ウソの国ー詩と宗教(戸田聡stdsts)

キリスト信仰、ポエム、カルト批判など

アドラー教について(22)

 
  アドラー教について(22)
 
 アドラー心理学
 https://twitter.com/PositiveSalon
 
 
悪口を言う人に、抵抗するな、ひたすら無視するべきだと言っています。悪口や特に暴力については、相談する人が必要です。ネットで、無視を勧める人は、一切、責任を負う気はないと思います。言い放って、気が済んで、終わりなのでしょう。
 
 

正解はありませんので、自分なりに考えましょう。
世の中で言われている話も、あなたの周りの人達の話も事実ではなくて意見です。
意見と事実は別物です。
事実はその人なりに解釈した正解であり、自分にとっての正解とは限らない。
正解は行動を起こして、自分なりに試行錯誤して見つけ出すもの。

 
心理学という学問が、指示・命令調の言い方で説教をすることはないのに、それを、アドラー教はしてきたわけです。そして、責任逃れでしょうか、全部、意見であり、事実とは別物で、解釈であって、正解とは限らない、と言っています。
 
 

自分を傷付けられるのは自分だけ。
何を言われても、何をされても、影響を受けることはあってもそれをどう捉えるのかは自分の課題です。
他人に攻撃をされても、自分の心を傷付けるのは自分自身だ。
自分が自分を見下さなければ、自分の価値が下がることはない。
心だけは他人には支配できません。

 
他者を無視することは、取り巻く環境や事態を悪化させる原因に成りえますから、傷つけられることや、自分を傷つけることと、無縁ではなくなる場合があります。それは、具体的な結果が自分に不利に働く場合と、多くの自分の課題は、課題の中に他者を含んでいることによるでしょう。
 
 

やられてもやり返すな!
悪口を言われても、悪口を言うな。
暴力を振るわれても、暴力を振るうな。
傷付けられたからってやり返したら、それは自分で自分を傷付けているだけだ。
同じレベルになってはいけない。
どうしようもない人は相手にせず、動物が何かだと思って災難だと処理してしまおう。

 
悪口に対しては、悪口を言っている相手の不法を批判することは出来るでしょう。根拠があり、意欲があれば、批判は可能であります。
 
 

人は他人を幸せにすることで、自分も幸せになる生き物です。
実はこんなに幸せは単純なことなのです。
時に誰かを幸せにすることが、誰かの不幸になることもある。
ただ、悪意を持たず、私利私欲の為でなければそれは正義です。
正義の反対は、他人の正義であり、他人の正義はスルーするべきです。

 
カルトの中には、悪意を持たず、私利私欲のためでもなく、人を傷つける者もいます。それは、そういう人に、謙虚さと、共感が欠けていて、思いやりがなくなっている場合です。一方的、単方向の言い方は、有害なのです。
 
しれっと「正義の反対は、他人の正義」と言っています。自己と他人の対立を助長する言葉だと思わないのでしょうか。さらに、気安く正義の反対である自分の悪意の可能性を除外してしまうところには、自己中が芽生えるでしょう。いつもながら、言葉の不備が表れています。
 
 

自分の好きな人と、自分の嫌いな人が仲良くなることは仕方のないことです。
自分が好きだからといっても、その人とあなたは他人同士でしかない。
他人が何を思い、何をするのかは他人の課題であり、自分が決める自分の課題ではありません。
他人の幸せを願える人には、また良いご縁が来るものです。

 
好き嫌い、さらに、恋愛、ということになると、それは、課題を制御不能の場合がある、ということを考えないと、説諭にはならないでしょう。ロボットでない限りは。
 
 

ストレスを溜めるくらいなら、さあ嫌われてしまおう。
嫌われても、そんなことはどうだっていいことです。
ありのままの自分を嫌う人がいたって、そんなのどうしようもない。
自分をどう思うのかは他人の課題であって、自分の決める自分の課題ではないのだから。
嫌われたのなら、嫌わせておこう。

 
嫌われて、その影響~結果が、具体的に、自分に向かって、表れてもよいのでしょうか。それでも、他人の課題だからと無視するなら、それは、不感不応、という、人間離れになってゆくでしょう。
 
それと、嫌われる理由には、誤解や、自分の不躾が含まれる場合を考えるべきでしょう。それを、他人の課題だからと、即、無視していいのでしょうか。
 
人間は、自らの不首尾について、いつも、その時その場で、気づくわけではありません。人間という存在のあり方は、経験によって動きうるのです。ゆえに、成長しうるのです。
 
人間は、時間の経過の中で学習し、より良くなってゆくものであり、人間は、魔法のようには、悪いほうに固着することもなく、良いほうに固着することもないので、一つの断面だけを見て、一方向の言葉に縋りつくことは、危険と言わざるを得ません。
 
大事なのは、精神衛生であって、魔法の言葉ではありません。
 
 

自分の周りに合わせるのではなく、自分がやりたいことを優先しよう。
他人や環境に振り回されるのではなく、自分がその中でどうしたいのかを優先しましょう。
人生を良いものにするのか悪いものにするのかは自分次第です。

 
殆ど、自己中と受け取られ、自己中として表れるでしょう。責任は誰が取るのでしょう。
 
周りに合わせるのではなく、周りを参考として、見回し、関わり、双方向をもって、学習して経験を積むことを忘れてはいけないと思います。
 

他人に何を言われようと、自分のことを決めているのは自分自身でしかない。

 
自分のことを決める自分自身が頼りなくて多くのものに否応なしに影響を受けています。それを自覚しないで、自分だけで決めているつもりになれば、何でも、自分で決めつけて、壊れつつある自分に気づかなくなるでしょう。
 
自己破壊に気づかないで、無視によって気が楽になったからと放置しておくと、判断が、進行性に壊れ続けて、壊れた心からのアウトプットになってゆくでしょう。つまり、まともではなくなるのです。そういう自己中固定の人を長く批判してきた経験があります。よく似ています。
 
自分自身というのは、他者の影響を受けないでいられるほど、強くはありません。自分で決めることに専念してしまうと、その方向だけに心が偏ってしまい、他者へ反発するマイナスの物騒な心を、自由だと錯覚してしまいます。だから、先ず、そのことを、自覚する必要があるのです。
 
 

文句を付けられても、気にしてあげることはない。
その話は、その人の主観であり、その人の知ってる範囲での話です。

 
当たり前に、主観ですけど、それを、生かすか、殺すかで、学習するかどうか、成長するかどうか、が決まってきます。成長しなくていい、と言うのでしょうか。
 

あなたが間違っている訳でも、その人が正しい訳でもない。

 
よくこんな断定が出来るものです。しかも、公共の場で言ってしまうとは。正しさの判断をするな、と言っているようなものです。明らかに自己中を勧めています。
 

第一、他人に文句を付けるようなひとは、自分の正しさを誰かを否定することで確認したいだけだ。
華麗にスルーしよう。

 
華麗にスルーして、不都合を無視すれば、刺激のない安穏の沼に浸かっていることができますが、成長は期待できません。成長しなければ、退行が待っています。
 
一方で、人から言われたことを、受け止めて、考えて、必要なら反省して、適切に処理して、つまり、不都合から学んで糧(かて)とする人は、成長してゆきます。逃避と、克服の違いです。
 
とても、乱暴で、危険なことを、けんか腰のブログ主は豪語しているのです。
 
スルーすべき対象は、いったい、誰の発言でしょうか?・・と言いたくなります。
 
 
(2020年03月11日)
 
 
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