在を考えてみると、いろいろと難渋するということは言えそうではある。ついでに書くと、一神教では、悪の存在だけでなく、悪の発生についても説明するのに苦労しそうだ。善なる神が、善なるものとして創造した世界において悪が生れたというのは、どうも理屈に合わないし、矛盾してるだろうから。

 
まだ、言ってる・・。理屈って、人間の理屈だし、神のあり方など、知る者はいないのだから、知るのが当然であるかのように慢心している楽山は、なおも、信仰周辺を飛び回るのでしょう。信仰とは、神とは、と言いながら、信仰の世界を知ることもなく、的を外し続けるのです。
 

もっともぶっちゃけていえばこの手の議論は、著者が第20章で書いているように、「過去四〇億年近くにわたって、地球上の生物は一つ残らず、自然選択の影響下で進化してきた。知的な創造者によって設計されたものは一つとしてなかった」と言い切って、神も善も悪もそんなものはすべて人が後から考えたものであって、人に先立って存在したわけではないとしてしまえばそれで終了してしまうのだけども、生まれつき優柔不断で根が信心深く、かつ迷信深くもできている自分はそこまで単純には割り切れないのだから仕方がない。そういう自分はそういう自分の性質を承知した上で科学的客観的とされる現実解釈と折り合いをつけつつ、両者のズレをうまいこと調整しながら生きて行くよりほかはないんだろうな…。

 
またまた、楽山特有の、反省や謙譲に見せかけた嘘で結ぶようです。
「生まれつき優柔不断で根が信心深く、かつ迷信深くもできている自分」
「そこまで単純には割り切れない」
一生、割り切れないまま、知ったかぶりを続けるのでしょう。この言が、既に、いかなる説諭をもってしても、割り切れないのです。謙譲も反省も見せかけであること、優柔不断はボンヤリ言語の言い訳であること、迷信深さは既に妄想的な域に達していること、ゆえにシャロームと仲良くできること、など、明らかになったことだけで、楽山は、自分は単純ではなく思索を専らとする者だと自慢したいだけです。
 
人間の分際で、小蝿の力量で、嘘吐きの経歴で、的外れの執拗な継続で、蚊の羽音で、蝿の五月蠅さで、幼稚な理屈で、高校生のままの説得力の欠如で、卒業できない自分を正当化するためだけに、心をどこかに置き忘れたまま、本当の謙譲も敬虔も知らないまま、信仰に邪魔なだけの言説で、粘液のような執拗さで、屁理屈ををを繰り返して、解答にも納得につなげられない楽山を、間違っても誰も信頼することのないように、心から願っています。
 
 
  偽善を重ねる
 
   『おカルトお毒味定食』2019-09-22 09:34:48
   https://ameblo.jp/aankzf2019/entry-12528343750.html
   楽山日記より抜粋。
 
 
強姦の話から、いじめの話になり、焦点を逸らし、まるで、加害者の味方をして、最後に、同情をひき、共感があるかのように見せかけるために、ごまかしの言葉で結んでくる、偽善者であり、カルト宣伝者の楽山の筆致です。
 

たとえば、いじめ加害者の言い訳としては、「自分は冗談のつもりだった。自分がツッコミを入れると、あいつは笑ってた。自分のツッコミを面白がってくれてると思ってた。嫌がってるなんて思わなかった」云々というものがあると思うのだが、これはいじめはひどいことで誰もが拒否反応を示すものだという見方に固定化されているがゆえの言い訳かもしれぬ。

 
ここは、強姦という犯罪についての文章から続いているものです。楽山らしく微妙な書き方ですが、
「いじめはひどいことで誰もが拒否反応を示すものだという見方に固定化されている」
楽山は、そう思わないのでしょうか。学校などで、大きな問題となっている「いじめ」を拒否することを、固定化された見方と書いています。
 
いじめは、ひどくなれば、大人の殺傷事件にも結び付きかねない犯罪です。いじめで、亡くなった子供もいたのではないでしょうか。大問題であり、大事件なのです。
 
荒らしの易坊の筆致にも似ています。易坊は、他者のブログに乗り込んで、無意味な問い詰めや、攻撃目的だけの雑言で、50~100コメ超の遣り取りを強いる者です。私も被害者の一人です。成りすましを疑っています。もし、そうなら、良心も良識も欠けていて、いじめを楽しむ人格異常です。
 

実際は嫌なことをされたときに、怒って反撃に出る人、無抵抗でただ嫌な顔をしたり、泣いたりする人、それから内面の感情は表に出さず、顔で笑って心で泣く人など、人それぞれであり、いろいろな反応がありえるのだけども、いじめはひどいことで誰もが何らかの抵抗を示すものだと決めつけていると、

 
いじめに対する反応は人それぞれだと言っています。そして、「いじめはひどいことで誰もが何らかの抵抗を示す」ことを「決めつけ」だと言っています。いじめに対する反応が人それぞれであるなら、いじめがひどくなく、何らかの抵抗を示さない場合もある、とでも言いたいのでしょうか。抵抗を示さない場合とは、抵抗する意志がないことでしょうか。
 
抵抗を示さない、ということから、抵抗できない状況とかを、楽山は考えないのでしょうか。
 
そして、これだけのことを書いておきながら、
 

周囲に分かるような抵抗を示さない限りはそこにいじめは存在しないとみなされ、被害者側の内面の苦しみ悲しみは放置されがちになるのではないかと。

 
楽山は、被害者の味方みたいなことを書いているのです。理路が成り立っていません。こういう詭弁が、ああでもない、こうでもない、ボンヤリ言語で、どちらとも決められないような、ごまかし方をする楽山の筆致なのです。
 
まるで、いじめそのものより、被害者が抵抗を示さないのが問題であるかのような、内面、という、直接は見えず、推測するしかないことを、放置している誰かが悪いかのような書き方です。悪質な詭弁として、いじめる側の、ごまかしの言い方に、偏っているような気もします。加害者の経験でもあるのだろうか、と思ってしまう楽山の、理路の欠陥です。
 

議論でもこれと似たところはある。異論があるなら反論するはずだと決めつけていると、反論しない理由は異論がないということだけでなく、議論をする時間が取れない、議論に意義が見いだせない、いちいち答えるまでもないほどに分かり切ったことだ等々、さまざまな理由があり得るにもかかわらず、異論がなく同意したとみなされてしまい、その結論はどうあっても動かせなくなるとか。

 
楽山は、いつも、自分を客観的で中立な批評をする側の立場を装って書いてきます。しかしながら、コメントの遣り取りや、記事において、その立場は、大きく偏っていて、カルトの肩を持ち、無条件に詭弁に白々しい賛同を示し、自らも加担して、批判者をおとしめることだけを書いて、何の弁明にもなっていない、という経過があるのです。
 
そして、ブログがヤフーから変わっても、性懲りもなく、このように、分かっているふうの、逆説を楽しんでいるかのような記事を書いてくるわけです。今までの問題は、何も解決していません。この楽山を、どうか信用しないでください。
 

どうやらこうしてみると陳腐でありふれた結論だけども、やはり何事も決めつけはよくないということにならざるを得ないようだ。

 
決めつけだけで、片方の、どう考えても、罪を認めないで悔い改めをしないシャロームshalomという偽善者の肩を持ち、それで結論が出たかのようなことを書くだけで、あとは、おとしめの雑言だけを並べてきたのが、楽山です。彼の常套手段ですが、またしても、自分が言われそうなことを、他者のことのように書いてきます。
 
そして、気に入らないことは無視する、というアドラー教の教えを実行して、立ち直るのではなく、不感不応のまま、このような記事をサディスティックに楽しむように書いてくるのです。荒らしの易坊に、よく似ています。易坊は、自らを知的に見せかける罠のような言葉で、人を操って楽しんでいたのです。このようなやり方を、これ以上、通用させてはいけないのです。
 
例えば、罪を認めず悔い改めないシャロームが、悔い改めは神が与える、と言って、自己正当化をしてきたことを、全肯定して、すっきり決着がついたようなことを、ずっと後になって、平然と書いてきたのも、楽山です。
 
悔い改めていないことは、神がシャロームに何も与えていないということなのです。つまり、シャロームは、キリスト者ではなく、反キリスト者だから、神に対しても、詭弁を向けることが出来ると言うことを、シャロームの詭弁は表しているに過ぎません。
 
その詭弁の味方をするアドラー教宣伝者の楽山には、理路はなく、詭弁があり、誠意がなく、恣意があり、良心がなく、慢心があり、信心はなく、悪意があるだけだと思っています。
 
楽山、シャロームshalom、易坊、他にもありますが、一人による成りすましを疑っています。単独で見てきても、要旨がハッキリせず、理路がおかしい文章で、ただ書き方のうわべだけが丁寧なだけの記事やコメントを書いて、優しい人柄をアピールしてきたのが、楽山です。
 

物事をざっくりと単純化して自分に有利な方向にもっていきたい人や、相手の気持ちを察したり空気を読んだりすることが不得手な人、相手より優位な立場にありそれを当然としてその立場に胡坐をかき下位の存在に対して同情を感じない人などからしたら、こういう決めつけほど使い勝手がよく便利で楽ちんな判断はなかろうけれども、それをされる側からしたらたまったもんじゃないから困る。

 
自分に有利な方向に持ってゆく、相手の気持ちを人間として察することが出来ない、これらは、楽山こそが、あらわにしてきたことです。一方的で、訂正不能です。今回の記事も、そうです。
 
上にも書いたように、楽山は、いつも、相手より優位な立場に自分を置いて胡座をかき、同情も共感もなく、悪の興味だけで詭弁などの策を弄し、人間らしい心の温もりも潤いもなく、上から詭弁と嘘を並べて、一方的に、おとしめる、ということを、平然と、してきた人です。楽山が書いているところの、それをされてたまったもんじゃないという人には、楽山は決して含まれません。
 

この辺については自分も鈍感なところも無きにしも非ずなので、気をつけたいものである。

 
このように、被害者寄りをアピールしたり、見せかけだけの謙譲を書いてくるのが、根腐れの、陰険な、策略であることを覚えてほしいと思います。正直さ、誠実、柔和、いずれも、装いだけで、実質は真逆の楽山です。恐らく、人間としての、共感性、羞恥心、罪悪感、反省力などが、欠けているのだろうと思います。
 
楽山のような、心を追わず、思いやれない人が、事実と理屈だけを追いかけて、思い付きで言っても、何の弁明にも主張にもなりません。
 
人間ならば・・という直観的、直感的、かつ、情緒的文脈を持たない者の筆致は、いつも浅く、はかりごとの空しさに満ちています。
 
批判精神抜きで、あるいは、うっかり、楽山に関わって、聞こえのいい言葉の装いに騙されて、真に受けると、引き込まれ、同じような人間性の破壊が待っているでしょう。実際には、こちらが真面目に言えば言うほど、疲労だけが積み重なってゆきます。楽山や、シャロームや、易坊は、そういうやり方だけを学習してきたのような人です。まともな批評など出来るような人物ではないと思う。
 
 
(2019年09月25日、同日一部修正)
 
 
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