ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

偽善者の言

 
  偽善者の言
 
   私の「トンデモ信仰」コメント欄
   http://st5402jp.livedoor.blog/archives/5067526.html
   シャローム(シャロム、あなた、彼)
 
 
あれやこれやと、因縁付けをして、いちゃもんつけて、バカにしてくるシャロームです。
 

1. shalomです。おはようございます
 2019年12月24日 08:35
「私は、楽山やシャロームなどの易坊類については、早く忘れたいところです。しかし、彼らは、厚かましく、サディスティックに、かつ、自慢げに、信仰を妨害してきます。」
早く忘れたいが忘れられないのですね。

 
忘れられない理由は書いてるのに、何をとぼけたこと、書いているんですか。
 

それはそうでしょう。気の毒に!
それはきっとあなたの心が不自由だからでしょう。

 
忘れられない理由は書いてるのに、何をとぼけたこと、書いているんですか。
何でも人のせいにして、恥ずかしくないのか。
 

エスさまは真理はあなたがたを自由にすると言われましたし、
またイエスさまは私は道であり、真理であり、いのちである、とも言われました。誰でも私によらないでは父のもとに行くことは出来ない、つまり私も父であられる神のもとにも来ることもできない、つまり私も父なる神をも信じることができません。だからいつまでも罪の中にとどまり、不信仰に、不自由に縛られているのですと言われたのです。あなたの聖書には書いてないのでしょう。
あるいはまだお読みになっていないのでしょう。
ですから、あなたの信仰は人に妨害されてしまうのでしょうね?

 
詭弁、誘導、嘘、丁寧語、刷り込み、印象操作、などによって、信仰を妨害する人、つまり、シャロームを批判しています。妨害している犯人が、人に妨害されてしまう信仰と言っています。
 
シャロームの妄想信仰は、人に妨害されることはないのでしょう、妄想ですから、人の言うことを聞く耳を持ちませんから、不都合を総て相手のせいにしていますから。
 
それで、また、何を、こちらのせいにしてるんですか。耄碌ですか、悪意ですか。
 
あなたシャロームの説教など、もはや、言い逃れ以外の何ものでもありません。
 
罪にとどまって、罪に飼われているのは、シャロームです。今もそうです。
 
信仰を妨害しているのは、無駄なコメントを書き続けているあなたです。
 
不信仰に、不自由に縛られている、だけでなく、背教に、妄想に、縛られているのは、あなたシャロームです。どこまでも他者を縛ろうとして、醜いコメントを書き続けているあなたシャロームです。
 
「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」と言った反キリストは、あなたシャロームです。人間をやめてしまったあなたなのです。気持ち悪いです。
 

それはあなたの信仰が単なるあなたの論理妄想にすぎず、
聖霊の導き、助けなしの聖書に基づいていない信仰だからです。
だれでも聖霊によらなければイエスを主と告白できないとも聖書には書いてありますね。
他者の信仰を批判する前に自分でしっかり聖書をお読みください。
shalom!

 
楽山の応援なのか。言葉だけが滑り続けるシャローム
 
あなたシャロームこそが、聖霊の導きなど、あなたシャロームにはないから、というより、拒んでいるから、妄想に浸かっているのです。
 
結局、言いたいことは、批判するな・・だけで、だから言いますが、こういう腐れコメントを書いてくることは、批判の動機を強めているだけです。
 
総ての悪は、あなたシャロームの狂信条から始まっています。
 
人のケツを舐めてないで、自分のケツは自分で拭いてください。
 
「他者の信仰を批判する前に自分でしっかり聖書をお読みください」と言っていますが、シャロームは、聖書のどこからも導き出せないような真逆の信条「罪は悔い改めなくても赦されるから気にしなくていい」ということを、罪を認めることなく、悔いあらめることなく、根拠もなく、言い続けています。彼の思想は、反キリスト、反信仰以外も何ものでもありません。
 

6. 楽山さん st5402さん こんにちは
 2019年12月24日 11:58
shalomです。2019年12月24日 11:42
「こう言っては何だがstさんのヤバさ、おかしさはブログを見れば、誰だってすぐ分かることだし、仮に分からなくてもじきに「あれ?」と気づくだろう。いちいち注意喚起するまでもないことなのだ。自分はこれまでにも、情に流され、余計なお世話をして面倒に巻き込まれるという失敗を何回もしてるし、いい加減ここは改めねば…。
  でも今回の失敗で、アドラー心理学の「課題の分離」の価値を再確認できたのはよかった。自分の理解だと、この考え方は、自分の努力で変えられるもの、変えられないものを見分けて、変えられるものに優先的に取り組もうというものだけど、ついつい変えられないものに手を出してしまい時間や労力を無駄にしてしまう自分にとってはこれは本当に役立つ方法論だ。」(楽山さんのコメント)

 
楽山は、シャロームの味方をしているだけで、何の世話もしていません。楽山がしてきたことは、余計なお世話ではなく、非常に迷惑な信仰への嫌がらせです。楽山もも、シャロームと同じ、貶める意図を持つ者です。
 
楽山は、自らの時間や労力を、ことごとく無駄にするだけでなく、他者の時間と労力を、ことごとく無駄にしてしまう者です。分かりもしないことを、分からないと言えずに、本を読んで理解したかのように、奇跡とか、信仰とか、神とか、宗教とか、子供だましの詭弁で否定して、信仰をあわれむ?、という偽善を繰り返しています。
 
時間や労力を無駄にしないためにアドラー教を学んだつもりで、実際は、不都合を無視する自己中に走り、その結果、あらゆる精神活動を無駄にしてしまっているのが楽山です。
 

カウンセリングの世界ではよく過去と他人は変えられないと言われますが、
 自分の無力感や敗北感、挫折感に苦しめられている人は変えられない過去と他者を批判して変えようとし、それがうまくいかないと非難中傷したり、人格否定に走りやすく、自分の苦しみを過去や他者に転嫁して自分を守ろうとしてしまうようですね。

 
このように、相手を、事情も知らないくせに、トラウマから人格否定の誹謗中傷をしているものと見なすのは、前からですが、決めつけを書いても無駄なのに、何度も言ってるのに、また、書いてくるという機械的な説教に、誰も付き合うことのないようにしなくてはいけません。シャロームの口から出るものに、人間も、神も、いません。
 

「自分はこれまでにも、情に流され、余計なお世話をして面倒に巻き込まれるという失敗を何回もしてるし、いい加減ここは改めねば…。」(楽山さんのコメント)…ということの原因も自他の区別、課題の区別ができないために陥りやすい要因のようですね。

 
楽山の失敗を言っていますが、仲たがい、ではないなら、シャロームのほうが、上の立場なのか、シャロームがそう思っているだけなのか、もはや、シャロームの常套句にようになった自他未文化と、アドラー教の課題の分離みたいな話をしています。
 
何も理解できず、言葉だけ借りてきて、それを繰り返すのが、シャロームの筆致です。中身がないのです。陥りやすい要因、と言っていますが、いちばんの要因は、あなたシャローム自身であります。
 

なかなか誰もが俺は、私は大丈夫とは言えない罠だと思います。
ですから他者を批判せずにはおられない人も自分と他者との区別、課題の区別ができないために、アドラー心理学の自他の区別、課題の区別が心情的に受け容れることができずにいたずらにアドラー心理学もも批判せずにはおられないのですね。
それがst節(ブシ)の妄想的理路、印象操作の本質なのですね。
shalom!

 
まるで理路になっていないことを、シャロームは、自慢げに説教口調で言ってきます。だから、シャロームには、一見、まともそうに見えても、全否定以外ないのです。シャロームは言うだけで、聞かない人であることを肝に銘じて、シャロームの話を、ただ、狂信条と自己中と訂正不能という根拠をもって、最初から最後まで、否定しなければいけません。
 
シャロームは、なんでも、しつこく書けば、大方の人が、疲れて退くことを、カルトとして、知っているわけです。だから、シャロームは、エネルギーを何も使わないで書いてきます。結果、何も語らないのといっしょで、その代わりに、恐ろしい疲労の繰り返しを与えてきます。
 
こういうことですから、シャロームが、キリスト者ではなく、反キリストの悪態と、疲労物質として機能だけで、人間破壊の凶暴性しか持っておらず、人を食ったあざ笑いの、ゲヘヘのシャロームとして、対処するしかないことが、表れています。
 
シャロームは、弁明ではなく、妄想を繰り返し語ることで、満悦するので、どんなに恥知らずになっても、それを悔いることがない、という、8~9年の罪と偽善の履歴であります。これは、批判した期間ですから、実際は、もっと長いと思います。
 
このコメントのように、シャロームは、こちらに当てつけてきますが、妄想や理路や印象操作などの、こちらの言葉を使って、当ててくるだけで、根拠も説得力も皆無ですから、何も、まともなことなど、書けない人だと思います。
 
これに、何か答えようとしてはいけません。ウンコ泡くらいに思うしかないのです。決して、まともに相手しようなどと思わないでください。
 
以前には、うっかり、言葉の表面だけ受け取って、シャロームに説教されて、やさしくて丁寧なお話で、熱心な信仰ですよ、などと言ってくる人がいて、私に、シャロームに対して失礼じゃないの、と言ってきた人もいます。信仰を、社交と世間話として扱えば、そういうことが起こりうるのです。
 
間違ってもシャロームと遣り取りをして、対話しました、などと思わないようにしてください。シャロームの術中に嵌っている表れです。言葉が発信オンリー機器のリピート装置でしかないシャロームは、誰とも、本当の対話をしたことはないのです。
 
シャロームを聞き、受け容れた時点で、シャロームの妄想に取り込まれ、一生を棒に振るところの、盲目の広き門へ、ぬるぬる流されて堕ちてゆく入口だと思ってほしいです。シャロームを相手に、一切の対話は成立したことがありません。シャロームには、理路も情緒もありません。
 
 
信仰を持つことは、なんの権威にもなりません。また、自らの正義が保証されるわけでもありません。全き正義は、永遠に神のものであります。その神を恐れることが信仰です。そして、神のもとで、学び、成長し、キリストの同伴と祈りの双方向によって、小さくても弱くても、人間として生きてゆくのが、信仰の恵みです。
 
 
(2019年12月29日)
 
 
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